清水 基吉(しみず もとよし、1918年(大正7年)8月31日 - 2008年3月30日)は、俳人、小説家。本名、清水基嘉(読み同じ)。
現在の東京都渋谷区の宇田川町・道玄坂、港区の青山かいわいに、生まれ育った。1925年(大正14年)、東京府青山師範学校附属小学校(現:東京学芸大学附属世田谷小学校)へ入った。1931年(昭和6年)東京市立第一中学校(現:九段高校)に進むが胸を病んで中退し、1934年16歳、正則英語学校(現:正則学園高等学校)へ転じた。
1938年(昭和13年)から4年近く、各地に転地療養し、その間の1940年横光利一を知り、翌年、句誌『鶴』の主宰者、石田波郷の門に入った。同人誌に参加し、北條誠、巖谷大四、村松定孝らを知った。
1943年(昭和18年)秋、波郷出征のあと、石塚友二と『鶴』を守ったが時局のため1年で休刊した(1946年復刊、1949年休刊、1953年復刊)。
1944年(昭和19年)26歳、小説『雨絃記』と『雁立』を、当時ただ一つ残された同人誌、『日本文学者』6月号と9月号に発表し、『雨絃記』は、昭和19年上半期芥川賞の予選を通過し、『雁立』は、同年下半期の芥川賞を得た。受賞の決定は1945年2月、すでにB-29の空襲が激しい時期であった。64ページに痩せた文藝春秋は、3月号に『雁立』を掲載して、休刊した。
この直後、鎌倉市扇ガ谷に移転し、中山義秀、永井龍男らと交わるようになった。以降、生涯を同市内の諸所に住んだ。
1948年(昭和23年)30歳、句誌『馬酔木』へ復帰した石田波郷に従い、その同人となった。1949年31歳のとき、結婚した。
俳句や小説を、投稿し続けた。
1958年(昭和33年)40歳から、句誌『日矢』を主宰した。1959年 - 1975年電通に勤務した。
1981年(昭和56年)から、里見弴、今日出海、小林秀雄、永井龍男らと鎌倉文学館設立の計画に加わり、1985年(昭和60年)の開館に漕ぎつけ、1991年(平成3年)から2004年(平成16年)まで、第2代館長を務めた。1986年から、神奈川新聞の『神奈川俳壇』の選者であった。
2008年、満90歳を目前に、前立腺ガンにより死去した。
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