渡辺 えり(わたなべ えり、1955年〈昭和30年〉1月5日 - )は、日本の女優。演出家、劇作家、作詞家、日本劇作家協会会長。2022年よりファザーズコーポレーション所属[1]。本名および旧芸名は渡辺 えり子(わたなべ えりこ)。
山形県山形市村木沢出身で、5歳のときに同市美畑町に転居[2]。幼少期から演劇に興味を持ちはじめ、中学生のころに「将来は東京で演劇をやりたい」と思いはじめた[2]。
山形県立山形西高等学校在学中は、演劇部に所属していた[3][注 1]。高校卒業後、18歳で上京して舞台芸術学院(以下、舞芸と表記)に入学して本格的に演劇を学んだ後、劇団「兼八事務所」に参加[2]。
1978年、23歳のときに舞芸の同期生のもたいまさこらと「劇団2○○」(げきだんにじゅうまる)を結成(1980年に「劇団3○○」(げきだんさんじゅうまる)と改名)。以降、舞台作品において“作(脚本)・演出・出演”の三役をこなす。
1982年、幻児プロの『ウィークエンド・シャッフル』にて映画初出演し、1983年のNHK連続テレビ小説『おしん』へのドラマ出演など、活動の場を広げた。また同年、『ゲゲゲのげ』で岸田國士戯曲賞受賞 [注 2]して劇作家として認められた[2]。
1996年6月9日、「劇団3○○」所属の12歳年下の若手俳優・土屋良太と東京都渋谷区の代々木八幡宮で挙式。仲人は5代目中村勘九郎が務めた。
1997年「劇団3○○」解散した後、2001年に演劇を含めた企画集団「宇宙堂」を結成(その後「オフィス3○○」に改名)[2]。
2006年4月に関東学院大学工学部客員教授に就任し、現代芸術論を担当。
2007年9月26日、芸名を「渡辺 えり子」から「渡辺 えり」に変更したことを9月27日に公表した。人形劇団結城座自主公演『森の中の海』(同年11月19日より・於下北沢スズナリ)で、作と演出を務める。客演として稲荷卓央(唐組)を迎え、人形と役者の共演を初演出する。
2008年4月1日からシス・カンパニーが所属事務所になった。同年5月10日から6月8日シス・カンパニープロデュース公演『瞼の母』(主演:SMAP・草彅剛)で演出を担当した。
2016年3月1日から日本劇作家協会副会長[4]を、2018年から同会長を務める[5]。
2019年4月1日、土屋良太との離婚を所属事務所の公式ホームページで発表[6][7]した。
2021年4月12日、12年間所属したシス・カンパニーを円満退社して個人事務所「渡辺えり事務所」を立ち上げることを発表した[8]。
小学校の教員をする父、農協で働く母[5]と弟と祖母のもとで育った。幼いころは、母の実家で叔父や叔母との同居生活だった[2]。当時は父から宮沢賢治や高村光太郎の作品の読み聞かせ、祖母からは地元の民話を聞いて過ごした[注 3]。
小学校入学後、太っていたことが原因でいじめに遭い[注 4]、人と会うのが怖くなったため2年生の途中までは学校を休みがちだった[5]。2年生のときに学芸会で演じた“犬のお母さん”役を褒められ、3年生のころは担任から作文や歌を褒められた[2]。これにより自信を取り戻していじめを乗り越え、その後学級委員も務めた[2]。
中学に入ってからは、文化祭の劇で脚本と演出を手掛けるようになった[2]。またこのころ、生徒会の役員や合唱部の部長も務めた[2]。その後父から「(県内有数の進学校である)山形西高校に入ったら卒業後に上京して演劇をやってもいい」と告げられた。必死に勉強して合格したが、その途端父から「そんな約束をした覚えはない」と言われたため、高校卒業までの3年間はこれを巡って父とよくケンカになったという[2]。
高校卒業後、父の反対を押し切って上京し舞台芸術学院(舞芸)に入って2年間仲間と演劇に打ち込んだ。卒業後、同学院講師の1人・兼八善兼(かねはちよしかね)や仲間とともに劇団「兼八事務所」を立ち上げ、作品を上演しはじめた。同時期に「劇団青俳」の裏方の手伝い[注 5]や「劇団青俳」の同期に当時美輪明宏の弟子がいた繋がりで[2]、美輪の舞台の演出助手も経験した[9]。
23歳のときに舞芸や「兼八事務所」の仲間たちと「劇団2○○」を立ち上げたが、当初はなかなか観客が集まらなかった[注 6]。しかし、その後口コミで徐々に評判となり、いつの間にか立ち見が出るようになった[2]。1982年に上演した『ゲゲゲのげ』では、100席の小劇場に350人もの観客が来場した[2]。
1997年、さまざまな要因により「劇団3○○」を解散し[注 7]、以後「好きなことだけやろう」と思って色々と仕事を続けた[2]。しかしその後、とある舞台で大きな“壁”を乗り越えたことが自信に繋がり[注 8]、「宇宙堂」を立ち上げることとなった[2]。
さかのぼって上京してからの約10年間は貧しい劇団員で食費や家賃の支払いに困り、一時はアルバイトを3つかけもちするほどだった[5]。その後、岸田國士戯曲賞受賞により雑誌の原稿を書く仕事を依頼されるようになり[2]、原稿料で何とか食べていけるようになった[5]。ただし、当時住んでいた六畳一間のアパートの家賃まではまかないきれず、その後もときどき滞納せざるを得なかった[5]。
同年、NHKから朝ドラ『おしん』への出演を依頼されると、当時劇団が1年間活動を休止していたため引き受けることができた[2]。同作でヒロインのおしんをいびる兄嫁・とら役を演じたが、当初の出演はドラマ中盤に数シーンだけの予定だった[2]。しかし渡辺の出演回の放送を見た、原作者・橋田壽賀子に演技を気に入られ、最終的にとらの老婆時代まで出演シーンが増えた[注 9]。本作のギャラで滞納していた家賃を払い、この出演を機に仕事の依頼が増えたことで以降滞納せずに暮らせるようになったという[5]。
劇団を旗揚げしようと思ったのは、上京後の18歳のころに舞台『盲導犬』を観劇して主演の蟹江敬三の芝居に衝撃を受けたことがきっかけ[10][11]。
18代目中村勘三郎とは、歌舞伎のアシスタントを務めたり勘三郎のテレビ番組でサポートを務めることも多く、昔から酒をよく飲み語り合う仲だった。勘三郎の名跡を継ぐ前である勘九郎時代に舞台の台本を書くためにと、彼の自宅の空いている部屋を借りる話があった。勘九郎曰く「この人(渡辺)と出会ったのはよかったよ。最高だよ」と、冗談ぽく、しかし信頼をおいて渡辺を評する。そんな勘九郎のことを渡辺は、オフでは「哲明さん」と本名で呼ぶことが多かった(『しのぶとえり子のふっふっふ』にて)。
先述のとおり美輪明宏とは、渡辺が20代前半のころから親しくしている。演劇人として駆け出しのころに美輪の舞台で裏方を務めた際、制作スタッフから小道具の金の器を予算1000円以内で作るよう指示された。工夫して器を完成させたところ、豪華な壺のような出来栄えに美輪から褒められてとても喜んだという[注 10]。また、「劇団3○○」への改名[注 11]や、自身の芸名“渡辺えり”への改名[注 12]は、美輪の助言によるものである[2][9]。
宇梶剛士は、役者修行の身だった彼を美輪から託されて「劇団3○○」で演技指導し[12]、舞台を経験させた。このため宇梶は、「未だに(渡辺には)頭が上がらない」とたびたび発言している。
高畑淳子とはお互いに舞台女優出身で10年来の飲み仲間で親友の一人でもあり、2024年3月18日放送の『徹子の部屋』に二人で仲良く出演している。
2005年3月、『マガジン9』の発起人の一人となった[13]。しんぶん赤旗の紙上で共産党への期待も語った経験がある[14]。
憲法第9条の改正に反対している。また、平和安全法制にも反対を表明している[15]。
平成28年の熊本大地震後のバラエティ番組放送自粛に関して、当時レギュラー出演していたフジテレビ制作『バイキング』において以下の発言をしている。「(自粛に関しては『必要』という姿勢を示しつつも)、単にバラエティ番組を放送しないのではなく、内容を被災者向けに配慮するなどの措置はすべき」との考えを語り、自身の体験談も交えながら涙で訴えた[16]。
いつごろからかは不明だが、本人は「演劇の持つ力を信じ、“差別や格差をなくして平和の大切さを強く訴えたい”という思いが、演劇を続ける原動力となっています」との考えを持っている[2]。
ほか、多数
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