小野寺 力東京ヤクルトスワローズ 投手コーチ #72 |
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基本情報 |
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国籍 |
日本 |
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出身地 |
埼玉県熊谷市 |
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生年月日 |
(1980-11-26) 1980年11月26日(43歳) |
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身長 体重 |
188 cm 96 kg |
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選手情報 |
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投球・打席 |
右投右打 |
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ポジション |
投手 |
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プロ入り |
2002年 ドラフト4巡目 |
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初出場 |
2003年9月27日 |
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最終出場 |
2012年5月28日 |
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経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) |
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選手歴 |
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コーチ歴 |
- 埼玉西武ライオンズ (2016)
- 東京ヤクルトスワローズ (2017 - )
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小野寺 力(おのでら ちから、1980年11月26日 - )は、埼玉県熊谷市出身の元プロ野球選手(投手、右投右打)、コーチ。現在は東京ヤクルトスワローズの二軍投手コーチを務める。
実兄は元プロ野球選手の進藤実。兄と苗字が違うのは、共に一人っ子である両親の姓を残す目的で養子縁組を行い、実が母方の進藤姓を、力が父方の小野寺姓を名乗ったため。
経歴
プロ入り前
熊谷市立新堀小学校・熊谷市立玉井中学校を経て、埼玉県立鴻巣高等学校に進む。186cmの高身長で球速は平均130km/hを超え、3年夏の西埼玉大会では地区最高の素質を持つ投手と評されていた[1]。同大会では準々決勝で鳥谷敬を擁する聖望学園と対戦し、延長11回を完投するも3対4で敗れ、ベスト8[1]。
高校卒業後は兄・進藤実と同じ常磐大学に進学。久保田智之と共に主戦投手として活躍し、関甲新学生野球リーグ3年秋にベストナイン、4年生になると3年秋に続き春・秋に防御率リーグ1位の成績を残し[2]、春は山梨学院大戦でノーヒットノーランも達成[3]。
2002年11月20日に行われたドラフト会議では、西武ライオンズから4巡目指名を受け、入団。契約金・年俸はそれぞれ7000万円、1500万円(いずれも推定)だった[4]。
西武時代
2003年はシーズンのほとんどを二軍で過ごし、9月27日に一軍初登板を果たした。
2004年は持ち味の速球を武器に27試合に登板して防御率3.38を記録し、チームの日本一に貢献した。
2005年は中継ぎとして30試合に登板し、四球は減ったが防御率が悪化し、安定感に課題を残した。
2006年はFA移籍した豊田清に代わる抑えとして起用され、7月までは防御率1点台を維持し、7月には初の月間MVPを受賞した。同年はチーム最多の59試合に登板して防御率2.82、7勝29セーブを記録、被本塁打も2本に抑えた。同い年の赤田将吾に続いてチーム2人目となる個人サイト「chikara-o.net」を設立、ファンへのメッセージや心境などをブログ形式で掲載しており、絵文字を多用してコメントに寄せられた相談に答えることもある。
2007年は前年に引き続き開幕から抑えとして起用されるが、後半戦からアレックス・グラマンが抑えに定着したことで、左の三井浩二と共に中継ぎを任された。終盤には新人以来となる先発としての登板もした。
2008年はグラマンにつなぐ中継ぎとして起用され、50試合に登板して自己最多の9ホールド、14ホールドポイントを記録して防御率3.56と前年より改善されたが、四球が多く奪三振数も減少し、信頼を回復するまでには至らなかった。読売ジャイアンツとの日本シリーズでは3試合に登板し、1失点であった。
2009年はグラマンの故障により、再び抑えを任せられる。7月は最終登板以外で自責点0を記録するなど活躍した。先発投手が不足し、中継ぎ陣も不安定で、なかなかセーブ機会に恵まれなかったがセーブ成功率は84%と馬原孝浩・ブライアン・シコースキーを上回る。終盤に調子を落としたため二軍へ降格。チームは抑え不在のまま4位に終わった。
2010年は不調のため、開幕2軍スタートとなった。先発投手が早めに降板した場合などは6回に登板することが多かった。41試合に登板し、防御率は3.67だった。
2011年は、開幕から一軍公式戦への登板機会がないまま、5月24日に鬼崎裕司とのトレードで東京ヤクルトスワローズへ移籍した[5]。
ヤクルト時代
2011年5月29日、古巣・西武とのセ・パ交流戦(西武ドーム)で移籍後初登板。しかし安定感を欠き、6試合しか登板できなかった。
2012年は、怪我などの影響から一軍公式戦への登板が4試合にとどまった。10月2日に球団から戦力外通告を受けた[6]ことを機に、現役を引退した。
現役引退後
2013年からは西武にチームスタッフとして復帰。同年から2015年までは二軍の用具担当を任されていた[7]。2016年からは西武時代のチームメイトだった松下建太が引退し、二軍用具担当に就任したのを受け二軍マネジャーへ異動。[8]さらに同年シーズン中に二軍投手コーチだった森慎二が一軍に配置転換されることを受け、5月6日から二軍投手コーチ兼育成コーチに就任することとなった[9]。10月1日に退団の申し入れをし了承された[10]。
2017年から東京ヤクルトスワローズの二軍投手コーチに就任[11]。11月25日から台湾で開催された2017アジアウインターベースボールリーグにおいて、NPBイースタン選抜の投手コーチを務めた[12]。その後、2022年5月17日まで同コーチを務め、翌18日付で一軍投手コーチに異動となった[13]。同25日からは二軍投手コーチに復帰したが、7月7日から同24日までは再び一軍投手コーチを務めた[13]。
2023年も開幕当初は二軍投手コーチを務めていたが、5月9日から同15日は一軍投手コーチを担当した[14]。
詳細情報
年度別投手成績
年
度 |
球
団 |
登
板 |
先
発 |
完
投 |
完
封 |
無 四 球 |
勝
利 |
敗
戦 |
セ 丨 ブ |
ホ 丨 ル ド |
勝
率 |
打
者 |
投 球 回 |
被 安 打 |
被 本 塁 打 |
与 四 球 |
敬
遠 |
与 死 球 |
奪 三 振 |
暴
投 |
ボ 丨 ク |
失
点 |
自 責 点 |
防 御 率 |
W H I P
|
2003
|
西武
|
2 |
1 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
-- |
---- |
21 |
3.1 |
7 |
1 |
4 |
0 |
0 |
1 |
1 |
0 |
4 |
4 |
10.80 |
3.30
|
2004
|
27 |
0 |
0 |
0 |
0 |
2 |
1 |
0 |
-- |
.667 |
139 |
32.0 |
26 |
3 |
19 |
1 |
0 |
24 |
2 |
0 |
13 |
12 |
3.38 |
1.41
|
2005
|
30 |
0 |
0 |
0 |
0 |
1 |
2 |
0 |
1 |
.333 |
184 |
42.0 |
50 |
5 |
11 |
0 |
1 |
30 |
0 |
0 |
21 |
20 |
4.29 |
1.45
|
2006
|
59 |
0 |
0 |
0 |
0 |
7 |
3 |
29 |
2 |
.700 |
247 |
60.2 |
51 |
2 |
18 |
1 |
3 |
52 |
4 |
0 |
19 |
19 |
2.82 |
1.14
|
2007
|
44 |
4 |
0 |
0 |
0 |
4 |
5 |
13 |
3 |
.444 |
295 |
64.1 |
85 |
7 |
23 |
2 |
1 |
48 |
4 |
0 |
39 |
37 |
5.18 |
1.68
|
2008
|
50 |
0 |
0 |
0 |
0 |
5 |
5 |
1 |
9 |
.500 |
243 |
55.2 |
54 |
3 |
22 |
0 |
4 |
38 |
3 |
0 |
26 |
22 |
3.56 |
1.37
|
2009
|
47 |
0 |
0 |
0 |
0 |
3 |
5 |
16 |
7 |
.375 |
230 |
54.1 |
49 |
5 |
24 |
1 |
1 |
45 |
5 |
0 |
24 |
24 |
3.98 |
1.34
|
2010
|
41 |
0 |
0 |
0 |
0 |
1 |
3 |
0 |
8 |
.250 |
168 |
41.2 |
42 |
3 |
6 |
0 |
2 |
28 |
2 |
0 |
20 |
17 |
3.67 |
1.15
|
2011
|
ヤクルト
|
6 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
1 |
---- |
31 |
5.1 |
10 |
0 |
5 |
0 |
0 |
2 |
0 |
1 |
5 |
5 |
8.44 |
2.83
|
2012
|
4 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
0 |
---- |
20 |
4.2 |
6 |
1 |
0 |
0 |
0 |
4 |
0 |
0 |
4 |
4 |
7.71 |
1.30
|
通算:10年
|
310 |
5 |
0 |
0 |
0 |
23 |
24 |
59 |
*31 |
.489 |
1578 |
364.0 |
380 |
30 |
132 |
5 |
12 |
272 |
21 |
1 |
175 |
164 |
4.05 |
1.41
|
- 「-」は記録なし
- 通算成績の「*数字」は不明年度がある事を示す
表彰
記録
- 初記録
- 初登板:2003年9月27日、対大阪近鉄バファローズ28回戦(西武ドーム)、6回表に2番手で救援登板、1/3回無失点
- 初先発登板:2003年10月4日、対千葉ロッテマリーンズ27回戦(千葉マリンスタジアム)、3回4失点
- 初奪三振:同上、2回裏に福浦和也から
- 初勝利:2004年3月28日、対千葉ロッテマリーンズ2回戦(西武ドーム)、10回表に4番手で救援登板・完了、1回無失点
- 初ホールド:2005年9月11日、対千葉ロッテマリーンズ18回戦(インボイスSEIBUドーム)、7回表に3番手で救援登板、1回無失点
- 初セーブ:2006年4月1日、対千葉ロッテマリーンズ2回戦(千葉マリンスタジアム)、9回裏に4番手で救援登板・完了、1回無失点
背番号
- 14(2003年 - 2011年5月23日)
- 29(2011年5月24日 - 2012年)
- 81(2016年5月6日 - 同年終了)
- 72(2017年 - )
代表歴
脚注
関連項目
外部リンク