ジュリア・エリザベス・ウェルズ(Julia Elizabeth Wells)[5]は、1935年10月1日、イギリスのロンドン近郊サリー州エルムブリッジのウォルトン・オン・テムズ(英語版)で生まれた[6]。母親のバーバラ・ワード・ウェルズ(旧姓モリス)は、金属加工と木工の学校教師のエドワード・チャールズ・"テッド"・ウェルズと結婚した。しかし、アンドリュースは母親が彼女が知らない友人とよく会っているのを不思議に思っていた[7][8]。1950年にアンドリュースは本当の父親は別の人だと母に教えられたが[9][10]、2008年に自伝が出版されるまで公表されなかった[11]。
アンドリュースは、彼女の家族は「とても貧乏でロンドンのスラム街に住んでいた」「その頃は私が人生で一番苦労した時期です。(very poor and we lived in a bad slum area of London, That was a very black period in my life.)」と語っている。彼女の継父は乱暴で、アルコール依存症であった[11]。テッド・アンドリュースは酔って、彼の継娘とベッドを共にしようと二回も試みたため、アンドリュースは部屋に鍵をかけるようになった[11]。しかし、母親と継父による公演の成功と共に、生活に余裕ができたためもう少し良い地域に住めるようになり、まずベックナム、そして戦争の終結とともにアンドリュースの故郷であるハーシャム(英語版)に順に移っていった。そしてアンドリュースの家族は昔母方の祖母が家政婦として勤めていた家(現在は取り壊されている)に居住した。[10]
アンドリュースの継父は彼女にレッスンを受けさせ始めた。最初はロンドンにある舞台芸術に特化した学校である、LondonCone-Ripman Schoolで、さらにはソプラノ歌手で声楽師でもあるマダム・リリアン・スタイルズ・アレン(英語版)に学んだ。リリアンについてアンドリュースは「彼女は私に大きな影響を与えてくれました」、 「彼女は私の三人目の母のような存在で、私は世界中で一番たくさんの母親と父親がいます。(She was my third mother – I've got more mothers and fathers than anyone in the world.)」と語っている。リリアンの自伝『Julie Andrews – My Star Pupil』で、リリアンは「ジュリーの声の精度と音質には驚かされた。彼女にはすぐれた絶対音感の才能があった。(The range, accuracy and tone of Julie's voice amazed me ... she had possessed the rare gift of absolute pitch.)」と書いている(しかしアンドリュースはこの話を2008年の自伝『Home』で否定している)[9][12]。アンドリュースは「マダムは私がモーツァルトやロッシーニをできると確信していたけれど、正直なところ私は一度もやったことがありません。(Madame was sure that I could do Mozart and Rossini, but, to be honest, I never was.)」と後に語っている[13]。自身の声について、「私は混ざり気のない、きれいで、とても細く、4オクターブの声を持っていて、犬が数マイル離れていても呼べたほどでした。(I had a very pure, white, thin voice, a four-octave range – dogs would come for miles around.)」と語っている[13]。LondonCone-Ripman Schoolを卒業後、ベックナムの地元の学校Woodbrook Schoolで芸術教育を続けた[14]。
経歴
イギリスでのキャリア初期
ジュリー・アンドリュースは1945年の初頭から約2年間、両親と一緒にノーギャラでステージに上がる。「ある日、昼寝をしなさいといわれました。それはママとパパ(テッド・アンドリュース)と一緒に夜に歌うことになったからでした(Then came the day when I was told I must go to bed in the afternoon because I was going to be allowed to sing with Mummy and Pop in the evening)」と、当時の状況を振り返っている。彼女はまだ小さかったため、ビールの木枠の上に立ちマイクで歌った。時々は母親がピアノの伴奏をし、それに合わせてソロか義父とのデュエットをした。「緊張して怖かったけど、上手く歌えた。(It must have been ghastly, but it seemed to go down all right.)」[15][16]
ジュリー・アンドリュースは継父が彼女を、ロンドンにあるモス・エンパイヤーズ(英語版)の有名なコンサート会場などを管理していたヴァル・パーネル(英語版)に紹介し[17]、一気に脚光を浴びた。1947年10月22日にアンドリュースはロンドンのヒッポドローム(英語版)でオペラ『ミニョン』の中の難しいアリアである『私はティタニア』を『Starlight Roof 』というミュージカルのレビューで歌い、プロのソロデビューを果たした。彼女はヒッポドロームで1年間公演する。.[9][18]アンドリュースは『Starlight Roof 』について「そこには、風船で動物を作った、素晴らしいアメリカ人のコメディアンのウォーリー・ボーグ(英語版)がいました。彼は『客席にいる小さな女の子か男の子で誰かこれを欲しい人はいるかい』と聞きました。そこで私は急いでステージに上がり、『私にひとつください。』と言うと、彼は私に話し掛けてきて、私が歌いますと言うと・・・幸いなことにショーはいきなり静かになりました。それだけではなく、観客は夢中になって聞いてくれました。(There was this wonderful American person and comedian, Wally Boag, who made balloon animals. He would say, 'Is there any little girl or boy in the audience who would like one of these?' And I would rush up onstage and say, 'I'd like one, please.' And then he would chat to me and I'd tell him I sang... I was fortunate in that I absolutely stopped the show cold. I mean, the audience went crazy.)」と語っている。[19]
1960年、ラーナーとロウは彼女をグィネヴィア王妃として、リチャード・バートンや、当時まだ新人だったロバート・グーレ『キャメロット(英語版)』に出演させた。バートンは後に彼女のことを「彼女は僕の好きな共演者三人の中の一人で、他の二人はE.テイラーとP. オトゥールだ。彼女は僕が唯一、一緒に寝たことがない主演女優さ。(She's one of my three favorite costars, the others being E. Taylor and P. 0'-Toole. She's the only leading lady I never slept with.)」などと語っている。しかし、映画スタジオのトップだったジャック・L・ワーナーはアンドリュースはまだ映画に出演した経験がなく、映画版の『マイ・フェア・レディ』では、代わりにイライザは映画女優であるオードリー・ヘプバーンが演じた。ジャック・L・ワーナーは「私は自分の仕事上、誰が映画に利益を与えるかを知っている。オードリー・ヘプバーンが作品を赤字にさせるようなことは絶対にない。」と語っている[30]。ワーナーはアンドリュースのもう一つの当たり役『キャメロット』の映画化権も持っており、アンドリュースはインタビューで「もちろん『キャメロット』の映画化には出演したいと思いますわ。だけど、ワーナーさんが私にやらせてくれるかしら?」と述べており[31]、最初は舞台のオリジナル・キャストで映画化が発表されたが[31]、結局映画ではバネッサ・レッドグレーブがグィネヴィア王妃役を演じている。
1963年、アンドリュースはウォルト・ディズニー・ピクチャーズのミュージカル映画『メリー・ポピンズ』の撮影を始める。ウォルト・ディズニーは、『キャメロット』の公演を観てアンドリュースは「何をやっても完璧!(practically perfect in every way!)」なイギリス人のナニーにぴったりだと思った。アンドリュースはその頃妊娠6ヶ月であったため断ったが、しかしディズニーは丁寧に「待ちましょう。(We'll wait for you.)」と断言した。[33]
『メリー・ポピンズ』はディズニー史上、一番の興行成績をあげた。アンドリュースはこの映画で1964年のアカデミー主演女優賞、ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ミュージカル・コメディ部門)を受賞した。ディズニー映画でアカデミー主演女優賞にノミネート(後に受賞)されたのはいまだに彼女だけである。彼女と共演者達はグラミー賞 最優秀子供のためのアルバム賞(英語版)も受賞した。『ポピンズ』の作詞・作曲を担当したリチャード・M・シャーマンがメリー・ポピンズらしい「かわいい仕返し」をしようと考え、アンドリュースはゴールデン・グローブ賞の受賞スピーチで「最後に、これを現実にしてくださったジャック・ワーナーさんに感謝したいと思います。(And, finally, my thanks to a man who made a wonderful movie and who made all this possible in the first place, Mr. Jack Warner.)」[33][34]マイ・フェア・レディは同じく賞にノミネートされていた。
1973年と1975年の間、ABCの5つの特別番組に出演する。1977年には『マペット・ショー』にゲスト出演し(日本でも放送)、次の年にはCBSのバラエティ特別番組で再びマペット達と共演した。[45]そのプログラム、『Julie Andrews: One Step Into Spring』は1978年の3月に放送され、好ましくない批評を受け、並みの視聴率になった。1970年代には他に『夕映え』(1974年)と『テン』(1979年)の2作品しか映画に出演していない。
1980年2月、CBSの特別番組『Because We Care』でカンボジアの飢饉の被災者に寄付をしている30人のスター達と共演した。次の年、映画『Little Miss Marker(1980 film)(英語版)』で主演を務める。1981年、ブレーク・エドワーズの『S.O.B.』に出演し初のトップレスシーンを披露する。これは注目を集め、彼女の健康的でキュートなイメージを求めるファンに突きつけた。[46]
1987年12月、ABCのクリスマス特別番組で、エミー賞5部門を受賞した『Julie Andrews: The Sound Of Christmas』に出演した。同年、全米ツアーを行った。2年後の1989年、ABCで放送された特別番組『ジュリー・アンド・キャロル・トゥゲザー・アゲイン(英語版)』でキャロル・バーネットと共演を果たした。
1992年の夏、彼女にとって初のホームコメディである『Julie』でジェームズ・ファレンティノと共演し、ABCで放送されたが、7エピソード分しか続かなかった。1992年の12月NBCの休暇特別番組『Christmas In Washington』でホストを務める。同年に開発されたバラの新種に「ジュリー・アンドリュース」の名前がつけられた。
1993年、マンハッタン・シアター・クラブ(英語版)でスティーヴン・ソンドハイムのレビューであるオフブロードウェイミュージカル『Putting It Together』のアメリカ初演を行った。1994年から1995年の間、1つ目はリチャード・ロジャーズ『Broadway - Music Of Richard Rogers』[49](エーデルワイス~リチャード・ロジャース作品集[50]
(日本盤タイトル))、2つ目はアラン・ジェイ・ラーナー『Here I'll Stay - The Words of Alan Jay Lerner』のブロードウェイシリーズ、2つのソロアルバムをPHILIPSレーベルでレコーディングをする。『マイ・フェア・レディ~ブロードウェイ・ベスト』(Classic Julie Classic Broadway)Decca(デッカ・レコード)より、ベスト盤も発売。1995年、彼女は舞台ミュージカル版の『ビクター/ビクトリア(英語版)』に出演する。これは彼女がブロードウェイデビューをした35年後であった。1995年10月25日にブロードウェイのマーキュイス劇場(英語版)で初演され、その日には特集番組『Julie Andrews: Back On Broadway』が全米放映され、後に世界ツアーも行われた。トニー賞において本作品からノミネートされたのはミュージカル主演女優賞へのジュリーのみだったため、公演後のスピーチでノミネート辞退を発表し物議を醸した[51]。このスピーチでの「egregiously overlooked」(直訳:言語道断に見落とされた人たち)というフレーズはこれ以降、同様のシチュエーションにおける決まり文句になっている。[52]
アンドリュースは1997年のブロードウェイの終演間近、声が嗄声になり、ショーを辞めざるを得なくなった。その後、彼女はニューヨークのマウントサイナイ病院で喉から非癌性の声帯結節を取り除く手術を受けた。[1]「声帯に発生する一種の筋肉紋でした(a certain kind of muscular striation [that] happens on the vocal cords)」、また「私は癌もなく、結節もありませんでした。何もなかったのです。(I didn't have cancer, I didn't have nodules, I didn't have anything.)」と述べている。[53])1999年アンドリュースは喉の手術を行ったスコット・ケセラー氏とジェフリー・リビン氏を含むマウントサイナイ病院の医師を医療過誤で告訴した。当初、医師たちはアンドリュースに声は6週間で戻ると断言していたが、アンドリュースの義理の娘のジェニファー・エドワーズ(英語版)は1999年に「二年もたちましたが、まだそれ(以前の歌声)は戻っていません。(it's been two years, and it [her singing voice] still hasn't returned.)」と話している。[54]訴訟は2000年9月に落ち着いた。[55]
アンドリュースは1997年の声帯から結節を取り除くための手術の失敗によってなくしたものは、戻ってこないことを認めている。有名な4オクターブのソプラノは虚弱なアルトに変わってしまった。アンドリュースはそれについて「私はひどい調子はずれなオールド・マン・リバーなら歌えます。(I can sing the hell out of Old Man River.)」と言っている。[56]
歌声が失われたにもかかわらず、彼女はたくさんの仕事に関わり忙しかった。1998年にはロンドンで舞台作品の『ドリトル先生』に出演した。ジュリー・アンドリュースのウェブサイトによると、オウムのポリネシアの声を演じ、「機械の鳥の口の中にあるコンピューターチップに700ほどの文や音を録音しました。『動物とおしゃべり』の歌ではオウムのポリネシアも歌う(recorded some 700 sentences and sounds, which were placed on a computer chip that sat in the mechanical bird's mouth. In the song 'Talk to the Animals,' Polynesia the parrot even sings)」そうである。次の年1999年11月に放映されたテレビ映画、『One Special Night』でジェームズ・ガーナーと再共演した。
2001年、アンドリュースは『プリティ・プリンセス』に出演し、ディズニー映画は『メリー・ポピンズ』(1964年)以来となった。彼女はクラリス・レナルディ女王を演じ、その続編、『プリティ・プリンセス2/ロイヤル・ウェディング』(2004年)でも同役を演じた。『プリティ・プリンセス2』では喉の手術をおこなってから初めて映画で歌った。その"Your Crowning Glory"(ティーンアイドルのレイヴン・シモーネ(英語版)とのデュエット)という歌は彼女の回復してきている声に合わせ、1オクターブに限られた。[62] The film's music supervisor, Dawn Soler, recalled that Andrews "nailed the song on the first take. I looked around and I saw grips with tears in their eyes."[62]
2007年1月、映画俳優組合より生涯功労賞を受賞し、彼女の目標はこれからも舞台の演出を続けること、そして彼女のブロードウェイ・ミュージカルを演出することだと述べた。[47]彼女は、自伝の第一部と称した、『Home: A Memoir of My Early Years』が2008年4月1日に出版された。この本はイギリスの彼女の初期のイギリスでのミュージックホールサーキットのことなどが記されていて、1962年にメリー・ポピンズ役を得るところで終わっている。2004年に、ウォルト・ディズニー・ビデオのリリースのためにメリー・ポピンズを演じ、『王様と猫』の物語をナレーションした。
2008年の7月から8月上旬、アンドリュースはアメリカでの短いツアーである『Julie Andrews' The Gift of Music』でホストを務め、[63]さまざまなロジャース&ハマースタインの歌や、彼女の最近出版された本、『Simeon's Gift』に調和させて歌った。これはかなりの年月を得て、声帯手術後の初めての公衆向けの歌手としてのパフォーマンスとなった。[64]
2009年5月、ポーリー・パビリオンで例年行われる大会、UCLA スプリング・シング(英語版)で音楽の功労賞としてジョージアイラ・ガーシュウィン賞を受賞した。受賞した際に彼女は言った。「頑張れ、熊たち(Bruins)。SCに勝つのです…ストライク・アップ・ザ・バンド、一つ一つの勝利を祝うために。(Go Bruins. Beat SC ... let the Gershwin tunes strike up the band to celebrate every one of those victories.)」
1969年に映画監督のブレイク・エドワーズと再婚。ABCテレビでのドキュメンタリー"Julie Andrews Back on Broadway"(1995年アメリカ)で、エドワーズ監督が語ったところによれば、最初の出会いは、ある日ビバリーヒルズのサンセット大通りの交差点で信号待ちをする間、二人の運転する車が対向車線同士で停車し、目が合ってHelloと挨拶を交わした。そのまま青信号になって双方すれ違ったが、互いに何か運命的に強烈な印象を残した。その後もエドワーズが「あんなに魅力的なのだから、脚の間には、きっとスミレの花でも咲いているのかしらん」と評したとかで、それを耳にしたアンドリュースがスミレの花束とレターを送ったという。そしてすぐ交際、結婚となった。
Andrews, Julie. HomeWork: A Memoir of My Hollywood Years (2019) Hachette Books ISBN 978-0316349253
ジュリー・アンドリュース HomeWork: A Memoir of My Hollywood Years 日本語版、五月書房新社(発行予定)
Andrews, Julie and Emma Walton Hamilton(著者) and Christine Davenier(イラストレーター). Very Fairy Princess. Little Browne 2010. ISBN 978-0-316-04050-1.
Andrews, Julie and Emma Walton Hamilton(著者) and James McMullan(イラストレーター). Julie Andrews' Collection of Poems, Songs, and Lullabies. Little Brown 2009. ISBN 978-0-316-04049-5.
Edwards, Julie Andrews(著者) and Judith Gwyn Brown(イラストレーター)Mandy.[44]Harper & Row, 1971. ISBN 0-06-440296-7.