由布院温泉(ゆふいんおんせん)は、大分県由布市(旧国豊後国速見郡)にある温泉。由布岳(標高1,584m)の麓に広がる温泉地である。
温泉湧出量、源泉数ともに全国2位の豊富な湯量を誇る[1]。1959年5月5日に湯平温泉とともに「湯布院温泉」として国民保養温泉地に指定され、2019年10月4日には、由布市内の塚原温泉・庄内温泉・挾間温泉を含めた「湯布院温泉郷」として拡充指定された[2][3][4]。
1925年(大正14年)、大分東線が延伸して、温泉の玄関口となる北由布駅(現在の由布院駅)が開業。この頃から避暑地として知られており[5]、大分方面からのアクセスは向上したが、ひなびた温泉地であることには変わりなく、団体観光客向けの大型ホテルや歓楽街は整備されていなかった。しかし後に、それがプラスに転じた。
昭和40年代から町ぐるみで毎年夏に映画祭や音楽祭を開催し、歓楽色を排して女性が訪れたくなるような環境整備を続けてきた。バブル期の大型開発計画には適正な規模や景観を守るため抵抗。人気の過熱が続く現在も、温泉のあり方についての模索が続いている。
温泉湧出量は全国2位の量である。源泉の数は852本存在し、これは別府温泉に次いで全国第2位である。
由布院駅から温泉街の方向に延びる通称「由布見通り」や、そこから金鱗湖(きんりんこ)に続く「湯の坪街道」(ゆのつぼかいどう)には、しゃれた雑貨屋やレストランが並び、周辺には各種の美術館が点在する。この付近は近年商店の出店が激しく、2006年1月現在のこの近辺の地価は、人口10万人以上の大分市・別府市に次いで、大分県内で3番目となっている。このことからも温泉街のにぎわいの様子が見て取れる。
各宿泊施設はにぎやかな町並みから外れた周辺の川端や林の間、丘の上などに点在している。湯量が豊富で広い範囲で湯が湧くため、旅館が一箇所に集積する必要が少なかったことから、一軒の敷地も比較的広く、町の造りはゆったりとしている。しかも開発規制により高層の巨大旅館・ホテルもなく、田園的な名残を残している。なお、ネオンサインの煌く歓楽街は無い。また、このようなまちづくりに深く関わってきた由布院玉の湯、亀の井別荘をはじめとして高級旅館が多い。
このような特徴から、由布院温泉は、数多くの調査で九州の温泉の第1位に選ばれている [6] [7] [8] 。連休には多くの人が訪れ、湯の坪街道には人があふれる。昭和の大規模温泉街に多く見られた歓楽性を極力排しており、女性に特に人気が高い。逆に、そうした客層を目当てにした外部資本の観光・土産物業者が進出してきており、田園的な雰囲気を損ねているとの指摘がある。
豊富な湯量のおかげで安価な値段で入浴できる共同温泉も多い。金鱗湖脇には一般客も入浴できる簡素な下ん湯(したんゆ)がある。その他に土地の人だけが利用できる共同温泉が各所にある。
古くは豊後国速見郡に点在する別府十湯の一つに数えられていたが、大正時代の行政区画の変更により塚原温泉とともに別府十湯から外れた。その結果、別府温泉は現在の別府八湯の形となった。
大正時代
由布院観光の始まりは逓信大臣・元田肇と関係を大きく築いていた南由布村郡会議員の豪商・小野金三郎による別府~由布院間の幹線道路の開通と大湯鉄道の建設により交通網の充実により湯布院温泉の礎となった。由布院の黎明期は、明治以降、主として大正期にあると言え、1925 年(大正 14 年)7 月の鉄道開業が、外とつながる由布院の黎明期を画したといえる。この鉄道は、町の西端を通過するだけの計画であったが、小野金三郎たちが馬蹄形に曲げて町の中心部まで誘致し、由布岳を正面に仰ぎ見る場所に由布院駅(開業当初の名称は北由布駅)を設置した。このカーブを金三郎の金からゴールドカーブと呼ぶ。それが今日の散策型温泉観光地としての重要な要件となっている。
由布院~別府間の道路は、山すそを縫う小道で牛馬の背でしか物資を輸送することができず、由布院の産業・観光の発展は交通の整備が最重要課題であった。こうした交通不便に対し、当時すでに別府港道路開削期成会(会長小野金三郎、それまでの県議会議員)が結成され、県の認可も得て、後は着工を待つのみであった。その後を受けて小野金三郎は土地提供し県議会議員になった佐藤松治郎は、旅館紫明館を経営しながら私財を投げうって別府港道完成のため日夜奔放し、血のにじむような努力を重ねた。道路工事は明治43年着工し難工事であったが、大正2年に完成した(工事費7万5千円)。北由布村の村人は当時、この道を「松治郎道」と呼んで尽力を称えた。また、大正4~5年、7~10年、村民の衆望を担って北由布村長も勤めた。大正13年、村人は佐藤松治郎の功績を称え、由布登山口に「佐藤松治郎君頌徳碑」を建立した。
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