中世には忘れ去られた星座となっていたが、1536年にドイツの数学者、地図学者のカスパル・フォペルが天球儀に描いて復活させ、15年後の1551年にはオランダの地図学者ゲラルドゥス・メルカトルが製作した天球儀にも描かれた[3][4]。1602年に、ティコ・ブラーエの弟子であったヨハネス・ケプラーが出版した星表『Astronomiae Instauratæ Progymnasmata』では、アンティノウスの星をわし座とは異なる表に掲載することでわし座から独立させた[4]。その後、デンマークの天文学者ロンゴモンタヌスの『Astronomica Danica』(1622年)やケプラーの『ルドルフ表』(1627年)など17世紀の著名な星図や天文書でアンティノウスは独立した星座として扱われた[4]。18世紀に入ると、鷲とアンティノウスを1つの星座とするか否かで見解が分かれるようになった。イギリスの天文学者ジョン・フラムスティードは1725年の著書『Historiae coelestis britannicae』の中で、これら2つの星座に対して“Aquila Antinous”、“Aquila vel Antinous”(鷲またはアンティノウス)、“Aquila cum Antinoo”(鷲とアンティノウス)と3つの異なる呼び名を使っている[4]。またドイツの天文学者ヨハン・ボーデは1782年の天文書『Vorstellung der Gestirne』の中で、鷲とアンティノウスだけでなくソビエスキの盾[注 1]まで1つの星座として扱った[4]。
^ abcdefghiBarentine, John C. (2015). The lost constellations : a history of obsolete, extinct, or forgotten star lore. Cham: Springer. pp. 65-88. ISBN978-3-319-22795-5. OCLC926914920
^Baily, Francis (1845). The Catalogue of Stars of the British Association for the Advancement of Science. London: R. and J. E. Taylor. pp. 130-146. Bibcode: 1845tcot.book.....B