許(きょ)は、漢姓の一つ。
中国の姓
2020年の中華人民共和国の第7回全国人口調査(中国語版)(国勢調査)に基づく姓氏統計によると中国で26番目に多い姓であり、890.61万人がいる[1][2]。一方、台湾の2018年の統計では第11位で、548,474人がいる[3]。
北京語などでは発音が近い「徐」と区別するために、「言に午の許」と呼ぶことが多い。
来源
許氏古墓
堂号
郡望
灯号
著名な人物
- 歴史上の人物
- 許慎 - 後漢の儒学者・文字学者。
- 許劭 - 後漢末期の人物批評家。字は子将で、しばしば「許子将」とも称される。
- 許褚 - 後漢末期から三国時代の魏の武将。
- 許靖 - 後漢末期から三国時代の後漢・劉璋・蜀漢の政治家。許劭の従兄。
- 許圉師 - 唐の官僚。
- 許敬宗 - 唐の官僚、歴史家。
- 許崇智 - 中華民国の軍人。
- 中華人民共和国
- 香港
- 台湾
朝鮮の姓
許(きょ、ホ、朝: 허)は、朝鮮人の姓の一つである。2015年の国勢調査による韓国内での人口は326,770人[4]。
著名な人物
氏族
許氏の淵源は遠く駕洛国首露王妃許黄玉に遡る。許皇后は本来インドの阿踰陀国の王女だったが、船に乗って今の慶南鎮海市運動沖合に至り、首露王の妻になったという。
許黄玉は息子10人を生み、長男登は金海金氏となり、二人の息子は許氏を賜姓し、残りの七人の息子は仏家に帰依して、河東七仏(慶南河東に七仏寺がある)となった。つまり金海金氏は父姓、許氏は母姓をそれぞれ受け継いだため、現在でも相婚を避ける。
許氏は駕洛国が新羅に敗れて、各地方に散らばった。その中の陽川許氏の始祖である許宣文は今のソウル市陽川区である孔岩村に腰を据え定住して、農業を営み、高麗の太祖が後百済の甄萱を征伐する時軍糧を補給した功労で孔岩村を食邑とする下賜を受けて村主になったという伝説がある。
高麗中期に王室の外戚で勢力をふるった李子淵、李資謙など仁川李氏も元々は許氏だったが、高麗時代に邵城伯(邵城は現在の仁川)であった許謙が、唐に使臣に行き、皇帝から李姓を下賜され、李氏となった。つまり金海金氏から許氏が、許氏から仁川李氏が輩出されたということで、これら3姓は駕洛宗親会を中心に血族としての紐帯を緊密に結んでいる。
許氏は朝鮮時代文科及第者122人、相臣6人を輩出した。なお、特に朝鮮時代の許姓の人物は下の名前が単字名の場合が多い[5]。
人口と割合
年度 |
人口 |
世帯数 |
順位 |
割合
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1960年 |
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2万8685世帯 |
258姓29位 |
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1985年 |
264,228人 |
6万3037世帯 |
274姓中29位 |
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2000年 |
300,448人 |
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|
2015年
|
326,770人[6]
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出典
脚注
関連項目
中国の多い姓上位100位 |
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第1~25位 | |
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第26~50位 | |
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第51~75位 | |
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第76~100位 | |
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備考 |
- 2020年の第7回中華人民共和国全国人口調査(中国語版)(国勢調査)に基づく姓氏統計による。
- 簡体字の制約などによる特記事項。
#第33位の「肖」は二簡字改革により改姓した「蕭」を含む(簡体字表記の「萧」姓は別統計)。 #第41位の「葉」は簡体字で「叶」と表記。 #第53位の「鍾」は簡体字で「钟」と表記。 #第66位の「傅」は簡体字で「付」と表記(簡体字表記の「傅」姓は別統計)。 #第73位の「邱」は簡体字で「邱」と表記(簡体字表記の「丘」姓は別統計)。 #第77位の「閆」は簡体字で「闫」と表記する(簡体字表記の「阎」姓は別統計)。 #第96位の「戴」は簡体字で「戴」と表記する(簡体字表記の「代」姓は別統計)。
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台湾の多い姓上位100位 |
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第1~25位 | |
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第26~50位 | |
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第51~75位 | |
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第76~100位 | |
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備考 |
- 2023年6月30日公表の中華民国内政部の資料による統計。台湾の姓も参照。
- 中国大陸、東南アジアからの移民なども統計に含まれる。また、違う字体を使用する姓を2つの姓と見なされることもある。
#第3位は繁体字の「黃」であり、80位は簡体字の「黄」である。 #64位の「温」は簡体字と同形である。
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韓国の多い姓上位100位 |
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第1~25位 | |
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第26~50位 | |
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第51~75位 | |
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第76~100位 | |
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備考 | |
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