輔子内親王(ほしないしんのう)は、村上天皇の第7皇女。母は中宮・藤原安子(右大臣・藤原師輔の娘)。伊勢斎宮。同母兄弟姉妹に冷泉天皇、為平親王、円融天皇、承子内親王、資子内親王、選子内親王。二品。
経歴
応和元年(961年)11月、妹の資子内親王とともに父である村上天皇との対面の儀を行う。応和4年(964年)4月に母の安子が死去。康保2年(965年)8月27日、初笄を行う。康保4年(967年)5月には父の村上天皇が崩御。
安和元年(968年)7月1日、冷泉天皇代の斎宮に16歳で卜定され[1]、同年12月25日(969年)に右近衛府を初斎院に定めて入った[2]が、翌安和2年(同969年)11月4日、冷泉天皇の譲位によりそのまま退下した[3]。正暦3年(992年)3月3日、40歳で死去。
輔子内親王の死については、『大鏡』に「御物のけこはくてうせ給にき」(生霊死霊などの祟りが強くて亡くなられた)とあり[4]、同母兄・冷泉天皇と同じく精神を患った可能性がある。
脚注
- ^ 『日本紀略』安和元年七月一日壬午条
- ^ 『日本紀略』安和元年十二月廿五日癸酉条
- ^ 『日本紀略』安和二年十一月四日丁未条
- ^ 『大鏡』「右大臣師輔」
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大宝律令施行(701年)以後で、内親王と公称した人物とする。 |
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