蟹江 敬三(かにえ けいぞう、1944年〈昭和19年〉10月28日[1][2] - 2014年〈平成26年〉3月30日)は、日本の俳優、ナレーター。本名同じ[1]。
東京都[1]江戸川区小松川出身。東京都立新宿高等学校卒業[1]。オフィステブ[3] を経て、最終所属はS&A企画[1]。
身長172cm、血液型A型[2]。長女は栗田桃子、長男は蟹江一平。
趣味はギター[1]、ゴルフ。特技は殺陣[1]。
東京都立新宿高等学校に在校中、偶然に舞台に立った際の解放感をきっかけに俳優の道を志す。元々は引っ込み思案だったという[4]。卒業後、1964年の19歳の頃に劇団青俳に研究生として入団した[5]が、その後演出家蜷川幸雄らと、青俳を脱退した岡田英次らが立ち上げた「現代人劇場」へ移籍(1968年 - 1971年)。上演第一作目『真情あふるる軽薄さ』(1969年)の演技で、徐々に役者として名が知られ始める[5]。その後蜷川や石橋蓮司らと「櫻社」(1972年 - 1974年)を旗揚げする。
1970年代は演劇活動の一方、映画やテレビの時代劇・刑事ドラマにも数多く出演し、猟奇的でエキセントリックな悪役としての出演が多かった[注釈 1]。その野性的な魅力は、日活ロマンポルノにおいて「強姦の美学」とまで讃えられた。役柄の影響もあって、1980年代前半に当時小学生であった息子である一平がいじめを受けたこともあった[6]。
『熱中時代』(第2シリーズ)以降、それまでの役柄から善人役への転身に成功、個性派俳優としてのポジションを確立し、日本人俳優屈指のバイプレーヤーと称されるようになった。活動後期には悪役を演じることはほとんどなく、ベテラン刑事や気のいいオヤジの役、主人公のよき理解者となる役を演じることが多かった[5]。2002年からは『ガイアの夜明け』のナレーションを担当した。
2013年12月末に末期の胃癌との診断を受け、2014年1月から体調を崩して入退院を繰り返した。2月から仕事に復帰したが、3月17日に生前最期の仕事となった『ガイアの夜明け』のナレーション収録後、3月19日に容体が急変して入院[7]。3月30日午前8時27分に東京都新宿区の病院で逝去[8]。69歳没。
蟹江の訃報を受けて、テレビ東京は『ガイアの夜明け』オフィシャルサイトにて追悼メッセージを掲載し[9]、中村吉右衛門[10]、松下由樹[11]、能年玲奈[12] など故人とゆかりがあった人物が追悼の辞を発表した。
テレビドラマの遺作は2014年4月5日に放送された『おとり捜査官・北見志穂18』(テレビ朝日、2013年12月収録)で、放送の際には番組冒頭及びエンディング場面の2回、追悼のテロップが流された。『ガイアの夜明け』にてナレーターを務めたのは2014年3月18日放送分が最後となった[13]。また、追悼番組としてTBSテレビは予定を変更して4月14日の月曜ゴールデン枠にて『世直し公務員ザ・公証人11』を放映し[14]、NHK総合では4月18日深夜に『ひたむきな役者人生〜蟹江敬三さんをしのぶ〜』をそれぞれ放送した[15]。
2014年5月13日、東京都の青山葬儀所でお別れの会が行なわれ、生前親しかった石橋蓮司、名取裕子ら約700人が参列した[16][注釈 2]。
本人は生前、「子供の頃からおとなし過ぎて人前に出ていくことが全然できなかった。そのコンプレックスは今でもある」と語ったことがある[5]。また役者業について、「大人しい性格だったので芝居という独特の世界に惹かれ、特に悪役や犯人役に憧れたんです。社会から逸脱した、自分とは全く違う人生を芝居の世界で体験してみたかった」とも言っていた[5]。
基本的に社交的なタイプではなく、撮影現場以外でスタッフや共演者と交流することはあまりなかった[5]。『十九歳の地図』など3作品で共演した映画監督の柳町光男はプライベートで交流があった数少ない一人で、蟹江の自宅に招くこともあった[5]。
劇団青俳の一年後輩にあたる石橋蓮司とは、現代人劇場や櫻社でも演劇活動を共にし、1972年の舞台『ぼくらが非情の大河をくだる時』では兄弟役を演じた[5]。当時について石橋は以下のように回想している。「普段の蟹江はとにかく寡黙で、自己主張をほとんどしなかった。しかし彼は日常で感じた不満や喜びなどを演技を通じて自己表現し、彼の芝居は見る人の共感を得ていました」[5]。
柳町監督は、蟹江について以下のように語っている。「有名俳優でしたがサラリーマンのような生活[注釈 3]を送っていました。普段は比類のない無口な人でしたが、撮影時は演技の幅広さに驚かされました」[5]。
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