香椎 (練習巡洋艦)

香椎
竣工直後の香椎(1941年7月15日)[1]
竣工直後の香椎(1941年7月15日)[1]
基本情報
建造所 三菱重工業横浜船渠[2]
運用者  大日本帝国海軍
艦種 練習巡洋艦[3]
級名 香取型[4][注 1]
建造費 成立予算:7,200,000円[5]
母港 佐世保[6][7]
艦歴
計画 昭和14年度(1939年)、④計画[8]
起工 1939年10月4日[2]
進水 1940年10月15日[2]
竣工 1941年7月15日[2]
最期 1945年1月12日戦没
除籍 1945年3月20日[9]
要目(特記無きは計画)
基準排水量 5,830英トン[10] または5,890英トン[11]
公表値 5,800英トン[12]
公試排水量 6,300トン[10][注 2]
満載排水量 6,720トン[13]
全長 133.50m[10]
水線長 130.00m[10]
または 129.77m(公試状態)[14]
垂線間長 123.50m[10]
最大幅 16.700m[10]
水線幅 15.95m[10]
深さ 10.5m[10]
吃水 5.750m[10](公試状態[14])
ボイラー ホ号艦本式重油専焼水管缶(空気余熱器付[15][注 3]) 3基[16]
主機 艦本式(高低圧)2段減速タービン2基[16]
艦本式22号10型ディーゼル機関2基[16]
(フルカン・ギア連結)[17]
推進 2軸 x 280rpm[16]
直径2.800m、ピッチ2.580m[16]
出力 8,000馬力[16]
(うちタービン 4,400馬力、ディーゼル 3,600馬力)[16]
速力 18.0ノット[10][14]
燃料 重油:600トン[10]
航続距離 7,000カイリ / 12ノット[10]
乗員 計画:固有乗員315名、士官候補生375名[18][注 4]
竣工時定員505名[19]
兵装 竣工時[14][17]
50口径三年式14cm砲 連装2基4門
12.7cm連装高角砲 1基2門
25mm連装機銃4基8挺
53cm六年式連装発射管2基4門
六年式(53cm)魚雷4本[20]
九六式110cm探照灯改1 2基[21]
5cm礼砲2門
爆雷兵装なし[22]
装甲 なし[23]
搭載艇 12m内火艇2隻、12m内火ランチ3隻、9mカッター2隻、6m通船1隻[17][24]
搭載機 1943年:九四式二号水上偵察機1機[25]
呉式2号5型射出機1基[17]
テンプレートを表示

香椎(カシヒ/かしい)は、日本海軍練習巡洋艦[26]香取型練習巡洋艦の3番艦である[3]。艦名は、福岡県香椎宮に由来している[27]

概要

昭和14年度(1939年)の④計画による仮称「第101号艦」として三菱重工業横浜船渠で建造され[8]1941年(昭和16年)7月15日に竣工した[28]。練習艦として建造されたが、竣工時には既に国際情勢は悪化しており、長距離練習航海には使用されなかった。

香椎は同年7月31日に新編された南遣艦隊[29](司令長官平田昇中将)に編入され[30]、同艦隊旗艦[31]としてサイゴンへ進出する[32][33]。 10月中旬[34]、南遣艦隊長官は平田中将から小沢治三郎中将に交代した[35]。太平洋戦争に備えて馬来部隊(指揮官小沢治三郎南遣艦隊司令長官)は一挙に増強され[36]、小沢長官は重巡洋艦鳥海からマレー作戦を指揮した[37][38]。 同年12月8日太平洋戦争開戦後は南方作戦マレー作戦蘭印作戦)に参加する。マレー上陸作戦の輸送船団の護衛やシンゴラ上陸作戦・チュンポン上陸作戦の支援に従事した[39]

1942年(昭和17年)4月上旬、馬来部隊に編入されていた各艦・各部隊は内地へ帰投し[40]、香椎は第一南遣艦隊(南遣艦隊から改称)の旗艦に再び復帰する[41][42]。その後はシンガポールに常泊し[43]、海防艦占守[44]等とともに、同地を拠点に輸送任務や警備任務に従事した[42]

内地帰投後の1943年(昭和18年)12月31日、呉練習戦隊に編入された[42]。まもなく1944年(昭和19年)3月25日に海上護衛総司令部部隊に編入され[45]、対潜掃討艦へ改装された[46]大鷹型航空母艦海防艦と共に、門司・シンガポール間の船団護衛に従事した(ヒ船団[47]1944年(昭和19年)11月15日、第101戦隊旗艦となる[48][49]。 12月10日、第一海上護衛隊や護衛船団司令部は第一護衛艦隊に改編された[50][51]1945年(昭和20年)1月12日、香椎はヒ86船団を護衛中にグラティテュード作戦にともなう米機動部隊艦上機の空襲を受け[52]、カムラン湾沖合で沈没した[53][54]

艦型の変遷

竣工時

竣工時の艦型は香取型練習巡洋艦#艦型を参照のこと。 香椎は艤装中に臨戦態勢となり、もはや練習艦隊を編制する見込みが無くなったため、竣工時には香取・鹿島は4門装備していた5cm礼砲のうち、2門は撤去し残り2門は天測甲板に設置としており、開いた場所には25mm連装機銃2基を増備した[17]。舷外電路も竣工時から装備されている[1]。 方位測定用の空中線(アンテナ)の位置も前部マストと煙突の間に移動済みだった[1][注 5]

大戦中

開戦から1943年までで判明している主な変更は以下の通り。

  • 1942年2月21日、爆雷兵装新設の訓令が出されている[22]。後甲板に爆雷投下台4基を戦時中のみの仮装備としている[22]
  • 1943年4月の写真では前後のトップマストを短縮、羅針艦橋に防弾板の装備が確認される[43]。前部マスト上に対潜見張所も設けられた[43]。トップマストの短縮は1942年末から敵潜水艦の活動が活発になり、当時の艦長の強い進言で1943年1月頃にシンガポールで工事を実施したと言われる[56]
  • 1943年時点での搭載機は九四式二号水上偵察機で、尾翼には「U1-1」の文字が確認出来る[25]。また「U-1」の文字が確認される機もあるという[57]。その後は零式水上偵察機も搭載したという[57]

香椎は1942年9月から10月にかけて陸軍部隊を香港からラバウルに輸送した時(沖輸送の一環)[58]に、鋼材をフレームに帆布で覆った擬装煙突を射出機支柱の前方に設置[57][59]、2本煙突の重巡に見えるような擬装を行った[59]

対潜掃討艦

香椎は1944年3月25日には海上護衛総司令部部隊に編入され[45]、3月26日[60]から4月29日[61]呉海軍工廠で対潜掃討艦への改装が行われた[62]。主な改造は以下の通り[62]

  • 艦尾の司令部居住区を改造し爆雷300個[注 6]を搭載、艦尾上甲板に片舷式爆雷投射機8基と爆雷投下軌道2条を装備した。
  • 煙突両側の魚雷発射管を撤去し、その跡に12.7cm連装高角砲を左右舷に各1基増備、後部の1基と合わせて合計3基になる。
  • カタパルトと後部マスト間の上甲板上両舷、後部マスト両舷の上構上に25mm3連装機銃計4基が増備された。
  • 21号電探を前部マストに装備[63]。そのためマスト形状が変更された。
  • 艦内の防御区画を強化、爆雷庫はコンクリートで防御された。
  • その他に最下段の舷窓の閉鎖などが行われ、水測兵器が充実された。

搭載艇は12m内火艇2隻、12m内火ランチ1隻、9mカッター2隻の計5隻となっている[64]。 なお公式図による爆雷庫に搭載可能な爆雷の数は329個となっている[注 6]

あ号作戦(1944年6月)以降は単装機銃を増備した[62]。「あ号作戦後の兵装増備の状況調査」によると同年7月時点の兵装は以下とされる[65]

  • 50口径14cm連装砲 2基4門
  • 40口径12.7cm連装高角砲 3基6門
  • 25mm3連装機銃4基、同連装4基、同単装10挺
  • 13mm単装機銃8挺
  • 片舷爆雷投射機(装填台共)8基、爆雷投下軌道2条
  • 22号電探1基、逆探[63]
  • 探照灯2基
  • 射出機1基

艦歴

建造経緯

日本海軍は老朽化した装甲巡洋艦八雲磐手など)を練習艦として用いていたが[66]、ついに新世代の練習艦を4隻配備することになり、いずれも三菱重工業横浜船渠[2]で建造することになった[67]1939年(昭和14年)9月25日、横浜船渠で香取型練習巡洋艦2番艦鹿島が進水する[68][69]。 同年10月4日、香椎も同造船所で起工[68][2]1940年(昭和15年)8月30日、香椎、谷風野分等に艦名が与えられる[26]。同年10月15日、香椎は進水した[70]昭和天皇の名代として、進水命名式には伏見宮博恭王元帥が臨席した[71]

1941年(昭和16年)4月1日、日本海軍は岩淵三次大佐を香椎艤装員長に任命する[72]。翌日、三菱横浜船渠の香椎艤装員事務所は事務を開始する[73]7月15日[68]、竣工した[2]。同日付で香椎艤装員事務所も撤去された[74]。岩淵艤装員長も制式に香椎艦長(初代)となった[75]佐世保鎮守府籍となる[6]

南遣艦隊

1941年(昭和16年)7月15日に竣工し[46]、横浜から横須賀へ移動した[76]。 続いて佐世保へ回航される[77][78]7月31日に南遣艦隊が新編され[79](司令長官平田昇中将、海兵34期)[80]、その旗艦となった[46]。「香椎」以外の戦力は、海防艦占守」、特設砲艦1隻、掃海艇2隻、警備部隊と設営隊のみという小規模艦隊であった[81][82]8月11日午前7時、「香椎」はサンジャック沖合に到着した[83]。 当時の日本軍は南部仏印進駐を実施[84][85]、日本海軍においては第二遣支艦隊(旗艦足柄、指揮官新見政一第二遣支艦隊司令長官)を基幹戦力として「ふ号作戦」を実施しており[86][87]、8月上旬までに南部仏印進駐を完了していた[88][89]。 同日12時30分、新見中将(ふ号作戦部隊指揮官)は平田長官に事務の引継を完了し、ふ号作戦部隊は解散した[90]。以後、フランス領インドシナ方面の作戦は南遣艦隊の担当となった[91]12日、仏印派遣軍指揮官飯田祥二郎陸軍中将(第25軍司令官)が本艦を訪問し、平田長官と会談した[33]。当時のニュース映画で、カムラン湾で訓練中の映像が放映された[92]

10月15日、香椎艦長は岩淵大佐から小島秀雄大佐に交代した[93]。 10月18日付で、南遣艦隊司令長官は平田中将から小沢治三郎中将(海兵37期)に交代した[94][注 7]。10月21日、大本営直轄だった南遣艦隊は連合艦隊に編入される[29][96]。 10月24日、小沢中将はサイゴンに停泊する「香椎」に到着した[35]。日本海軍は南方作戦にむけて南遣艦隊(馬来部隊)を一挙に増強しており[97]、練習巡洋艦に過ぎない「香椎」が陣頭指揮をおこなうには心許なかった[36]。 これに対し南方部隊指揮官近藤信竹中将(第二艦隊司令長官:旗艦愛宕)は「小沢中将は『香椎』か陸上基地(サイゴン)で指揮すれば良い」という立場だったが、小沢中将は指揮旗艦として重巡洋艦の派遣を要請した[98][99]。そこで山本長官は高雄型重巡洋艦4隻の第四戦隊から重巡「鳥海」を引き抜き馬来部隊に編入する[100]。 11月27日、馬来部隊指揮官小沢治三郎南遣艦隊司令長官は、旗艦を本艦から「鳥海」に変更した[101][102]。マレー半島攻略を目指す第25軍(司令官山下奉文陸軍中将)の輸送船団と馬来部隊は、海南島三亜市に集結した[103]

太平洋戦争緒戦では「香椎」と海防艦「占守」で馬来部隊(指揮官小沢治三郎海軍中将)の第二護衛隊を編成し、マレー半島上陸に参加した[104]。第二護衛隊はタイ南部のナコンなどに上陸する宇野支隊を乗せた船団を護衛して12月5日にサンジャックを出発[105]。一方、シンゴラコタバルへ向かう船団も12月4日に三亞より出撃しており、両船団はいったん合流した後分離しそれぞれの目的地へと向かった[106]。「香椎」はチュンポンとバンドンへ向かう輸送船3隻を護衛した[107]。チュンポンへ向かう2隻と分かれた後、「香椎」と「山浦丸」は12月8日2時30分頃にバンドン川河口の北約23海里に入泊し、上陸部隊はバンドンの飛行場を占領した[108]。続いて「香椎」は第三水雷戦隊の一部などと共に第一護衛隊を編成し[109]、第二次マレー上陸に参加した。上陸部隊および「香椎」などは12月13日にカムラン湾を出発し、12月15日にシンゴラ・パタニ方面とシンゴラ方面へ向かうものに分かれた[110]。「香椎」は軽巡洋艦「川内」などとともにシンゴラ・パタニ方面行きであった[111]。12月16日に輸送船は目的地に着き、揚陸が開始された[111]。「香椎」は泊地警戒に従事し、12月19日にシンゴラを離れた[112]

12月末からは第二護衛隊の一隻として第25軍と第15軍の一部を馬公からシンゴラおよびバンコクへ運ぶ船団の護衛に従事した[113]。第二護衛隊は「香椎」、軽巡洋艦「名取」、駆逐艦14隻および海防艦1隻からなっていた[114]。「香椎」と「占守」は駆逐艦2隻と共にタンカー「黒潮丸」を護衛して12月24日にカムラン湾を発ち馬公へ向かった[114]。その途中の12月27日、給炭艦「野島」は香港南方海面でアメリカ潜水艦から雷撃され、損傷を受けた[注 8]。3隻(香椎、磯波綾波)が野島救援に派遣され、「香椎」は「野島」を香港まで護衛し、それから馬公へ向かった[116]。12月31日、船団は馬公より出発した[117]。1942年(昭和17年)1月3日、船団中の「明光丸」(明治海運、4,383トン)が爆発事故を起こして沈没した[118]。「明光丸」には落下傘部隊である第一挺進団第一連隊約1500名が乗っていたが「香椎」などが救助活動を行い、船員も含めて全員が救助された[119]。1月7日に船団は分離され、「香椎」と「占守」および駆逐艦2隻はバンコクへ向かう船団を護衛した[120]。1月9日に船団はバンコクに到着した[121]

上記作戦中の1942年(昭和17年)1月3日、南遣艦隊は第一南遣艦隊と改名されている[122][123]。 2月、連合国軍艦隊はいまだ巡洋艦数隻を保持していた。馬来部隊指揮官小沢治三郎第一南遣艦隊司令長官は、第二護衛隊に属していた軽巡「由良」を、鳥海以下の主隊に編入、それまでアナンバス基地部隊だった「香椎」を第二護衛隊に編入する[124]。 2月11日、第二護衛隊(香椎、占守、夕霧天霧)はスマトラ島攻略を目指す輸送船14隻と共にベトナムカムラン湾を出撃した[124]。2月下旬〜3月上旬、日本軍輸送船団撃滅を企図するABDA連合国艦隊スラバヤ沖海戦バタビア沖海戦、および南雲機動部隊の掃蕩作戦によって東南アジア方面から一掃され[125]ジャワ島攻略作戦に目途がついた[126]

馬来部隊は2月27日にシンガポールのセレター軍港に入港し[127]、続いてスマトラ島攻略作戦を開始した[128]。「香椎」は3月8日からの北部スマトラ攻略作戦、3月19日からのビルマへ陸軍部隊を運ぶ輸送船の護衛作戦に参加した[129]。北部スマトラ攻略作戦からの帰路、3月13日に「香椎」は小型商船を発見、これを捕らえ掃海艇をつけてペナンへ送った[130]

昭和17年4月以降の行動

4月12日[131]、第一南遣艦隊旗艦は「鳥海」から「香椎」に変更された[132][133]。馬来部隊に派遣されていた各艦艇や部隊は原隊に復帰し[134]ミッドウェー作戦に参加するため[135]、それぞれ内地へ帰投した[40][136]

その後、「香椎」は第一南遣艦隊旗艦として海防艦「占守[137]、第5駆逐隊(松風春風朝風)、掃海艇や根拠地隊と共に南西方面の警戒・哨戒に従事する[138]。6月25日、香椎艦長は重永主計大佐に交代した[139]。 7月14日、第一南遣艦隊司令長官は小沢中将から大川内伝七中将[140](海兵37期)に交代した[141][注 9]

7月下旬、日本海軍はインド洋ベンガル湾方面通商破壊作戦[144]B作戦」を実施する[145]。 「香椎」を含めた各艦はマレー半島西岸メルギーen:Myeik, Burma)に集結する[146]。 だがB作戦を発動しないうちにアメリカ軍はガダルカナル島フロリダ諸島へ上陸作戦を敢行する[147]ウォッチタワー作戦[148]ガダルカナル島の戦いが始まったことにより8月8日付でB作戦は中止され、部隊は解散した[149]。 第七戦隊や第三水雷戦隊はトラック泊地やガダルカナル島方面へ急行する[150]。 香椎はシンガポールに戻ると、僚艦と共に、南西方面の警戒・哨戒任務に従事した[151][152]

9月下旬、日本軍は瀬戸内海及び南西方面からラバウル方面へ、日本陸軍部隊[注 10]を緊急輸送することになった[155][156]。 この輸送作戦を「沖輸送」と称する[157][158][159]。各部隊[注 11]はそれぞれ護衛部隊や艦艇を派遣し、「香椎」も沖輸送に参加した[154][161]。香港~パラオ間は第二遣支艦隊司令長官が、パラオ~ラバウル間は外南洋部隊指揮官(第八艦隊司令長官)が指揮をおこなった[162][163]

9月26日、第一護送隊(巡洋艦香椎、巡洋艦球磨、水雷艇)は輸送船2隻を護衛して香港を出発する[164][注 12]。10月4日、パラオに到着した[165][注 13]。「香椎」と輸送船1隻は分離してラバウルへ先行[166]、10月8日ラバウルに到着した[165]フィリピン南部ダバオを経由して[165]、10月19日にシンガポールへ戻った[167]。 以後、シンガポールを中心に行動する[168][169]

1943年(昭和18年)1月7日、香椎艦長は重永大佐から高田俐大佐[170]に交代した[注 14]。 4月1日、日本海軍は昭和十八年度帝国海軍戦時編制を実施、4月15日に南西方面艦隊司令部と第二南遣艦隊司令部が分離するなどの変化があった[172][注 15]。第一南遣艦隊は軍隊区分に於いて西方部隊となり、香椎と占守などの小艦艇、南西方面の各根拠地隊で構成されていた[174]

5月、二式飛行艇を装備した第八五一海軍航空隊スマトラ島方面に進出することになり、第一南遣艦隊は同方面の調査を実施した[175]。 なおアンダマン諸島ニコバル諸島の防衛を担っていたのは日本海軍だった[176][177]。連合軍の反攻の気配があったため、陸海軍は協力してニコバル諸島の防衛強化を進める[178]。香椎以下の馬来部隊も、同方面の調査や航空基地建設[175]、陸上兵力の輸送に協力した[179][180]

7月下旬、「香椎」と掃海艇7号は、シンガポールからアンダマン・ニコバル諸島ポートブレアへ向かう呉第八特別陸戦隊を乗せた特設運送艦屏東丸を護衛する[181][182]。 8月中旬、第十六戦隊(球磨)の協力を得て、第一南遣艦隊(香椎、占守、屏東丸)等はスマトラ島北東部ベラワン港(メダン)からポートブレアへの輸送作戦に従事する[183][184]。 8月22日、ポートブレア着と共に香椎はシンガポールへ戻るが、屏東丸は翌日ポートブレアで空襲を受け撃沈された[183]

8月下旬、「香椎」および第一南遣艦隊はシンガポールからアチェ州サバンへ第三三一航空隊(空母隼鷹、駆逐艦谷風輸送物件)の整備員を輸送する[185][184]。 8月29日、「香椎」はサバン入港直前にイギリス潜水艦トライデントの雷撃を受けたが[181]、命中しなかった[186]

9月になると、南西方面(ニコバル諸島、アンダマン諸島、ビルマ方面)で連合軍の反撃の兆候が見られるようになり、日本軍は各地の防衛を強化していった[187][188]。「香椎」はシンガポールからスマトラ島やニコバル諸島への輸送作戦を実施する[189][190][191]。 10月上旬、イギリス東洋艦隊がセイロン島コロンボを出撃したとの情報が入り、南西方面艦隊は11日にC作戦用意(ジャワ、西部スマトラ方面)・D作戦用意(ベンガル湾方面)を発令したが、15日に警戒態勢を解除した[192]。 12月下旬、本艦が待機するシンガポールに、第一南遣艦隊の指揮下に入った敷設艦「津軽」と重巡青葉」が到着した[193]。 12月26日、「香椎」はシンガポールを出発、台湾高雄市を経由し九州佐世保へ向かった[193][194]。 航海中の12月31日、第一南遣艦隊から除かれた[195]

呉練習戦隊

1943年(昭和18年)12月1日、日本海軍は呉練習戦隊(鹿島磐手八雲)を編制する[196]。呉練習戦隊司令官は有馬馨少将(海軍兵学校副校長兼務)[197][198]。 「香椎」は第一南遣艦隊から除かれると共に12月31日付で予備艦となり、練習兼警備艦に指定され[199]、呉練習戦隊に編入された[196]1944年(昭和19年)1月6日、佐世保に到着する[194]。以降、佐世保で修理と整備を実施した[200]

1月下旬、「香椎」は佐世保に繋留中だった軽巡洋艦「平海[注 16]の曳航を下令される[203]。 2月3日、「平海」を曳航して佐世保を出発する[204]。翌日呉到着、平海を引き渡した[205][注 17]。 2月中旬以降、呉練習戦隊(鹿島、香椎、磐手、八雲)は瀬戸内海において、練習艦として行動した[209]。 同時期、装甲巡洋艦「出雲」も呉練習戦隊に編入された[210]

3月5日、香椎艦長は高田大佐から、松村翠大佐へ交代した[211]。この頃、内海西部にあって練習艦としての任務に従事した[42][212]。 3月22日、海軍兵学校卒業式に高松宮宣仁親王が臨席することになり[注 18]、高松宮は「鹿島」を御召艦とする[213]。「香椎」は御召艦予備艦として、共に江田内に在泊した[214]。 この日は江田内に呉練習戦隊の巡洋艦5隻がそろっていた[215]。 同日、「鹿島」と「香椎」は江田内を出港[215]、兵学校を卒業した少尉候補生を大阪まで輸送した[216]。 23日大阪着、25日呉に到着した[215]。 同日(3月25日)、「香椎」は呉練習戦隊より除かれ[217]、海上護衛総司令部部隊に編入された[218][45]

海上護衛任務

1944年(昭和19年)2月15日、トラック泊地にあって第六艦隊旗艦だった練習巡洋艦「香取」は[219]、海上護衛総司令部部隊に編入された[220]。輸送船団と共に内地帰投が決まるが[221]2月17日トラック島空襲で沈没した[222][223]。 3月25日、「香椎」は海上護衛総司令部部隊に編入された(前述)[224]。 翌日から呉海軍工廠で改造工事に従事する[60]。魚雷発射管を撤去するかわりに12.7cm高角砲を増設、艦尾の司令長官室を爆雷庫に改造し機雷300個[注 6]を搭載、不沈対策を実施するなどの改造を施された[225]。カタパルトと水上偵察機はそのまま残された[225]。海上護衛任務の主力を担う海防艦について「護衛船団旗艦とするなら松級駆逐艦を、已むをえない場合は通信能力と居住性を向上させた甲型海防艦を適当とすべし」[226]「海防艦は艦隊旗艦としては狭すぎる、香椎型程度が適当である」という不満が出ていた経緯もある[注 19]

5月2日、「香椎」は第一海上護衛隊に編入される[228]。高速タンカー船団の護衛に従事することになった[229]。5月下旬まで内海西部で訓練を実施、その後山口県門司に回航された[230]

5月29日[231]、第七護衛船団司令官松山光治少将[232]は香椎に将旗を掲げる[233]。護衛部隊(香椎、空母海鷹、海防艦淡路千振19号[234]、第60号駆潜艇、敷設艇)は[235]、陸軍特種船神州丸や油槽船11隻からなるヒ65船団を指揮して北九州門司港を出撃、シンガポールへ向かった[236]6月2日午前2時45分[237]、アメリカ潜水艦ギターロの雷撃で海防艦「淡路」が沈没した[238][239]。 また回避行動をとった貨客船「有馬山丸」が「神州丸」と衝突した[240]。神州丸は搭載爆雷の誘爆で大破[241]。「香椎」は「神州丸」を台湾基隆市まで曳航した[注 20]。「香椎」は基隆市から高雄市へ移動し、4日に出発した[245]6月11日、ヒ65船団部隊はシンガポールに到着した[246]。 帰路のヒ66船団(香椎、海鷹、海防艦3隻[247]、タンカー4隻)は6月17日にシンガポールを出発する[248]。ヒ66船団部隊は損害を出さず、6月26日門司に帰投した[240][249]

7月12日、第五護衛船団司令官吉富説三少将[232]は「香椎」に座乗、護衛艦艇(巡洋艦〈香椎〉、海防艦4隻)、空母3隻(神鷹大鷹、海鷹)[250]、加入船舶14隻[注 21]からなるヒ69船団を指揮して門司を出発した[252][253]。 航海中、海防艦17号が被雷して離脱した[254][注 22]。ヒ69船団部隊の他艦に損害はなく7月20日マニラへ到着し[255]、各空母は航空機を陸揚げした[252][256]。 空母2隻と分離後、ヒ69船団部隊は護衛艦2隻を加えて7月25日マニラを出発する[255][257]7月31日、ヒ69船団部隊はシンガポールに到着した[258][259]

8月2日南西方面艦隊は第十六戦隊の軽巡洋艦「北上[注 23]をヒ70船団部隊に同航させたいと申し入れた[262]。 第五護衛船団司令官は台湾海峡を通過すると通告する[263]。 そこで北上艦長加瀬三郎大佐は、「北上」をヒ70船団に途中合流させる旨を報告した[264]

8月4日8月5日)、ヒ70船団は護衛艦艇(香椎、神鷹[265]霜月[266]、海防艦〈千振、佐渡[注 24]、第13号、19号〉)[271][272]、タンカー8隻でシンガポールを出発した[注 25]。 途中でマニラから来た「北上」を、ヒ70船団部隊に編入する[274]。 8月15日、ヒ70船団部隊は門司へ戻った[275]。 8月19日から24日まで、香椎は呉海軍工廠で修理を行う[276]

8月24日、第五護衛船団司令官吉富説三少将の指揮下[277]、護衛部隊(香椎、空母雲鷹[278]、海防艦複数隻)は[271]、補給艦伊良湖など加入船舶12隻のヒ73船団を護衛する[279][280][注 26]。25日、ヒ73船団部隊は門司を出撃する[282]9月5日、ヒ73船団部隊はシンガポールに到着した[283]

9月11日ヒ74船団(指揮官第五護衛船団司令官)[284]はシンガポールを出発して台湾へむかった[285]。ヒ74船団部隊は[286]、第一護衛隊(巡洋艦〈香椎〉、海防艦4隻)、第二護衛隊(雲鷹、千振)、船団部隊という戦力である[287]。 9月16日、ルソン島方面にはアメリカ軍潜水艦2隻(バーブ、クイーンフィッシュ)が行動しており、米機動部隊艦載機の不時着救助任務に従事していた[280]。夜、旗艦「香椎」は船団各艦に対し敵潜発見を伝達するが、その時点での襲撃はなかった[288]9月17日日付変更直後、ヒ74船団部隊はアメリカ潜水艦バーブの襲撃を受けた[289][290]。「あづさ丸」が被雷[291]、炎上し[292]、まもなく沈没した[283]。 つづいて「雲鷹」も被雷してヒ74船団から落伍し[289]、午前7時55分に沈没した[293]。 ヒ74船団部隊はそれ以上の被害を受けることなく、内地に帰投した[289][294]

香椎は佐世保海軍工廠で9月24日から10月19日まで入渠整備をおこなう[295]。 10月28日、香椎はヒ79船団を護衛して日本を出撃する[296]。高雄市(台湾)を経由し、11月13日シンガポールに到着した[297]

第一〇一戦隊

同時期、護衛任務に従事する関係者から、固有の司令部と艦艇を持つ専門の護衛戦隊設置を求める声が高まり、建制の護衛戦隊を編成することになった[48]。 11月15日[298]、香椎と海防艦(対馬大東鵜来、23号、27号、51号)により[299]第101戦隊[49](司令官渋谷紫郎少将)[300]が編成される[301][48]。 本艦は第101戦隊旗艦となった[302]大井篤(当時、海上護衛総隊参謀)は著書『海上護衛戦』において「(旗艦香椎は)戦闘力も防御力も貧弱であった。しかし、航海するのに燃料消費が少ないのがこの艦の取り柄であった」と記述している[303]

11月17日、ヒ80船団(巡洋艦〈香椎〉、護衛艦艇8隻[注 27][注 28]、船舶7隻[注 29])を護衛してシンガポールを出撃する[297][305]。12月4日[注 30]、ヒ80船団部隊は長崎に着いた[307]

12月10日、従来の第一海上護衛隊は第一護衛艦隊に昇格した[308](司令長官岸福治中将)[309][310]。 編成当初は第101戦隊、第五護衛船団司令部、第七護衛船団司令部、第八護衛船団司令部、第九三一海軍航空隊、空母海鷹以下付属艦艇多数という戦力だった[311][注 31]

12月19日、第101戦隊(香椎、対馬、鵜来、大東、海防艦ほか)はヒ85船団モタ38船団を護衛して門司を出発する[313][314]。 12月25日に高雄に着き、そこで多数のタンカーが船団に加わったが、フィリピンに向かう船団(陸軍輸送船〈神州丸吉備津丸、日向丸、青葉山丸〉及び護衛艦艇)と別れた[315][316]。 ヒ85船団部隊は12月27日に高雄を出発し[注 32]、1945年(昭和20年)1月4日[注 33]仏印サン・ジャック(現:ブンタウ)に到着した[322]

第101戦隊(旗艦〈香椎〉、海防艦5隻)は、サン・ジャックからヒ86船団を護衛し内地に戻ることになった[54][注 34]。 ヒ86船団部隊は1月9日正午にサン・ジャックを出発したが、このとき多数の空母を含むアメリカ軍第38任務部隊南シナ海に侵入していた[326][327]ウィリアム・ハルゼー・ジュニア提督が率いる米機動部隊は前年末にウルシー環礁を出撃して台湾方面に出動しており[328]、ルソン島方面の作戦を支援しつつ南シナ海に進出する[329]。カムラン湾付近に潜伏中と推定した日本艦隊[330]伊勢型戦艦水雷戦隊)を攻撃することで、リンガエン湾からミンドロ島間の補給路を安全にしようとした[331][332]。だが日本艦隊[注 35]はシンガポール近海のリンガ泊地へ退避していたので発見できず、仏印周辺で行動していた「香椎」と輸送船団を攻撃する[333]

第101戦隊司令官渋谷少将(旗艦香椎)は米機動部隊接近の情報を得ていたが、遅延はかえって事態を悪化させると判断し1月9日のサン・ジャック出撃を決断した[321][334]。ヒ86船団部隊は1月11日未明にベトナムのバンフォン湾に仮泊、同日21時にキノン湾に仮泊する[335]1月12日、キノン湾を発ち北上したが、その日にヒ86船団部隊は第38任務部隊による空襲を受け壊滅し[336]、香椎も沈没した[337]。戦闘経過は以下のとおり。

1月12日午前9時頃、ヒ86船団部隊はアメリカ軍機少数機による空襲を受けたが撃退した[335]。午前11時以降の空襲で永萬丸が沈没する[338]。渋谷司令官は「万一ノ場合機密書類ヲ確実ニ処理スル如ク準備シオケ」を発令する[335]。12時以降、ヒ86船団部隊は数次にわたる空襲を受けた[335]。 輸送船団の先頭を航行していた香椎(旗艦)は[339]、第38.3任務群(空母エセックスタイコンデロガラングレーサン・ジャシント基幹)による空襲で午後1時45分にまず爆弾2発が命中し、続いてさらに爆弾3発と魚雷2本が命中して午後2時5分に総員退艦となり、艦後部から沈没した[340][注 36]。 海防艦が救助に向かうも[342]、松村艦長や渋谷少将も含む621名が戦死した[340][注 37]。香椎以外に第23号海防艦と第51号海防艦も沈没、加入船舶も全滅[344](7隻は座礁放棄)[345]、生存艦は3隻(鵜来大東、27号)に過ぎずなかった[346]。この被害は、アメリカ軍が南シナ海の制海権・制空権を掌握したことを意味していた[345]。また空母機の攻撃に対して、護衛船団は対抗手段がないことを改めて証明した[347]


1945年(昭和20年)3月20日、練習巡洋艦「香椎」、軽巡「木曾」は軍艦籍より除籍された[9]

歴代艦長

絵葉書

※『艦長たちの軍艦史』181-182頁「日本海軍史』第9巻・第10巻の「将官履歴」に基づく。

艤装員長

  1. 岩淵三次 大佐:1941年4月1日[72] - 7月15日[75]

艦長

  1. 岩淵三次 大佐:1941年7月15日[75] - 10月15日[93]
  2. 小島秀雄 大佐:1941年10月15日[93] - 6月25日[139]
  3. 重永主計 大佐:1942年6月25日[139] - 1943年1月7日[170]
  4. 高田俐 大佐:1943年1月7日[170] - 1944年3月5日[211]
  5. 松村翠 大佐:1944年3月5日[211] - 1945年1月12日戦死(同日付、海軍少将)[348]

同型艦

参考文献

  • Eric Lacroix; Linton Wells II (1997). Japanese Cruisers of the Pacific War. Naval Institute Press 
  • 浅田博、高城直一『海防艦三宅戦記 輸送船団を護衛せよ』潮書房光人社〈光人社NF文庫〉、2013年9月(原著1985年)。ISBN 978-4-7698-2799-3 
  • 生出寿『智将小沢治三郎 沈黙の提督 その戦術と人格』潮書房光人社〈光人社NF文庫〉、2017年7月(原著1988年)。ISBN 978-4-7698-3017-7 
  • 大井篤『海上護衛戦』角川文庫(原著1953年)。ISBN 978-4-04-101598-8 
  • 大内健二『護衛空母入門』光人社〈光人社NF文庫〉、2005年4月。ISBN 4-7698-2451-3 
  • 小沢提督伝刊行会編『回想の提督 小沢治三郎』原書房、1971年3月。 
  • 海軍歴史保存会『日本海軍史』第7巻、第9巻、第10巻、第一法規出版、1995年。
  • 北尾謙三『ぼんぼん主計長奮闘記』サンケイ新聞社、1978年6月。 
  • 衣島尚一「軽巡洋艦香取型の生涯~練習巡洋艦に生まれて~」『艦船模型スペシャル』第41巻、モデルアート社、2011年9月、54-61頁。 
  • 木俣滋郎『日本空母戦史』図書出版社、1977年7月。 
  • 木俣滋郎『日本軽巡戦史』図書出版社、1989年3月。 
  • 木俣滋郎『日本海防艦戦史』図書出版社、1994年9月。ISBN 4-8099-0192-0 
  • 木俣滋郎「1.護送空母『雲鷹』」『撃沈戦記 海原に果てた日本艦船25隻の航跡』光人社NF文庫、2013年6月。ISBN 978-4-7698-2786-3 
  • 宮内庁 編『昭和天皇実録 第八 昭和十五年至昭和十七年』東京書籍株式会社、2016年3月。ISBN 978-4-487-74408-4 
  • 隈部五夫ほか『海防艦激闘記 護衛艦艇の切り札として登場した精鋭たちの発達変遷の全貌と苛烈なる戦場の実相』潮書房光人社、2017年1月。ISBN 978-4-7698-1635-5 
    • (119-127頁)当時「対馬」艦長・海軍少佐鈴木盛『択捉型「対馬」南方船団護衛七つの戦訓 一年十ヶ月にわたり護衛任務に従事した歴戦艦長の対空対潜戦闘
    • (150-158頁)当時御蔵型「千振」艦長・海軍少佐石山泰三『護衛艦隊「千振」「淡路」南シナ海の慟哭 船団護衛で見せた海防艦の死闘と僚艦淡路と護衛空母雲鷹の最後
    • (223-243頁)戦史研究家伊達久『日本海軍甲型海防艦戦歴一覧 占守型四隻、択捉型十四隻、御蔵型八隻、日振型九隻、鵜来型ニ十隻の航跡
  • 呉市海事歴史科学館 編『日本海軍艦艇写真集 巡洋艦』ダイヤモンド社、2005年。ISBN 4-478-95059-8 
  • 高松宮宣仁親王嶋中鵬二発行人『高松宮日記 第七巻 昭和十八年十月一日~昭和十九年十二月三十一日』中央公論社、1997年7月。ISBN 4-12-403397-4 
  • 寺崎隆治『最後の連合艦隊司令長官 勇将小沢治三郎の生涯』光人社〈光人社NF文庫〉、1997年12月(原著1972年)。ISBN 4-7698-2180-8 
  • 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。ISBN 4-7698-1246-9
  • チェスター・ニミッツ、E・B・ポッター、実松譲・富永謙吾訳『ニミッツの太平洋海戦史』恒文社、1962年12月。 
  • (社)日本造船学会 編『昭和造船史 別冊 日本海軍艦艇図面集』 明治百年史叢書 第242巻(四版)、原書房、1978年(原著1975年)。 
  • (社)日本造船学会 編『昭和造船史(第1巻)』 明治百年史叢書 第207巻(第3版)、原書房、1981年(原著1977年10月)。ISBN 4-562-00302-2 
  • 原為一ほか『軽巡二十五隻 駆逐艦群の先頭に立った戦隊旗艦の奮戦と全貌』潮書房光人社、2014年12月。ISBN 978-4-7698-1580-8 
    • (75-86頁)戦史研究家伊達久『航跡でたどる軽巡二十五隻の栄光と悲惨』
    • (185-206頁)「丸」編集部『外国戦史に見る日本軽巡の最後』
    • (304-318頁)戦史研究家柏木浩『日本の軽巡洋艦かく戦えり』
    • (319-350頁)戦史研究家落合康夫『日本海軍軽巡洋艦戦歴一覧』
  • 平間源之助著 著、平間洋一 編『軍艦「鳥海」航海記 平間兵曹長の日記 昭和16~17年』イカロス出版、2018年12月。ISBN 978-4-8022-0634-1 
  • 福井静夫『世界巡洋艦物語』 福井静夫著作集 第8巻、光人社、1994年。ISBN 4-7698-0656-6 
  • 福井静夫「海防艦占守」『福井静夫著作集 ― 軍艦七十五年回想記第十巻 日本補助艦艇物語』光人社、1993年12月。ISBN 4-7698-0658-2 
  • 福田啓二 編『軍艦基本計画資料』今日の話題社、1989年5月。ISBN 4-87565-207-0 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 南太平洋陸軍作戦<1> ポートモレスビー・ガ島初期作戦』 第14巻、朝雲新聞社、1968年3月。 
  • 防衛庁防衛研修所 戦史室『戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦』朝雲新聞社
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 蘭印・ベンガル湾方面 海軍進攻作戦』 第26巻、朝雲新聞社、1969年5月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 海軍軍戦備<1> 昭和十六年十一月まで』 第31巻、朝雲新聞社、1969年。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 海上護衛戦』 第46巻、朝雲新聞社、1971年5月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 中部太平洋方面海軍作戦(2) 昭和十七年六月以降』 第62巻、朝雲新聞社、1973年2月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 中國方面海軍作戦(1) 昭和十三年三月以前』 第72巻、朝雲新聞社、1974年3月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 中國方面海軍作戦(2) 昭和十三年四月以降』 第79巻、朝雲新聞社、1975年1月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 南東方面海軍作戦<2> ガ島撤収まで』 第83巻、朝雲新聞社、1975年8月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 本土方面海軍作戦』 第85巻、朝雲新聞社、1975年6月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 大本營海軍部・聯合艦隊(1) ―開戦まで―』 第91巻、朝雲新聞社、1975年12月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 南西方面陸軍作戦 マレー・蘭印の防衛』 第92巻、朝雲新聞社、1976年1月。 
  • 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 陸海軍年表 付 兵器・兵語の解説』 第102巻、朝雲新聞社、1980年1月。 
  • 牧野茂福井静夫 編『海軍造船技術概要』今日の話題社、1987年5月。ISBN 4-87565-205-4 
  • 松浦敬紀編著元警視総監土田國保(海軍主計大尉)“空母「雲鷹」被雷之記”」『若い世代へ伝えたい残したい 終りなき海軍』文化社、1978年6月。 
  • 『重巡利根型 軽巡香取型』 丸スペシャル No.44、潮書房、1980年10月。 
    • 解説・東清二、作図・石橋孝夫. 図で見る『利根型』/『香取型』変遷史. pp. 40-49. 
  • 雑誌『丸』編集部 編『写真 日本の軍艦 第9巻 軽巡II』光人社、1990年4月。ISBN 4-7698-0459-8 
    • 阿部安雄. 香取型の機関部. pp. 166-167. 
  • 三菱重工業株式会社横浜製作所「第5話 練習巡洋艦「香取」」『20話でつづる名船の生涯』三菱重工業株式会社横浜製作所総務勤労課、2013年8月。ISBN 978-4-7698-2098-7 
  • 本吉隆(著)、田村紀雄、吉原幹也(図版)『第二次世界大戦 世界の巡洋艦 完全ガイド』イカロス出版株式会社、2018年12月。ISBN 978-4-8022-0627-3 
  • 『帝国海軍 真実の艦艇史』 歴史群像 太平洋戦史シリーズ Vol.45、学習研究社、2004年5月。ISBN 4-05-603412-5 
  • アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
    • 『昭和16年5月~8月 内令 2巻/昭和16年7月(2)』。Ref.C12070152000。 
    • 『昭和17年4月~6月内令2巻/昭和17年5月(2)』。Ref.C12070162800。 
    • 『昭和18年11月~12月 内令5巻/昭和18年12月(5)』。Ref.C12070183000。 
    • 『昭和17年8月10日.昭和20年7月13日 内令及び海軍公報(軍極秘)/昭和20年3月』。Ref.C12070204300。 
    • 『昭和16年12月31日現在10版内令提要追録第10号原稿巻2.3/巻3追録/第13類艦船(1)』。Ref.C13072003500。 
    • 『昭和17年6月30日現在10版内令提要追録第9号(中)/第6類機密保護』。Ref.C13072007500。 
    • 『昭和16年12月31日現在 10版 内令提要追録第10号原稿巻2,3/巻3 追録/第13類 艦船(1)』。Ref.C13072003500。 
    • 『昭和20年3月26日現在 10版 内令提要 巻3/第13類 艦船(1)』。Ref.C13072056500。 
    • 『昭和16年~昭和20年 戦隊 水戦輸送戦隊 行動調書』。Ref.C08051772000。 
    • 『昭和16年11月1日~昭和19年5月28日 第1南遣艦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。Ref.C08030026500。 
    • 『昭和16年11月1日~昭和19年5月28日 第1南遣艦隊戦時日誌戦闘詳報(2)』。Ref.C08030026600。 
    • 『昭和16年11月1日~昭和19年5月28日 第1南遣艦隊戦時日誌戦闘詳報(3)』。Ref.C08030026700。 
    • 『昭和16年11月1日~昭和19年5月28日 第1南遣艦隊戦時日誌戦闘詳報(4)』。Ref.C08030026800。 
    • 『昭和16年11月1日~昭和19年5月28日 第1南遣艦隊戦時日誌戦闘詳報(5)』。Ref.C08030026900。 
    • 『昭和16年11月1日~昭和19年5月28日 第1南遣艦隊戦時日誌戦闘詳報(6)』。Ref.C08030027000。 
    • 『「サーモン」少佐追加質問Ⅵ 1、に対する回答 蘭印攻略作戦に於ける日本艦隊の行動概要 第1 計画』。Ref.C14061137700。 
    • 『第2 艦隊作戦行動の概要』。Ref.C14061137800。 
    • 『別紙第1「ラエ」、「サラモア」攻略作戦(自1942年3月5日至1942年3月17日)』。Ref.C14061137900。 
    • 『昭和17年3月10日~昭和17年7月31日 第16戦隊戦時日誌戦闘詳報(9)』。Ref.C08030053700。 
    • 『昭和17年8月1日~昭和17年11月30日 第16戦隊戦時日誌戦闘詳報(1)』。Ref.C08030054000。 
    • 『昭和17年7月1日~昭和17年10月5日 第7戦隊戦時日誌(1)』。Ref.C08030767200。 
    • 『昭和17年7月1日~昭和17年10月5日 第7戦隊戦時日誌(2)』。Ref.C08030767300。 
    • 『昭和17年7月1日~昭和17年10月5日 第7戦隊戦時日誌(3)』。Ref.C08030767400。 
    • 『昭和17年7月1日~昭和17年10月5日 第7戦隊戦時日誌(4)』。Ref.C08030767500。 
    • 『昭和17年7月1日~昭和17年10月5日 第7戦隊戦時日誌(5)』。Ref.C08030767600。 
    • 『昭和19年7月1日~昭和19年11月15日 第10戦隊戦時日誌(2)』。Ref.C08030050900。 
    • 『昭和19年7月1日~昭和19年11月15日 第16戦隊戦時日誌(1)』。Ref.C08030057100。 
    • 『昭和18年12月1日~昭和20年5月31日 呉練習戦隊戦時日誌(1)』。Ref.C08030078800。 
    • 『昭和19年1月1日~昭和19年3月31日 呉鎮守府戦時日誌(1)』。Ref.C08030328800。 
    • 『昭和19年1月1日~昭和19年3月31日 呉鎮守府戦時日誌(2)』。Ref.C08030328900。 
    • 『昭和19年1月1日~昭和19年3月31日 呉鎮守府戦時日誌(3)』。Ref.C08030329000。 
    • 『昭和17年2月1日~昭和17年2月28日 佐世保鎮守府戦時日誌(5)』。Ref.C08030333700。 
    • 『昭和19年2月1日~昭和19年2月29日 佐世保鎮守府戦時日誌(5)』。Ref.C08030352000。 
    • 『昭和18年11月15日~昭和19年11月30日 海上護衛総司令部戦時日誌(1)』。Ref.C08030137300。 
    • 『昭和18年11月15日~昭和19年11月30日 海上護衛総司令部戦時日誌(2)』。Ref.C08030137400。 
    • 『昭和18年11月15日~昭和19年11月30日 海上護衛総司令部戦時日誌(3)』。Ref.C08030137500。 
    • 『昭和18年11月15日~昭和19年11月30日 海上護衛総司令部戦時日誌(4)』。Ref.C08030137600。 
    • 『昭和19年4月1日~昭和19年5月31日 第1海上護衛隊戦時日誌(1)』。Ref.C08030140600。 
    • 『昭和19年4月1日~昭和19年5月31日 第1海上護衛隊戦時日誌(2)』。Ref.C08030140700。 
    • 『昭和19年6月1日~昭和19年7月31日 第1海上護衛隊戦時日誌(1)』。Ref.C08030141000。 
    • 『昭和19年6月1日~昭和19年7月31日 第1海上護衛隊戦時日誌(2)』。Ref.C08030141100。 
    • 『昭和19年8月1日~昭和19年11月30日 第1海上護衛隊戦時日誌(1)』。Ref.C08030141400。 
    • 『昭和19年8月1日~昭和19年11月30日 第1海上護衛隊戦時日誌(2)』。Ref.C08030141500。 
    • 『昭和19年8月1日~昭和19年11月30日 第1海上護衛隊戦時日誌(3)』。Ref.C08030141600。 
    • 『昭和19年8月1日~昭和19年11月30日 第1海上護衛隊戦時日誌(4)』。Ref.C08030141700。 
    • 『昭和19年6月1日~昭和19年10月31日 軍艦神鷹戦時日誌戦闘詳報(1)』。Ref.C08030584900。 
    • 『昭和19年6月1日~昭和19年10月31日 軍艦神鷹戦時日誌戦闘詳報(2)』。Ref.C08030585000。 
    • 『昭和19年6月1日~昭和19年10月31日 軍艦神鷹戦時日誌戦闘詳報(3)』。Ref.C08030585100。 
    • 『昭和19年4月1日~昭和19年9月17日 軍艦雲鷹戦時日誌(3)』。Ref.C08030583700。 
    • 『昭和19年8月1日~昭和20年3月31日 海防艦鵜来戦時日誌(1)』。Ref.C08030595700。 
    • 『昭和19年8月1日~昭和20年3月31日 海防艦鵜来戦時日誌(2)』。Ref.C08030595800。 
    • 『昭和19年8月1日~昭和20年3月31日 海防艦鵜来戦時日誌(3)』。Ref.C08030595900。 
    • 『昭和19年8月1日~昭和20年3月31日 海防艦鵜来戦時日誌(4)』。Ref.C08030596000。 
    • 『昭和19年7月~昭和20年3月 各護衛担任部隊指定航路と敵潜に依る被害一覧図(1)』。Ref.C08030708400。 

脚注

注釈

  1. ^ 公式には類別等級内での艦(艇)型に「香取型」はない(#S20-03-26内令提要/第13類 艦船(1)画像5など)。
  2. ^ #軍艦基本計画資料Sheet116では練習艦として6,650トンの値もある。
  3. ^ #東・石橋(1980)利根型香取型p.48では過熱器と表現している。
  4. ^ #軍艦基本計画資料Sheet7では候補生275名になっている。
  5. ^ 香取・鹿島の竣工時(1940年の練習艦隊時)は艦橋トップ後方で、1941年までに香椎と同じ場所に移動[55]
  6. ^ a b c #日本海軍艦艇図面集図42-2によると、中甲板に200+69個、下甲板21+21+15個の計329個搭載可能。
  7. ^ これは南方部隊指揮官に第二艦隊司令長官近藤信竹中将を任命するにあたり、ハンモックナンバーを考慮する必要が生じたためであった[95]。平田中将は海兵34期、近藤中将は海兵35期、小沢中将は37期であった(海軍兵学校卒業生一覧)。
  8. ^ 野島を雷撃したのは、アメリカ潜水艦パーチ (USS Perch, SS-176) であった。魚雷は野島に命中したが、不発だった[115]
  9. ^ 小沢と大川内は、海軍兵学校の同期生であった[142]。大川内の着任は7月24日である[143]
  10. ^ 香港から出発する輸送部隊は、大陸命第688号により第23軍から第17軍に転用される独立砲兵第10連隊独立工兵第19連隊(甲)であった[153][154]
  11. ^ 支那方面艦隊第二遣支艦隊)、南西方面艦隊第一海上護衛隊)、連合艦隊、各鎮守府(佐鎮呉鎮横鎮[160]
  12. ^ 第二護送隊は駆逐艦汐風、水雷艇、輸送船4隻[154]
  13. ^ 第一護送隊の鵲は、パラオから香港に帰投した[166]。球磨護衛下の第一護送隊は10月5日にパラオを出発、10日ラバウルに到着した[166]
  14. ^ 重永大佐は1月20日より重巡筑摩艦長となった[171]
  15. ^ 高須四郎中将(南西方面艦隊司令長官)は第二南遣艦隊司令長官との兼務を解かれ、岩村清一中将が第二南遣艦隊司令長官となる[173]
  16. ^ 中華民国海軍寧海級巡洋艦2隻(寧海平海)は日中戦争において長江に停泊中、1937年(昭和12年)9月下旬に空母加賀航空隊を含む日本海軍基地航空部隊の空襲で大破、擱座した[201]。12月上旬、南京市を目指して遡江中の日本海軍が捕獲した[202]。その後、寧海型2隻と逸仙は浮揚されて日本に回航された。
  17. ^ 「平海」は修理改造により1944年(昭和19年)6月10日に海防艦「八十島」と改名され[206]、9月25日に軍艦籍に編入されて軽巡「八十島」となった[207]。同年11月25日、ルソン島西岸で空襲により沈没した[208]
  18. ^ 高松宮は兵学校卒業式に臨席した他、竜巻作戦水陸両用戦車特殊潜航艇基地、高速潜水艦等を視察した。
  19. ^ 所見(中略)七 旗艦トシテ海防艦ハ狭隘ニ過グ香椎型程度適当ナリ[227]
  20. ^ 香椎と神州丸を、千振と第19号海防艦が護衛した[242]。有馬山丸も基隆に避難し、修理をおこなった[243]。第19号海防艦は高雄回航中に機関故障をおこし、修理のためヒ65船団部隊から外れた[244]
  21. ^ タンカーなど12隻、航空機輸送をおこなう空母2隻(大鷹、海鷹)を護衛対象として扱い[251]、加入船舶14隻となる。
  22. ^ 木俣滋郎『海防艦戦史』70頁では、第17号海防艦を撃破したのは潜水艦ガードフィッシュとする[238]。記録では潜水艦タイルフィッシュの戦果であった。
  23. ^ 北上はアンダマン諸島輸送を終えたあとの1944年(昭和19年)1月27日にマラッカ海峡でイギリス潜水艦テンプラー英語版の雷撃を受け、大破した[260]シンガポールマニラで修理をおこなったが[261]、速力15ノット以下しか発揮できなかった[262]
  24. ^ 佐渡は8月12日に神鷹等と共同で敵潜水艦を攻撃したあと[267]、ヒ70船団部隊から離脱した。台湾よりヒ71船団に加入後[268]、マニラ沖合で僚艦と共に撃沈された[269][270]
  25. ^ 『戦史叢書46 海上護衛戦』381頁では、ヒ70船団加入船舶を12隻とする[273]
  26. ^ 木俣滋郎『撃沈戦記(2013)』24頁では、タンカー9隻、特設巡洋艦「護国丸」、特種船吉備津丸など貨客船4隻、給糧艦「伊良湖」、加入船舶計14隻とする[281]
  27. ^ 敷設艇新井埼、海防艦三宅満珠能美鵜来、17号、23号、51号。
  28. ^ 『海防艦三宅戦記』116頁では護衛艦8隻(香椎、新井崎、三宅、満珠、能美、鵜来、海防艦17号、ほか1隻)とする[304]
  29. ^ 良栄丸、松島丸、天栄丸、宗像丸、黒潮丸、日南丸、海邦丸。
  30. ^ 『海防艦三宅戦記』117頁では2日六連島の安全海域着とする[306]
  31. ^ 第102戦隊(1月1日新編)、第103戦隊(1月20日新編)、第九〇一海軍航空隊(1月1日付属)も、編成と共に第一護衛艦隊に編入されている[312]
  32. ^ 第101戦隊の海防艦対馬は輸送船を護衛して海南島楡林に立ち寄り、12月31日の対空戦闘で損傷した[317]。修理のため第101戦隊には同航せず、惨劇から逃れた[318]。楡林在泊中、ヒ86船団全滅より生還した3隻(鵜来、大東、第27号)と合流した[319][320]
  33. ^ 『戦史叢書46 海上護衛戦』464頁では、6日サンジャック着とする[321]
  34. ^ ヒ86船団はシンガポールから北上して来ていたもので[323]、タンカー4隻(極連丸、さんるいす丸、六三播州丸、優情丸)と貨物船6隻(予州丸、永萬丸、大津山丸、辰鳩丸、健部丸、昭永丸)からなっていた[324][325]
  35. ^ 礼号作戦に参加した第二水雷戦隊朝霜初霜)を含む第二遊撃部隊(指揮官志摩清英第五艦隊司令長官)。第四航空戦隊日向伊勢)、重巡足柄、軽巡大淀、二水戦等。
  36. ^ 大井篤著『海上護衛戦』369頁では、香椎被害を「魚雷1本、爆弾2発命中、艦後部砲塔弾薬庫爆発で艦尾から沈没」と記述する[341]
  37. ^ 木俣滋郎『日本軽巡戦史』631頁では「鵜来に7名が救助され、後は不明」と記述する[340]香椎宮の「軍艦香椎顕彰碑」で便乗者含め1000余名が戦死し、生存者17名とする[343]

参照

  1. ^ a b c #艦艇写真集(2005)巡洋艦p.184
  2. ^ a b c d e f g #内令昭和17年5月(2) p.22〔 香椎|練習巡洋艦|(性能略)|三菱横濱|起工年月日14-10-4|進水年月日15-10-15|竣工年月日16-7-15|(兵装略) 〕
  3. ^ a b #艦艇類別等級表(昭和16年12月31日) p.5〔 練習巡洋艦|香取、鹿島、香椎 〕
  4. ^ #日本海軍艦艇図面集図42-1、「練習巡洋艦 香取型 鹿島 一般艤装図 1/2」舷外側面、上部平面。
  5. ^ 戦史叢書31巻p.565
  6. ^ a b #S16.12.31内令提要原稿巻2,3/艦船(1) 画像17〔 艦艇、特務艦本籍別一覧表 (昭和十六年十二月三十一日調) 〕
  7. ^ #S16.5-8内令2巻/昭和16年7月(2) 画像5-6〔 内令第八百二號 軍艦 香椎 右本籍ヲ佐世保鎮守府ト定メラル 佐世保鎮守府籍 軍艦 香椎 右警備艦ト定メラル 昭和十六年七月十五日 海軍大臣 及川古志郎 〕
  8. ^ a b 戦史叢書31巻1p.575、(④計画の)建造状況。
  9. ^ a b #内令(軍極秘)昭和20年3月 p.44〔 内令第二四八號(軍極秘)|佐世保鎮守府在籍 軍艦 香椎|舞鶴鎮守府在籍 軍艦 木曾|右帝國軍艦籍ヨリ除カル 昭和二十年三月二十日 海軍大臣 〕
  10. ^ a b c d e f g h i j k l #軍艦基本計画資料Sheet7
  11. ^ #昭和造船史1pp.784-785
  12. ^ #S17.6.30内令提要(中)原稿/機密保護 画像9、艦船要目公表範囲
  13. ^ #JapaneseCruisers(1997)p.667
  14. ^ a b c d #東・石橋(1980)利根型香取型pp.46-47
  15. ^ #阿部(1990)香取機関p.167
  16. ^ a b c d e f g #造船技術概要(1987)pp.1693-1694
  17. ^ a b c d e #東・石橋(1980)利根型香取型p.48
  18. ^ #造船技術概要(1987)pp.371-372
  19. ^ 昭和16年7月15日付 海軍内令 第806号改正、海軍定員令〔 第48表ノ3 練習巡洋艦定員表 〕。この数字は飛行科要員を含み、候補生を含まない。
  20. ^ #JapaneseCruisers(1997)p.834 "Armament".
  21. ^ #JapaneseCruisers(1997)p.834 "Fire-Control Equipment".
  22. ^ a b c #S17.2佐鎮日誌(5) 画像20-21、2月21日海軍大臣発、官房機密第2208号〔 軍艦香椎爆雷兵装新設ノ件訓令 佐世保海軍工廠ヲシテ首題ノ件左記ニ依リ施行セシムベシ 記 一、工事要領 爆雷手動投下台四個ヲ後甲板適当ナル位置ニ装備ス但シ本兵装ハ戦時中ノミ仮装備トス 二、所要兵器 爆雷手動投下台一型 二組「四個」在庫品 三、試験 施行セズ 四、完成期 時期ヲ得次第成ルベク速ニ 五、費目 艦艇製造費、艦艇製造費、造船費造兵費第百一號艦(船)(水)別途配布豫算内支弁トス 〕
  23. ^ #JapaneseCruisers(1997)p.834 "Armor and Protective Plating".
  24. ^ #JapaneseCruisers(1997)p.671
  25. ^ a b #重巡利根型 軽巡香取型p.68上の写真とその解説
  26. ^ a b #達昭和15年8月 p.19〔 達第百六十七號 艦艇製造費ヲ以テ昭和十四年度及同十五年度ニ於テ建造ニ着手ノ練習巡洋艦一隻、驅逐艦二隻、潜水艦二隻、測量艦一隻及驅潜艇一隻ニ左ノ通命名ス 昭和十五年八月三十日 海軍大臣 吉田善吾|三菱重工業株式会社横濱船渠ニ於テ建造 練習巡洋艦 香椎(カシヒ)|株式会社藤永田造船所ニ於テ建造 驅逐艦 谷風(タニカゼ)|舞鶴海軍工廠ニ於テ建造 驅逐艦 野分(ノワキ)|横須賀海軍工廠ニ於テ建造 伊號第三十三潜水艦|佐世保海軍工廠ニ於テ建造 伊號第三十九潜水艦|三菱重工業株式会社横濱船渠ニ於テ建造 測量艦 筑紫(ツクシ)|鶴見製鉄造船株式会社ニ於テ建造 第十六驅潜艇 〕
  27. ^ 三菱、20話 2013, p. 27船名の由来は神社の名前から
  28. ^ イカロス、世界の巡洋艦 2018, p. 94a香取型練習巡洋艦/大戦中は艦隊旗艦として運用された練習巡洋艦
  29. ^ a b 戦史叢書91 1975, p. 516第五艦隊・南遣艦隊の追加的新編
  30. ^ 戦史叢書102巻 77頁〔 昭和16年(1941年)7月31日 〕
  31. ^ 昭和16年8月6日(水)海軍公報(部内限)第3864号 p.47」 アジア歴史資料センター Ref.C12070396500 〔 ○将旗掲揚 南遣艦隊司令長官ハ八月二日将旗ヲ香椎ニ掲揚セリ 〕
  32. ^ #重巡利根型 軽巡香取型p.64下写真の解説
  33. ^ a b 南仏印に陸海指揮官会見”. NHKアーカイブス. 2023年12月17日閲覧。
  34. ^ 勇将小沢治三郎生涯 1997, p. 218(小沢治三郎年譜)
  35. ^ a b 智将小沢治三郎 2017, pp. 21–22.
  36. ^ a b 勇将小沢治三郎生涯 1997, pp. 31–40陣頭指揮のため意見具申す
  37. ^ 智将小沢治三郎 2017, pp. 23–24.
  38. ^ 智将小沢治三郎 2017, pp. 35–40.
  39. ^ #重巡利根型 軽巡香取型p.66下写真の解説。
  40. ^ a b 戦史叢書26 1969, pp. 668–669.
  41. ^ 智将小沢治三郎 2017, pp. 71–72.
  42. ^ a b c d 軽巡二十五隻 2014, pp. 342–343香椎(かしい)
  43. ^ a b c #重巡利根型 軽巡香取型p.67写真とその解説。
  44. ^ 福井、日本補助艦艇物語 1993, p. 151.
  45. ^ a b c #S1901呉鎮日誌(3) p.51〔 二五(天候略)戰時編制改定香椎ヲ呉練戰ヨリ除キ海護總司令部部隊ニ編入/伊號第百六十二潜水艦ヲ呉防戰ニ編入 〕
  46. ^ a b c イカロス、世界の巡洋艦 2018, p. 94b.
  47. ^ #重巡利根型 軽巡香取型p.68下写真の解説
  48. ^ a b c 戦史叢書46 1971, pp. 418–421建制の護衛戦隊編成
  49. ^ a b 海防艦戦史 1994, pp. 127–129一〇一戦隊らの設立
  50. ^ 戦史叢書102巻 531頁〔 第1護衛艦隊 〕
  51. ^ 戦史叢書85 1975, pp. 292–293(昭和19年)十二月の対潜戦
  52. ^ 軽巡二十五隻 2014, pp. 203–206▽ハルゼー台風の渦中に突進した香椎
  53. ^ 軽巡二十五隻 2014, p. 318▽香椎と五十鈴の最後
  54. ^ a b 戦史叢書46 1971, pp. 463–467米機動部隊の南シナ海進入とヒ八六船団の大被害
  55. ^ #重巡利根型 軽巡香取型pp.52-55,58-63のそれぞれの写真の比較による。
  56. ^ #重巡利根型 軽巡香取型p.66上写真の解説。
  57. ^ a b c #歴史群像45真実の艦艇史p.38の解説
  58. ^ #衣島(2011)香取型p.60
  59. ^ a b #歴史群像45真実の艦艇史p.37の写真と解説
  60. ^ a b #S1811海護総司令部(2) p.23〔 二六(略)香椎呉工廠ニ於テ新役務ニ對スル新設改造工事着手 〕
  61. ^ #JapaneseCruisers(1997)p.681.
  62. ^ a b c #東・石橋(1980)利根型香取型p.49
  63. ^ a b #JapaneseCruisers(1997)p.682, Drawing 13.10.
  64. ^ #JapaneseCruisers(1997)p.662, Drawing 13.2.
  65. ^ 福井、世界巡洋艦物語 1994, pp. 355–356あ号作戦後の兵装増備の状況調査
  66. ^ イカロス、世界の巡洋艦 2018, pp. 140–141コラム(6)旧式巡洋艦、■日本海軍の装甲巡洋艦
  67. ^ 三菱、20話 2013, p. 26a「香取」など4隻の建造を当所が担当
  68. ^ a b c 三菱、20話 2013, p. 26b.
  69. ^ #艦船要目公表範囲(昭和17年6月30日) p.4〔 鹿島|練習巡洋艦|(艦諸元略)|三菱横濱船渠|13-10-6|14-9-25|15-5-31|(兵装略)〕
  70. ^ 軍艦香椎進水”. Hoji Shinbun Digital Collection. Nippu Jiji, 1940.10.15. pp. 03. 2023年12月17日閲覧。
  71. ^ 昭和天皇実録八巻 2016, p. 210(昭和十五年十月)十五日 火曜日 三菱重工業株式会社横浜船渠において軍艦香椎の命名式挙行につき、博恭王を差し遣わされる。
  72. ^ a b 昭和16年4月1日(発令4月1日付)海軍辞令公報(部内限)第608号 p.24」 アジア歴史資料センター Ref.C13072080600 
  73. ^ 昭和16年4月7日(月)海軍公報(部内限)第3764号 p.40」 アジア歴史資料センター Ref.C12070394100 〔 ○事務所設置 香椎艤装員事務所ヲ四月二日横濱市中區緑町三丁目四番地ノ二、三菱重工業株式會社横濱船渠内ニ設置シ事務ヲ開始セリ 〕
  74. ^ 昭和16年7月16日(水)海軍公報(部内限)第3846号 p.33」 アジア歴史資料センター Ref.C12070396200 〔 ○事務所撤去 香椎艤装員事務所ヲ七月十五日撤去セリ 〕
  75. ^ a b c 昭和16年7月15日(発令7月15日付)海軍辞令公報(部内限)第673号 p.23」 アジア歴史資料センター Ref.C13072081600 
  76. ^ 昭和16年7月16日(水)海軍公報(部内限)第3846号 p.34」 アジア歴史資料センター Ref.C12070396200 〔 ○艦船所在○七月十六日午前十時【横須賀】春日▲劍埼▲山城▲陸奥▲勝力▲駒橋▲、多摩、赤城、香椎 澤風▲伊八▲ (翔鶴)▲(津軽)▲(伊二三)▲(伊三三)▲(伊三七)▲ 〕
  77. ^ 昭和16年7月18日(金)海軍公報(部内限)第3848号 p.45」 アジア歴史資料センター Ref.C12070396200 〔 ○艦船所在○七月十八日午前十時【航海中】香椎(十六日横須賀發-佐世保へ)」
  78. ^ 昭和16年7月21日(月)海軍公報(部内限)第3850号 p.34」 アジア歴史資料センター Ref.C12070396300 「○艦船所在○七月二十一日午前十時【佐世保】那智、《旗艦》加賀、香椎、松風▲春風▲呂三〇▲呂三一▲《旗艦》呂三三▲、呂六〇、《旗艦》伊五九▲伊六〇▲、驅潜一六、哨三八、敷島▲佐多▲、知床、襟裳、早鞆 (伊二四)▲(伊二九)▲(伊三九)▲ 〕
  79. ^ 戦史叢書79 1975, pp. 305a-306南遣艦隊の新設
  80. ^ 昭和16年7月31日(発令7月31日付)海軍辞令公報(部内限)第681号 p.49」 アジア歴史資料センター Ref.C13072081600 
  81. ^ 戦史叢書79 1975, pp. 305b-306兵力
  82. ^ 勇将小沢治三郎生涯 1997, p. 32.
  83. ^ 戦史叢書79 1975, pp. 306a-307南遣艦隊の進出と「ふ」号作戦部隊の解散
  84. ^ 大本営で増駐発表<皇軍仏印増駐>”. NHKアーカイブス. 2023年12月17日閲覧。
  85. ^ 戦史叢書91 1975, pp. 526–528南部仏印進駐の決定―「対米英戦ヲ辞セズ」
  86. ^ 戦史叢書79 1975, pp. 298–304「ふ」号作戦部隊の行動
  87. ^ 戦史叢書91 1975, pp. 528–530全面禁輸と軍令部
  88. ^ 戦史叢書79 1975, pp. 303–304.
  89. ^ 戦史叢書102巻 77頁〔 昭和16年(1941年)7月28日 陸海軍部隊、南部仏印逐(西貢・ナトラン等)に平和進駐』、78頁「昭和16年(1941年)8月8日 第25軍の南部仏印進駐完了 〕
  90. ^ 戦史叢書79 1975, p. 306b.
  91. ^ 戦史叢書79 1975, p. 315南部佛印進駐と南遣艦隊の設置
  92. ^ 仏印カムラン湾での訓練”. NHKアーカイブス. 2023年12月17日閲覧。
  93. ^ a b c 昭和16年10月15日(発令10月15日付)海軍辞令公報(部内限)第728号 p.2」 アジア歴史資料センター Ref.C13072082800 
  94. ^ 昭和16年10月20日(発令10月18日付)海軍辞令公報(部内限)第732号 pp.13-14」 アジア歴史資料センター Ref.C13072082900 
  95. ^ 勇将小沢治三郎生涯 1997, pp. 27–29.
  96. ^ 戦史叢書102巻 84頁〔 昭和16年(1941年)10月21日 大本営、大本営直轄の南遣艦隊を聯合艦隊編入を発令〔1-62、91-516〕 〕
  97. ^ 回想の提督 1971, pp. 25–34南遣艦隊司令長官時代
  98. ^ 回想の提督 1971, p. 27.
  99. ^ 勇将小沢治三郎生涯 1997, pp. 18–19陣頭指揮
  100. ^ 勇将小沢治三郎生涯 1997, pp. 39–40.
  101. ^ 軍艦鳥海航海記 2018, pp. 27–28(昭和16年11月27日記事)1500旗艦を変更す
  102. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、132ページ
  103. ^ 戦史叢書79 1975, pp. 324–325南方部隊の動き
  104. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、358-359ページ
  105. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、407ページ
  106. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、380、393-394、407ページ
  107. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、407ページ
  108. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、408-409ページ
  109. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、508ページ
  110. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、511、516ページ
  111. ^ a b 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、516ページ
  112. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、517、519ページ
  113. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、557-558ページ
  114. ^ a b 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、558ページ
  115. ^ 戦史叢書46 1971, p. 186.
  116. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、558-559ページ、日本軽巡戦史、111ページ
  117. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、561ページ
  118. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、562ページ、日本軽巡戦史、112ページ
  119. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、562ページ
  120. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、563ページ
  121. ^ 戦史叢書第24巻 比島・マレー方面海軍進攻作戦、564ページ
  122. ^ 戦史叢書102巻 99頁〔 昭和17年(1942年)1月3日 大本営、海軍戦時編制の一部改正を発令 〕
  123. ^ 戦史叢書102巻 529頁〔 第1南遣艦隊 〕
  124. ^ a b 戦史叢書26 1969, pp. 294–298船団の進航
  125. ^ 智将小沢治三郎 2017, pp. 65–70.
  126. ^ 勇将小沢治三郎生涯 1997, pp. 114–116今村軍司令官との約束
  127. ^ 勇将小沢治三郎生涯 1997, pp. 113–114シンガポール占領余聞
  128. ^ 回想の提督 1971, p. 33.
  129. ^ 戦史叢書第26巻 蘭印・ベンガル湾方面海軍進攻作戦、596-597、600、603、609-610ページ
  130. ^ 日本軽巡戦史、217ページ
  131. ^ 軍艦鳥海航海記 2018, p. 130(昭和17年4月12日記事)旗艦変更
  132. ^ #第1南遣艦隊日誌(1) p.10〔 3.馬來部隊機動部隊ハ四月十一日昭南皈着十二日旗艦ヲ鳥海ヨリ香椎ニ変更7S 3sd 4sf(第二聯隊欠)ハ四月十三日昭南發内地ニ皈還セシム 〕
  133. ^ 昭和17年4月15日(水)海軍公報(部内限)第4068号 p.43」 アジア歴史資料センター Ref.C12070411300 〔 ○旗艦變更 第一南遣艦隊司令長官ハ四月十二日旗艦ヲ香椎ニ變更セリ 〕
  134. ^ 勇将小沢治三郎生涯 1997, pp. 121–122.
  135. ^ 智将小沢治三郎 2017, p. 71.
  136. ^ #第1南遣艦隊日誌(1) p.39〔 四月十三日|一七〇〇|7S 3sd 4sf(第二聯隊欠)馬來部隊指揮官ノ指揮下ヲ離レ昭南發内地ニ皈還ス 〕
  137. ^ 福井、日本補助艦艇物語 1993, p. 182.
  138. ^ #第1南遣艦隊日誌(2) p.24〔 四.参考 麾下艦船部隊ノ行動 第一南遣艦隊 〕
  139. ^ a b c 昭和17年6月25日(発令6月25日付)海軍辞令公報(部内限)第889号 p.24」 アジア歴史資料センター Ref.C13072085900 
  140. ^ 智将小沢治三郎 2017, p. 77.
  141. ^ 昭和17年7月14日(発令7月14日付)海軍辞令公報(部内限)第899号 p.50」 アジア歴史資料センター Ref.C13072086200 
  142. ^ 勇将小沢治三郎生涯 1997, p. 123.
  143. ^ #第1南遣艦隊日誌(2) p.35〔 司令長官|中将|大川内傳七|七月二十四日着任 〕
  144. ^ 戦史叢書92 1976, pp. 65–66海軍部隊の状況/主な海軍作戦の概要
  145. ^ 戦史叢書102巻132頁「昭和17年(1942年)7月31日 海軍B作戦」
  146. ^ 戦史叢書62 1973, p. 97機動部隊(3F)の進出
  147. ^ 戦史叢書92 1976, pp. 66–67南東方面への兵力移動
  148. ^ 戦史叢書102巻132頁「昭和17年(1942年)8月7日 米軍反攻開始」
  149. ^ #S1708十六戦隊日誌(1) p.5〔 八月七日特令アル迄B作戰ヲ延期セラル/八月八日B作戰ヲ取止メB作戰部隊ノ編制ヲ解カル 〕
  150. ^ #第1南遣艦隊日誌(2) p.44〔 (イ)一般情勢 「セイロン」島方面ノ敵ハ警戒ヲ厳ニシ我ガ機動作戰ヲ阻止セントスルモノノ如ク「アンダマン」諸島ニ屢敵機偵察ニ飛来ス。B作戰部隊ハ「メルギー」方面ニ在リテ待機中ナリシ處八日「ソロモン」諸島方面ノ情勢変化ニ依リB作戰ハ中止セラレ7S 3sd 15dg 2dg旭東丸 日本丸ハ南西方面部隊ヨリ除カレ南東方面ニ轉進セリ爾後互ニ飛行警戒ヲ厳ニシ「カルカッタ」方面ヘノ敵海上交通ハ一時途絶シ彼我對峙ノ状態ニアリシモ中旬以後漸次常態ニ復セリ 〕
  151. ^ #第1南遣艦隊日誌(2) pp.51-56〔 四.参考 麾下艦船部隊ノ行動 第一南遣艦隊 〕
  152. ^ #第1南遣艦隊日誌(3) p.11〔 四.参考 麾下艦船部隊ノ行動 第一南遣艦隊 〕
  153. ^ 戦史叢書14 1968, pp. 525–527第十七軍への兵力増強
  154. ^ a b c 戦史叢書79 1975, pp. 366b-367.
  155. ^ 戦史叢書62 1973, pp. 195–203南東砲煙への陸軍部隊の輸送及び護衛
  156. ^ 戦史叢書102巻141頁「昭和17年(1942年)9月19日〔62-197、77-721〕」
  157. ^ 戦史叢書62 1973, pp. 196–202沖輸送及び護衛
  158. ^ 戦史叢書79 1975, pp. 366a-367沖輸送
  159. ^ 戦史叢書83 1975, pp. 162a-164陸軍兵力の南東方面への輸送(沖輸送)
  160. ^ 戦史叢書85 1975, pp. 115–116沖輸送船団
  161. ^ 戦史叢書83 1975, p. 162b.
  162. ^ 戦史叢書62 1973, p. 197.
  163. ^ 戦史叢書83 1975, p. 164a香港からの輸送
  164. ^ 戦史叢書62 1973, pp. 201a-202香港発の沖輸送
  165. ^ a b c 戦史叢書62 1973, p. 201b.
  166. ^ a b c 戦史叢書83 1975, p. 164b.
  167. ^ #第1南遣艦隊日誌(3) p.24〔 (1)香椎ハ冲輸送ニ従事八日「ラバウル」着陸軍部隊ヲ揚陸即日發十九日昭南着 〕、同戦時日誌 p.28〔 四.参考 麾下艦船部隊ノ行動 昭和十七年十月 第一南遣艦隊 〕
  168. ^ #第1南遣艦隊日誌(3) p.37〔 四.参考 麾下艦船部隊ノ行動 十一月 第一南遣艦隊 〕
  169. ^ #第1南遣艦隊日誌(3) p.50〔 四.参考 麾下艦船部隊ノ行動 第一南遣艦隊 〕
  170. ^ a b c 昭和18年1月9日(発令1月7日付)海軍辞令公報(部内限)第1027号 p.20」 アジア歴史資料センター Ref.C13072089000 
  171. ^ 昭和18年1月22日(発令1月20日付)海軍辞令公報(部内限)第1038号 p.15」 アジア歴史資料センター Ref.C13072089400 
  172. ^ 戦史叢書92 1976, pp. 80–81緬甸方面軍の創設と海軍との西向き作戦合同研究
  173. ^ 昭和18年4月15日(発令4月15日付)海軍辞令公報(部内限)第1093号 pp.39-40」 アジア歴史資料センター Ref.C13072090500 
  174. ^ 戦史叢書92 1976, p. 106南西方面艦隊兵力部署の概要
  175. ^ a b #第1南遣艦隊日誌(5) p.5〔 (ハ)豪州印度間ノ輸送状況ニ鑑ミ八五一空大艇ノ一部ヲ「スマトラ」南西岸ニ進出セシメラルル事トナレルヲ以テ同航空隊ト協同調査ノ結果「シボルガ」ニ設置ニ着手/(二)豫テ「ニコバル」諸島方面基地調査中ノ処「カーニコバル」島「トリンカツト」島ニ飛行場適地アリ殊ニ「カーニコバル」島ハ大飛行場造成可能ナルヲ以テ防備兵力ノ配備ト相俟テ造成ノ事トス 〕
  176. ^ 戦史叢書92 1976, pp. 58–59第二十五軍のマレー、スマトラ方面配備概要
  177. ^ 戦史叢書92 1976, pp. 93–94アンダマン、ニコバル群島の防衛強化
  178. ^ 戦史叢書92 1976, p. 94.
  179. ^ #第1南遣艦隊日誌(5) p.7〔 二.参考 麾下艦船部隊ノ行動 昭和十八年五月 第一南遣艦隊 〕
  180. ^ #第1南遣艦隊日誌(5) pp.14-15〔 麾下艦船部隊ノ行動 第一南遣艦隊 〕(昭和十八年六月)
  181. ^ a b 日本軽巡戦史、388ページ
  182. ^ #第1南遣艦隊日誌(5) p.20〔 香椎掃七屏東丸ヲ以テ12abg増勢部隊ヲ二十四日昭南發ニテ「ブレア」ニ輸送二十八日同地着香椎ハ即日發昭南ニ屏東丸ハ荷役終了後雁護衛ノ下ニ彼南ニ皈投セシム 〕
  183. ^ a b #第1南遣艦隊日誌(5) p.29〔 (四)陸軍部隊輸送 當方面行動中ノ16S(球磨)ノ協力ヲ得テ陸軍部隊八〇〇名ヲ「ベラワン」ヨリ「ブレア」ニ輸送(第一次十八日ベラワン発十九日ブレア着ペナン補給、第二次二十四日ベラワン発二十五日ブレア着)香椎 屏東丸(占守一壽礁ヨリ護衛)ヲ以テ(十七日昭南發ベラワン二十日發)陸軍部隊軍需品ヲ「カーニコバル」ニ輸送セシム香椎ハ二十二日着即日發昭南ニ帰投 屏東丸ハ揚搭作業中二十三日一五一〇敵機二機ノ爆撃ヲ受ケ沈没セリ 〕
  184. ^ a b #第1南遣艦隊日誌(5) p.34〔 麾下艦船部隊ノ行動 昭和十八年八月 第一南遣艦隊 〕
  185. ^ #第1南遣艦隊日誌(5) pp.30-31〔 (八)三三一空ノ輸送 隼鷹 谷風ニテ昭南マデ輸送セラレタル三三一空ハ爾後當隊ニテ輸送スルコトトナリ二十七日香椎、w7ヲ以テ人員ヲ二十八日辰春丸ヲ以テ「サバン」ニ輸送ノ事トシ辰春丸ハ二三一設営隊ノ一部ヲ搭載セル興業丸ト共ニ昭南ヲ出港セシム(雁護衛)二十九日fo/331fgハ香椎對潜直衛中魚雷ヲ發見セルヲ以テ辰春丸 興業丸ヲ「ペナン」ニ避泊九月三日發四日「サバン」ニ入港セリ 〕
  186. ^ #第1南遣艦隊日誌(5) p.31〔 (九)二十九日fo/331fg香椎直衛中「サバン」島無線柱一〇〇度一〇浬ニ雷跡發見セルヲ以テ香椎護衛中ノw7海底敷設船大新丸護衛中ノ一號敷設艇ヲシテ9abg司令官ノ指揮ヲ受ケch21長江丸ト共ニ掃蕩ニ従事セシム 〕
  187. ^ 戦史叢書92 1976, pp. 127–129南方軍の豪北反撃作戦準備
  188. ^ 戦史叢書92 1976, pp. 133–134南西方面作戦に関する研究
  189. ^ #第1南遣艦隊日誌(5) p.46〔 麾下艦船部隊ノ行動 〕(昭和十八年九月)
  190. ^ #第1南遣艦隊日誌(6) p.9〔 麾下艦船部隊ノ行動 第一南遣艦隊 〕(昭和十八年十月)
  191. ^ #第1南遣艦隊日誌(6) p.26〔 (別表第一)麾下艦船部隊ノ行動 第一南遣艦隊 〕(昭和十八年十一月)
  192. ^ 戦史叢書92 1976, pp. 163–164英東洋艦隊来攻の情報
  193. ^ a b #第1南遣艦隊日誌(6) p.33〔 (別表第一)麾下艦船部隊ノ行動 第一南遣艦隊 〕(昭和十八年十二月)
  194. ^ a b #S1812呉練習戦隊(1) pp.14-15〔 (三)麾下艦船部隊ノ行動 〕
  195. ^ #第1南遣艦隊日誌(6) p.40〔 (ロ)我軍ノ情況 十二月三十一日附香椎ヲ主隊ヨリ除カル 〕
  196. ^ a b #S1812呉練習戦隊(1) p.4〔 (一)十二月一日附呉練習戰隊ヲ編制セラレ同日附鹿島 磐手 八雲ヲ十二月三十一日附香椎ヲ麾下ニ編入セラル 〕
  197. ^ #S1812呉練習戦隊(1) p.8〔 (イ)主要職員官氏名 〕
  198. ^ 昭和18年12月1日(発令12月1日付)海軍辞令公報(部内限)第1272号 p.48」 アジア歴史資料センター Ref.C13072094600 
  199. ^ #S18.11-12内令5巻/昭和18年12月(5) 画像23〔 内令第二千八百二十七號 佐世保鎮守府豫備艦 軍艦 香椎 右練習兼警備艦ト定メラル 昭和十八年十二月三十一日 海軍大臣 嶋田繁太郎 〕
  200. ^ #S1901呉鎮日誌(1) p.13〔 (二)麾下艦船部隊(特設ヲ含ム)ノ行動 〕
  201. ^ 戦史叢書72 1974, pp. 407–410江陰方面中國艦艇攻撃(第二、第五空襲部隊)
  202. ^ 戦史叢書72 1974, p. 459「寧海」の捕獲
  203. ^ #S1812呉練習戦隊(1) p.18〔 一月十七日仝右(宛略)機密呉鎮守府命令第二四號 呉練習戰隊司令官ハ香椎ヲシテ一月下旬準備出来次第平海ヲ呉ニ回航(曳航)セシムベシ 回航指揮官ヲ香椎艦長トス 〕、#S1812呉練習戦隊(1) p.18〔 一月二十日香椎艦長|一月二十一日〇五一六呉練習戰隊旗艦|香椎機密第二〇一九三〇番電 工事ヲ切ツメ平海曳航二月七日呉着可能ノ見込 〕
  204. ^ #S1902佐鎮日誌(5) p.50〔 三(天候略)香椎(平海ヲ曳航)佐世保發 〕
  205. ^ #S1901呉鎮日誌(2) pp.13-14〔 (二)麾下艦船部隊ノ行動(特設ヲ含ム)ノ行動 〕、#S1902佐鎮日誌(5) p.50〔 四(天候略)香椎呉着平海ノ引渡ヲ了ス 〕
  206. ^ 海防艦激闘記 2017, pp. 242–243八十島(やそしま)
  207. ^ 軽巡二十五隻 2014, p. 343八十島(やそしま)
  208. ^ 軽巡二十五隻 2014, p. 206▽しらみ潰しにされた八十島
  209. ^ #S1812呉練習戦隊(1) p.22-23〔 (四)麾下艦船部隊ノ行動 〕、同部隊戦時日誌 p.22〔 (三)所在海面ノ防衛並ニ對潜對空警戒ニ任ズルト共ニ二月十三日以降兵學校生徒乗艦實習ニ從事セリ 〕
  210. ^ #S1901呉鎮日誌(2) p.7〔 二十日附 出雲ヲ呉練習戰隊ニ編入(支那方面艦隊ヨリ) 〕
  211. ^ a b c 昭和19年3月6日(発令3月5日付)海軍辞令公報(部内限)第1356号 p.21」 アジア歴史資料センター Ref.C13072096400 
  212. ^ #S1812呉練習戦隊(1) p.32〔 (六)麾下艦船部隊ノ行動 〕
  213. ^ 高松宮日記7巻 354-355頁〔 三月二十二日(水)半晴 〕
  214. ^ #S1812呉練習戦隊(1) 画像35、令達報告等〔 三月十日海軍大臣発文書 三月十七日呉鎮守府司令長官受 (呉練習艦隊司令官通達) 官房軍機密三一二號 海軍兵学校卒業式当日同校ヘ差遣ノ皇族御乗用トシテ軍艦鹿島(予備軍艦香椎)ヲ充ツル様取計フヘシ 〕〔 三月十八日呉鎮守府司令長官発信號、三月十八日呉練習戦隊司令官受 (海軍省、海軍兵学校通達) 信令第一四一號 呉練習戦隊司令官ハ軍艦鹿島(予備軍艦香椎)ヲシテ官房軍機密第三一二號ニヨル役務ニ従事セシムベシ 〕
  215. ^ a b c #S1812呉練習戦隊(1) 画像32〔 (六)麾下艦船部隊ノ行動 〕(昭和19年3月)
  216. ^ #S1812呉練習戦隊(1) 画像35、令達報告等〔 三月十四日呉鎮守府司令長官発文書、三月十五日呉練習戦隊司令官受 機密呉鎮守府命令第一〇五號 貴官ハ麾下二艦ヲシテ三月二十二日海軍兵学校卒業海軍少尉候補生ノ江田内、大阪間輸送ニ任ゼシムベシ 〕
  217. ^ #S1812呉練習戦隊(1) p.31〔 (一)三月二十五日附香椎ヲ當隊ヨリ除カル 〕
  218. ^ #S1901呉鎮日誌(3) p.6〔 (二)麾下艦船(特設ヲ含ム)ノ行動 〕
  219. ^ 軽巡二十五隻 2014, pp. 340–341香取(かとり)
  220. ^ #S1811海護総司令部(1) p.52〔 一五(略)敵攻略部隊「グリン」島ニ上陸開始|香取ヲ當総司令部部隊ニ編入セラル 〕
  221. ^ 撃沈戦記 2013, pp. 131–133米機動部隊トラックに来襲
  222. ^ 軽巡二十五隻 2014, pp. 202–203▽寸前まで抵抗した香取の武勇
  223. ^ 戦史叢書62 1973, pp. 622–623四二一五船団の戦闘状況
  224. ^ #S1811海護総司令部(2) p.5〔 (三)南西方面航路ノ護衛強化ヲ期シ特設空母海鷹ヲ一海護衛司令部ニ編入又香椎ヲ海上護衛總司令部部隊附属部隊ニ編入セラレタリ 〕
  225. ^ a b 日本軽巡戦史554-555頁「3 対潜巡洋艦の登場(六月〜十月)」
  226. ^ 戦史叢書46 1971, pp. 597–598九 三五一五(往航)、四五三〇(復航)船団 岡戸大佐
  227. ^ 戦史叢書46 1971, pp. 599–600十一 ヒ六一(往航)、六二(復航)船団 細谷大佐
  228. ^ #S1811海護総司令部(3) p.11〔 二(略)第一護衛船團司令部及香椎ヲ附属部隊ヨリ除キ第一海上護衛隊ニ編入ス 〕、#S1904第1海上護衛隊(2) p.4〔 五月二日|第一護衛舩団司令部及香椎當隊編入 〕
  229. ^ #S1811海護総司令部(3) p.9〔 (三)第一護衛船團司令部及香椎ヲ海上護衛總司令部部隊ヨリ除キ第一海上護衛隊ニ編入シ主トシテ高速石油船團ノ護衛ニ任ゼシム 〕
  230. ^ #S1904第1海上護衛隊(2) pp.15-17〔 (四)麾下艦船部隊ノ行動(其ノ二) 〕
  231. ^ 戦史叢書46 1971, p. 606ヒ船団行動実績表
  232. ^ a b 戦史叢書46 1971, pp. 321–322特設船団司令部の設置
  233. ^ 日本空母戦史685頁
  234. ^ ぼんぼん主計長 1978, p. 48.
  235. ^ #S1904第1海上護衛隊(2) p.27〔 別表第二 舩団護衛状況(馬來直行航路)昭和十九年五月 第一海上護衛隊司令部 〕
  236. ^ 戦史叢書46 1971, p. 378b海鷹(旧名あるぜんちな丸)(三)ヒ六五船団
  237. ^ #S1906第1海上護衛隊(1) p.5〔 (ロ)淡路ヒ六五舩団(五月二十九日門司発昭南直航)ヲ護衛航行中六月二日〇二四五北緯二二度東経一二一度四二分ニ於テ敵潜水艦ノ雷撃ヲ受ケ沈没セリ 〕
  238. ^ a b 海防艦戦史 1994, p. 70.
  239. ^ 海防艦激闘記 2017, p. 231淡路(あわじ)
  240. ^ a b 日本空母戦史686頁
  241. ^ ぼんぼん主計長 1978, p. 55.
  242. ^ 海防艦激闘記 2017, pp. 154–157船団の身代わりとなった淡路
  243. ^ ぼんぼん主計長 1978, pp. 58–59.
  244. ^ ぼんぼん主計長 1978, pp. 62–63.
  245. ^ #S1811海護総司令部(3) p.32〔 四(略)「ヒ六五」船團部隊(香椎第七護衛船團司令官旗艦)〇六〇〇高雄着二〇〇〇在營沖發昭南ニ向フ 〕、#S1906第1海上護衛隊(1) p.18-20〔 (四)麾下艦船部隊ノ行動(其ノ二) 〕
  246. ^ #S1811海護総司令部(3) p.34〔 一一(略)ヒ六五船團部隊一三五〇昭南着 〕
  247. ^ #S1811海護総司令部(3) p.36〔 一七(略)ヒ六六船團(旗艦香椎海鷹千振海防艦七及十一號)部隊〇四〇〇昭南發 〕
  248. ^ 戦史叢書46 1971, p. 378c海鷹(四)ヒ六五船団
  249. ^ #S1906第1海上護衛隊(1) p.34〔 別表第二 舩団護衛状況(馬來直行航路)昭和十九年六月 第一海上護衛隊司令部 〕
  250. ^ 戦史叢書46 1971, pp. 380b-381神鷹(旧名獨商船シャルンホルスト号)(一)ヒ六九船団
  251. ^ 護衛空母入門 2005, pp. 258–260「神鷹」
  252. ^ a b 日本空母戦史690頁
  253. ^ #S1811海護総司令部(3) p.53〔 一三(略)「ヒ六九」船團(第五護衛船團《旗艦》香椎 神鷹其他)一六〇〇 六連發 大鷹 海鷹輸送任務ヲ帯ビ「マニラ」迄右船團ト同行 〕
  254. ^ #S1906第1海上護衛隊(2) p.28〔 別表第二 舩団護衛状況(馬來直行航路)昭和十九年七月 第一海上護衛隊司令部 〕
  255. ^ a b 戦史叢書46 1971, p. 681a.
  256. ^ #S1811海護総司令部(3) p.55〔 二〇(略)「ヒ六九」船團二一〇〇「マニラ」着/「ヒ六八」船團一三〇〇「マニラ」着 〕
  257. ^ #S1811海護総司令部(3) p.56〔 二五(略)「ヒ六九」船團部隊昭南ニ向ケ〇五三〇「マニラ」發 〕
  258. ^ 日本空母戦史692頁
  259. ^ #S1811海護総司令部(3) p.57〔 三一(略)「ヒ六九」船團部隊昭南着 〕
  260. ^ 日本軽巡戦史、408-409ページ
  261. ^ 軽巡二十五隻 2014, pp. 322–324北上(きたかみ)
  262. ^ a b #S1907十六戦隊日誌(1) p.53〔 二日一一四六GKF参謀長|二日一四五五香椎(16S司令官 1KEg)第五船団護衛司令官|北上應急修理完成近日「マニラ」発佐世保ニ同航ノ予定ノ所常用シ得ル速力一五節以下ナルヲ以テ適當ナル船団ニ續行セシメ度 今ノ處ヒ七〇(香椎)船団ヲ最適当ト認メラルルニ就テ貴団ノ都合竝ニ行動予定至急知ラサレ度 〕
  263. ^ #S1907十六戦隊日誌(1) p.55〔 二日一八三五 五護衛船団司令官|二日二〇〇〇GKF長官 16S 1KEg各司令官|五日午前昭南発佛印東岸台湾海峡ヲ経テ門司直航速力十一節予定 航路(「ルソン」海峡ヲ避ケ極力西寄ニ選ブ)続報 〕
  264. ^ #S1907十六戦隊日誌(1) p.59〔 六日一八一七北上艦長(宛略)本艦左ニ依リ佐世保ニ回航ノ予定 一.九日〇五〇〇「マニラ」発十日一三〇〇頃N一七-五五E一一六-一五附近ニ於テ「ヒ七〇」船団ト合同 爾後同船団ト同航十六日一三〇〇佐世保着(以下略) 〕
  265. ^ 護衛空母入門 2005, p. 259.
  266. ^ #S1907十戦隊日誌(2) p.37〔 五(天候略)?霜月ヒ七〇船団護衛横須賀ニ向ケ昭南発/一〇〇〇浦風昭南ニテ出渠 〕
  267. ^ 戦史叢書85 1975, p. 290.
  268. ^ 戦史叢書46 1971, pp. 384–385ヒ七一船団の被害
  269. ^ 海防艦戦史 1994, pp. 73–74.
  270. ^ 海防艦激闘記 2017, p. 226佐渡(さど)
  271. ^ a b #S1908第1海上護衛隊(1) p.45〔 別表第二 舩団護衛状況(馬來直航々路)昭和十九年八月 第一海上護衛隊司令部 〕
  272. ^ #S1811海護総司令部(4) p.12〔 五(略)「ヒ七〇」船團八隻香椎(五ES旗艦)神鷹 霜月 千振 佐渡 第一三、一九號海防艦四日二一〇〇昭南發 〕
  273. ^ 戦史叢書46 1971, p. 381a神鷹(二)ヒ七〇船団
  274. ^ 日本軽巡戦史 409-411ページ、#S1907十六戦隊日誌(1) p.41〔 北上ハ九日「マニラ」發高速船團ニ加入シテ十四日佐世保着爾後本修理ニ従事中ナリ 〕
  275. ^ #S1811海護総司令部(4) p.14〔 一五(略)「ヒ七〇」船團部隊一四三〇門司着|雲鷹ヲ附属部隊ヨリ除キ第一海上護衛部隊ニ編入ス 〕、#S1907十戦隊日誌(2) p.4〔 (ハ)第四十一駆逐隊 冬月内地方面霜月「リンガ」方面ニアリテ夫々訓練警戒待機ニ従事中ノ所霜月四日「リンガ」発昭南着ヒ七〇船團護衛五日同地発横須賀ニ回航同隊十日附第七基地航空部隊ニ編入爾後ノ経過當司令部ト別動中ニ付詳細不明(同艦戦時日誌参照) 〕
  276. ^ #S1908第1海上護衛隊(1) p.10〔 香椎|自八月十九日至八月二十四日|呉海軍工廠|舩体兵器機関ノ整備 〕
  277. ^ 戦史叢書46 1971, p. 382b雲鷹(旧名八幡丸)(一)ヒ七三船団
  278. ^ 護衛空母入門 2005, pp. 250–251「雲鷹」
  279. ^ #S1904雲鷹日誌(3) p.4〔 24日ヒ73船団六連沖ニ集合 〕
  280. ^ a b 日本空母戦史698-703頁「雲鷹も沈没(九月)」
  281. ^ 撃沈戦記 2013, p. 24.
  282. ^ #S1811海護総司令部(4) p.17〔 二五(略)ヒ七三船團(五ES《旗艦》香椎 雲鷹 千振 海一、三、一三、一九、二一、二七號)〇六三〇門司發(略) 〕
  283. ^ a b 戦史叢書46 1971, p. 382a.
  284. ^ 撃沈戦記 2013, pp. 25–27運命のヒ七四船団
  285. ^ #S1904雲鷹日誌(3) p.24〔 9日|ヒ74船団ヲ編成ス/11日|1100出撃 〕
  286. ^ 戦史叢書46 1971, p. 382c雲鷹(二)ヒ七四船団
  287. ^ #S1904雲鷹日誌(3) p.48〔 五.我兵力ノ現状 〕
  288. ^ 終わりなき海軍 1978, p. 100.
  289. ^ a b c 護衛空母入門 2005, p. 251.
  290. ^ 撃沈戦記 2013, p. 26.
  291. ^ #S1904雲鷹日誌(3) p.35〔 0034|右100度1000米ノ「あづさ丸」ニ水柱ヲ認メ被雷ト判断シ取舵一杯両舷第二戦速トナス再度ノ被雷ニ因リ「あづさ丸」大火災トナル 〕
  292. ^ 海防艦激闘記 2017, pp. 157–158海面に浮かぶ雲鷹の遺品
  293. ^ #S1904雲鷹日誌(3) p.45〔 0755沈没ス(北緯19度8分東経116度33分)|1230生存者総員27号海防艦、千振ニ救助サル 准士官以上仝待遇者55名 下士官兵706名(便乗者含) 〕、#S1908第1海上護衛隊(2) p.14〔 (五)ヒ七四舩団十七日〇〇三五北緯一九度一五分東経一一六度三三分ニ於テ敵潜ノ雷撃ヲ受ケあづさ○沈没 雲鷹大破セシヲ以テ十七日高雄着予定ノ「モタ二六」舩団ヨリ春風 海九 海二六ヲ以テ救難ノ爲現場ニ急行セシムルト共ニ大艇ヲ以テ掃蕩セントセシモ遂ニ〇七五五沈没セリ 〕
  294. ^ #S1908第1海上護衛隊(2) p.45〔 別表第二 舩団護衛状況(馬來直航々路)昭和十九年九月 第一海上護衛隊司令部 〕
  295. ^ #S1908第1海上護衛隊(2) p.10〔 香椎|自九月二十四日至九月三十日|佐世保海軍工廠|入渠工事、舩体兵器機関ノ修理整備 〕、#S1908第1海上護衛隊(3) p.9〔 香椎|自十月一日至十月十九日|佐世保海軍工廠|入渠諸修理工事 〕
  296. ^ #S1908第1海上護衛隊(3) p.55〔 別表第二 舩団護衛状況(馬來直航々路)昭和十九年十月 第一海上護衛隊司令部 〕
  297. ^ a b #S1908第1海上護衛隊(4) p.52〔 別表第二 舩団護衛状況(馬來直航々路)昭和十九年十一月 第一海上護衛隊司令部 〕
  298. ^ 戦史叢書102巻266頁「昭和19年(1944年)11月15日 海軍戦時編成改訂(第101戦隊〈軽巡1・海防艦6〉を編成して海軍護衛総司令部部隊に編入」
  299. ^ #S1811海護総司令部(4) p.64〔 一五(略)香椎 對馬 大東 鵜来 海防艦二十三 二十七 五十一號ヲ以テ第一〇一戰隊編成シ海上護衛総隊司令部々隊ニ編入ス(略) 〕、#S1908第1海上護衛隊(4) pp.5-6〔 十五日|(略)香椎當隊作戰指揮ヲ解カル 對馬 大東 鵜来 第二十七号海防艦 第二十三号海防艦 第五十一号海防艦ヲ當隊ヨリ除カル 香椎 對馬 大東 鵜来 第二十七号海防艦 第二十三号海防艦 第五十一号海防艦ヲ以テ第一〇一戰隊ヲ編制ス 第一〇一戰隊ヲ當隊ニ編入セラル 〕
  300. ^ 昭和19年11月18日(発令11月15日付)海軍辞令公報(部内限)第1646号 p.8」 アジア歴史資料センター Ref.C13072102000 
  301. ^ 戦史叢書85 1975, pp. 273–274護衛及び対潜作戦(十九年七月~二十年二月)/概観
  302. ^ 日本軽巡戦史、622ページ
  303. ^ 大井篤 2014, p. 364.
  304. ^ 海防艦三宅戦記 2013, p. 116
  305. ^ #S1908第1海上護衛隊(4) pp.32-34〔 (五)麾下艦舩部隊ノ行動(其ノ四) 〕
  306. ^ 海防艦三宅戦記 2013, p. 117.
  307. ^ 日本軽巡戦史、623-624ページ
  308. ^ 戦史叢書46 1971, pp. 457–458第一海上護衛隊(第一護衛艦隊)の護衛作戦/概要
  309. ^ 海防艦戦史 1994, pp. 129–130第一護衛隊、第一護衛艦隊に昇格
  310. ^ 戦史叢書102巻270頁「昭和19年(1944年)12月10日 第1護衛艦隊を新編(第1海上護衛隊廃止)し海上護衛隊総司令部部隊に編入(司令長官岸福治中将)」
  311. ^ 戦史叢書46 1971, pp. 421–423第一護衛艦隊の編成
  312. ^ 戦史叢書46 1971, p. 422.
  313. ^ 日本軽巡戦史、624ページ
  314. ^ #S1908鵜来日誌(3) p.6〔 一九(天候略)|第一〇一戰隊|ヒ八五船團直衛|一二〇〇転錨ノタメ門司出港/一二四五六連沖仮泊/一三三〇昭南ニ向ケ出港|ヒ八五船団護衛 護衛艦、香椎、対馬、鵜来、大東、海二七、海二三、海五一、駆潜六(高雄迄) 〕
  315. ^ 日本軽巡戦史、625ページ
  316. ^ 海防艦三宅戦記 2013, pp. 119–120.
  317. ^ 海防艦激闘記 2017, pp. 122–123.
  318. ^ 海防艦戦史 1994, p. 143.
  319. ^ 海防艦激闘記 2017, p. 124.
  320. ^ 海防艦戦史 1994, p. 145.
  321. ^ a b 戦史叢書46 1971, p. 464.
  322. ^ 日本軽巡戦史、625-626ページ
  323. ^ 海防艦戦史 1994, p. 142.
  324. ^ 日本軽巡戦史、626-627ページ
  325. ^ 大井篤 2014, pp. 362–364決死の油輸送に終止符うたる
  326. ^ 日本軽巡戦史、627-629ページ
  327. ^ 戦史叢書46 1971, pp. 553–554空母機動部隊による海上交通破壊戦
  328. ^ ニミッツ 1962, p. 404.
  329. ^ ニミッツ 1962, p. 410.
  330. ^ 撃沈戦記 2013, pp. 55–56.
  331. ^ ニミッツ 1962, p. 412.
  332. ^ 撃沈戦記 2013, pp. 51–53.
  333. ^ 海防艦戦史 1994, pp. 139–142ベトナム沖の大出血(昭和二十年一月)
  334. ^ 大井篤 2014, p. 366.
  335. ^ a b c d 戦史叢書46 1971, p. 465.
  336. ^ 日本軽巡戦史、629-631ページ
  337. ^ #S1908鵜来日誌(3) p.26〔 二六|航海中|(天候略)|ヒ八六船團直衛|〇六四五キノン湾出港/〇八五五敵機動部隊ト交戰/二二〇〇 三亜ニ向ケ避退|香椎、海二三、海五一及八六船團一〇隻沈没 〕、#戦隊行動調書 p.28〔 20.1.-1.12 昭南-内地ヒ86船団護衛/1.12 船団護衛中仏印キノン北方ニ於テ敵機動部隊ト交戦船団部隊全滅 〕
  338. ^ 大井篤 2014, p. 368.
  339. ^ 大井篤 2014, p. 367昭和20年1月12日午後仏印東海岸における米機動部隊の日本船団攻撃時の態勢
  340. ^ a b c 日本軽巡戦史、631ページ
  341. ^ 大井篤 2014, p. 369.
  342. ^ #S1908鵜来日誌(3) p.36〔 〃(一月十二日)一四五〇 海二七艦長|鵜来艦長|我香椎ノ乗員ノ救助ニ當ル貴艦ハ周圍ヲ警戒セヨ|信號 〕
  343. ^ 軍艦香椎顕彰碑
  344. ^ 戦史叢書46 1971, p. 466.
  345. ^ a b 大井篤 2014, pp. 370–371.
  346. ^ 海防艦戦史 1994, pp. 144–145〈海防艦五隻の情況〉
  347. ^ 戦史叢書46 1971, pp. 456–457護衛作戦の概況
  348. ^ 昭和20年5月21日(発令1月12日付)海軍辞令公報(甲)第1805号 p.42」 アジア歴史資料センター Ref.C13072104900 

関連項目

外部リンク