この項目では、ニューヨーク市 の歴史について説明しています。ニューヨーク州 の歴史については「ニューヨーク州の歴史 」をご覧ください。
ニューヨーク市の歴史 (ニューヨークしのれきし)ではアメリカ合衆国 ニューヨーク州 ニューヨーク市 およびその都市圏の歴史を記載する。
先史時代
ニューヨーク地域。東方から。
約75,000年前、最終氷期 の時、現在のニューヨーク市 はケベック州 より伸びる厚さ約300mの大陸氷床 の端であった。巨大な氷床はその移動で表層を削り取り、約5億年前に形成された片麻岩 や大理石 などの基岩をむき出しにさせることとなる。約15,000年前、氷床が後退し始めた。この時形成されたモレーン は、ロングアイランド とスタテンアイランド の丘として残っている。当時、この2つの島は現在のように分離しておらずザ・ナロウ(図1) (英語版 ) と呼ばれる海峡は存在しなかった。海峡は約6,000年前に上湾(図2) の水が決壊して下湾(図3) に流れ込んで現在の形となった。
考古学 的発掘調査によると人類が居住し始めたのは約9,000年前で、狩猟の道具や骨 などの塚 が発見されている。かつてこの地域は非常に生態豊かだったが、急激な気温の上昇により当時の人々が食料としていた大型の獲物達が次々と姿を消していった。
2度目の大きな居住は約3,000年前に始まり、弓 などのより進化 した狩猟道具が発見されていて、80の野営の跡が市内で見つかっている。同地域はこの時代よりコンスタントに人の居住が続いていると推察されている。
先史 - 1664年:レナペ族とニューアムステルダム
レナペ族
1910年 のレナペ 族
この地に先住するインディアン 部族のレナペ族 (デラウェア族)は、長らくこの地を領土としていた。独自の文化を持ち、アルゴンキン語族 系の言葉を話した。レナペはこの地域をScheyischbi 、または「海との境界の場所」、「レナペホーキング (英語版 ) 」(論争中であり現在答えは出ていないが、おそらく「レナペの住む場所」という意味だという)と呼んだ。
彼らは地域で取れる限定された獲物(魚 、鳥 、貝 、鹿 など)約150種の狩猟をしていて、比較的獲物の数は少なかったと考察されるが、洗練された狩猟と資源の利用技術を有していた。焼畑農業 により肥沃な土壌を生み出し、トウモロコシ、カボチャ、豆などを栽培した。また二つの川からはカキ やストライプドバス など多量の魚介類を手に入れる術も身に着けていた。レナペ族は小さな団体で季節ごとにウィグワム を使用した移動型生活をし、一定した集落に定住する民族ではなかった。(右図は当時のレナペ族の勢力範囲)
また彼らは文字 を持たなかったが、現在のニューヨークの地名は彼らの言語に由来するものが多い。"マンハッタン"はレナペの言葉で「丘の多い島」、または「我々がみな、酔っぱらいにされた島」という意味である。優れた道路の開拓も行っておりブロードウェイ などその多くは現在でも幹線道路として残っている。
レナペ族は族内のみならず他の部族と物々交換による貿易もしていて、物々交換の主な対象となったのは貝殻などを手作りで宝飾品にした貝殻玉(ワムパム )だった。貝殻玉を作るのに必要な材料はピクォート 族が独占していた。これらはロングアイランド湾(図4) で採れた。現在のニューヨーク市地域で生産された貝殻玉が五大湖 周辺でも発見されているため、同族同士のみならず他のインディアン、イロコイ族 (現在のニューヨーク州東部に居住)などとの貿易の豊かさを示している。このことからヨーロッパ人の入植以前からニューヨーク地域は商業の中心であった可能性が濃い。ヨーロッパ人が入植し始めた時代のインディアン人口は同地域だけで約15,000人に上ったと推測されている。
ヴェラッツァーノ
ヌーヴェル・アングレーム
1524年 4月17日、時のフランス 王フランソワ1世 の依頼で北米探索を行ったイタリア 人ジョバンニ・ダ・ヴェラッツァーノ が現在のニューヨーク港 に来航。ヴェラッツァーノはこの土地をフランス国王の名誉に則りヌーヴェル・アングレーム (ヌーヴェルは「新しい」、アングレーム はフランスの都市名)と名付けた。ヴェラッツァーノは本来、現在のニューヨーク市港への寄港を目指したが、現在彼の名が付けられているヴェラザノ・ナローズ・ブリッジ のあたりまでしか行けず大西洋 に引き返している。その場所で碇を下ろし、カヌーに乗ったレナペ族インディアンと出会っている。
その後、イギリス 人の探検家 でオランダ東インド会社 に雇われていたヘンリー・ハドソン が初めて地図に同地域を記載している。1609年 9月11日、ハドソンはマンハッタン島 を「発見」、そのまま河の上流に向かい現在のアルバニー 市までたどり着いた。現在、その河は彼の名を取ってハドソン川 となった。ハドソンの本来の目的は北米大陸の北を周る北西航路 の開拓でありそれは達成されなかったが、彼の報告は会社に莫大な利益をもたらすこととなった。
ニューアムステルダム
1634年 オランダが描いた地図。北方から
1664年 のニューアムステルダム
ヨーロッパ 人による移住は1613年 にロウワー・マンハッタン の世界貿易センター のあった場所で始まったオランダ の毛皮 貿易 の発展によって拡大し、1625年 にはマンハッタン島 の南がニューアムステルダム と呼ばれることとなり、1626年 にアムステルダム交易所 が建設される。当時ヨーロッパではビーバー の毛皮が流行しておりオランダ東インド会社はハドソンが開拓した地域に新たなソースがあることを確信していた。また同じく1613年にはオランダ人航海士のアドリアン・ブロック はクルーと共に冬をマンハッタンで過ごし、春先に完成させた船でイースト・リバー を北上、ヘルゲート(図5) (英語版 ) を発見しロングアイランドが大陸ではなく島であることを白人で初めて知った。ブロックは海岸一体をニューネーデルラント と名付け、会社は独占的貿易の権利を得た。これは現在へと続くニューヨーク市の巨大商業の誕生であった。
最も初期の移民は同地域を「発見」したとされているクリスチャン・ヘンドリクセンとジャン・ロドリゲスであった。ロドリゲスは初の黒人住民でもある。
1616年 、オランダ人たちは貿易の拠点としてキングストン にも入植を始める。
1623年 から24年頃、オランダはこの地域をフォート・アムステルダム に創立したオランダ東インド会社による商業目的として見ており、ボウリング・グリーン にあるアレクサンダー・ハミルトンUSカスタム・ハウス を要塞化。これは上流から攻めてくる可能性のある他のヨーロッパ諸国から会社をも守るためであった。1年も経たないうちにニューアムステルダムの規模は拡大し会社を守るための守備兵や彼らの食料を作るためにヨーロッパから連れて来られたワロン人 の農民達により人口が増加した。
オランダ人はヨーロッパ製のビーバーの毛皮加工用の金属製品を同地にもたらすことによって、インディアン同士の主要な貿易商品である貝殻玉(ワムパム)の貿易仲介を行い、生産効率を上げたが、一方その貿易的価値を下げてしまった。またレナペ族はビーバーを守るため食料用の漁業を諦めた。オランダ人は優れた道具で自分達でも貝殻玉を生産し始め、ヨーロッパ人とインディアン双方の貿易の主権を握ろうとしていた(同じことがニューイングランドの入植でも起こっている)。それらの現象が加速した結果、僅か20年足らずでビーバーは現在のニューヨーク市5区から姿を消し、17世紀 は疫病、飢饉、他の地域の移住などでレナペの人口も劇的に減っていった。
ビーバーの毛皮貿易 は現在のニューヨーク州北方に本拠地を移し北米西海岸の重要な貿易ハブとなった。この頃、ニューネーデルラントは貿易のみが盛んな地域でオランダ文化を持ち込む場所ではなかったため植民地指揮官は民族間同士の衝突に全く注意を払っていなかった。17世紀の貿易による経済効果はオランダ人のみならずスペイン 人、ユダヤ人 、黒人 奴隷 を同地域に集めることとなった。
オランダ語から来ているニューヨーク市の地名は未だに多く、オランダ語で「兎の島」という意味の「コニーアイランド 」、「ブルックリン 」「ハーレム 」「ブロンクス 」「フラッシング (英語版 ) 」「スタテンアイランド 」などがある。
オランダ人入植者とワッピンガー族 (キーフ戦争 (英語版 ) )
1627年 、オランダの植民地 指揮官であったピーター・ミニュイット (英語版 ) は、不動産投資を目的としてインディアンからマンハッタン島とスタテンアイランドを買い取り、一説によれば24ドル相当のガラスのビーズで島は売られたとされている。実際は60ギルダー分の物品との交換だった。インディアンに土地取引の文化は無く、これが公平正当な取引で無かったことは、その後のインディアンと入植者の度重なる戦争で証明されている。
信仰の自由 を約束するミニュイットの植民政策はユグノー 達の安息地にもなった。マンハッタン島は当時からその天然の良港により大都市に変貌すると考えられていた。さらに同地域南方にはコレクト・ポンドなどの大量の淡水 の帯水層 があり、地理的に異例であるが湿地帯 と高層ビル 建設に非常に有利な硬い変成岩 マンハッタン・シストが剥き出しになっている岩層が隣り合わせになっている。
ピーター・ストイフェサント
ワッピンガー族に対する虐殺
1638年 にウィレム・キーフ (英語版 ) が植民地指揮官に就任したが、その5年後、彼は入植地拡大を巡って、ワッピンガー族 インディアンに「キーフ戦争 (英語版 ) 」を挑むこととなる。1643年 2月、パヴォニアの虐殺 (英語版 ) ではハドソン川の対岸、現在のニュージャージー州 で女子供を含む120人のワッピンガー族が虐殺された。秋にはこの報復として、1500人のインディアン連合軍がニューネーデルラントを攻撃し、虐殺指導者の軍人アン・ハッチンソンを殺した。その冬にはオランダ人の報復によって500人のワッピンガー族が殺された。
一時期インディアンは優勢だったが、オランダ人入植者は共和国に泣きつき、キーフへ援助部隊を受け、またモホーク族 と手を組んで、圧倒的な兵力でワッピンガー族を虐殺した。こうして1600年当時、3000人は見積もられたワッピンガー族の人口は、この二年間の戦いで半数の1500人に減らされてしまった。制圧した。1645年 8月29日、和平協定が結ばれ戦争は終結した。
1647年 5月27日、ピーター・ストイフェサント は到着と同時に指揮官に就任しオランダ改革派 として信仰の自由を排除し、また酒場の閉鎖を行った。その結果、1652年 、植民地であったニューアムステルダムは独自の政府を持ち、1653年 2月2日、正式に地方自治体 として本国より認可を受けた。
1655年、再びワッピンガー族は「桃の木の戦争 (英語版 ) 」で、白人と交戦する。この戦争は、マンハッタンでオランダ人農業者の果樹園からモモを盗もうとした若いインディアン女性が撃ち殺されたことから始まった。彼女の家族は血の償いのためにワッピンガー族に助けを求め、オランダ人入植者の家から家へと、下手人を探して回った(この際、暴力行為は行っていない)。これに対し、ストイフェサントは彼らを攻撃、再び不満の鬱積していたインディアンたちと白人との戦争となり、ワッピンガー族が虐殺された。この戦争は実はオランダ人側がスウェーデン入植者の追い出しを図ったものとされている。ワッピンガー族らはスウェーデン人入植者とは友好的だった。
1664年 - 1783年:イギリス植民地時代と独立戦争
1660年 のロウワー・マンハッタン
1674年 のニューオレンジ
イギリスの渡来
1664年 、イギリスは現在のブルックリン・グレイヴセンド港に来航。イースト・リバー を行軍し市内に入る船舶を捕獲した。当時のオランダ植民地指揮官ピーター・ストイフェサントは捕獲された船に乗船していた市民を認識していなかった。降伏文書によると、1664年9月8日からオランダ東インド会社はストライキ に突入しており衛戍 は本国に帰るためイースト・リバーを北上していた。1975年 に発見された1665年付けの市の封印書によると、これらは実は1625年に起きた事柄であったとしている。奇しくも300周年記念を祝った現代のニューヨーク市は、その11年後に350周年記念を行うことになった。
ニューヨーク誕生
イギリス が入植し始め、1664年 に国王 ジェームズ2世 はニューヨーク と名付け、1665年 6月12日にはトーマス・ウィレット を初代ニューヨーク市長 に選出した。1667年 、第2次英蘭戦争 が終わると、勝利したオランダはニューアムステルダム(ニューヨーク)の自治権をイギリスに明け渡す代わりに、当時北米よりもさらに価値のあった東インド諸島 のラン島 を獲得した。1673年 、オランダは一時的に領土を取り戻し、当時ニューネーデルラント と呼ばれた現在のニューヨーク州 を第3次英蘭戦争終結後1674年 11月にイギリスに本格的に割譲するまでニューオレンジ と名付けた。この時、オランダはイギリスと協定を結び、現在のスリナム共和国 とニューヨークを植民地交換している。
イギリスの統治
オランダ領であったニューアムステルダムとニューネーデルランドは新たにイギリスの統治下に置かれ、名をProvince of New York とした。同市は北方をさらに開拓し依然重要な植民地であったと共に、その地域の発展は完全なる独立への兆しをもを持ち合わせた。陸軍 指揮官のジャコブ・ライスラー (英語版 ) 率いるライスラー反乱軍 が力を持ち始め、1689年 から1691年 にかけて(ライスラーが逮捕されるまで)ニューヨーク南方の主導権を握った。反乱軍はさまざまな階級の人々で構成され、中にはこれがアメリカ独立への第一歩ととらえる者もいた。1680年 代、ジェームズ2世はニューヨーク市を首都 とした現在のニューヨーク州 、ニュージャージー州 、ニューイングランド を大英帝国 植民地とし、本国イギリスの名誉革命 の最中に反乱軍は組織されジェームズ2世による植民地政策に憤慨した。一面的な植民地政策は開拓者にとって不遇の措置であった。その後、ウィリアム3世 によって送られた英国軍によって王国の権力は回復するも、入植者達は自分たちの政策に合致しない指導者を拒否するようになり、イギリスに対する反乱分子が本格的に芽を出すこととなった。
ジャコブ・ライスラー の銅像
この頃、同市は信仰の自由 を掲げていたため、セファルディム はブラジルから追放されニューヨークへ迎えられた。その他、ニューヨーク・ウィークリー・ジャーナル紙の出版者だったジョン・ピーター・ゼンガー は1735年 、果敢にも言論の自由 に挑み、植民地人でありながら、本国イギリスから送られた総督を批判した。
1741年 、ニューヨークの陰謀事件 (英語版 ) では貧困層の白人や奴隷などが市の転覆と破壊を目的に放火などを繰り返した。この時、証拠不十分にもかかわらず奴隷達が大勢逮捕された。
1754年 、現在のコロンビア大学 がKing's Collegeとしてジョージ2世 の承認により創立される。
1756年 3月17日、聖パトリックの祝日 のパレードが初めて開催される。このとき以来、パレードはアイルランド人のみならずニューヨーク市全体を包む祝日となり今日世界的にも有名である。
印紙法と自由の息子達
1754年 から63年にかけてのフレンチ・インディアン戦争 の最中、市はイギリスの統治下に置かれ、ヨーロッパ人を中心とするこの抗争は植民地を一致団結させた。植民地側はイギリス軍に依存しながらも脅威となる他国軍から領土を守った。戦争が終結して2年後の1765年 、イギリス議会は植民地防衛のコストを捻出するため印紙法 を可決。9人の植民地側の使節はマンハッタンのフェデラル・ホール で印紙法会議 を開く。そして反乱軍自由の息子達 が同市で結成され、その後まもなくボストン でも結成された。彼らはニューヨーク市に自由の塔 (英語版 ) を建てイギリスの権力に対して決起。印紙法が破棄され反乱軍が市の実権を握るまでの1766年 から75年まで続いた。塔はしばしば反乱軍のサイン塔として使用され、頂上に赤い帽子 が被せられているときは植民地自治政府に対して抗議するためのミーティングを開くサインだった。同市は60人委員会 (英語版 ) の結成により抵抗軍の中心地となり、後にニューヨーク植民地議会 となった。
独立戦争
英国軍への反撃のためデラウェア川 を渉る将軍ワシントン (中央に立っている)と大陸軍 。(トレントンの戦い )
印紙法 を始めとしたイギリスによる政策は市民の反乱心を煽り、特に1766年 から1776年 にかけて自由の塔 (英語版 ) に駐留したニューヨーク植民地 の英国軍に対して長い間小競り合い(Battle of Golden Hill など)を起こしてきた自由の息子達 による反乱が顕著だった。
将軍 ジョージ・ワシントン はボストン包囲戦 でボストンからイギリス軍を追い出した後、ニューヨーク港は貿易用とイギリスの軍事用に分割されてしまう可能性を悟り、1776年 夏個人的指令により大陸軍 に市の要塞化を命令した。イギリス軍のニューヨーク方面作戦に含まれる5つの戦いは市およびその近郊で起こり、1776年8月27日のロングアイランドの戦い は同戦争の最大規模の戦いとなり、9月21日のニューヨーク大火災 (英語版 ) では市の4分の1が焼き尽くされた。火災から数日後、イギリス軍はキップ港へ寄港、ハーレムハイツの戦い が起こった。明らかに不自然な大火災を疑ったイギリスはネイサン・ヘイル など複数の人間を尋問(ヘイルはのちにスパイ 容疑で有罪になった)。
1776年 9月21日ニューヨーク大火災
イギリス軍のマンハッタン征服は、1776年 11月16日 のワシントン砦の戦い でワシントン砦を陥落させたことで完了し、1783年 まで大きな反乱もなく同地を征服し続けた。イギリス軍将軍ジェームズ・ロバートソンは今は去った反乱軍が使用していた家々をイギリス軍兵士に与えた。
反乱運動を沈静化したイギリスは北米に残る反乱分子を一掃するための司令部をマンハッタンに置く。英国軍はアメリカ人捕虜 をイースト・リバー の対岸ブルックリン のウォールアバウト港に収容、ずさんな環境により捕虜になって命を落としたアメリカ人は戦争による死者を上回った。
1783年 11月25日までイギリスによる統治は続いた。Evacuation Day(撤収の日)と呼ばれるこの日にアメリカ初代大統領 となるジョージ・ワシントン は意気揚々と同市に帰還し、連合規約 によりニューヨーク市で開かれた大陸会議 で、ニューヨーク市はアメリカで最初の首都となった。1787年 、合衆国最高裁判所 は審議の末、北部条例 を可決。合衆国始まって以来の領土拡大となった。
ジョージ3世の銅像 はアメリカ独立宣言 の際溶かされたが、ニューヨークには依然としてイギリス支持派が他の地域よりも多く存在した。初期の独立戦争のイギリスによる成功とその征服によりアメリカ愛国者は次々と市から出て行き、独立戦争の余波が消えるまで市は英国擁護派が一貫して多かった。
1784年 - 1854年:初期のアメリカ合衆国
市の発展
1789年 ワシントン の大統領就任式
1788年 9月13日、ニューヨーク市は憲法制定会議により新興国家アメリカ合衆国の首都となり、同国で2番目に大きな都市となる。ニューヨーク市は1790年 まで首都であり、その後フィラデルフィア へと移った。
1789年 4月30日、ウォール・ストリート のフェデラル・ホール でジョージ・ワシントンが初代合衆国大統領に就任。
しかし州知事ジョージ・クリントン が連邦政府に対し非常に弱腰であり州政府の権限を連邦政府が承認しないことから、1787年 に制定された合衆国憲法 に懐疑的な人々が現れる。ニューヨークのビジネスマンの中にはニューヨーク市連邦脱退を唱える者も現れたが、アレクサンダー・ハミルトン とその同士は合衆国憲法の注釈書であるザ・フェデラリスト を新聞 に載せ、議論の後地方自治の権力が認められることとなった。
1792年 、市の株式仲介人達が集まりスズカケ協定(Buttonwood Agreement)を結ぶ。ウォール・ストリートのコノカルパスの木(Buttonwood)の下で結ばれたこの協定はニューヨーク証券取引所 の始まりとなった。一方、マンハッタン北方では黄熱が流行し人々は逃げるように安全なグリニッジ・ヴィレッジ へと集まってきた。
アレクサンダー・ハミルトン
アレクサンダー・ハミルトンの最大のライバルであったアーロン・バー がタマニー協会 の会長になり政治的活動を多々行う。これらの活動によりバーは1800年アメリカ合衆国大統領選挙 に立候補した。
1807年 、発明家ロバート・フルトン は蒸気船をニューヨーク市とアルバニー市の間に開通させる。
1800年 から1840年 にかけての「アメリカ生まれの人々」による発展は目覚しく、おおむね安定していた。財務長官 として同市の財政を握ったアレクサンダー・ハミルトンの政策によりニューヨーク市は合衆国経済 の中心として発展を続け、1825年 には同市を当時の合衆国の中心的港にしたエリー運河 と鉄道 が開通した。独立戦争後にニューイングランドから大量のヤンキー が同市に集まり、市の総人口は戦前をそれを瞬く間に凌駕した。彼らの多くは中産階級 と発展途上の上流階級 であり、約95%がアメリカ生まれの人々だった。初期の経済は主に職人 達によりまかなわれていたが、その後他の追随を許さない合衆国最大の金融 と商業 の街へと爆発的な発展を遂げる。
ニューヨークはアメリカの中で比較的孤立した特性を当時から持っており、フランス領事は1810年 に次のような報告をしている。
『この街の住人はほとんどが外国人 でアメリカ人以外の全ての国の人々によって構成されているといっても過言ではない。そんな彼らはたいていのことは気にも留めないがビジネスのこととなると違う。ニューヨークは常に縁日 のような所で、人々の3分の2は常に移動を繰り返し、大きなビジネスチャンスが日々作られている。常に擬制資本 (英語版 ) と共にあり、その贅沢さと豪華さは驚くほど高い位置に達している。郊外や田舎に住む者はニューヨークという街で「アメリカ」を探さなければならない』(フェルナン・ブローデル 「The Perspective of the World(1984年 )」p406より)
この引用の「擬制資本」(fictitious capital)はニューヨーカー達の信用販売 について述べているものと思われる。
1811年委員会計画 の草案(1807年)
1811年 にはマンハッタンの将来の都市計画と土地販売についての案をまとめた「1811年委員会計画 」(Commissioners' Plan of 1811)がニューヨーク州議会を通過した。ガヴァナー・モリス ら3人からなる委員会がまとめた計画は、マンハッタンのグリニッジ・ヴィレッジ以北の未開発地に、土地の起伏にかかわらずグリッド状の街区を設けるという壮大かつ夢想的な計画であり、一番街 から十二番街 までの南北方向のアヴェニューと155丁目までのストリートが直交する規則正しい道路網とその幅員が定められた。
但し、この計画では「セントラル・パーク 」は予定されていなかった。しかしその後、19世紀半ばに、マンハッタンにも大きな公園が必要であるという提起がされはじめ、このためニューヨーク市は1853年 に公園予定地を選定、建築家 らによる競技設計 を実施し、フレデリック・ロー・オルムステッド らが選出された。こうして、1857年 からの工事で一帯が造成され、1859年 に開園している。
また、マンハッタンの農園や集落を結んでいた街道のうち、レナペ族が作った道に起源をもちオランダ人やイギリス人たちも開墾に使ってきたブルーミングデール・ロードは、グリッド状の街区の中に残されて拡幅され、ブロードウェイ となった。
1821年 9月3日、ノーフォーク・ロングアイランド・ハリケーン (英語版 ) は一時間に13インチ (約33cm)の降雨を記録し、キャナル・ストリート より南方は大規模な洪水 に見舞われたが幸い死者は最小限だったと報告されている。この台風はカテゴリー3の規模で、ブルックリンの南方ジャマイカ湾 より上陸。ニューヨーク市に直撃した唯一の台風として記録されている。
エリー運河
1824年 、オレンジ党 (英語版 ) によるパレードが終了した際アイルランド系聖公会 とカトリック信者の間で暴動が勃発。1870年代にかけておこるオレンジ党の暴動 (英語版 ) の前兆となった。
1825年 10月26日、エリー運河 が開通。五大湖 およびシャンプレーン湖 と大西洋 を結ぶこの運河による北方および東部への交通の発達はニューヨークに大きな経済的恵みをもたらした。1814年 より定期的に運行されていた蒸気フェリー 、フルトン・フェリーは1834年 にブルックリンがマンハッタンに次ぐ都市化を遂げたことによってより活性化する。
1835年 、フィラデルフィアはマンハッタンを抜き最も人口の多い都市となる。この頃のマンハッタンは1834年頃より流行していたコレラ が市の建設ラッシュを頭打ちにしていた。12月26日には戦争時以来のニューヨーク大火災 に見舞われる。気温マイナス15度で突風の吹き荒れる中、消防士達(中にはフィラデルフィアから応援に駆けつけたものもいた)は為す術が無かった。キャナル・ストリートより南方の被害が大きく、商売人たちは商品を耐火性がある教会 に持ち込んだが結局全て焼けてしまった。
1835年 冬の大火災。ウィリアムズバーグ から
最終的にはビルを破壊し火の通り道をふさぐ事で被害を抑えた。この火災により店舗を失った多くの商業人たちは最初全て保険 で修復できると思っていたが予想以上の被害でさまざまな階級の人々が被害を受け、なおかつロウワー・マンハッタン にあった保険会社の本社も焼き尽くされてしまったため保険が下りるどころか保険会社そのものが倒産 してしまった。
この火災と工業発展による大規模な水の需要はクロトン送水路の設置を必要性を呼び1837年 から42年にかけて建設された。送水路はウェストチェスター にあるクロトンダムよりハイ・ブリッジ を経て79丁目、86丁目、6番街 、7番街 にある貯水炉に大量の水を運ぶ事に成功した。1842年 10月14日、送水路は盛大な記念式典と共に運転を開始。合衆国大統領ジョン・タイラー 、前大統領のジョン・クィンシー・アダムズ とマーティン・ヴァン・ビューレン 、ニューヨーク州知事ウィリアム・スワード などが式典に参加した。
市の発展は1837年恐慌 [:en] によって再び妨げられるが、1850年以降金融と商業の中心として西洋 を牽引する存在になる。
1851年 10月3日、ハドソン川鉄道(後のニューヨーク・セントラル鉄道)が開通。同州で最初に開通したモホーク・ハドソン鉄道(現在のアルバニー・スケネクタディ鉄道)をさらに南まで拡張させることとなった。
アイルランド系移民
1872年 のスラム 街ファイヴ・ポインツ
初期の共和党 政治におけるニューヨークは、プロテスタント の中産階級(株ブローカー、銀行員 、職人、商人 など)に依存しており、アイルランド の財政悪化で1840年代に新大陸に大量に移民してきたカトリック のアイルランド系移民は読み書きもできず消防士 や警備員 などのボランティアに従事することとなった。1845年 から49年にかけて起こった本国アイルランドのジャガイモ飢饉 はアイルランド移民を加速させ、1850年 に彼らの人口は市全体の4分の1にまで達した。この頃、1848年革命 によるドイツ 移民も増えている。映画・小説「ギャング・オブ・ニューヨーク 」は1846年頃のアイルランド・ギャングの抗争を描いている。先にアメリカに移住していたプロテスタント系市民はカトリックのアイルランド移民がアメリカをカトリック化させる恐れを抱き、1843年 にはプロテスタントによりニューヨークでアメリカ共和主義者党(American Republican Party)が結成され、1845年 には全国政党ネイティブ・アメリカン党へと発展した。彼らは1850年代 半ばに反カトリック 移民運動「ノウ・ナッシング 」(Know Nothing)を活発化させた。
規制されない資本主義 は多くの中産・上流階級を生み、企業の労働力の需要はさらに多くの移民を生んで「人種のるつぼ 」と呼ばれるようになった。貴族 中心のヨーロッパ社会を離れ新興国家で成功する「アメリカンドリーム 」という言葉もこの頃生まれた。しかし、全ての人が上手くいくわけはなく、多くの失敗者も生み出し、その貧しさは子供・孫の代まで続きファイヴ・ポインツ は想像絶するまでの貧困街と化した。それとは逆に1850年代中盤からは成功した者はロウワー・ブロードウェイ、ワシントン・スクエア 、グラマシーパーク に住居を構えた。
1848年 のイースト・リバー
1840年 から50年にかけて、ニューヨーク市は市民からの強い要求に応え、ニューヨーク市警と公立学校の設置を行った。
移民増加という社会変化は、地震のようにニューヨークを揺るがせた。今日のような官僚 政治が行われていなかった当時は、同じような考えや傾向を持った市民が自発的にネットワークを作り市政を行っていたが、こうした体制では変化に対応することは不可能だった。結果、各民族ごとに政治集団や派閥が発生し、ばらばらに動いて利権を争うようになった。職人達のコミュニティが新来のアイルランド人から先住のプロテスタント系住民の居住地域を守ったことにより、アイルランド人は自分達を守るギャング を結成した。警察、消防、清掃などといった市政を自分達に有利になるよう仕向けるために民族間の抗争が起こり犯罪 数は増加した。民主党 の派閥組織タマニーホール は、アイルランド系移民に対してのサポートを行い、1854年 にタマニーから初の市長 フェルナンド・ウッド が選挙の末当選。市の改革に踏み切り、手始めに誕生してわずか3年のウィリアムズバーグ (英語版 ) をブルックリン区に取り込み「合衆国第3の都市」にする計画を立てた。
1855年 - 1897年:南北戦争下のニューヨーク
南北戦争とニューヨーク徴兵暴動
1863年 ニューヨーク徴兵暴動
1862年 セントラルパーク のアイススケート
1855年 、タマニー協会から初めてニューヨーク市長に当選したフェルナンド・ウッド。タマニー協会はこの時より時代を牽引する重要な組織になる。
南北戦争 の最中ニューヨークは北軍の兵士、物資の重要な拠点であった。また意気盛んなニューヨークの政治家 や新聞記者 たちは戦争と当時の大統領エイブラハム・リンカーン に対し鋭い切り口で意見を述べた。ニューヨーク港はヨーロッパからやってくる新たな移民(特にアイルランドとドイツ)を北軍の兵士にする拠点となった。彼らは船から降りるとすぐに登録名簿に名が連ねられた。
ニューヨーク市は南部とも強い商業的繋がりを持っており、増え続ける移民と徴兵制度 への不満から北軍 、アメリカ連合国 軍どちらにもつかない人々もいた。1863年 に起こったニューヨーク徴兵暴動 はその不満が最高潮に達したアメリカ史上最悪の事件のひとつである。
1860年 代、すでに人種のるつぼと化していたニューヨークはさまざまな思想が入り乱れた町だった。一方、南部は保守的アメリカ人が多く住む地域で奴隷制度廃止 を掲げたリンカーンの大統領就任を拒否しアメリカ合衆国脱退の兆しが現れた。第2期の市長選に再当選したフェルナンド・ウッド (1860 - 1862) はニューヨーク民主党の一員で南軍擁護派であったため、忠実な北軍支持者からは"コッパーヘッド"(南軍びいきの北部人)と呼ばれた。1861年 1月、ウッドは市の協議会にニューヨークは他のアメリカ地域とは違う自由な街を目指し南部との綿の貿易も続けることを提案。ウッズ率いる民主党は大きく南部との綿 の貿易による歳入に依存していた。ニューヨーカーは民主党支持が多く、その多くはタマニー協会 率いるマシーン によるものだった。ウィリアム・トゥウィード 率いる同協会は市内に数多くのオフィスを構え、違法的にだが州の立法府 や司法 にまで権限を有していた。1860年から70年、トゥウィードは市内の民主党候補者の大半を握中に収め、一方ニューヨーク州北部では共和党 優勢であった。リンカーン支持者達はユニオン・リーグ (英語版 ) を結成。大統領の政策を徹底的に支持した。
アメリカ合衆国陸軍 はニューヨーク港守備のため戦争勃発前から南軍の攻撃に備え要塞化を図ったが、結果的ニューヨークは南軍に攻められることは無かった。ラファイエットの砦、スカイラーの砦は結果的に南軍兵士の捕虜収容所となった。またマクドゥーガル病院やデ・キャンプ・ジェネラル病院は増え続ける負傷兵を収容する病院として設立された。Wig-Wagシステムと呼ばれる信号はニューヨークで発明されアルバート・J・マイヤー 少佐 の下ニューヨーク港でその試験が行われた。リッカー島 は白人 およびアフリカン・アメリカン連隊の最大の軍事演習基地となり、新人兵士は陸軍編成のための出資をした資産家ジョン・ジャコブ・アスター3世 の名が付けられたキャンプ・アスターで行われた。キャンプ・アスターでトレーニングを受けた軍の中には同島を所有していた一族の末裔でジョン・ラファイエット・リッカー 大佐に率いられたアンダーソンズ・ズアーヴスがいた。1801年 建てられたブルックリン海軍工廠 は北軍海軍のための物資の生産や造船 を行う。南北戦争2年目には6,000人の男性人員を雇うなど、拡大を続けた。政府が運営する公共工場と数百あったナショナル・アーム社などの民間会社は軍服 を始めとしたさまざまな物資を供給し続けた。
ジョージ・オプディク 市長
ノースカロライナ州 のサムター要塞が南軍によって攻撃されるとリンカーンは多くの批判もものともせず多くの志願兵を募り、ニューヨーカー達は兵士になる者、金銭的なサポートをする者が現れた。3ヶ月経った1861年 には1億5000万ドルが集められ、同年5月には30,000人の志願兵がニューヨークに結成されブロードウェイ で盛大な行進を行った。ニューヨークは戦争中(ニューヨーク州も含めると)100万人以上の兵士を送り出した。ファイアー・ズアーヴスを筆頭にヒラム・バーデン 大佐率いる狙撃手 連隊など卓越した隊が次々と結成されていった。
1862年 、ジョージ・オプディク はウッドを下して市長になり、彼はリンカーン支持者に後押しされ州軍よりも合衆国軍への支援をより強めた。また戦争によるウォールストリートの経済的混乱を未然に防いだ他、移民を徴兵する制度の見直しも図った。
合衆国議会とリンカーン大統領は近く多くの兵士の軍籍期間が満期になることを懸念して徴兵制度の可決に踏み切った。ニューヨークの徴兵日は7月中旬でリンカーンはミリシア と志願兵を市を統制するために送り込んだ(中にはゲティスバーグの戦い を終えて間もない者もいた)。アイルランド人を中心とした暴動が数千人にも及び、他の都市でも小規模の暴動が起きた。ニューヨーク徴兵暴動は共和党とアフリカン・アメリカンにその矛先が向けられ、この時の市の様子をジョン・E・ウール 少将は『戒厳令 が必要だったが、それを抑えることのできる兵力を私達は有していなかった』と述べている。大砲 や銃剣 を使い暴徒を沈静化させようとしたが効果がなく、暴徒は、遂にはビルをくまなく探しそれを破壊するという行為にまで出た。
戦後
1886年 、自由の女神像 の誕生
戦後のニューヨーク市はタマニー協会 による汚職 で堕落の一途を辿った一方、メトロポリタン美術館 、メトロポリタン歌劇場 、アメリカ自然史博物館 、ブルックリン美術館 など現在名のある施設も創立された。またジェームズ・ゴードン・ベネット 、ジョーゼフ・ピューリツァー 、ウィリアム・ランドルフ・ハースト などを始めとした記者が書く新聞はニューヨークのみならずアメリカ全土で読まれるようになった。
ヨーロッパからの移民は1855年 に建てられたキャッスル・クリントンを通った後自由の女神 (1886年 フランスより贈呈)に見守られ1892年 に始まったエリス島の入国審査 を通る形となった。
1867年 、ウィリアム・メイシー・トゥウィードはタマニー協会の唯一のリーダーとなり、1870年 4月より彼は周りの権力者達と共に約2年8ヶ月に渡り市政より数千万ドルを着手。1871年 から新聞で彼の行動の暴露記事が記載され始め、1873年 有罪判決を受けた。彼の退任は地方自治の汚職を取り除き市は再び活気付いた。
1874年 、合衆国輸出の61%がニューヨーク港から行われ、1884年 の輸入の70%が行われている。メキシコ湾 や西海岸の港の力が増し1910年 には輸出のシェアは47%まで落ちている。またニューヨークの金融市場の貯蓄高は1888年 から1908年 にかけ250%も増えている(全米平均は26%)。1860年 から1907年 に賭けての不動産 価値は170億ドルから670億ドルにまで上昇している。
ジャーナリスト のジェイコブ・リース は1890年 に「How the Other Half Lives」を発表。移民たちの貧しい暮らしを報道した。後の大統領となるセオドア・ルーズベルト は彼のファンだった。
1909年 、マンハッタン橋 の建橋
ちなみにルーズベルトは1886年 市長選挙に敗北した後、警察長官を務めて1895年 から97年までニューヨーク市警の改革に努めた。この頃、トーマス・エジソン による白熱電球 の導入により、世界初の電気照明都市となっている。
1855年 、ブルックリンはウィリアムズバーグとブッシュウィックを併合し全米3番目の規模となる都市を形成。1870年 にはロングアイランド市がクイーンズ 区と名を変え、1874年 にはブロンクス区がニューヨーク市に取り込まれる。
1883年 、ブルックリン橋 が完成しマンハッタンとブルックリンの2大都市を結んだ。当時独立した市であったブルックリンは1898年 に5区構成のニューヨーク市に併合された。1898年 、今日の5区からなるニューヨーク市が形成された。19世紀後半には高層ビルの建設が始まり硬い岩石マンハッタン・シストは今日のスカイライン形成に非常に有利となった。
1898年 - 1945年:大都市ニューヨークへ
摩天楼の誕生
1895年 のバワリー 地区
1920年 9月16日ウォールストリート爆破事件
1898年 に5区からなるニューヨーク市が形成され、1904年 には全ての区をくまなく結ぶ事となるニューヨーク市地下鉄 が開業。移民形態も変化しアフリカ系アメリカ人の大移動 が南部より拡大し、ハーレム・ルネサンス が起こる。ルネサンスは禁酒法 時代最大のムーヴメントであった。また高層ビル建設ラッシュも起こる。
ニューヨーク市地下鉄は現在MTA が一括管理しているが当時はインターボロー・ラピッド・トランジット 、ブルックリン・マンハッタン・トランジット に分割管理されていた。インディペンデント・サブウェイ・システム の始まりにより1904年 に統一され、5区に人口が一気に広がることとなる。1903年 のウィリアムズバーグ橋 、1909年 のマンハッタン橋 の完成はマンハッタンとの交通をより活性化させブルックリンのベッドタウン が発達した。1923年 2月1日には世界最大の鉄道ターミナルとなるグランド・セントラル駅 が開業(以前から同じ場所にターミナル自体は存在した)。ペンシルベニア駅 は1910年 に完成している。
この時代はヨーロッパからの移民のピークであり、東ヨーロッパ系から西ヨーロッパ系の移民へとシフトした時代でもある。1904年 7月15日にはイースト・リバーで蒸気船スローカム号が炎上し1,000人以上の人々(大半がドイツ人移民)が亡くなった。この事件はドイツ人街の終末に向かう事件にもなった。ドイツ人コミュニティは貧しい移民と共にロウワー・イースト・サイド にその人口を増やしていった。1911年 3月25日にグリニッジ・ヴィレッジ で起こったトライアングル・シートウェイスト工場の火災は工場で働いていたユダヤ人やイタリア人女性、約145人の命を奪った。これらの事件はニューヨーク消防局の発展に繋がったと共に、国際女性服飾労働組合の発展に拍車を駆た。組合はさまざまな左翼 的活動を行い、エマ・ゴールドマン なども一員として参加していた。
1905年 、第2次ボーア戦争 の後南アフリカ の金融再建のためとしてイギリスがニューヨーク証券取引所 に多額の借金をすることとなった。これは世界の金融の中心をロンドンがニューヨークに明け渡した出来事となった。
第一次世界大戦 中、ニューヨーク市は兵士をヨーロッパに送り出す港の中心となった。ブラック・トム大爆発 事件によりドイツ系移民のサボタージュが懸念されていた時期でもあった。
この頃になると経済的に安定した移民たちはマンハッタンの外へと出て行き住居を構え始めた。1920年 の国勢調査 ではブルックリンが初めてマンハッタンの人口を抜いている。出身地域ごとに移民の制限を設けた1924年 の排日移民法 によりヨーロッパからの移民は突然止まり、その代わり南部よりアフリカ系アメリカ人の大移動が始まりハーレム・ルネサンスの発端を作った。
タマニー協会からの知事ジミー・ウォーカー は禁酒法下のもぐりの酒場などで市の財政を豊かにした。
1930年 エンパイア・ステート・ビル の建設。後方はクライスラービル
1920年 9月16日、市内の共和党過激派は(現在の)JPモルガン・チェース 本社前でウォールストリート爆破事件 (英語版 ) を起こし数十人が死に百人以上の怪我人が出た。ランチタイムに起こったこの爆破は多くの一般民衆を狙ったテロとなった。1995年 にオクラホマシティ連邦政府ビル爆破事件 が起きるまで、この事件はアメリカ国内最悪の政治テロだった。市はアナーキスト と共産主義 者を徹底的に非難(1919 United States anarchist bombings )、パーマー・レイド の左翼狩り運動を加速させた。爆弾が爆発する数分前ブロードウェイとシダーストリートの角のポストに脅迫状 が投函された。その脅迫状には『これだけは覚えておけ、俺達はもうこれ以上待つことはできない。いますぐ政治犯を釈放しろ。さもなくばおまえら全員が死ぬ事になる。アメリカン・アナーキスト・ファイター』と書かれていた。事件から20年が経過した1940年 、FBI は事件簿を公開したが犯人の名はなかった。
ティン・パン・アレー はブロードウェイ・ミュージカル の発展に尽力し、1927年 の『ショウボート 』の公開に踏み切った。
ニューヨーク市マンハッタンで競うように建てられた高層建築は人々を魅了した。アール・デコ を利用したクライスラービル や449mの高さを誇るエンパイア・ステート・ビル などの高層建築は1930年 前後に完成している。
1924年 大統領選挙でニューヨークは、共和党のカルビン・クーリッジ に投票した。
世界大恐慌
株価の暴落でウォールストリート に集まる群衆
1929年 、ウォールストリート・クラッシュ は世界大恐慌 の引き金となった。恐慌は失業と飢餓を生み、政府の大規模な経済介入を引き起こした。経済の後退は司教 パトリック・ジョセフ・ヘイズ と後の大統領で時の州議員フランクリン・ルーズベルト による知事ウォーカーに対する批判を生みウォーカーとタマニー協会を締め出した。ウォーカーは1932年 の大統領選挙の緊迫のなかヨーロッパに逃げるように去っていった。
ルーズベルトが大統領に就任した後もフーヴァーヴィル と呼ばれるスラム 街は市内に点在したが、ニューディール政策 と公共事業促進局 の政策により市は恩恵を受けることとなる。この時期に完成したエンパイア・ステート・ビルはビジネスの不況でテナント が見つからないことから俗称で「エンプティ・ステート・ビル」(空っぽのビル)と揶揄された。
1934年 、フィオレロ・H・ラガーディア が市長に当選し80年に渡ったタマニー協会 による市政は終息を迎えた。ラガーディアは最も偉大な市長として記憶され、イタリアとユダヤ人の血を引く彼は庶民派としてさまざまな人種の人々に愛された。彼の市政はベテランのロバート・モーゼス と共に支えられ、モーゼスは橋、公園、高速道路 、自動車を中心とした近代化を行った。彼の政策は近年論争を呼ぶ事にもなる。ニューヨークはこの頃よりアメリカの都市としてよりも国際的な都市として発展していき、他のアメリカの都市とは大きく異なっていた。1930年 代後半より起こったヨーロッパからの難民 の流入は食事、音楽などさまざまな文化に影響を及ぼした。
第二次世界大戦へ
1939年 に行われたニューヨーク万国博覧会 はワシントン大統領就任150周年を記念して開催され、科学の推移を尽くしたその博覧会は恐慌からの完全な脱出を意味した。
1941年 、日本の在米資産凍結 が行われ日米関係 が悪化すると、好景気時には数千人を超えたニューヨークの在留邦人 は帰国を始めた。同年12月14日に出航が予定された最後の引き揚げ 船の龍田丸 には、ニューヨーク分だけでも160人の一等船室の予約申し込みが行われるなど、帰国準備に拍車がかかったが[ 1] 、同年12月7日(アメリカ時間)に真珠湾攻撃 が開始され取り残される形となった。
第二次世界大戦 が始まると国のテーマは「明日への国作り」から「自由と平和への戦い」へとシフトしていった。市は戦争初期よりさまざまな影響を受け、貿易船はドイツのUボート の脅威に怯え夜になると全ての照明を消して運行し、ブルックリン海軍工廠 は再び活性化した。
1946年 - 1979年:揺れるアメリカ社会とニューヨーク
戦後好景気と公民権運動
1932年 のミッドタウン
1945年 タイムズスクエア で大戦の勝利に歓喜する群集
1965年 北アメリカ大停電 の被害地域
世界にある多くの大都市が第二次世界大戦によってダメージを受けた中でニューヨークは一切攻撃を受けなかったため、大都市としての経済力は、他の都市の追随を許さぬものとなった。また1947年 から52年にかけて、国際連合 の本部が建設された。パリ に取って代わり抽象表現主義 を中心とする芸術 の都となり、ロンドン に取って代わり商業の中心になった。レヴィットタウン を発端として、郊外 移住が盛んになり市の人口は50年代を境に減り始める。
1948年 11月15日、ニューヨーク州商業委員会がニュージャージーからマンハッタンに入るバージ (船に引っ張ってもらい物を輸送する浮上方のコンテナ)に対して課金したことから港の影響力は衰弱していく。
マンハッタン・ミッドタウン は戦後の経済過熱によって空前の建設ラッシュが続きミッドタウンの容貌を瞬く間に変えた。建築様式もジッグラト からインターナショナル・スタイル へシフトした。またマンハッタン中東部に位置するイースト・ヴィレッジ にも大規模な公共住宅が伝統的な家屋に取って代わるなどした。ロウワー・マンハッタンでは1960年代デイヴィッド・ロックフェラー 主導の下、再開発が行われOne Chase Manhattan Plaza が建った。これらの再開発と建築ラッシュは常に何かを破壊しての元行われた。古典装飾様式の旧ペンシルベニア駅が破壊されたのを受け、市は伝統的な景観を残すため1965年都市景観保護法を可決した。グランドセントラル駅 も一時期は破壊計画が立てられたが、なんとか法案に救われた。ロバート・モーゼスのもと建設されたフリーウェイは過度の混雑を生み問題となった。
1960年 、ロード・バックリー (英語版 ) の死後ナイトクラブ 従業員に所有義務があったニューヨーク市キャバレーカードのシステムが廃止された。60年代にはタイムズ・スクエア に性風俗店 が大量にオープンし、90年代の改革まで残った。
1965年 改定の移民法では国籍別に移民を規制することを廃止、このころアジア系アメリカ人のコミュニティが拡大する。
ニューヨークの繁栄に影を落とす出来事も発生した。それはメジャーリーグ のドジャース とジャイアンツ が1957年 のシーズンを最後にカリフォルニア州 に本拠地を移してしまったことに始まる。空きの部分は1962年 にニューヨーク・メッツ が創立されたことで埋まり、メッツは1964年 にシェイ・スタジアム に本拠地を移すまで最初の2シーズンは元ジャイアンツのポロ・グラウンズ を本拠地とした。
1965年 11月9日、北アメリカ大停電 の被害にあい、この時の苦い体験は1968年 「Where Were You When the Lights Went Out?(日本題・ニューヨークの大停電)」(停電になったときあなたはどこにいた?)という題名で映画化もされた。製造業は中断され貿易はニュージャージに依存した(幸い対岸のNJには電力が来ていた)。
1960年代にかけておこった黒人の公民権運動 では非暴力を謳うマーティン・ルーサー・キング・ジュニア に対して、マルコムXらを中心としてキングを支持しない人々もおり、64年から68年に駆けて起こったニューヨークでは暴動が発生した。黒人の住居、教育、就労などに多少の改善はあったが、スラム、ゲットーの生活は、根本的な解決は見られなかった。
レズビアン 、ゲイ 、バイセクシャル 、トランスジェンダー と警官の衝突はストーンウォールの反乱 として知られLGBT権利運動 を世界中に広めた。最初の反乱は1969年 6月27日金曜日の夜1時20分頃に起こった。警官がグリニッジヴィレッジのゲイバー"ストーンウォール・イン"に駆けつけ、近代最大のLGBTの逮捕劇となった。7月下旬ゲイ解放活動団体(GLF)がニューヨークで組織される。その年の年末には全米中の街や大学で同団体が見られるようになった。カナダ 、フランス、イギリス、ドイツ、ベルギー 、オランダ、オーストラリア 、ニュージーランド などでも同じような団体が次々と結成されていった。この時からこの反乱を記念しGLFが5,000人から10,000人の人々を率いグリニッジ・ヴィレッジからセントラルパーク まで大行進を行う。現在でもLGBTプライド・パレード として有名である。
1970年代
かつてマンハッタン摩天楼の代表的建築物だった世界貿易センタービル (左端・1976年 撮影)。この約30年後、テロ によって破壊されることとなる。
1970年 代は最悪の治安と社会状態でニューヨークのどん底の時代とされている。
1970年3月にはニューヨークの郵便配達 人(約5万人)が賃上げを要求して違法ストライキ を実行、社会を混乱させた[ 2] 。
1972年 秋に発表されたポップソング"American City Suite"は都市圏における生活環境の悪化を歌っていた。1970年代の不況 はニューヨークを直撃、ニューヨーク証券取引所は気前よく取引を続けていたことから大打撃を受けた。市長エイブラハム・ビーム 率いる市の財政は倒産寸前までいったが連邦からの借金でなんとか免れた。もしティーチャーズ・ユニオンが1億5000万ドルを彼らの年金制度から捻出しなければビームは次のような書面の発表を用意していた、『私はニューヨーク市が借金返済日の今日までに十分な資金が捻出できないことを会計士 より知らされた。これは債務不履行を続けてきた結果だ』。しかしユニオン理事のアルバート・シャンカー が1億5000万ドルを捻出したことによって、ビームの書面は発表されることはなかった。ジェラルド・R・フォード 大統領はその2週間後、このことに関して遺憾を表明しニューヨークへの支援を打ち切った。
エド・コッチ 市長
1972年 、417mを誇った世界貿易センタービル が完成。デヴィッド・ロックフェラーによって考案されニューヨーク・ニュージャージー港湾公社 によって建設された。ツインタワーはエンパイア・ステート・ビルを抜き世界一の高さを誇ったが、翌年シカゴ のシアーズ・タワー (442m)に抜かれた。
多くの主要な米国の都市と同様に、ニューヨークは以前の10年間には人種暴動、ギャング戦争、そして一部の人口減少に苦しんだ。ブラックパンサー党やヤングローズ党などの街頭活動家やマイノリティグループは、家賃のストライキを組織し、貧しい地域への都市サービスの改善を要求した。彼らはまた、人民への力を組織し、人権を獲得するためのガイドとして、無料の診療所やその他のプログラムを設立した。1970年代までに、この街は犯罪に苦しむ大都市としての評判を得ていた。1975年、市当局は、フェリックス・ロハティンが率いる地方自治体支援公社による連邦ローンと債務再編を通じてのみ破産を回避した。市はまた、ニューヨーク州の機関による財政的精査の強化を受け入れることを余儀なくされた。1977年、ニューヨーク市は1977年のニューヨーク市の停電による危機に見舞われました。1977年 7月13日の大停電は25時間以上も続き、略奪行為が頻発した。3,000人以上が逮捕され刑務所が満員になったため"ザ・トムズ"というかつての刑務所を再稼動させることになったが、後に批判された。
金融危機、治安の悪化、停電によるダメージでニューヨークはもう立ち直れないと思われていた。裕福な白人層は郊外や他の都市に移住し始め、1970年終盤には100万人もの人口流出が起こり、人口は約20年間、元の数値にまで戻らなかった。1977年 に市長になった財政のエキスパートのエド・コッチ は市の財政再建を幅広く行った。
1980年~現在:経済と全米同時多発テロ
1980年代
デイヴィッド・ディンキンズ 市長(中央)
1980年 代は70年代に比べニューヨークの楽観主義は収まり、ウォールストリートでは不動産価値が急騰し失業率 も一気に下がっていった。産業基盤からサービス経済への移行は加速したが、大規模な造船および縫製産業の仕事は急激に減少した。港はコンテナ船に転換され、港湾労働者の間で多くの伝統的な仕事を犠牲にしました。多くの大企業は、本社を郊外や遠くの都市に移転した。同時に、サービス、特に金融、教育、医療、観光、通信、法律が大幅に成長しました。ニューヨークは、米国で最大の都市であり、最大の大都市圏であり続け、最大の金融、商業、情報、文化の中心地として存続した。
国政では共和党の右派で新自由主義者のロナルド・レーガンが大統領に就任した。ニューヨーク市では、ホームレスが80年代を通して大きな問題となり、1986年 、市はゲイやレズビアンという理由で雇用や入居を断ることを違法化した。
市長コッチは民主党のデイヴィッド・ディンキンズ に4期目の市長の座を奪われた。ディンキンズは共和党ルドルフ・ジュリアーニ 候補を僅差で破り、初の黒人市長となった。ディンキンズは結果15年間に渡る犯罪数減少の始まりを作ったが依然として人種の摩擦は残り1991年 にはクラウンハイツの暴動が起こり、経済も衰退していた。この頃の失業率は13.4%で世界恐慌以来の高失業率だった。このようなことに加えスタテンアイランドを市から脱退させるよう試みるなどしたため彼の支持率は急激に落ちていった。
1993年 2月26日、世界貿易センタービルのタワー1の地下でトラックが爆発、世界貿易センター爆破事件 がおこる。6人が死亡、数千人が負傷した。
ルドルフ・ジュリアーニ 市長
1990年代
1990年 代中盤から後半にかけては株式市場 の好調も相まって犯罪数は急激に減少したが、失業率は依然として高いまま問題となった。新しく市長になったルドルフ・ジュリアーニは最悪の場所とされたタイムズ・スクエアなどを再活性させると共に住みやすい市を作るため犯罪の撲滅に尽力した。世界経済が劇的に変わった1990年代、ニューヨークはその発達した交通機関とコミュニケーション・インフラ、そしてその巨大な人口で再生の兆しを見せる。この10年間でニューヨークのイメージは「荒廃した過去の街」から「卓越した国際都市 」へと変貌を遂げた。同じ時期、ロサンゼルス やデトロイト など他の大都市でも犯罪率は減少に転じたがジュリアーニ政権下のニューヨークの犯罪減少率は他とは比べ物にならないほど急激だった。犯罪数が年々減る一方で、特定の人種・民族と警察の間に摩擦が起こり「自由」を怠った政治を行った事実も否定はできない。
アイスホッケー チーム・ニューヨーク・レンジャース は1994年 に1940年 ぶりにスタンレー・カップ を手に入れ、ニューヨークヤンキース はジョー・トーリ 監督の下怒涛の快進撃を続け1996年 、98年、99年、2000年 とワールドシリーズ で優勝している。バスケットボール のニューヨーク・ニックス も94年と99年に最終決勝まで勝ち残っている。
世界貿易センターの崩壊
2001年9月11日
2001年 9月11日、アメリカ同時多発テロ事件 が発生した。世界貿易センタービルに燃料を大量に積載した国内線のアメリカン航空11便 とユナイテッド航空175便 の旅客機 2機が衝突しビルは炎上。このテロ攻撃でビルは2棟とも崩壊。ビルで働くビジネスマンや救助に駆けつけた警察官や消防士など約2,900人が犠牲となった。このテロによりビジネス拠点をロウワー・マンハッタンから移転させる企業が相次ぎ、ミッドタウンやジャージーシティ、ブルックリン、もしくは他の都市へと移った。また貿易センターの送信設備が崩壊してしまったためテレビおよびラジオ中継がいったん途絶えたがすぐに代替の電波送信やケーブルなどにより復旧した。テロ以降、市長ジュリアーニは市内の警備を最高レベルにまで高めた。ビルが崩壊後も2ヶ月間は分厚い煙が消えることは無かった。
現在まで
マイケル・ブルームバーグ 市長 (現職:2002年-)
2001年11月12日、アメリカン航空587便墜落事故 が起こる。飛行機はクイーンズのベルハーバーに墜落。260人の乗客と地上にいた5人の犠牲者を出した。最初は新たなテロと懸念されたが、すぐにパイロット のミスによるものであることがわかった。
2003年 2月27日、ロウワー・マンハッタン開発会社は世界貿易センター跡地の開発計画について世界中からデザインの応募を募った。デザインは著名な建築家であるダニエル・リベスキンド によって進められ541mのフリーダムタワー の建設が2006年 から10年にかけて行われる。設計者達はこの事件を後世にも残すため、2塔が建っていた場所はメモリアルサイトとして残す予定である。
2003年8月14日16時11分、ニューヨークは北アメリカ大停電 に見舞われる。一日中電力は回復しなかったが1977年の時とは違い大きな強盗事件は起こらなかった。
2007年 7月18日のスチームパイプ爆発事件では一時街に避難勧告が出て騒然となった。
2009年12月28日、ニューヨーク市警は同年の殺人事件数が統計を取り始めた1963年以降最低値であることが発表された。2009年の殺人数は461件で2008年の516件に比べ50件以上もダウンした。またFBI はニューヨーク市を全米で最も安全な都市の一つになったことを認めている。
2012年10月にはハリケーン「サンディ 」が通過したことによりニューヨーク証券取引所 が2日間取引を停止したほか、浸水により地下鉄 が全面的に停止するなど大きな被害を受けた[ 3] 。
これから10年後ニューヨーク市は新たな都市改革を行うため大規模な公共・民間建築事業に踏み切る。また住宅の建設ラッシュは1年間に25,000棟の新たな住居を生む。2012年のオリンピックはロンドンに決定した がニューヨークは最終候補になっており、オリンピック誘致のキャンペーンは古くなったシェイ・スタジアムを取り壊しシティ・スタジアムの建設に結びついた。
関連項目
脚注
^ 在米残留邦人、龍田丸で最後の引き揚げ『朝日新聞』(昭和16年11月30日夕刊)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p457 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
^ 史上初の郵便スト ウォール街では飛脚便『朝日新聞』1970年(昭和45年)3月20日夕刊 3版 11面
^ ハリケーン死者50人 NY地下鉄、復旧に数週間も 東京新聞2012年10月31日
外部リンク