明石 潮 (あかし うしお、1898年〈明治31年〉9月11日 - 1986年〈昭和61年〉11月26日)は、日本の俳優。本名は明石 義仁。
東亜キネマで剣劇スターとして活躍し、後に自ら剣劇団を組織して舞台活動を行った。戦後は東映時代劇を中心に脇役として多くの作品に出演した。出演作は300本を越える。
1898年(明治31年)9月11日、鳥取県気高郡鹿野町の地主の家に生まれる[2]。明石家は山本勘助の叔父・七左衛門の家系と言われ、祖父の藤十郎は近在で剣豪と知られ、潮は祖父から剣道をみっちり教わって育った[3]。小作の子を呼び捨てにする癖を祖父に叱責され、藍の甕に突っ込まれて半年くらい首から下が藍に染まったことがあり、以来誰に対しても「さん」付けで呼ぶ習慣がついたという[3]。父親の文三郎は養子で、明石太夫の名で義太夫を語ることもある遊芸好みの人物だった[3]。
1910年(明治43年)に県立師範学校付属小学校高等科を卒業し、持ち前の向学心と家の束縛から逃れたいために友人を頼って上京[2]。早稲田実業学校に入学し、1915年(大正4年)に卒業した[2][4]。1917年(大正6年)に早稲田大学文学部に入学するが、演劇の世界に惹かれて上山草人に師事、大学は同年7月で中退した[2]。米騒動や廃娼運動に関わったことによる退学処分だった[3]。同年9月に上山が主宰する近代劇協会に加入し、翌1918年(大正7年)6月に有楽座で公演された『ヴェニスの商人』のバッサニオ役で初舞台を踏んだ[5]。1919年(大正8年)、伊庭孝らが結成した新星歌舞劇団に高田雅夫、高田せい子、戸山英二郎(藤原義江)、正邦宏らとともに参加し、その後山口俊雄らの新声劇に入った。
1924年(大正13年)5月に新声劇を退座[6]し、牧野省三に招かれて東亜キネマ等持院撮影所に入社[2]。後藤秋声監督の『栄光の剣』で初主演し、剣劇スターとして数々の作品に主演、翌1925年(大正14年)には現代劇の甲陽撮影所とかけもち出演した[2]。同年秋、明石潮一座を組織して浅草の観音劇場で旗揚げ公演を行い、常盤座を拠点に地方巡業にも出る。1928年(昭和3年)、松竹下加茂撮影所に入社して数作に主演するが、再び一座を組織して舞台活動を行い、戦時中は軍の慰問のため上海などへ巡業した[2]。
1952年(昭和27年)、阿部豊・志村敏夫監督の『私はシベリアの捕虜だった』で映画出演を再開し、後に東映と契約を結んで多数の作品で脇役を演じた。また、木下恵介監督の『二十四の瞳』などの松竹作品にも出演。川頭義郎監督の『涙』では若尾文子の父親役を好演し、東映時代劇では善良なるがために斬られてしまう役どころを誠実に演じた[2]。
1986年(昭和61年)11月26日、気管支肺炎のため千葉県君津市の千葉芙蓉病院で死去[7]。88歳没。