アカデミー・ギムナジウムの記念碑
ギムナジウム時代のアルトゥル・シュニッツラー(1878年)
アルトゥル・シュニッツラー (Arthur Schnitzler, 1862年 5月15日 - 1931年 10月21日 )は、オーストリア の医師、小説家 、劇作家 。アルトゥーア・シュニッツラー とも表記される。ウィーン大学 医学部教授も務めた高名な医師の息子としてウィーンに生まれる[ 1] [ 2] 。ユダヤ系 だがキリスト教徒 である。
フランス文学 の影響下にあった青年ウィーン (英語版 ) (若きウィーン、Jung Wien)の一員。憂愁・繊細美を特徴とするといわれるウィーン世紀末文化 の雰囲気を基調に、鋭い心理 分析と、洗練された印象主義的技法によって恋愛と死を描写した[ 2] 。自費出版した戯曲『アナトール (ドイツ語版 ) 』(1893年)の成功によって作家生活に入り、フーゴ・フォン・ホーフマンスタール と並ぶ新ロマン主義 の旗手となった[ 2] [ 3] 。ジークムント・フロイト の精神分析学 の影響を受け、富裕ではあるが閉塞感のただよう市民生活や社交界をときに陰鬱に描き、「世紀末ウィーン」の退廃的な気分を軽妙に表現した[ 2] [ 4] [ 5] 。デビュー作の『アナトール』、森鷗外 の紹介で知られる『恋愛三昧』(1895年)や『輪舞 』(1900年)が代表作である[ 2] [ 4] 。
作品と生涯
医師としてのスタート
アルトゥル・シュニッツラーは、ユダヤ人 でハンガリー の小さな町出身の咽喉科医ヨハン・シュニッツラーと、その妻のルイーゼ(ウィーン の医師フィリップ・マルクブライターの娘)の長男として、ウィーン第2区レオポルトシュタット のプラーター通り (Praterstraße ) 16番地に生まれた[ 5] 。
1871年から1879年までギムナジウム に通い、1879年7月に優秀な成績でマトゥーラ に合格。その後ウィーン大学 で医学を学び[ 1] 、1885年5月30日医学博士号を取得した。なお、弟のユリウス・シュニッツラー (ドイツ語版 ) も医師となっている。
1885年から1888年までウィーン市総合病院の医員として勤務した後、1893年までウィーンのポリクリニック病院の咽喉科で父の助手として働くが、その頃からすでに彼は創作活動を行っていた。その始まりは、大学在学中の1880年 、ミュンヘン の雑誌「フライエ・ラントボーテ」(Der freie Landbote ) に掲載された『踊り子の恋の歌』(Liebeslied der Ballerine ) であり、彼は引き続き、雑誌「ブラウエ・ドナウ」(Blaue Donau )や「モデルネ・ディヒトゥング」(Moderne Dichtung )、新聞「フランクフルター・アルゲマイネ・ツァイトゥング 」(Frankfurter Zeitung )、文芸雑誌「フライエ・ビューネ (ドイツ語版 ) 」(Freie Bühne ) といったメディアに詩 や小説 などを発表した。
彼はまた学問的刊行物として『機能的失声症および催眠と暗示によるその治療について』(1889年)も著しており、これは彼にとってほぼ唯一の医学書である。1886年から1893年までシュニッツラーは医学出版にかかわり、70本以上の寄稿をしているが、その多くは父の創刊した雑誌『国際臨床医学展望』(Internationale Klinische Rundschau ) における、編集者名義による専門書への書評であった[ 6] 。
作家生活へ
シュニッツラーはやがて文学と演劇に傾倒し、カフェハウスで他の作家たちと交友関係をもつようになり、賭博 におぼれ、劇場に入り浸った[ 5] 。優雅な美男子であった彼はまた、評判の女たらしであり、貸し部屋やホテル で多くの情事を重ねた[ 5] 。このような退廃的な生活を重ねる彼が、医師としてはたしてうまくやっていけるかどうか、母のルイーゼとその召使は心配していた[ 5] 。
1888年、シュニッツラーは、戯曲『アナトール (ドイツ語版 ) (Anatol )』を自費出版した[ 3] 。『アナトール』は7つの一幕もので、表面的には快楽主義者 であるが深層には厭世観 をかかえる上流青年「陽気なふさぎ屋」が、下町の「可憐なおぼこ娘」や上流「社交婦人」と繰り広げる刹那的な恋愛遊戯を、揺れ動く内面とともに、物憂げに、優雅に描いた作品である[ 2] [ 3] 。
1890年、彼はその神童ぶりが話題となった16歳のフーゴ・フォン・ホーフマンスタール と出会っており、シュテファン・ツヴァイク に対し、生涯初めて天才に出会ったように感じたと語っている[ 7] 。ホーフマンスタールは、シュニッツラーの戯曲『アナトール』の紹介のため、美しい短詩を書いた[ 7] 。シュニッツラーは、友人となったホーフマンスタールやリヒャルト・ベーア=ホフマン とともに「青年ウィーン派」の仲間に加わり、彼らはよくカフェ・グリーンシュタイドル (ドイツ語版 ) に集った。彼はケルントナー通り 61番地にあるレストラン・ライディンガーにもよく通っており、また精神分析学 のジークムント・フロイト とも知り合いの仲だった(詳細後述)。
世紀末ウィーン の芸術家たちが集うカフェ・グリーンシュタイドル(1896年 、ラインハルト・フェルケル画) カフェ・グリーンシュタイドルは1847年 に開店し、青年ウィーン派の詩人や作家が集まった[ 8] 。道路拡張工事のため1897年 に閉店するが[ 8] 、ここの常連たちはいっせいにカフェ・ツェントラール (ドイツ語版 ) にうつったという[ 9] 。
シュニッツラーは、『アナトール』の成功によって本格的な創作生活に入った[ 2] [ 3] 。この作品は1893年に初上演され、この年以降、彼は開業医のかたわら戯曲と散文(おもに短編小説)を書いたが、これらの作品ではとりわけ登場人物の深層心理の描写に意を注いだ[ 1] 。シュニッツラーの作品の舞台はたいてい世紀転換期のウィーンであり、作品に登場する人物は、少尉、医者、芸術家、ジャーナリスト、役者や軽薄なダンディなど、当時のウィーン社会の典型的人物であった。特に郊外から出てきた「可愛い女の子」は、いわばシュニッツラーのトレードマークのようなものとみなされ、以後、彼をこき下ろそうとする敵対者にとって格好の標的となった。
1893年に父が死んだ後、彼はポリクリニック病院を去り、ウィーン第1区のインネレシュタット のブルクリング (Burgring) 1番地に自分の診療所を開いた[ 注釈 1] 。彼はまた、父の死後の1895年に発表された『咽喉医学臨床アトラス』の出版にも協力した。診療所は開店休業に近い状態であったが、医学的方法は終生持ち続け[ 3] 、特に催眠術 と深層心理学 には深い関心を寄せており、これが彼の創作活動にも強い影響を及ぼしたといわれている[ 2] 。
31歳で作家生活に入ったシュニッツラーは続いて『恋愛三昧 (ドイツ語版 ) 』(Liebelei 、1895年)では儚い慕情を、『緑のおうむ (ドイツ語版 ) 』(Der grüne Kakadu 、1899年)では仮象と現実の交錯する奇怪な世界を戯曲に描いたが、登場人物は『アナトール』で示されたシュニッツラー特有の人物類型によるものであった[ 2] 。『恋愛三昧』は発表後、すぐにウィーンのブルク劇場 で上演され、初演1年後には貴賓席に大公が座る評判作となった[ 5] 。この作品は、けなげに慎ましく暮らす下町のおぼこ娘(「可愛い女の子」)を愛しながら、その愛にとびこむ勇気を持たず、一時の慰めに人妻との情交に溺れた結果、その夫に決闘を申し渡されて、あっけなく死んでしまうという内容であるが[ 3] 、今もなお時代を超えてドイツ語圏の劇場で広く上演される象徴的な作品となっている[ 5] 。
小説では、中編『死 (ドイツ語版 ) 』(Sterben 、1895年。森鷗外 訳『みれん』)や短編『死人に口なし (ドイツ語版 ) 』(Die Toten schweigen 、1897年)を執筆している[ 2] 。『死(みれん)』では、生が生として充足していないところから、死もまた無気力の延長上の空疎な未練がましいものとなり、『死人に口なし』では不義をなしたという自覚があっても、それが贖罪の意識には決して高まらない退嬰的な男女のすがたをいずれも典雅な文体で描き、こうした印象主義 的小説は、ドイツ文学 には数少ない心理小説の傑作とされている[ 2] 。
シュニッツラーにとって重要なのは精神の病的な状態ではなく、むしろ、社会における不文律 や性的タブー 、礼儀作法などによって、特に弱い立場の市民に要請される日常的な自己欺瞞に直面したときの平均的で普通の人間の内面のありようであった。フロイトが精神分析学 で行ったように、シュニッツラーは、これまで理性 と進歩をひたすら目指す社会が抑圧してきたタブーを小説や戯曲のかたちで表現したのである[ 1] 。彼が示したのは、人間がふだん意識しないもののなかに、理性のコントロールから逸脱する力が宿っていることだった。
10人の人物が2人ずつ登場して生の倦怠を表現しつつ各場面をつなぐ戯曲『輪舞 (Reigen )』(1900年)は不倫 を題材とし、性を大胆に表現して、当初は上演禁止になるほどの衝撃を演劇界にもたらした[ 2] [ 10] 。この作品はすでに1896年に書かれていたが、当初は検閲 を考慮して私家本の形で友人・知人に配られたものであった[ 3] 。陰影に富む作品であったが、あまりにエロティックすぎて風紀を乱すというのが上演中止の理由であった[ 2] [ 11] 。
シュニッツラーは1900年、短編小説『グストル少尉 (ドイツ語版 ) (Leutnant Gustl )』を発表し、ドイツ文学ではじめて「内的独白(モノローグ )」の手法を取り入れた[ 1] [ 3] 。この視点と技法によって、彼は、登場人物の心の葛藤をより深く直接的に読者に示すことに成功した[ 3] 。『グストル少尉』はわずか6日で書き上げたといわれる[ 5] 。しかし、この作品はパン屋 にひどく虚仮にされる将校 の苦悶を描き、オーストリア軍 の威信を傷つける内容を含んでいた[ 5] 。少尉は身分の違いからパン屋に決闘を申し渡すことができず、といって軍服を着用することは自身の良心が許さず、もはや残された道は自殺する以外ないと思い定めていたところ、パン屋事故死の報せを知って安堵したという心の動きを克明に描いたため、軍人たちからは不評を買い、親軍派の新聞からも攻撃を受けた[ 5] 。これにより、シュニッツラーは条例違反として1901年 6月14日 付けで予備役軍医中尉の階級を剥奪された[ 5] 。
小説世界へ
筆禍事件はあったものの、20世紀に入ると、彼はドイツ語圏の舞台でもっとも上演される戯曲家 に数えられるようになっていた。1902年に発表された短編『ギリシアの踊子 (ドイツ語版 ) (Die griechische Tänzerin )』は、嫉妬 が嫉妬として結実しないことをあらわした心理小説であった[ 2] 。
1903年8月26日、シュニッツラーは4年間愛人だった女優 のオルガ・グスマンと結婚したが、そのとき、息子のハインリヒ・シュニッツラー (ドイツ語版 ) (1902年8月9日 - 1982年7月12日)はすでに1歳になっていた[ 5] 。
40歳をすぎてからの彼は、自らのユダヤ性に目を向け、それを作品にとりあげるようになった[ 3] 。1908年 には20世紀初頭のウィーン社会の諸相を描いた初めての長編小説『自由への道 (ドイツ語版 ) (Der Weg ins Freie )』を発表し、当時のウィーンで目立つようになっていた反ユダヤ主義 を取り上げた[ 5] 。この小説は書き上げるのに数年かかった大作で、ウィーンで活動するさまざまなタイプのユダヤ人の肖像が描写されているが、そこにはユダヤ教正統派やユダヤ人労働者の姿はなかった[ 5] 。マルティン・ブーバー 、テーオドール・ヘルツル 、ジークムント・フロイトといった著名な思想家たちに触発されたものであった[ 5] 。このような作品はほかに、1911年の『広い国 (ドイツ語版 ) (Das weite Land )』や人々のなかにひそむユダヤ性を喜劇化した戯曲『ベルンハルディ教授 (ドイツ語版 ) (Professor Bernhardi )』(1912年)がある[ 3] 。
旧宅の記念碑
晩年のシュニッツラー(1927年)
1910年に彼はヘートヴィヒ・ブライプトロイからウィーン第18区ヴェーリングのシュテルンヴァルト通り (Sternwartestraße ) 7番地の家を購入したが、その近所にはリヒャルト・ベーア=ホフマン やフェーリクス・ザルテン など、彼の知人たちも住んでいた。1914年、第一次世界大戦 がはじまると、彼の戯曲作品への関心は次第に薄れていった。それは、彼がオーストリアの数少ない知識人として戦意鼓舞に賛同することができなかったこととも無関係ではない。1921年のベルリンでの『輪舞』の初演の際、彼は公序良俗に反した咎で裁判にかけられ、上演許可そのものも取り消された。同作は20年も前に発表された戯曲だったが、内容が猥褻であるとして上演できなかった問題作だった[ 11] 。彼はそれ以降肉体的・精神的問題のために次第に引きこもるようになった。晩年はおもに短編小説を書き、そのなかで彼は心理学的視点から世紀転換期の個人の運命を描いている。
シュニッツラーは小説においても、人間の内面心理を深く洞察した[ 3] 。短編を得意とする彼は、『グストル少尉』(1900年)で確立した内的独白の手法を『令嬢エルゼ (ドイツ語版 ) (Fräulein Else )』(1924年)でも採用した[ 3] 。この2つは、登場人物の心理の微妙なうつりかわりを繊細に描写した佳作とされている[ 3] 。『令嬢エルゼ』は性欲 の抑圧による女性のヒステリー 発作を扱った中編小説である[ 2] 。リビドー を取り上げた中編『ベアーテ夫人とその息子 (ドイツ語版 ) (Frau Beate und ihr Sohn )』(1913年)とともに、フロイト流精神分析の強い影響が認められる作品である[ 2] 。
シュニッツラーは中編『カザノーヴァの帰還 (ドイツ語版 ) (Casanovas Heimfahrt )』(1918年)では人間の老い、中編『夢小説 (夢の物語、Traumnovelle )』(1926年)では夢と現実との交錯を扱った[ 2] 。また、『テレーゼ・ある女性の年代記 (ドイツ語版 ) (Therese. Chronik eines Frauenlebens )』(1928年)は一女性の生涯を扱った長編小説であるが[ 2] 、ここでは、生みの母親が嬰児を殺そうとして子供にトラウマ を与えるというテーマが展開されている[ 12] [ 注釈 2] 。
彼はまたドイツ語文学における偉大な日記作家のひとりでもある。17歳のときから死の2日前まで彼は几帳面に日記を書き続け、それは彼の死後、1981年に出版された[ 13] 。
交友関係と私生活
上述のホーフマンスタールは、16歳のときに匿名で書いた詩がウィーン文学界に認められた神童であったが、その頃かれに会ったシュニッツラーは彼が天才であることを鋭敏に感じ取った。シュニッツラーはホーフマンスタールのほぼ12歳年上であったが、2人は出会った瞬間から不思議なほど気が合い、2人で一緒に自転車でイタリアやスイスまで長旅をしたという[ 7] 。
ジークムント・フロイトは同じ医学を学んだシュニッツラーの文学作品に親近感をもったといわれている[ 14] 。また、フロイトは自分と同じ志向をもち、しかも自分のような精神分析の手法を用いないで人間の内面を診断したとして、書簡のなかでシュニッツラーを称賛した[ 3] 。しかし、フロイトはシュニッツラーとしばらく手紙のやりとりをしながらも、実際に会うのを避けてきた[ 14] 。それは、フロイトの側が自分の分身(ドッペルゲンガー )に出会うような気がして、そこに恐怖を感じたためだとシュニッツラー宛書簡のなかで述べている[ 14] 。
ウィーン中央墓地にあるシュニッツラーの墓
1903年に結婚した妻オルガとは1921年に離婚し、それ以降、息子ハインリヒ(1902年8月9日生)と娘リリー(1909年9月13日生)をひとりで育てた。ハインリヒは後に演出家になっているが、リリーは1928年に10代の若さで自殺し、彼はひどくショックを受けた。
シュニッツラーの残した日記によれば、彼は自分でピアノを弾いたり、演奏会に出かけたりする音楽愛好家であった[ 13] 。彼が同時代の作曲家で最も愛好したのはグスタフ・マーラー であった[ 13] 。
1931年10月21日、シュニッツラーは脳出血 のためにウィーンで亡くなった。69歳であった。彼の墓はウィーン中央墓地 の第1門、旧ユダヤ人墓地にある。
遺稿
シュニッツラーの遺稿は、1931年の彼の死後も大部分はウィーンの自宅にそのままにされ、学術的利用に供されていた。しかし、1938年3月のナチス・ドイツによるオーストリア合邦 の直前に、これらの資料は国外に移され、ケンブリッジ大学 の図書館が新たな保管先となった。1960年代 のはじめ、ケンブリッジ大学のシュニッツラーの遺稿は、息子であるハインリヒ・シュニッツラーの指示により、37ロール分のマイクロフィルム に収められ、アメリカにある2つの研究機関、カリフォルニア大学ロサンゼルス校 およびニューヨーク州ビンガムトン の国際アルトゥール・シュニッツラー研究会 (International Arthur Schnitzler Research Association, IASRA) 、およびドイツのアルベルト・ルートヴィヒ大学フライブルク (フライブルク大学)に移管された。フライブルク大学には、現在、シュニッツラー・アーカイブが整備されている。
主な作品
戯曲
Anatol 『アナトール』(1893年。これによって作家生活に入った)
Liebelei 『恋愛三昧』(1896年)
Der grüne Kakadu 『緑の鸚鵡』(1899年)
Reigen 『輪舞 』(1900年)
小説
Blumen 『花』(1894年)
Sterben 『死』(1895年、森鷗外翻訳『みれん』)
Die Toten schweigen 『死人に口なし』(1897年)
Der blinde Geronimo und sein Bruder 『盲目のジェロニーモと兄』(1900年)
Leutnant Gustl 『グストル少尉』(1900年)
Frau Berta Garlan 『ベルタ・ガルラン夫人』(1900年)
Die griechische Tänzerin 『ギリシアの踊り子』(1902年)
Der Weg ins Freie 『自由への道』(1908年)
Frau Beate und ihr Sohn 『ベアーテ夫人とその息子』(1913年)
Casanovas Heimfahrt 『カザノーヴァの帰還』(1918年)
Fräulein Else 『令嬢エルゼ』(1924年)
Traumnovelle 『夢小説 』(1926年)
Therese.Chronik eines Frauenlebens 『テレーゼ・ある女性の年代記』(1928年)
日本語訳
日本では明治 以来、森鷗外や山本有三 をはじめとして多くの研究者によって翻訳紹介が行われた[ 2] 。特に鷗外は、自身と同年生まれであり、また、医師兼作家であること、さらには父親が医師であることも共通しており、シュニッツラーに対する関心と共感は強く、初期作品のほとんど(7作品)を翻訳し、伝記 も付している[ 3] [ 15] 。鷗外文庫(東京大学総合図書館 の鷗外旧蔵書)にはシュニッツラーの戯曲17冊と小説7冊、計24冊が所蔵されており、その関心の高さとともに長期間継続して関心を寄せていたことがうかがえる[ 16] [ 注釈 3] 。
シュニッツラー作品の映画化
シュニッツラーの『夢小説(夢がたり、夢ものがたり、夢奇譚)』はスタンリー・キューブリック 監督の遺作となった映画『アイズ ワイド シャット 』の原案となった小説として有名になったが、それ以前から彼の作品は映画化されており、最初の映画は1914年の『恋愛三昧』であった。以降、マックス・オフュルス などによって映画化されている。
おもな映画作品
脚注
注釈
^ 診療所はその後、第9区アルザーグルント のフランク通り (Frankgasse) 1番地に移転している。
^ このテーマは、1889年の短編『息子(Der Sohn )』において既に扱われたものであり、『息子』は『テレーゼ』の習作に位置づけられるとも考えられる[ 12] 。
^ 従来、所蔵図書は戯曲16冊、小説6冊の計22冊とされてきたが、別の書籍と一緒に合本されていた(誤った製本 がなされていた)ために、カウントされていない作品が2冊あったことが判明した[ 16] 。
出典
参考文献
書籍
論文
関連文献
外部リンク