吉田 良三(よしだ りょうぞう、1878年(明治11年)1月10日 - 1944年(昭和19年)7月12日)は、日本の会計学者。東京商科大学(現一橋大学)名誉教授。近代簿記会計の開拓者として知られる。早稲田大学教授、東京商科大学教授、中央大学教授を歴任し、会計教育でも大きな影響力を持った。
人物・経歴
高知県高知市出身。旧姓・宇賀。海南中学校長の吉田数馬の書生となり、のち養子となる[1]。1903年東京高等商業学校(現一橋大学)専攻部領事科卒、商学士。1935年「間接費の研究」で東京商科大学より商学博士の学位を取得。1902年から早稲田大学で講師として教え、1906年から早稲田大学教授を務める。1913年から欧米に留学し、コロンビア大学で原価計算のJ・リー・ニコルソンに師事するなどした。1918年、大学昇格を目指して科目増強を図っていた母校東京高等商業学校に教授として招かれ、原価計算を担当。1924年、原価計算を太田哲三に任せ、文部省在外研究員として再留学。当時はちょうど東京高商の大学昇格にあわせ拡充がなされていた時期で、多くの教員が留学に出ており、同僚の本間喜一、渡邉大輔、大塚金之助、金子鷹之助、井藤半彌、増地庸治郎や、神戸高等商業学校から留学していた八木助市、坂本彌三郎、石田文次郎、田中金司、五百籏頭眞治郎、北村五良、平井泰太郎、名古屋高等商業学校の宮田喜代蔵、赤松要らと、日本料理店や日本人クラブで研究会を開いたり将棋をしたりするなどして交流した。帰国後東京商科大学教授となり、1936年東京商科大学附属商学専門部主事事務取扱、東京商科大学附属商業教員養成所主事事務取扱。1938年定年退職、名誉教授、中央大学商学部長となった。近代簿記会計の開拓者で、複式簿記、原価計算の事実上の大成者。日本で初めて『会計学』という本を出すなど、会計教育でも大きな影響力を持った[2][3][4][5][6]。弟子の畠中福一及び阿久津桂一は、助手着任後相次いで夭逝した[7][8]。
1944年7月13日死去、享年67歳[9][10]。
著作
論文
博士論文
記念論集
脚注
外部リンク
一橋大学学長(東京商科大学附属商学専門部主事事務取扱:1936年 - 1937年) |
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