大谷 光瑩(おおたに こうえい)は、明治から大正時代にかけての浄土真宗の僧。法名は現如(げんにょ)。東本願寺第22代法主(1889-1908)[3] 。真宗大谷派管長。1896年より伯爵。前法王大谷光勝の四男。
生涯
日付は、暦の正確性、著作との整合を保つため、明治5年12月2日(1872年12月31日)までは、天保暦表示。明治6年1月1日(1873年1月1日[2] )からは、グレゴリオ暦表示とする(誕生年月日を除く)。また本山は、「本願寺」が正式名称だが、「西本願寺」との区別の便宜上、「東本願寺」と表記。
家族
- 父・大谷光勝(1817年生) - 東本願寺第21世法主
- 母・大谷和子 (東本願寺)(1830年生) - 伏見宮邦家親王の四女
- 妻・恒子(1854年生) - 日出藩主・木下俊愿の三女(庶子)
- 二男・大谷光演(1875年生) - 東本願寺第23世法主
- 二女・九条恵子(1876年生) - 夫は公爵九條道實(九条道孝の長男)
- 三男・大谷瑩誠(1878年生) - 妻の朝子は侯爵廣幡忠朝の娘
- 五男・瑩亮(1880年生) - 妻の訴は池田賴清妹
- 庶子男・瑩温 (1881年生) - 生母は妾の暉
- 六女・嶺子(1884年生) - 夫は梅上尊融(大谷光尊の子で、僧・茶人)。
- 庶子男・韶相 (1884年生) - 生母は妾の春榮。
- 庶子男・瑩韶(1886年生) - 生母は妾の春榮。妻の文子は男爵島津忠欽と男爵島津珍彦の孫。娘の道子は大谷隆三の妻。
- 七女・綾子(1887年生) - 夫は正親町公和(伯爵正親町実正長男)
- 庶子男・瑩琇(1887年生) - 生母は妾の春榮。城端別院善徳寺19代住持。
- 十一男・大谷瑩潤(1890年生) - 妻・喬子は子爵小笠原寿長の娘。長男に大谷演慧。
- 庶子女・久子(1900年生) - 生母は妾の春榮。夫の和田久左衛門は、旧名を三井高隣といい、三井新町家当主・三井高辰の子。高辰の娘婿三井高堅の養弟でもあり、大阪屈指の資産家で金物商の和田家の養子となり先代から久左衛門を襲名。
- 庶子女・芳子(1891年生) - 生母は西堀初榮。夫は石川県人飯具瑩辰。
- 庶子男・瑩嶐(1893年生) - 生母は岩崎ヨシカ
- 庶子男・瑩住(1902年生) - 生母は妾の春榮
栄典・授章・授賞
- 勲章・爵位
脚注
- ^ 天保暦。
- ^ a b c グレゴリオ暦。
- ^ 正式には「本願寺」。一般には通称で「東本願寺」と呼称するので、「東本願寺第二十二代法主」と表記。
- ^ 赤瀬川原平、吉野孝雄編 『宮武外骨・滑稽新聞 第壹冊』 筑摩書房、1985年、66頁、ISBN 9784480355010
- ^ 東本願寺句仏上人 多難の法灯を継ぐ『新聞集成明治編年史. 第十三卷』林泉社 1936-1940
- ^ 数え年。
- ^ 『官報』第372号「叙任」1884年9月22日。
- ^ 『官報』第1878号「叙任及辞令」1889年10月1日。
- ^ 『官報』第2008号「叙任及辞令」1890年3月13日。
- ^ 『官報』第4428号「叙任及辞令」1898年4月8日。
- ^ 『官報』第8347号「叙任及辞令」1911年4月22日。
- ^ 『官報』第3883号「叙任及辞令」1896年6月10日。
関連項目
- 酒井米子 - 米子の娘・九条和子の父親は光瑩と言われている
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東西分立前 (本願寺の歴史) | |
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東西分立後 |
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東西分立後も、1987年に真宗大谷派が「宗教法人 本願寺」の解散の登記を行うまでは、共に「本願寺」が正式名称である。真宗大谷派は、1987年以降も「真宗本廟」の別称として「本願寺」を用いている『宗憲』第十三条。 記号 - 「⇒」は寺基移転を表し、「→」は寺基移転を伴わない名称変更などを表す。
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東西分立前 | |
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東西分立後 |
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略称 - 「西」=本願寺派、「東」=大谷派、「東本」=東本願寺派、「東山」=(東山上花山)本願寺、「嵯峨」=(嵯峨)本願寺 |