仁明天皇(にんみょうてんのう、810年10月25日〈弘仁元年9月24日〉 - 850年5月6日〈嘉祥3年3月21日〉)は、日本の第54代天皇(在位:833年3月22日〈天長10年2月28日〉- 850年5月4日〈嘉祥3年3月19日〉)。諱は正良(まさら)。
嵯峨天皇の第二皇子[注釈 1]。母は橘清友の娘の橘嘉智子(檀林皇后)。
後年の史料になるが、『日本三代実録』元慶6年5月14日条(逸文)に、真言宗が承和2年(835年)に仁明天皇から年分度者3名を賜って「九月廿四日天皇降誕之日辰」に金剛峯寺で試度(得度候補者の試験)を行ったと記されていることから、生年月日が弘仁元年9月24日であったことが判明する。正子内親王(淳和天皇皇后)は同父母の妹でありかつ同年の生まれのため、双子の姉と推測される。ただし、正子内親王の生年は『日本三代実録』元慶3年23日条の崩御記事に記された享年からの逆算であり、天皇と内親王が双子であることを明言した史料はないこと、内親王の誕生を大同4年(809年)とする説もあることに注意を要する。平安京遷都後に誕生した最初の天皇である。
略歴
天長10年(833年)2月28日、叔父に当たる淳和天皇の譲位を受けて即位。当初、淳和天皇の皇子恒貞親王を皇嗣に立てたが、承和9年(842年)の承和の変により、恒貞は廃せられ、代わりに仁明天皇の第一皇子道康親王(文徳天皇)が立太子した。これには自らの息子に皇位を継がせたい帝の意思と、道康親王の伯父である藤原良房の陰謀があったと言われている。
承和10年(843年)、文室宮田麻呂が謀反を企てているとの告発を受け、宮田麻呂一族を流罪に処した[注釈 2]。この件の遠因は諸説あるが、承和の変の影響であるとも、良房ら藤原北家が貿易利権を独占したいとの思わくの中、同じく貿易に関与している宮田麻呂を排除した、などの説がある。
承和12年(845年)、自身の更衣であり子(貞登、当時は源登[注釈 3])をも成した三国町と、女御の藤原貞子の弟で自身の幼少期からの側近の藤原有貞の密通を疑い、地方官に左遷する[注釈 4]。
嘉祥3年(850年)3月19日に病により、文徳天皇に譲位。太上天皇位に就くことなく、2日後の同年3月21日に崩御。宝算41。
天皇は幼少時から病弱であったとされ、『続日本後紀』には7歳の頃からの様々な病歴が記載され、即位後もしばしば薬(丹薬・石薬)の調薬をして医師並みの知識を有していたとされる。また、『三代実録』の藤原良相の薨去の記事では、天皇は良相ら側近に自分が作成した薬の試飲を命じたとする記事が載せられている。『続日本後紀』嘉祥3年2月22日条には天皇が朝廷の会議に御簾を隔てて参加していたとする記事があり、既に重病であった自分の姿を見せないように御簾で隠して議論を聞いていたことが窺える(天皇はその1カ月後に崩じている)[5]。
江戸時代の儒学者の頼山陽は、天皇が恒貞親王が度々皇太子を辞退した際には受け付けず、事件にかこつけてこれを廃して自分の実子を立てたことを厳しく非難している[6]。仁明天皇の伝記を執筆した遠藤慶太も、承和の変を「易儲」(皇太子の変更)を図るための政変であるとして仁明天皇の関与・責任を重視し、「藤原良房の陰謀」とする説は政変の意義の矮小化であるとしている。
承和色
仁明天皇は菊の花を愛したことから、菊の花のような淡い黄色を、在位中の元号「承和(じょうわ)」にちなみ「承和色(そがいろ、じょうわいろ)」と呼ぶ[8]。
系譜
系図
后妃・皇子女
和風諡号・異名
和風諡号は日本根子天璽豊聡慧尊(やまとねこあまつみしるしとよさとのみこと)。和風諡号を奉贈された最後の天皇である。御陵の在所をもって深草帝(ふかくさのみかど)という異称がある。
在位中の元号
陵・霊廟
陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市伏見区深草東伊達町にある深草陵(ふかくさのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は方形。
これは文久の修復のさいに造られたもので根拠が乏しく、本来の深草陵は同区深草瓦町の善福寺周辺と考えられている。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
脚注
注釈
- ^ 『本朝皇胤紹運録』では第一皇子、『神皇正統記』・『椿葉記』では第二皇子とする。村田正志は同じ弘仁元年生まれとされている源信が、天皇よりも月日的に先に生まれたとする所伝があったと推測している[2]。ただし、村田説は大同4年(809年)以前に生まれた可能性が高い業良親王の存在に触れていない。
- ^ のち、無罪であるとされた。
- ^ 属籍を剥奪され出家。文徳天皇の治世に賄料が与えられるようになったがその後も冷遇され、天皇の薬の毒見役などをしていた。貞観8年(866年)に兄弟親王らの上奏により還俗したのちも「源」姓に復帰できず、「貞」姓を与えられた。
- ^ 有貞は文徳天皇治世の仁寿2年(852年)に中央に復帰。
- ^ 一説に『源氏物語』中の桐壺更衣のモデル。
出典
参考文献