ハンガリー王国の都市ジュラフェヘールヴァール(Gyulafehérvár)として、アルバ・ユリアは1541年にトランシルヴァニア公国の首都となり、この地位は1690年まで保たれた。1551年のワイセンブルク条約は、この地で締結された。17世紀初頭ベトレン・ガーボル公(en:Gabriel Bethlen)時代、市にはアカデミーが設立され、文化的に最高潮に達した。18世紀にはBatthyanaeum図書館が創設され、19世紀には鉄道が敷かれた。
1599年11月、ワラキアのヴォイヴォド、ミハイ勇猛公(en:Michael the Brave)がシェリムバルの戦い(en:Battle of Şelimbăr)に勝利してアルバ・ユリアへ入城し、トランシルヴァニア総督となった。1600年、ミハイはモルダヴィアの支配権を獲得し、1601年にジョルジョ・バスタ(en:Giorgio Basta、神聖ローマ皇帝の傭兵で将軍)の手先によって暗殺されるまで、自分の支配下にあるトランシルヴァニア、ワラキア、モルダヴィアの3公国を統合させた。ミハイの偉業は、ルーマニア人が人口の多数を占める3公国が初めて3年間統合されたことを意味し、ルーマニア人にとって歴史的な重要性を持っている。
1918年、何万人ものルーマニア人(正確な人数はルーマニアとハンガリーの歴史家の間で論争がある)と、トランシルヴァニア・ザクセン人およびその他のトランシルヴァニア少数民族の代表者が、12月1日にアルバ・ユリアへ、ルーマニア王国とトランシルヴァニアの統合の宣言を聞きに集まった。この日は共産主義政権崩壊後のルーマニアで今も『統一記念日』(en:Union Day (Romania))として祝われている。3公国統合を成し遂げたミハイ公にならい、1922年、ルーマニア王フェルディナンド1世はアルバ・ユリアでルーマニア王として象徴的に戴冠を行った。