民俗アンサンブル
ロシア民謡 (ロシアみんよう)は、本来的にはロシア の民俗 ・伝承 に基づく叙情歌をさすが、近代 以降の俗謡や歌曲 などを広義に含み、実際に「ロシア民謡」として扱われるジャンルは多岐にわたっている。
概要
ロシアにおいて、「ロマンス (ロシア語版 、英語版 ) 」と呼ばれる芸術 歌曲 に対して民謡 は「ナロードナヤ・ペースニャ」と呼ばれる。狭義のロシア民謡は、農村 で歌われてきた「叙情歌」をさし、ブィリーナ のような叙事歌謡は含まない。フォークロア としてのロシア民謡を中心的に担ってきたのは農民 であったが、職人 やスコモローフ など、中世 までに農民以外の社会層によっても歌われてきた。
18世紀 後半には、これらの民謡と西欧文化との融合によって、ロシア語 の歌詞と西欧的な和音 伴奏の形態を特徴とする「ロシア歌謡 」(後述)と呼ばれる新たなジャンルが生まれた。さらに19世紀 に入ると、都市 化の発展によって招き寄せられた農民層から御者、船曳き、兵士、盗賊、囚人など多様な社会層が派生し、それぞれが独自の民謡を持つに至る。19世紀後半には労働者 層による「仕事の歌」が重要なジャンルとなり、20世紀 初頭の革命歌 は、こうした労働歌 から生まれた。これら18世紀以降の都市に現れた通俗的あるいは芸術的歌曲も広義のロシア民謡として知られており、例えば、アレクサンドル・ヴァルラーモフ (1801年 - 1848年)作曲の『赤いサラファン 』は、芸術歌曲である「ロマンス (ロシア語版 、英語版 ) 」が民謡と思われている例である。
宗教歌の流れをくむカント と並んで、ロシア民謡はのちのロシア芸術音楽の源泉となった。また、喜劇 の舞台では俳優 たちによって民謡が歌われ、のちのコミック・オペラ につながった[ 1] [ 2] 。
叙情歌のジャンル
農村で歌われていた「叙情歌」は、儀礼歌と非儀礼歌に大別される。儀礼歌には、婚礼や葬礼、徴兵などに際して歌われる家族儀礼歌、農耕に関わる年中行事に際して歌われる農耕儀礼歌がある。
叙情歌はまた様々なジャンルをはらんでおり、内容及び歌唱形態による分類方法がある。内容による分類では、恋愛 を歌った歌、家庭 生活を歌った歌、風刺 的あるいは滑稽な内容を持つ歌などがある。歌唱形態による分類では、踊りや遊戯など体の動きを伴わないものと伴うものに分けられる。前者は「プロチャージナヤ(延べ歌)」と呼ばれ、緩慢なテンポ と規則的拍節を持たない装飾的旋律 が特徴である。後者は、「チャースタヤ(速歌)」または「チャストゥーシカ」と呼ばれ、その名のとおり速いテンポで踊り や遊戯を伴って歌われる[ 1] 。
プロチャージナヤ
プロチャージナヤは不規則なリズム 、可変的なテンポ、豊富なメリスマ 、不安定な調性 を特徴とし、ポドゴローソク(「下方の声」の意。副声部とも)と呼ばれる、ヘテロフォニー 的に多声化する伝統を持つ[ 3] 。
18世紀後半からロシア民謡が収集・出版されるようになると、プロチャージナヤの持つ詩情と際だった独創性は、まず文学 の分野で注目され、アレクサンドル・プーシキン 、アントン・デリヴィグ 、ニコライ・ツィガーノフ (ロシア語版 、英語版 ) 、アレクセイ・コリツォーフ らがプロチャージナヤをモデルにしたロシア抒情詩 の作品を残した。これに少し遅れて音楽分野でもプロチャージナヤが取り上げられ、これをイタリア 風アリア やフランス 風ロマンス の様式に作り替える試みがなされた。しかし、その独創的な民謡様式と当時の西欧音楽との隔たりの大きさから、やがて独自の「ロシア・ロマンス (ロシア語版 、英語版 ) 」のスタイルが練り上げられていくことになった[ 4] 。
チャストゥーシカ
チャストゥーシカは1870年代にグレープ・ウスペンスキー によって初めて術語として使われた呼び名で、ロシア・フォークロア の一大ジャンルを形成する。形容詞 チャーストゥイ(「速い」の意)から発するとされるが、呼称は地方によって異なる。通常4行からなり、決まった音節数(通常は8・7・8・7)を持つ即興詩を短い旋律に乗せて歌う。詩は必ず複数であることから、チャストゥーシキと複数形で呼ばれることも多い。2-4行ずつを複数人で歌い合い、詩が途切れないように競う場合もある。旋律は、地方独特のものから全国で見られるものもあり、歌われる内容は多種多様である。踊りであるプリャースカ と同時あるいは交代で歌われる。通常は楽器 による伴奏がつき、伴奏がない場合は、手やコップなどを叩いて拍子を取る[ 5] 。
ロシア歌謡
18世紀後半、エカチェリーナ2世 の時代に、アレクサンドル・スマローコフ やガヴリーラ・デルジャーヴィン など、当時の有名な詩人 によるロシア語の詩に主として鍵盤楽器 の和音 伴奏が付された世俗歌謡の形式が生まれた。これが「ロシア歌謡」である。ロシア歌謡には二つの特徴が見られる。ひとつはワルツ 、ポロネーズ など西ヨーロッパの舞曲 形式を用いていること、もうひとつは6度音程 を過剰に利用した感傷的な旋律 様式を備えていたことである。ロシア歌謡は貴族 のサロン で歌われたのを始め、市民 層にも広がり、それまで普及していたカントに取って代わるものとなった。
ロシアで最初に出版されたロシア歌謡集として知られるのが、グリゴリー・テプローフ の『余暇の暇つぶし』(1759年出版)である。さらに、ワシーリー・トルトフスキー (1776年-1795年出版)、ニコライ・リヴォフ (1790年-1815年出版)らが「ロシア民謡集」を出版したが、実質的にはこれらもロシア歌謡であった。とくにリヴォフのものは、ジョアキーノ・ロッシーニ 、ヨハン・ネポムク・フンメル 、フェルナンド・ソル 、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン (「ラズモフスキー」と呼ばれる3曲の弦楽四重奏曲 作品59におけるロシア主題)らが作曲に利用するなど、ロシア国内外に大きな影響を及ぼした。この結果、ロシア歌謡は次第に姿を変え、「ロシア・ロマンス (ロシア語版 、英語版 ) 」と呼ばれる新しい叙情歌謡のジャンルへと発展的に解消されていった[ 6] 。
ロシアに漂着した大黒屋光太夫 が、鎖国中への日本への帰国の許可をエカチェリーナ2世に直訴するため、1791年にサンクトペテルブルク 郊外のツァールスコエ・セロー に滞在中に、御苑長ブーシュの妹ソフィアが彼の身の上を憐れんで歌い聞かせたという、通称「ソフィアの歌」を光太夫は暗誦して持ち帰り、帰国後の彼への幕府による聞き取り調書『北槎聞略 』に歌詞が記録されている。北槎聞略巻之九の記述「光太夫が身のうへをブシが妹ソヒヤ・イワノウナ歌につくりてうたひはやらかし、都下一般にうたひけるとぞ」に引きずられ、ソフィアが彼のために作った歌がペテルブルク都下で流行り始めた、という解釈もあったが[ 7] 、この説は1965年に中村喜和 がレニングラード で[ 8] 、光太夫のペテルブルク到着以前に出版された歌集の中に元歌を発見したため覆された[ 9] 。元歌「異郷にありて、身はさびし Ах, скучно мне」は、19世紀から20世紀には替え歌が作られ、、抵抗歌や軍歌にもなった[ 10] 。
日本での受容
名称
「ロシア民謡」というジャンルは、日本では「民謡 」と呼ばれているにもかかわらず、その内実はロシア語 で「人民の歌 、大衆歌曲 、大衆歌謡 」(Народная песня )と呼ばれたソ連時代の多くの流行歌、愛唱歌からなっている。特に、日本では赤軍 と白軍 とのロシア内戦 や、第二次大戦 の独ソ戦 中に流行した歌が親しまれている。従って、「ロシア民謡」とは言っても、長年に歌って民間で受け継がれてきたような本来の意味での「民謡 」ではない 歌曲が多い[ 注釈 1] 。
このようなジャンル名の意味と内実とのずれは、英訳すれば「Popular song /ポピュラーソング 」になる「Народная песня 」というロシア語を「民謡」と誤訳したことが原因となっている。さらに、ソ連時代には歌も公共の財産とされたため特定の作曲者や作詞者が伏せられていた場合も多く [要出典 ] 、そうした事情をよく理解していない日本人 に「代々受け継がれてきた作者不明の民謡である」という誤解を助長する結果となった。
原則としてロシア語の歌が「ロシア民謡」と呼ばれているが、中には元々はウクライナ やベラルーシ の歌であったものも多く含まれている[ 注釈 2] 。ソ連では流行歌の常としてさまざまな替え歌も存在したが、日本ではそうした事象は反映されていない。
また、「ロシア」民謡ではあるものの現代のロシア連邦 の歌はひとつも含まれず [要出典 ] 、実質的にはソ連時代の流行歌を集めた「ソ連」民謡となっている。
ソ連での流行歌
日本の一部ではロシアの歌は物悲しいというイメージが持たれているが、これはソ連の流行歌のうち短調 のものばかりを日本に持ち込んだというのがその実であり、ソ連の流行歌が短調ばかりであったわけではない。とはいえ、ソ連ではあまりに明るすぎる印象を与える歌は発禁となり、歌手も仕事を失う危険性があった [要出典 ] ことは事実であった。そのため、曲想は短調にした方が無難であった。こうした状況は1960年代 後半には変わってきたが、日本人の好みに合わなかったのか日本へはあまり流入しなかった。
第二次世界大戦 前後の戦乱期には、帝政末期から流行した歌の他にタンゴ などの流行も見られた。有名な「カチューシャの歌」は戦前の作であったが、戦時中に「恋人の兵士を待ちわびる乙女の歌」として大流行した。戦時中には多くの流行歌が存在したが、そうした歌の多くは世相を映して悲しいものや逆に勇ましいものがあった(「カチューシャ」にも「英雄的な女兵士」バージョンや「献身的な看護婦」バージョンが存在する)。
アフガニスタン侵攻 など戦争の絶えなかった世相を反映し、ソ連ではこうした比較的古い戦時中の流行歌は親しみを持ち続けられた。ソビエト連邦の崩壊 後もチェチェン紛争 を抱えるロシア連邦を中心に古い流行歌は一定の流行を続け、また、当然ながら戦争とは関係のない無数の流行歌をも含め、現代でも「ともしび」や「カチューシャ」のような「ロシア民謡」は歌われている。
それらいわゆる「ロシア民謡」は、古くはフョードル・シャリアピン や、ボリス・クリストフ 、現在ではディミトリー・ホロストフスキー 等有名なオペラ歌手 ・声楽家 や、ブラート・オクジャワ やヴラジーミル・ヴィソツキー 、アーラ・プガチョワ などの歌手、旧西側諸国 にも多くファンを持つロシア連邦軍 (旧ソ連軍 )所属の赤軍合唱団 (アレクサンドロフ・アンサンブル 、赤星赤軍合唱団 、内務省軍アンサンブル 等)等々、多くの歌い手により歌唱されている。
日本への浸透
日本に流入し「ロシア民謡」と呼ばれたソ連の流行歌は、日本ではロシアの民衆の間で長年にわたって歌い継がれてきた民謡であると信じられた。日本人の好みに合わせ、短調の歌が多く持ち込まれた。そのため、ロシア民謡には他のヨーロッパ 各国の民謡に比べて短調の曲が多いという批評がなされるようになった。
日本とロシア帝国やソ連との政治的関係は元々あまり良好とはいえなかったが、ロシア民謡は日本で非常にポピュラーなものとなり、ドイツリートや、呂旋法 とほぼ同じ旋法 を用いたスコットランド民謡などと肩を並べている。明治の中期頃から戦後まで日本語の訳詞あるいは作詞がなされ、『カリンカ 』『ヴォルガの舟歌 』『黒い瞳 』『アムール河の波 (英語版 、ロシア語版 ) 』『行商人 』『ともしび 』『一週間』など、その数は数十曲に上る。『トロイカ 』、『ポーリュシカ・ポーレ 』などのように、ロシア語と日本語の間で歌詞の意味が大きく異なる曲もある。
日本においてロシア民謡が悲しいメロディーであると言う典型が出来上がった背景には、そうしたメロディーの方が日本の民謡に近いものがあったということが挙げられている。また、ロシア民謡は、特にシベリア抑留 から解放された帰国者によって日本に多く持ち込まれた。そのため、流刑囚の歌や当時現地で流行っていた戦時中の歌(最新の歌も多少はあった)が多く、内容的にも物悲しいものが多かったことは特徴として挙げられる。
戦後、日本においてロシア民謡がポピュラーになるのに大きな役割を果たしたのが、「灯(ともしび)」をはじめとする歌声喫茶 である。テレビ普及前であった当時、歌声喫茶は大勢の若者が楽しむ娯楽でもあった。ロシア歌曲を得意とするダークダックス が、積極的にロシア民謡を取り上げたことも、日本中に浸透するのに一役買っている。1958年頃には、ロシア民謡が載った「青年歌集」(中央合唱団刊)が、隠れたベストセラーとなった[ 14] 。
しかし、ロシア民謡の流行は歌声喫茶 の客層に見られるように、ベールに包まれた東側諸国 や社会主義 や共産主義 への憧れと表裏一体のものであった。ソ連の経済が傾き、国家の欠陥を露呈するに従いそうした幻想が衰退していくと、ロシア民謡の流行の最盛期も去っていった。結局、ソ連崩壊後はロシアの流行歌は日本へはほぼまったく流入しなくなり [要出典 ] 、せいぜいt.A.T.u. やOriga の一時的な流行が例外として上げられる他、今や時折テレビ CM や映像BGM に有名な曲のメロディが使われる等ある程度の一般知名度や、ロシア歌曲の愛好家が存在する程度としている記事も多い。
その一方で、日本の歌謡界でレパートリーとして歌っている歌手もいる。アメリカ合衆国のジーン・ラスキン (英語版 ) 作詞作曲のヒット曲のはずだったが、後にロシアの大衆音楽作曲家ボリス・フォミーン (ロシア語版 ) [ 注釈 3] のロシア革命 直後ごろの作曲であることが分かった『悲しき天使 』(ロシア語原題 Дорогой длинною)が、漣健児訳詩で、森山良子 や南沙織らに歌われる。「ポーリュシカ・ポーレ 」を仲雅美 が歌っていた。ソ連の歌手アーラ・プガチョワ のヒット曲『百万本のバラ 』が、加藤登紀子 によって歌われヒットして第40回NHK紅白歌合戦 出場曲となる。加藤登紀子は、CDアルバム「ロシアのすたるじい 」で、古今の有名無名のロシア歌謡を歌っている。
有名な歌
ロシア帝国時代の歌(1917年 以前)
ロシア革命後から「雪解け(スターリンの死)」まで(1917年~1952年 )
「雪解け」後(1952年~)
脚注
注釈
^ 日本では「ロシア民謡」として有名な『モスクワ郊外の夕べ 』(露 : Подмосковные вечера )は、1955年にされた歌曲であり、純粋な戦後の流行歌である。
^ ロシア語以外の歌の他に、『黒い瞳 』の作詞を行ったエヴゲーニイ・グレビョンカ(ウクライナ語 名イェウヘーン・フレビーンカ (英語版 ) Yevhen Hrebinka)のように、ロシア人 以外の作詞家がロシア語で作詞したものもある。
^ 露 : Борис Фомин
出典
^ a b ロシア音楽事典 pp.347-348
^ マース p.28, p.30
^ マース pp.28 - 29
^ マース p.31
^ ロシア音楽事典 pp.218-219, 300-301
^ ロシア音楽事典 p.401、マース p.29
^ ソ連 の光太夫研究家、ヴラジーミル・コンスタンチーノフ (ロシア語版 ) もこの説を採り、ソ連の『ノーヴィ・ミール Новый мир 』(=新世界)誌・1961年第5号にこの説に基づく論文「日本における最初のロシア歌謡 Первая русская песня в Японии 」を発表している。中村喜和 による邦訳が亀井高孝 『光太夫の悲恋』(吉川弘文館 、1967年3月)に所収。
^ この時の訪ソ日程は亀井高孝 『光太夫の悲恋』(吉川弘文館 、1967年3月)に詳しい。亀井、村山七郎 、そして最も若手の中村の3人による訪ソ。
^ 中村「あるロシア歌謡の歴史 いわゆる「ソフィアの歌」について」(『言語文化』第3号(一橋大学 語学研究室、1966年11月)p.25-55)
より p.36。または、「ソフィアの歌をめぐって ー中村喜和氏に聞くー」(山下恒夫・編『大黒屋光太夫史料集 第三巻』(日本評論社 、2003年5月)p.669-702)より p.679-680。
^ 生田美智子「『ソフィアの歌』と大黒屋光太夫」『立命館経済学』(第46巻・第6号)
^ 世相風俗観察会『現代世相風俗史年表:1945-2008』河出書房新社、2009年3月、54頁。ISBN 9784309225043 。
関連項目
参考文献
外部リンク