小田村 四郎(おだむら しろう、1923年〈大正12年〉10月17日 - 2017年〈平成29年〉12月9日)は、日本の大蔵官僚、経営者。明成社社長。拓殖大学第16代総長、日本李登輝友の会会長(第2代)、日本会議副会長[1]などを務めた。小田村有芳の子、小田村寅二郎の弟、楫取道明の孫、千種有任・楫取素彦・楫取寿の曾孫。
経歴
東京府出身。学生時代は、日本学生協会の活動家として「現行の高校、大学には「情意の枯渇」がはなはだしい」と難じ、その刷新運動に参加した。1943年に学徒出陣[2]。
終戦後に東京帝国大学法学部に復学卒業。1947年(昭和22年)大蔵省(現:財務省)に入省。理財局国庫課に配属[3][4]。名古屋国税局長、内閣官房内閣審議室長、防衛庁経理局長などを務めた。
1976年(昭和51年)に行政管理庁事務次官に就任。1978年(昭和53年)、退官[5]。日本銀行監事を務めた。
1995年(平成7年)、拓殖大学第16代総長に就任(2003年まで)。
1997年(平成9年)5月30日、日本会議の設立大会がホテルニューオータニで開催された[6][1]。設立時の主たる役員は以下のとおり。会長:塚本幸一。副会長:安西愛子、石井公一郎、岡本健治、小田村、小堀桂一郎。事務総長:椛島有三[1]。
2007年(平成19年)7月13日に駐日アメリカ合衆国大使館に手渡されたアメリカ合衆国下院121号決議への抗議書に賛同者として名を連ねた[要出典]。
2012年(平成24年)9月5日、小田村、三宅久之、すぎやまこういちなど保守系の著名人28人は、同年9月の自由民主党総裁選挙に向けて、「安倍晋三総理大臣を求める民間人有志の会」を発足させた[7][注 1]。同日、同団体は安倍晋三の事務所に赴き、出馬要請をした[18][9]。9月26日、総裁選が実施され、安倍が当選した。
2017年〈平成29年〉12月9日、死去。
日本李登輝友の会・國語問題協議會会長、財団法人日本国防協会・社団法人亜東親善協会・防衛法学会・日本教育再生機構の各顧問、日本戦略研究フォーラム・財団法人行政管理研究センター各評議員、昭和聖徳記念財団理事、「日本の建国を祝う会」会長[19]、靖国神社崇敬会総代[要出典]、明治の日推進協議会副会長[20]などを務めた。
年表
系図
思想
- 日本会議発行の月刊誌『日本の息吹』2004年7月号で次のように述べている。
国内では、(略)極め付きの国辱的村山談話が今も政府、国民を呪縛してゐる。その上、夫婦別姓、ジェンダーフリー、ゆとり教育等の伝統破壊運動が猖獗してゐる。冷戦は自由陣営の勝利に終ったが、我が国にあっては逆に左翼思想が政権中枢を占拠するに至った。まさに文化的思想的敗北と言ふ他ない
[22]。
- 日本郷友連盟発行の機関紙『誇りある日本の再生』2005年1月号で次のように述べている。
日本国憲法の三原則即ち国民主権、平和主義、基本的人権の尊重は今後も堅持すべきだといふ論が少なくないが、これこそ現実政治の運営や国民生活とは関係ないイデオロギーにすぎないのであり、祖国を未だに混迷させてゐる元凶なのである
[23]。
関係者
- 長州藩の志士で初代群馬県令を務めた楫取素彦(小田村伊之助)を曾祖父に持つ[26]。楫取素彦は元は小田村家の養子で、長男の希家に小田村の家名を継がせた。四郎の父で実業家の小田村有芳は希家の養子であるが、母の治子は希家の実弟楫取道明の娘であり、四郎は血縁上も楫取素彦の曾孫である。曾祖母の久子は素彦の最初の妻で、吉田松陰の妹である。久子の死後、素彦は久子の妹で久坂玄瑞の妻だった美和子と再婚している。また、治子の母(母方の祖母)美寿子は千種有任の娘である。長男・芳忠の妻・昌子は三井公乗(三井高公三男)の二女。
- 日本学生協会のメンバーをもとに結成された社団法人国民文化研究会の理事長や亜細亜大学教授を務めた小田村寅二郎は兄である。
- 次男の小田村直昌は銀行員を退職後、公募民間人校長として様々な小学校の校長を務めている。2012年、大東市立三箇小学校長に就任。2015年、大阪市立関目東小学校長に就任。2018年、大阪市立泉尾北小学校長に就任[27]。小田村直昌は2019年5月8日、「『天皇陛下ご即位記念』児童朝礼」を同校で開催[28]。「愛国の歌姫」として知られ、日本会議系の集会で活躍するシンガーソングライターの山口采希[29]を全校朝礼に招き、神武天皇に関する歌や「ああ勇ましく日の丸が行くぞ」などという歌詞のオリジナル曲を児童に聴かせた。6月22日、大阪の市民団体は「児童集会で歌わせるのは極めて不適切」「憲法違反だ」と抗議し、市教育委員会に経緯や見解を問う質問状を出した[30]。
主な著書
脚注
注釈
出典
関連項目
外部リンク