向島(むこうじま)は、東京都墨田区の地名。
向島一丁目~五丁目は、墨田区中西部に位置する。
西側を隅田川、南側を北十間川が流れる。
北側は首都高速入口を挟んで堤通一丁目と接し、北東は東向島一丁目・二丁目と接し、南東は押上一丁目・二丁目と接し、南側は北十間川を挟んで吾妻橋一丁目~三丁目・業平一丁目と接している。
住宅地の地価は、2024年(令和6年)1月1日の公示地価によれば、向島3-14-6の地点で54万4000円/m2となっている[5]。
昭和6年(1931)本所区の町名として、向島一丁目・二丁目・三丁目が作られた。(現在の一丁目・二丁目・三丁目とは区分が異なる。)
従来は新小梅町、向島小梅町、向島須崎町、向島中ノ郷町であった区域で、関東大震災による焼失後に大規模な区画整理が行われ、町名が新設されたものである。
向島須崎町・向島中ノ郷町は、一部が切り離されて向島に組み込まれたが、残りの部分は、引き続き向島須崎町・向島中ノ郷町として存続した。
昭和39年(1964)6月29日、墨田区で住居表示が実施され、向島一丁目・二丁目・三丁目・四丁目・五丁目が成立した[6]。
従来は隅田公園、向島一丁目・二丁目・三丁目、小梅一丁目・二丁目・三丁目、向島須崎町、向島請地町、寺島町一丁目・二丁目であった区域である。
向島一丁目~五丁目は、大部分が旧本所区の区域であり、現在でも向島地域ではなく本所地域とされる。全域が本所税務署の管内であり、大部分が本所警察署、本所消防署の管内となっている。(旧寺島町一丁目・二丁目の部分は、向島警察署、向島消防署の管内となっている。)
向島一丁目・二丁目・五丁目の西端に首都高速6号向島線が通り、向島五丁目に向島出入口がある。
向島一丁目の南端に東武伊勢崎線(東武スカイツリーライン)が通り、とうきょうスカイツリー駅のホーム西端が地区にかかっている。
2024年(令和6年)4月1日現在(墨田区発表)の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
国勢調査による人口の推移。
国勢調査による世帯数の推移。
2021年(令和3年)現在の経済センサス調査による事業所数と従業員数は以下の通りである[13]。
経済センサスによる事業所数の推移。
経済センサスによる従業員数の推移。
区立小・中学校に通う場合、学区は以下の通りとなる(2022年9月時点)[15]。
[16]
向島には花街(花柳界)が存在し、芸妓数は100名以上を誇り、伝統文化を守り、積極的に活躍している。向島2丁目、向島5丁目付近の向島墨堤組合を中心とした地域に、料亭が点在している。
墨堤通りと国道6号の中間に、見番通り(けんばんどおり)が南北に通っている。見番通りは、言問橋東交差点から北に伸びる700m程の道路である。見番通りと国道6号との分岐点の南側には、牛嶋神社がある。見番通りには、南から、すみだ郷土文化資料館、小梅小学校、三囲神社、向島墨堤組合(見番)、弘福寺、長命寺などが隣接して建っており、北端で墨堤通りと合流する。附近には、王貞治の一本足打法のレリーフが掲げられた隅田公園少年野球場、言問団子、長命寺桜もちなどがある。ここから隅田川岸に出ると、約100m下流に桜橋があり、橋周辺の川岸に延々と桜が植えられており、現在でも墨堤の桜として親しまれている。
江戸時代、隅田川東岸のうち、隅田堤に沿った地域を向島と通称した。旧隅田村の木母寺附近から、小梅の水戸家下屋敷(墨田区立隅田公園附近)に至るまでを指すことが多い。
寛永20年(1643)頃、徳川将軍家の鷹狩の休息所として、木母寺境内に隅田川御殿が作られた(1643年頃~1786年頃まで存在。堤通2丁目、白鬚東アパート9号棟付近)。
一説には、隅田川御殿から見える中洲(東白鬚公園の一部)を指して向島と呼んだのが起源で、やがて対象範囲が拡大し、隅田川の向う側という意味に転じたという[21]。
江戸時代を通じて、向島という村名があったわけではなく、複数の村を大まかに捉えた総称であった。
徳川将軍家の鷹狩の場として自然が保全され、隅田堤への桜の植樹などが続けられたことから、風光明媚の地として文人墨客や遊山客の人気を集めた。
寛文年間(1661~1673)小梅に小梅瓦町が作られた。現在の向島一丁目の南東部に当たる。
元禄6年(1693)小梅に水戸家の下屋敷が置かれた。
明治初めに、漢詩人小野湖山が、向島の呼称は「雅馴ならず」として、夢香洲(むこうしゅう)という名を考案した[22]。この名を用いている作品に、竹久夢二『夢香洲夏夕幻影』(1910年代)がある[23]。
明治5年(1872)水戸徳川家の下屋敷を中心とした地域で新小梅町が作られた。
明治11年(1878)郡区町村編制法の施行により南葛飾郡が設置され、隅田村、寺島村、須崎村、小梅村、請地村、中ノ郷村、押上村は、南葛飾郡の一部となった。同時に本所区が設置され、新小梅町、小梅瓦町は本所区に組み込まれた。
明治22年(1889)町村制に基づき、南葛飾郡内の村が統合され、隅田村、寺島村、吾嬬村、大木村等が成立した。
同時に市制に基づき東京市が設置され、本所区は東京市内に含まれた。この際、南葛飾郡と本所区の境界が再編され、古川(流路は概ね後の鳩の街通り・新あづま通りに沿っている)及び横十間川が新たな境界となった。
須崎村、小梅村、請地村、中ノ郷村、押上村は、古川の西側は本所区に編入され、古川の東側は南葛飾郡に残り、寺島村、吾嬬村、大木村のいずれかに統合された。
明治24年(1891)本所区内の町名が再編され、「向島」を冠称した、向島小梅町、向島須崎町、向島中ノ郷町、向島請地町、向島押上町が作られた。これが「向島」が行政地名として正式に用いられた最初の例となった。
明治43年(1910)荒川水系の氾濫により隅田川両岸で大水が発生し、隅田堤が決壊して向島一帯の家屋、庭園の樹木、文化財等に多大な被害を与えた。以後、別荘地としての向島の役割は急速に終息していった。
大正元年(1912)9月、吾嬬村が人口増加に伴って町制施行して吾嬬町となった。大正2年(1913)以降、荒川放水路の建設のため用地の取得が進められ、大正3年(1914)4月には、大木村は大部分が建設用地となるため廃村となり、荒川放水路の西側に残る部分が吾嬬町に編入された。
5月、隅田川に白鬚橋(木橋)が完成した。従来、寺島村から橋場へかけて橋場の渡しが存在している箇所であるが、これに加えて、徒歩でも行けるようになった。
大正12年(1923)4月、寺島村が人口増加に伴って町制施行して寺島町となり、8月には、隅田村が同様に隅田町となった。
9月1日、関東大震災による火災で、本所区のほとんどが焼失した。帝都復興計画では、焼失した区域に対して全く新しい区割整理、道路の新設がなされ、従来の地名の再編が行われた。以後、旧来の小さな区割である○○町を統合再編して、○○一丁目~○○何丁目に改める動きが急増した。
昭和3年(1928)帝都復興計画による隅田川の橋梁として、復興局により言問橋が完成した。また、昭和6年(1931)6月には、東京府により白鬚橋(鉄橋)が完成した。昭和5年(1930)には荒川放水路が完成し、明治時代以来の懸案であった治水対策も完了した。
昭和6年(1931)本所区内の町名として、隅田公園、向島一丁目・二丁目・三丁目、小梅一丁目・二丁目・三丁目が作られた。
昭和7年(1932)南葛飾郡が東京市に編入され、隅田町、寺島町、吾嬬町が合併して向島区が新設された。これにより、北十間川から北側の地域は全て公的に向島を冠する地名となり、向島は過去最大の面積となった。
昭和22年(1947)向島区は、本所区と合併し、墨田区となった。向島区の名は消滅したが、以後、旧向島区の区域を指して向島地域と称することがある。
一方、旧本所区側には、向島一丁目・二丁目・三丁目、向島須崎町、向島請地町、向島中ノ郷町、向島押上町の名が存続し、旧本所区の町名にのみ向島の名が残ることとなった。
昭和39年(1964)から昭和41年(1966)にかけて段階的に住居表示が施行され、堤通、向島、押上、東向島、墨田、京島、文花、八広、立花、東墨田が新設された。
このときに隅田町、寺島町、吾嬬町、小梅、向島須崎町、向島請地町、向島中ノ郷町、向島押上町、隅田公園の町名が消滅したが、旧町名は以下のように公共施設等の名称としてその後も使用されている。
昭和60年(1985)隅田川に桜橋が完成した。隅田公園を向島側から今戸側へ渡ることが可能となった。
平成元年(1989)隅田川に水神大橋が完成した。白鬚東地区(堤通二丁目)から白鬚西地区(荒川区南千住八丁目(汐入))に渡ることが可能となった。
平成10年(1998)向島二丁目にすみだ郷土文化資料館が開館した。
平成24年(2012)押上一丁目に東京スカイツリー、東京ソラマチが完成した。
令和2年(2020)墨田区立隅田公園の南部に「そよ風ひろば」が完成し、東武鉄道隅田川橋梁の横に「すみだリバーウォーク」が開通し、向島一丁目の東武スカイツリーライン高架下に、東京ミズマチが開業した。
吾妻橋 | 石原 | 亀沢 | 菊川 | 錦糸 | 江東橋 | 太平 | 立川 | 千歳 | 業平 | 東駒形 | 本所 | 緑 | 向島 | 横網 | 横川 | 両国 | 押上(一部)
京島 | 墨田 | 立花 | 堤通 | 文花 | 東墨田 | 東向島 | 八広 | 押上(一部)
錦糸町
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