岡 譲司(おか じょうじ、1902年5月25日 - 1970年12月17日)は、日本の俳優である[1][2][3][4][5][6][7][8][9][10][11]。本名は中溝 勝三(なかみぞ かつぞう)。旧芸名は美濃部 進(みのべ すすむ)、岡 譲二(読み同じ)[1][2][3][4][6][7][8][9][10]。
人物・来歴
1902年(明治35年)5月25日(日曜日)、東京府東京市京橋区越前堀(現在の東京都中央区新川)に生まれる[1][2][7]。祖父は佐賀藩の勘定方を務め、父は三十五銀行(現在の静岡銀行)の頭取であったというが[1]、氏名などは不明である。父は三十銀行[12]の頭取兼支配人、中溝秀周である。[13][14][15]
画家志望であったが、立教大学商科に進学、同学を卒業し、日本蓄音器商会(現在の日本コロムビア)広告宣伝部に入社する[1]。同社で同部長に昇進したが、日活宣伝部員の友人の誘いを受けて退社、満26歳である1929年(昭和4年)初頭に日活太秦撮影所現代劇技芸部に入社、同年2月8日に公開された『栄冠』で映画界にデビューとされるが[1][2]、前年の1928年(昭和3年)9月27日に公開された池田富保監督による大作『維新の京洛 竜の巻 虎の巻』に、島津久光役で出演しており「美濃部 進」の名ですでにクレジットされている[3][9]。同社では、おもに現代劇に出演、1929年7月6日に公開された徳永フランク監督の『赤い灯青い灯』で主演に抜擢される[1][2][3][9]。
1931年(昭和6年)、宝塚少女歌劇団出身の女優、澤蘭子と恋愛および失踪事件を起こし、同年10月1日に公開された池田富保監督の『殉教血史 日本二十六聖人』に出演したのを最後に、2人とも退社を余儀なくされた[1][3]。澤蘭子はすでに同年4月に東京の松竹蒲田撮影所に移籍していたが、同社では、同年10月、鈴木傳明、岡田時彦、高田稔らが退社して独立、不二映画社設立の事態となっており、宝塚の経営者・小林一三の尽力もあって、岡も同社に入社する[1][2][3]。蒲田入社と同時に「岡 譲二」と改名した[1][2][3]。当時の所長、城戸四郎が好きな洋酒の「ジョニー・ウォーカー」をもじって命名したとのことである[1]。同社では、田中絹代、初代水谷八重子らと次々に共演、サイレント映画からトーキーの時代に突入し、岡の美声が評判となり、数年のうちに蒲田のスターとなる[1][2]。とりわけ野村芳亭監督には重用されたが、1934年(昭和9年)8月15日に公開された『街の暴風』を最後に、同月23日、野村が急逝してしまう[1]。同年、同社を退社、協同映画を設立する[1][2][3]。
協同映画を解散した1935年(昭和10年)、日活多摩川撮影所に入社する[1][2][3]。1936年(昭和11年)1月30日に公開された、入江プロダクション製作、阿部豊監督の『白衣の佳人』に出演した後、同月、初めての徴兵を受け、大日本帝国陸軍少尉として3週間入隊した[1]。原職に復帰して、同年4月8日公開、千葉泰樹監督の『恋は雨に濡れて』に出演、その後1937年(昭和12年)1月14日に公開された『検事とその妹』に主演したのを最後に、同作の監督の渡辺邦男とともに同社を退社、京都のゼーオー・スタヂオ、さらにはP.C.L.映画製作所へと同時に移籍して行く[1][3]。同年9月10日の両社の合併による東宝映画の設立に際しては、継続的に入社し、P.C.L.のスタジオの後身である東宝映画東京撮影所(現在の東宝スタジオ)に所属した[1][3]。このころ、澤蘭子との内縁関係を解消し、翌1938年(昭和13年)、新橋の名妓と呼ばれた秀菊(本名・田中都美子)と結婚した[1]。1939年(昭和14年)には、2度目の徴兵を受けて、1年間、大日本帝国陸軍少尉として働き、同年12月29日公開、滝沢英輔監督の『御存知東男』で映画界に復帰した[1][3]。当時の岡の言によれば「私淑する俳優」は、コンラート・ファイト、ヴェルナー・クラウス、ポール・ムニであるという[1]。
1944年(昭和19年)8月、3度目の徴兵を受けて大日本帝国陸軍中尉として、台湾の基隆に駐屯、台北で終戦を迎えた[1]。第二次世界大戦終結後は、1946年(昭和21年)3月10日に復員して東宝に復帰、同年8月1日に公開された渡辺邦男監督の『命ある限り』で映画界に復帰した[1][3]。東宝争議の勃発を受けて、1947年(昭和22年)、大映と契約を結ぶ[1][3]。1954年(昭和29年)7月6日に公開された、安田公義監督の『関八州勢揃い』への出演を機に「岡 譲司」と改名した[1][2][3]。晩年は妻とは離婚し、子は妻の姓を名乗っており、画廊を経営していたという[1]。
1970年(昭和45年)12月17日、高血圧による心臓病を病み、東京都渋谷区代々木の病院で死去した[1][2]。墓所は青山霊園にある[1]。長女は第12期大映研修生、長男は真山譲次の芸名で、青年期の一時期、俳優として活動した[1]。
明智小五郎と金田一耕助両者を演じた数少ない役者である(ほかに演じたのは小野寺昭、稲垣吾郎)。
フィルモグラフィ
特筆以外すべてクレジットは「出演」である[3][4]。公開日の右側には役名[3][4]、および東京国立近代美術館フィルムセンター(NFC)、マツダ映画社所蔵等の上映用プリントの現存状況についても記す[6][16]。同センター等に所蔵されていないものは、とくに1940年代以前の作品についてはほぼ現存しないフィルムである。
日活太秦撮影所
すべて製作は「日活太秦撮影所」、すべて配給は「日活」、すべてサイレント映画である[3][4][9]。すべて「美濃部進」名義[3][4]。
松竹蒲田撮影所
特筆以外すべて製作は「松竹蒲田撮影所」、すべて配給は「松竹キネマ」、特筆以外すべてサイレント映画である[3][4]。すべて「岡譲二」名義[3][4]。
- 『七つの海 前篇 処女篇』 : 監督清水宏、1931年12月23日公開 - 兄・八木橋武彦、71分尺で現存(NFC所蔵[6])
- 『七つの海 後篇 貞操篇』 : 監督清水宏、1932年2月11日公開 - 兄武彦、81分尺で現存(NFC所蔵[6])
- 『相思樹』 : 監督池田義信、1932年2月19日公開
- 『勝敗』 : 監督島津保次郎、部分発声版(パートトーキー)、1932年3月18日公開
- 『上陸第一歩』 : 監督島津保次郎、トーキー、1932年4月14日公開 - 火夫坂田(主演)、82分尺で現存(NFC所蔵[6])
- 『乳姉妹』 : 監督野村芳亭、1932年5月13日公開 - 高浜勇、136分尺で現存(NFC所蔵[6])
- 『陽気なお嬢さん』 : 監督重宗務、サウンド版、1932年6月3日公開 - 氷川男爵
- 『新四ツ谷怪談』 : 監督野村芳亭、サウンド・部分発声版、1932年7月29日公開
- 『涙の瞳』 : 監督野村芳亭、1932年9月1日公開
- 『歓喜の一夜』 : 監督島津保次郎、1932年10月27日公開 - 主演
- 『聖なる乳房』 : 監督池田義信、1932年11月17日公開
- 『また逢ふ日まで』 : 監督小津安二郎、サウンド版、1932年11月24日公開 - 男(主演)
- 『忠臣蔵 前篇 赤穂京の巻』 : 監督衣笠貞之助、製作松竹下加茂撮影所、1932年12月1日公開 - 柳沢出羽守、前後篇合計132分尺で現存(NFC所蔵[6])
- 『忠臣蔵 後篇 江戸の巻』 : 監督衣笠貞之助、製作松竹下加茂撮影所、1932年12月1日公開 - 柳沢出羽守、同上[6]
- 『生さぬ仲』 : 監督成瀬巳喜男、1932年12月16日公開 - 日下部正也、94分尺で現存(NFC所蔵[6])
- 『琵琶歌』 : 監督野村芳亭、1933年1月7日公開 - 三蔵(主演)、91分尺で現存(NFC所蔵[6])
- 『涙の渡り鳥』 : 監督野村芳亭、1933年2月15日公開
- 『応援団長の恋』 : 監督野村浩将、1933年3月1日公開 - 應援團長 塚本、78分尺で現存(NFC所蔵[6])
- 『非常線の女』 : 監督小津安二郎、1933年4月27日公開 - 襄二(主演)、120分尺で現存(NFC所蔵[6])
- 『晴曇』 : 監督野村芳亭、1933年5月4日公開 - 江村伊助(主演)、125分尺で現存(NFC所蔵[6])
- 『頬を寄すれば』 : 監督島津保次郎、トーキー、1933年8月3日公開
- 『いろはにほへど』 : 監督池田義信、サウンド版、1933年8月31日公開
- 『東京音頭』 : 監督野村芳亭、サウンド版、1933年9月28日公開 - 斉藤進(主演)、82分尺で現存(NFC所蔵[6])
- 『沈丁花』 : 監督野村芳亭、サウンド版、1933年11月16日公開 - 門弟野村白風
- 『双眸』 : 監督成瀬巳喜男、1933年12月7日公開 - 須永一雄
- 『初恋の春』 : 監督野村芳亭、サウンド版、1933年12月31日公開
- 『東洋の母』 : 総監督清水宏、監督石川和雄・佐々木康・佐藤武・沼波功雄・荻原耐・恒吉忠康、トーキー、1934年2月1日公開 - 息子・健
- 『婦系図』 : 監督野村芳亭、トーキー、1934年2月22日公開 - 早瀬主税(主演)、134分尺で現存(NFC所蔵[6])
- 『地上の星座 前篇 地上篇』 : 監督野村芳亭、サウンド版、1934年5月17日公開
- 『地上の星座 後篇 星座篇』 : 監督野村芳亭、サウンド版、1934年5月31日公開
- 『利根の朝霧』 : 監督野村芳亭、トーキー、1934年8月1日公開 - 主演
- 『街の暴風』 : 監督野村芳亭、サウンド版、1934年8月15日公開 - 主演
協同映画
製作は特筆の通り、すべて配給は「日活」、すべてトーキーである[3][4][9]。
日活多摩川撮影所
特筆以外すべて製作は「日活多摩川撮影所」、すべて配給は「日活」、以降すべてトーキーである[3][4][9]。
東宝映画東京撮影所
特筆以外すべて製作は「東宝映画東京撮影所」、すべて配給は「東宝映画」である[3][4]。
- 配給 東宝映画
- 『男は度胸』 : 監督渡辺邦男、製作ゼーオースタヂオ、1937年5月11日公開 - 主演
- 『北支の空を衝く』 : 監督渡辺邦男、製作P.C.L.映画製作所、1937年9月1日公開 - 杉浦健而(主演)、41分尺で現存(NFC所蔵[6])
- 『維新秘話 戦ひの曲』 : 監督渡辺邦男、製作P.C.L.映画製作所、1937年9月21日公開 - 関口鉄之助・関口幾之助(二役・主演)
- 『母の曲 前篇』 : 監督山本薩夫、1937年12月11日公開 - 主演、前後篇合計94分尺で現存(NFC所蔵[6])
- 『母の曲 後篇』 : 監督山本薩夫、1937年12月21日公開 - 主演、同上[6]
- 『鉄腕都市』 : 監督渡辺邦男、1938年1月20日公開 - 主演
- 『人生競馬』 : 監督荻原耐、1938年1月21日公開 - 主演
- 『愛情一路』 : 監督渡辺邦男、1938年7月1日公開 - 主演
- 『御存知東男』 : 監督滝沢英輔、1939年12月29日公開
- 『新妻鏡 前篇』 : 監督渡辺邦男、1940年5月1日公開 - 醍醐博(主演)
- 『新妻鏡 後篇』 : 監督渡辺邦男、1940年5月8日公開 - 醍醐博(主演)
- 『太陽の都』 : 監督滝沢英輔、1940年9月17日公開 - 主演
- 『闘ふ男』 : 監督石田民三、1940年10月23日公開 - 中島安吉(主演)
- 『蔦』 : 監督萩原遼、1940年12月4日公開 - 主演
- 『新編 坊っちゃん』 : 監督渡辺邦男、1941年2月18日公開 - 主演
- 『維新前夜』 : 監督渡辺邦男、製作大宝映画、1941年7月23日公開
- 『男子友情』 : 監督石田民三、製作大宝映画、1941年8月21日公開 - 主演
- 『武蔵坊弁慶』 : 監督渡辺邦男、1942年1月7日公開 - 武蔵坊弁慶(主演)
- 配給 映画配給社
- 『翼の凱歌』 : 監督山本薩夫、1942年10月15日公開 - 主演
- 『音楽大進軍』 : 監督渡辺邦男、1943年3月18日公開 - 岡倉龍作(主演)、76分尺で現存(NFC所蔵[6])
- 『男』 : 監督渡辺邦男、1943年6月10日公開 - 日下志郎(主演)、67分尺で現存(NFC所蔵[6])
- 『命ある限り』 : 監督渡辺邦男、製作・配給東宝、1946年8月1日公開 - 主演
大映京都撮影所
特筆以外すべて製作は「大映京都撮影所」、すべて配給は「大映」である[3][4]。
新東宝
すべて製作・配給は「新東宝」である[3][4]。
東映京都撮影所
特筆以外すべて製作は「東映京都撮影所」、すべて配給は「東映」である[3][4]。
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、
岡譲司に関連するカテゴリがあります。