いくつかのFIFA加盟協会は最近「Football」を使用するように標準化している。オーストラリアのサッカーの統括団体は2007年に名称をサッカーからフットボールに変更した[12]。ニュージーランドもまた、「国際的な競技がフットボールと呼ばれる」と述べ、名称を変更した[13]。サモアは2009年に名称を「Samoa Football (Soccer) Federation」から「Football Federation Samoa」に変更した[14][15]。
日本で最も人気があるフットボールはサッカーであるが、サッカーを示すために単体でフットボールという用語はあまり使われずに、サッカーと呼ばれる。文脈上確実にサッカーである場合はフットボールという場合もある。以前はアメリカン・フットボールのことを示していたが、アメリカン・フットボールもアメフトと省略されて呼ばれることが多くなった。ドイツと同様に外来語としてのフットボールは「アメリカンフットボール」を示す場合が多い(「サッカー、ラグビー、フットボールと」いう言い回しなど。)。ただし、サッカー部を英語表記する場合にfootball club とする場合が多い。また、明らかにサッカーの話が文脈にある場合はサッカーを示す意味でフットボールという言葉が使われる。
日本のサッカーの統括団体である日本サッカー協会の日本語表記では「フットボール」という語を用いていないが、英語表記では「Japan Football Association」としている。またJFAという略称も使っている。なお、FIFAの日本語訳は「国際サッカー連盟」である。
オーストラリア大陸において、オーストラリア先住民のいくつかの部族は、歴史家によって「マーン・グルーク(英語版)」と一般化された詰め物をしたボールを用いた蹴りおよび捕球の競技を行っていた。これに関する最も初期の歴史的報告は1878年のロバート・ブラフ・スミス(英語版)の著作「The Aborigines of Victoria」に書かれた逸話である。この本ではリチャード・トーマスと呼ばれる男性が、1841年頃ビクトリア植民地においてアボリジニの人々が球技を行っているのを目撃したと伝えられている: 「トーマス氏は一番前の選手がどのようにポッサムの皮で作られたボールをドロップキックし、その他の選手が捕球するために空中に飛び上がったかを描写した」。一部の歴史家は、「マーン・グルーク」をオーストラリアン・ルールズ・フットボールの起源の一つであると理論付けている。
1363年、イングランド王エドワード3世の布告では、「pilam manualem,pedivam vel bacularem aut cambucam (ハンドボール、フットボール、クラブボール、カンボク)の4つに区別され、それぞれ禁止された[44][46]。クラブボールは、杖や棒(baculum)を用いた球戯である。カンボク (cambucam)は、カモック (cammock,cammocc,cambuck)でもあり、曲がったスティックを使った打球戯である[47][注釈 1]。
「ゴール (goal)」に関する初めて言及されたのは16世紀末および17世紀初頭である。1584年および1602年に、ジョン・ノードン(英語版)およびリチャード・カルー(英語版)はそれぞれコーニッシュ・ハーリング(英語版)における「ゴール」について言及した。カルーは何如にゴールが決まったかを説明している: 「they pitch two bushes in the ground, some eight or ten foote asunder; and directly against them, ten or twelue [twelve] score off, other twayne in like distance, which they terme their Goales」[54]。彼はまた、ゴールキーパーと選手間のボールのパスについて初めて説明した。
「ゴールを決める」ことに初めて直接言及したのは、ジョン・デイ(英語版)の戯曲「The Blind Beggar of Bethnal Green」(1600年頃上演、1659年出版)である: "I'll play a gole at camp-ball(英語版)(極度に暴力的なフットボールの一種であり、イースト・アングリアで人気だった)"。同様に1613年の詩で、マイケル・ドレイトン(英語版)は「when the Ball to throw, And drive it to the Gole, in squadrons forth they goe」と記している。
1608年までに、マンチェスターの地方自治体はフットボールに関する苦情を述べている: "With the ffotebale...[there] hath beene greate disorder in our towne of Manchester we are told, and glasse windowes broken yearlye and spoyled by a companie of lewd and disordered persons ..."[55]。同年、ウィリアム・シェイクスピアは、とがめるような文脈で「フットボール」という言葉を使用している。シェイクスピアの戯曲『リア王』には以下の一節がある: "Nor tripped neither, you base football player(その上,足を払われ放しでは黙っておれまい。この汚いフットボール野郎)"[56]。また、シェイクスピアは『間違いの喜劇』でもフットボールに言及している(第2幕第1場)
Am I so round with you as you with me,
That like a football you do spurn me thus?
You spurn me hence, and he will spurn me hither:
If I last in this service, you must case me in leather.
イタリアでは、16世紀のフィレンツェで、公現祭と四旬節の間の期間を祝して、サンタクローチェ広場(英語版)において今日「カルチョ・ストーリコ calcio storico」(歴史的カルチョ)として知られている競技を行っていた。都市の若い貴族達は立派な絹の衣装で着飾り、暴力的なフットボールの一種に飛び込んでいった。例えば、「カルチョ」の選手は、相手に対してパンチ、ショルダーチャージ、キックをすることが出来た。卑怯な殴打も許されていた。この競技は、軍事演習に起源があると言われている。1580年、Giovanni de' Bardi di Vernio伯爵は、「Discorso sopra 'l giuoco del Calcio Fiorentino(カルチョ・フィオレンティノの試合に関する論文)」を書いた。これは、最も初期のフットボール規則である。18世紀以降は行われなくなっていったが、1930年5月に復興された。
フットボールに似た競技がイングランドのパブリックスクール(主に上流階級、上位中流階級、知的職業階級の男子が通う)で行われていた最も初期の証拠は、1519年のウィリアム・ハーマンの『Vulgaria』である。ハーマンはイートン・カレッジとウィンチェスター・カレッジの校長を務め、彼のラテン語の教科書には翻訳の演習問題として、「"We wyll playe with a ball full of wynde"」という節が出てくる[59]。
[s]ome smaller number with such overlooking, sorted into sides and standings, not meeting with their bodies so boisterously to trie their strength: nor shouldring or shuffing one an other so barbarously ... may use footeball for as much good to the body, by the chiefe use of the legges.[61]
より詳細なフットボールの説明は、1660年頃に書かれたフランシス・ウィラビイの『Book of Games』にある[62]。サットン・コールドフィールドのビショップ・ヴェシーズ・グラマー・スクール(英語版)の生徒であったウィラビイは、初めてゴールと明確な競技フィールドについて説明した人物である: 「a close that has a gate at either end. The gates are called Goals." His book includes a diagram illustrating a football field. He also mentions tactics ("leaving some of their best players to guard the goal"); scoring ("they that can strike the ball through their opponents' goal first win") and the way teams were selected ("the players being equally divided according to their strength and nimbleness"). He is the first to describe a "law" of football: "they must not strike [an opponent's leg] higher than the ball".[要出典]」。
イングランドのパブリックスクールでは、初めてフットボールの規則が法典化された。特に、18世紀末に彼らは初めてオフサイドルールを発明した[63]。最も初期のこれらのルールでは、選手はボールと相手側のゴールの間にいる時は単純に「オフサイド off their side」とされた。選手は、足であろうと手であろうと前方にボールをパスすることは許されなかった。前方にボールを進める方法は足でドリブルするか、「スクラム」あるいは同様の「フォーメーション」の中で進めるかしかなかった。しかしながら、オフサイドルールはそれぞれのスクールで別に分化・発展していった。これは。1810年から1850年の間のウィンチェスター、ラグビー、ハロウ、チェルトナム(英語版)のそれぞれのフットボールルール[63]。知られている初めてのコード(一式の規則という意味で)は1815年のイートンのもの[64]と1820年のアルデナム(英語版)[64]のものである。
19世紀初頭の間、ブリテンのほとんどの労働者階級の人々は週に6日働いており、しばしば1日12時間以上働いた。彼らは当時、楽しみのためにスポーツに参加したいという時間も意欲もなく、多くの子供達は労働力の一部となっていた。路上で行われる宗教上の祝日のフットボールは衰退の道をたどっていた。働く必要がない自由を享受していたパブリックスクールの少年達は、正式なルール一式 (codes of rules) を持つ整理されたフットボール競技の発案者となった。
1848年、共にシュルーズベリー校の卒業生であったケンブリッジ大学のH. de WindonとJ. C. Thringは、ハーロー、イートン、ラグビー、ウィンチェスター、シュルーズベリーのその他12名の代表者と共にトリニティ・カレッジにおいて会合を開いた。8時間の会合により「ケンブリッジ・ルール」として知られている最初の現代フットボール規則が作られた。これらの規則の写しは現存していないが、1856年頃の改訂版がシュルーズベリー校の図書館に保管されている[92]。この規則では明らかにキッキングゲームが好まれていた。ボールを手で扱うことは「足で蹴ったボールを直接キャッチした時」のみ許されており(フリーキックが与えられる)、相手のゴール前でウロウロすることを禁じる原始的なオフサイドルールも存在した。ケンブリッジ・ルールはイングランドのパブリックスクールや大学以外では広く採用されなかった(しかし、協会式フットボールの規則を制定するフットボール・アソシエーションの委員会にはほぼ間違いなく最も重要な影響を与えた)。
1858年7月10日、ウィルズは冬季にクリケット選手の健康を保つための「競技規則」を持つ「foot-ball club」の設立を呼び掛ける手紙をBell's Life in Victoria & Sporting Chronicleに書いた[95]。これが新しいスポーツが作られた瞬間であると歴史家によって考えられている。広報と個人的な交流により、ウィルズは様々なルールを実験するフットボールの試合をメルボルンで調整することができ[96]、記録が残る最初の試合は1858年7月31日に開催された。1858年8月7日、ウィルズは比較的確かな証拠があるメルボルン・グラマー・スクールとスコッチ・カレッジとの試合の審判を務めた。これらの試合の後、整理されたフットボールの試合は急速に人気を広げていった。
このメルボルン・フットボール・ルールは広く普及し、その他のビクトリア植民地のクラブにも徐々に採用されていった。彼らは、その他の影響力のあるビクトリアのフットボールクラブのルールに対応するため、1860年代までに数度ルールを書き直している。ジーロング・フットボール・クラブのルールに対応するためにH. C. A. ハリソンの委員会によって1866年に行われた重要なルールの書き直しによって、「ヴィクトリアン・ルールズ」として知られるようになっていたこのゲームは、その他のルール体系からますます離れたものなっていった。このルールではクリケット競技場、ラグビーボール、特殊化したゴールと背後のポスト、走っている間のボールをバウンドさせること、ハイジャンプによるマークなどがある。このルールはその他のオーストラリアの植民地にすばやく広がった。第一次世界大戦後、中心地の南部オーストラリア以外では、このルール体系は衰退期を迎えたが、アマチュアレベルでは世界中に広がっており、主要なプロ大会としてオーストラリアン・フットボール・リーグが生まれた。
1860年代初期、イングランドにおいて様々なパブリックスクールのゲームを統合・調和させる試みが進められていた。1862年、後にアッピンガム校(英語版)の教師となるJ. C. Thringは、彼が「The Simplest Game」と呼ぶ新たなルールを考案した。これらは「アッピンガム・ルールズ」としても知られている。Thringのルールは通常ケンブリッジ・ルールズとは見做されていない。1863年10月初頭に、ハロー、シュルーズベリー、イートン、ラグビー、マールバラ、ウェストミンスターの卒業生を代表する7名の委員会によってケンブリッジ・ルールズの新たな改訂版が策定された。
IX. 選手はフェアキャッチあるいはワンバウンドしたボールをキャッチした場合、対戦相手のゴールに向かって走る権利を得るものとする: しかしフェアキャッチの場合、マークを行った場合は走ってはならないものとする。
X. もし選手が対戦相手のゴールに向かって走れば、相手側の選手は彼にチャージ、ホールド、トリッピング、ハッキング、あるいは彼からボールを奪い取る自由があるものとするが、同時にホールドとハッキングをすることはできない。
5回目の会合において、これら2つのルールを削除する提案が成された。代表者のほとんどがこれを支持したが、ブラックヒースの代表でFAの初代会計係であったF・M・キャンベルが異議を唱えた。キャンベルは「ハッキングこそが真のフットボールである」と述べた。しかしながら、ボールを手に持って走ることとハッキングの禁止の動議が可決され、ブラックヒースはFAを脱退した。12月8日の最後の会合の後、FAは後にアソシエーション・フットボールとして知られるスポーツの最初の包括的な一連の規則である「フットボールの規則Laws of Football」を発表した。19世紀末から使われている「サッカー soccer」という用語は「Association」の省略形に由来する[99]。
国際試合の人気が高まった20世紀の始めには、サッカーを監督する単一の団体に対する必要性が明らかとなっていた。イングランドのフットボール・アソシエーションは国際団体設置のための多くの話し合いの議長を務めたが、進展は見られなかった。その後、イングランド以外のヨーロッパの七カ国(フランス、ベルギー、デンマーク、オランダ、スペイン、スウェーデン、スイス)によって1904年5月21日にパリにおいて「Fédération Internationale de Football Association」 (FIFA) が設立された。初代会長はロベール・ゲランであった。現在もフランス語の名称および略称がフランス語圏以外の地域でも使用されている。
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^The exact name of Mr Lindon is in dispute, as well as the exact timing of the creation of the inflatable bladder. It is known that he created this for both association and rugby footballs. However, sites devoted to football indicate he was known as HJ Lindon, who was actually Richards Lindon's son, and created the ball in 1862 (ref: Soccer Ball World), whereas rugby sites refer to him as Richard Lindon creating the ball in 1870 (ref: Guardian article). Both agree that his wife died when inflating pig's bladders. This information originated from web sites which may be unreliable, and the answer may only be found in researching books in central libraries.
^Bell's Life in London and Sporting Chronicle (London, England), Sunday, January 13, 1839.New Readerships
^Blackwood's Magazine, Published by W. Blackwood, 1862, page 563
^Bell's Life in London and Sporting Chronicle (London, England), Saturday, January 07, 1865; Issue 2,229: "The Sheffield party, however, eventually took a lead, and through some scientific movements of Mr J Wild, scored a goal amid great cheering"
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