ケクロプス(古希: Κέκροψ, Kekrops)とはギリシア神話の人物である。主に、
の2名が知られており、いずれもアテーナイの王である。以下に説明する。
アテーナイの初代の王
このケクロプスはアッティカ地方の初代の王である[1][2][3][4]。アクタイオス[5]あるいはコライノスに次いで2代目の王と言われることもある[6]。しばしば大地(ガイア)から生まれ[1][7]、人間と蛇の身体を持つと伝えられ[1][8]、古代の壺絵などでは下半身が蛇の姿で描かれる[3][9][10]。地理学者ストラボーンはケクロプスを非ギリシア人であると考えた[11]。また一説ではエジプトの出身であるとも主張された。アクタイオスの娘アグラウロスとの間に、エリュシクトーン、アグラウロス、ヘルセー、パンドロソス(英語版)をもうけた[12]。
ケクロプスは王となるとアクテーと呼ばれていた国土を自らの名前にちなんでケクロピアと変更した[1]。歴史家ピロコロス(英語版)によると、ケクロプスは海を越えた小アジアのカーリア人と西のボイオーティア人から攻撃を受けたため、土地の住民を集めて、ケクロピア、テトラポリス、エパクリア、デケレイア、エレウシース、アピドナ、トリコス、ブラウローン、キュテーロス、スペーットス、ケーピシアの12の都市を創建した[13]。10世紀頃の『スーダ』もケクロプスは住人を12の部族に分けたと述べている[14]。ケクロプスの治世中に、崇拝を受ける都市を得るためにアテーナー神とポセイドーン神がアッティカ地方にやって来て争った。最初に訪れたのはポセイドーンであり、神は自分の三叉の矛を用いてアッティカ地方のアクロポリスの中央に塩水の泉を作った。次にアテーナーがやって来て、ケクロプスを証人としてオリーヴの木を植えた。2神の間に争いが発生するとゼウスは引き分けとし、神々が審判することになると、ケクロプスはアテーナーに有利な証言をした。アッティカ地方はアテーナーのものとなり、女神は自らの名にちなんで都市を「アテーナイ」と呼んだ。ポセイドーンは激怒し、アッティカ地方を海水で水浸しにした[1][4][10][注釈 1]。
ケクロプスはアルカディアー地方の王リュカーオーンと同時代の人物で、ゼウス・ヒュパトス(至高の座に坐すゼウス)の異名を定め、リュカーオーンとは異なりゼウスへの犠牲を撤廃し、犠牲獣の代わりに菓子を作って祭壇で焼いた[15]。またアテーナーを崇拝するよう人々に勧めた[4]。冠婚葬祭の改革や法の整備などに尽力した[4][10]。しかし息子エリュシクトーンが子を残さずに若いうちに死んだため、アテーナイの王位はクラナオスに渡った[16]。
ケクロプスの娘パンドロソスがアテーナーからエリクトニオスの入った箱を預けられたとき、他の姉妹たちは中を見ることを禁じられたにもかかわらず、箱を開けて見てしまい、エリクトニオスを守っていた蛇か、あるいはアテーナーの怒りにふれて滅びたという[17]。
パウサニアースはアクロポリスのアテーナー・ポリアス(都市鎮護のアテーナー)の神殿に、ケクロプス奉納と伝えられるヘルメース神の木彫神像があったことを伝えている[18]。
エレクテウスの子
このケクロプスはアテーナイ王エレクテウスと[19][20]、プラークシテアーの子で、パンドーロス、メーティオーン、プロクリス、クレウーサ、オーレイテュイアと兄弟[19]。メーティオーンの子エウパラモスの娘メーティアドゥーサとの間にパンディーオーンをもうけた[21]。
父エレクテウスはアテーナイとエレウシースが戦争になったとき、自分の娘を犠牲にしてエレウシースに味方したトラーキア王エウモルポスを殺した。しかしこれがポセイドーンの怒りを招き、エレクテウスは滅ぼされた。このため息子のケクロプスと兄弟たちの間で王位をめぐって争いが起き、クレウーサの夫クスートスが裁定を下してケクロプスを王とした[22]。しかし後にメーティオーンの息子たちが内乱を起し、息子のパンディーオーンはメガラへに亡命した[21]。一説によるとケクロプスはエウボイア島に移住した[20]。
ボイオーティア地方の都市ハリアルトスにはケクロプスの英雄廟があった[23]。またデルポイにはエレクテウス、パンディーオーン、レオース、アンティオコス、アイゲウス、アカマースとともに、アテーナイが奉納したケクロプスの彫像があった[24]。
系図
脚注
注釈
- ^ 異伝によると審判役はケクロプスとクラナオスであると言い、あるいはケクロプスの息子エリュシクトーンとする伝承もあった[1]。
出典
参考文献
関連項目
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