小泉 信三 (こいずみ しんぞう、1888年 (明治 21年)5月4日 - 1966年 (昭和 41年)5月11日 )は、日本 の経済学者 、第7代慶應義塾 長。
イギリス古典学派 のリカード 研究のほか、日本における社会思想 研究の先駆者として活動するとともに、マルクス主義 への容赦ない批判者として、自由主義 の立場から『資本論 』の内容をめぐって河上肇 や、櫛田民蔵 との活発な論戦を展開した。1933年 (昭和8年)から1946年 (昭和21年)まで慶應義塾長を務めた。東宮御教育常時参与として皇太子明仁親王 (第125代天皇 )の教育責任者にもなり、皇室 の近代化に努めた[ 1] 。学士院 会員、コロンビア大学 名誉文学博士、文化勲章 受賞、名誉都民 、野球殿堂 入り[ 2] 。日本聖公会 のクリスチャン[ 3] 。位階 は正三位 。父は慶應義塾長(1887年 (明治20年) - 1890年 (明治23年))や、横浜正金銀行 支配人などを歴任した小泉信吉 (こいずみ のぶきち)。
経歴
小泉宅跡 福澤邸に同居した後、本地に一家は宅を構えた。裏の木戸から直接塾内に入ることができた。
御田小学校「岬門」 2010年現在、小泉が通っていた当時のまま残っている。
多磨霊園 にある小泉家の墓
東京市 芝区 に旧紀州 藩士 、小泉信吉 と千賀の第三子として生まれる。幼少期に父を亡くす。父が福澤諭吉 の直接の門下生だった縁で晩年の福澤に目をかけてもらい、幼少時に福澤邸に一家が同居していた時期もあった。横浜 本町 の横浜小学校を経て、東京府三田に転居し東京府 ・芝区 ・御田小学校 に転校し卒業。御田小学校から慶應まで同期生として水上瀧太郎 がいた。
普通部から慶應義塾 に学び、慶應義塾大学部 政治科では福田徳三 の指導のもとで、学問的な感化を大きく受けて、マルクス主義 批判の闘将に育っていった[ 1] 。学生時代には庭球部のキャプテンも務めたほか、8歳年上の義弟(妹・勝の夫)である横山長次郎 の縁で夏休みにたびたび岩手県釜石 に遊びに行った[ 4] 。1910年(明治43年)に卒業し、慶應義塾の教員となる。1912年 (大正 元年)9月[ 5] に研究のためヨーロッパ へ留学し、4年間に渡ってイギリス 、フランス 、ドイツ の各大学で学ぶ。この時期は、第一次世界大戦 (1914年)や、ロシア革命 (1917年)など世界史上の重大な事件があり、その影響から留学先を転々とすることになった。最初に信三が向かったイギリスでは、1年間ロンドン で学ぶが、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス で経済学 の授業を聴講したほか、英会話を習ったり、大英博物館 に通ったり、演劇鑑賞するなど、充実した日々を過ごした[ 6] [ 7] 。同じく留学中だった大学部文学科 美術史科教員で、西洋美術史を初めて日本に紹介した澤木四方吉 とも親交を深めた。休日になるとテニスもして、テニスクラブの大会に出場して優勝もしたと言われる[ 6] 。また、小泉は1913年(大正2年)のウィンブルドン選手権 を観戦し、当時大会4連覇中だったアンソニー・ワイルディング の著書『On the Court and Off』(「テニスコートの内外で」)を日本に送り、大学の後輩らに硬式テニス を推薦した。
ロンドンでの生活のあと、信三は留学先を変えて、ドイツのベルリン大学 へ移った。留学中の1914年(大正3年)に第一次大戦が起こり、イギリスと同盟を結んでいた日本の敵国であったドイツを避けるため、再びイギリス・ロンドンへ渡った[ 6] 。この時、徳川頼貞 の教育指導者として同行してケンブリッジ大学 に留学していた上田貞次郎 が帰国するため、頼貞の教育指導者の後任を頼まれ、塾の許しを得てこれを承諾すると、信三もケンブリッジ大学 に籍を置いて学ぶこととなった[ 8] 。信三は同盟国の日本の留学生が敵国から逃れてきたということで、授業料免除という特典が与えられ、自由に聴講が許された[ 6] 。ケンブリッジでは帰国前の上田ともしばらく同宿したが、キングス・カレッジ に政治学者ゴールズワージー・ロウズ・ディキンソン を一緒に訪問した。また、キングス・カレッジで教えていたケインズ の講義を受講した[ 8] 。その後、信三は再度、ロンドンに移った後、最後はフランス・パリ に向かい、修学を続けた。そして、ニューヨーク を経由し、1916年(大正5年)に帰国した[ 6] 。
1916年(大正5年)に帰国した信三は、大学部政治科と理財科の教員となり、デヴィッド・リカード の経済学 を講義する。自由主義 を論調とし、共産主義 ・マルクス経済学 に対し徹頭徹尾合理的な批判を加えている。1924年(大正13年)慶應義塾図書館 監督(館長)に就任[ 9] 。1925年(大正14年)にはそれまで住んでいた麻布の借家から品川御殿山 の新築[ 注 1] に移った。
1933年(昭和8年)には慶應義塾長 に就任する。1934年(昭和9年)、「『リカアドオ』研究」で慶應義塾大学経済学博士 [ 11] 。1936年(昭和11年)8月、ハーバード大学 創立300年記念祝典に招かれて渡米[ 12] 。1943年(昭和18年)帝国学士院 会員に選出される。
1939年(昭和14年)、実業家の藤原銀次郎 が工業系の藤原大学を設立すると、小泉は慶應義塾大学と藤原大学の学長(塾長)を兼任した。1944年(昭和19年)、大学の規模拡大を考えていた小泉は藤原に大学合併案を申し入れて了承を得た[ 13] 。藤原大学は慶應義塾大学工学部 の母体となった。
第二次世界大戦 が始まると、小泉の一人息子・信吉(しんきち)も出征して戦死。そのときの嘆きを小泉は散文に著してこれを私家版として関係者に配ったが、没後に『海軍主計大尉小泉信吉』で公刊され、代表作の一つとして長く読まれている。小泉自身も1945年(昭和20年)5月25日の東京大空襲 で焼夷弾 の接触により顔と両手に大火傷の重傷を負い、慶應病院に12月まで入院[ 注 2] 。腹や脚から何度も植皮手術を行ったが、その顔には大きな傷跡が残ることとなった。高橋誠一郎 が一時的に塾長代理を務めた後、1947年(昭和22年)に任期満了で塾長を退任。
1949年(昭和24年)、東宮御教育常時参与 に就き、皇太子明仁親王 (現在の上皇 )の教育係として、ハロルド・ニコルソン 『ジョージ5世 伝』や福澤の『帝室論 』などを講義し、新時代の帝王学 を説いた。また美智子 皇太子妃実現にも大きく関与した。
1953年『文藝春秋』2月号に「日本語」を発表、新仮名・漢字制限に反対し、4月、金田一京助 が『中央公論』で、桑原武夫 が『文藝春秋』で反論した。1954年(昭和29年)にはコロンビア大学 より人文学名誉博士号を贈られる。1959年(昭和34年)11月、文化勲章 を受章。
1966年(昭和41年)5月11日、心筋梗塞 のため78歳で死去。贈正三位 [ 16] 。墓所は多磨霊園 。
レガシー
慶應義塾では1968年(昭和43年)から「小泉信三記念講座」が開講している。また小泉の死去後に慶應義塾はその業績を記念し「小泉基金」を設立した。1976年(昭和51年)からは全国高校生小論文コンテストに「小泉信三賞」が加わった。
小泉と共産主義
小泉は共産主義の批判者であったが、同時に共産主義を深く研究していた(後の日本共産党 幹部野呂栄太郎 のマルクス経済学研究を支援したという主張もある[ 17] )。小泉が社会主義に興味を持つ切っ掛けとなったのは、幸徳秋水 等が処刑された大逆事件 である[ 18] 。小泉は1920年代、河上肇 やその弟子でのちに労農派 の論客となる櫛田民蔵 と激しく論戦を闘わせた[ 19] 。なお、恩師とされる福田徳三は1903年『国家学会雑誌』誌上で河上肇と論争を開始していた[ 20] 。
『共産主義批判の常識 』は1949年 (昭和24年)に新潮社より刊行されベストセラーとなった[ 21] 。新潮文庫 (1954年(昭和29年))や講談社学術文庫 (1976年(昭和51年))で改訂再刊し、多くの著作中でもっとも多く読まれた著書の一つである。塾長退任後に刊行された『共産主義批判の常識』は、昭和初期に行った共産主義 批判の論文と内容に大差はないが、マルクス・レーニン主義 が国家再生の思想としてもてはやされていた状況を憂慮し、戦後 のソ連 共産主義についての直接の言及が多くなっている。この流れで講和問題 でもソ連とは与せず単独講和論を主張している[ 22] [ 23] [ 24] 。
小泉とスポーツ・文化
「練習ハ不可能ヲ可能ニス」の碑 (慶應大学 日吉キャンパス)
還らざる学友の碑 (慶應大学三田キャンパス)
庭球の名選手であったが[ 2] 、1922年 (大正11年)から塾長就任の前年である1932年 (昭和7年)までの期間庭球部部長を務めるなど、慶應義塾體育會 (体育会)の発展にも力を尽くした。「練習ハ不可能ヲ可能ニス」の言葉は有名。(『練習は不可能を可能にす』 に詳しい)。
関東大震災 のとき慶應義塾の教授であった小泉は、被災した人々の実態調査を進める一方で、テニス・歌舞伎 などの文化的な行事に精力を注いだ[ 25] 。
最晩年に至るまで神宮球場 での野球観戦を好み、慶應の試合がないときも「敵情視察」と称してたびたび球場に足を運んだ[ 26] 。
「最後の早慶戦」での小泉の尽力
戦時下において学生野球は続行不能に瀕したが、小泉は毅然として非常時局におけるスポーツ精神の高揚を力説した[ 2] 。こうして1943年 (昭和18年)10月16日 開催の出陣学徒壮行早慶戦 (通称「最後の早慶戦」)は、「学徒出陣 に赴かざるを得ない学生らに、せめてもの最後の餞を残したい。それには早慶戦 が相応しい」との小泉の思いにより開催されることとなった。
小泉は慶大野球部 の部長・主将を通じ、早稲田大学野球部 ・飛田穂洲 監督に試合を頼み込んだ。早大野球部はこれを快諾したが、早稲田大学 側(田中穂積 総長)は軍部や文部省の圧力に屈し、試合の申し出を承諾出来ずにいた。そのため、早大野球部は早大当局の反対を押し切って試合を挙行。試合が行われた戸塚球場に招かれた小泉は、早大側による特別席への案内を「私は学生と一緒の方が楽しいです」[ 27] と断り学生席で観戦した。
このほか東京六大学野球連盟 からの懇願を受け、ただ一人体育審議会で野球弾圧の無意味さを説き、強烈な反対の論陣をもって軍部・官僚たちを沈黙させた。1976年 (昭和51年)には野球殿堂 入り[ 2] 。
この早慶戦から65年にあたる2008年 (平成20年)に『ラストゲーム 最後の早慶戦 』で映画化された。小泉信三役は石坂浩二 が演じた。なお石坂の母方の祖父平沼亮三 邸の広大な敷地には運動場があり、スポーツ好きの小泉はしばしば訪れていた[ 28] 。
伝記・資料
著書
現在、作品の著作権は消滅し、パブリック・ドメインとなっている。
『小泉信三全集』、文藝春秋 (全28巻)、1967-1972年
第25巻「書簡集」は上下分冊、最終巻は別巻・写真などの回想集。
『小泉信三エッセイ選 1 善を行うに勇なれ』慶應義塾大学出版会 、2016年
『小泉信三エッセイ選 2 私と福澤諭吉』慶應義塾大学出版会、2017年
山内慶太・神吉創二・都倉武之・松永浩気編
『練習は不可能を可能にす』 山内慶太・神吉創二編、慶應義塾大学出版会、2004年
没後重版・新編再刊
生前刊行分(前掲書を除く)
『私の履歴書 小泉信三』 日本経済新聞社 、1966年8月(遺著)
『座談おぼえ書き』 文藝春秋 、1966年
『わが日常』 新潮社 、1963年
『十日十話』 毎日新聞社 、1962年2月
『河流』 新潮社、1960年
『この一年』 新潮社、1959年
『朝の机』 新潮社、1958年
『小泉信三選集』 文藝春秋新社(全5巻)、1957年
『思ふこと憶ひ出すこと』 新潮社、1956年
『國を思ふ心』 文藝春秋新社、1955年
『外遊日記』 文藝春秋新社、1954年
『平和論』 文藝春秋新社、1952年2月
『初學經濟原論』 泉文堂、1952年
『今の日本』 慶友社、1950年8月
『文学と経済学』 勁草書房 、1948年
『社会思想史研究』 和木書店、1947年4月
『大学生活』 岩波書店 、1939年12月
『アメリカ紀行』 岩波書店、1938年5月
『支那事變と日清戰爭』 慶應出版社、1937年
『師・友・書籍』 岩波書店、1936年7月
『学窓雑記』 岩波書店、1936年7月
『アダム・スミス、マルサス、リカアドオ 正統派經濟學研究』 岩波書店、1934年
『近世社會思想史大要』 岩波書店、1928年
『社會組織の經濟理論的批評』 下出書店、1921年11月
関連人物
家族・親族
小泉文庫 (1820-1883年)[ 29] - 祖父。紀伊和歌山藩 士族。
小泉信吉 (1849-1894年) - 父。藩の留学生として江戸の慶應義塾で学び、後に慶應義塾長を務める。45歳で早世。
ちか (1863-1946年) - 母。紀伊和歌山藩士族・林玄泉の長女。
千 (1886-1958年) - 姉。父・信吉の長女。南満州鉄道 副総裁。第2次山本内閣 で法制局長官 を務めた松本烝治 に嫁いだ。
勝 (1890-1931年) - 妹。父・信吉の次女。参松工業 の創業者であり三陸汽船 社長も務めた横山長次郎 に嫁いだが胸の病により早世。
ノブ (1894-1959年) - 妹。父・信吉の三女。佐々木勇之助 の次男で第一銀行 副頭取を務めた佐々木修二郎に嫁いだ。
トミ(とみ) - 妻。阿部泰蔵の三女。長男・信吉、長女・加代、次女・妙の3人を生んだ。香蘭女学校 卒[ 30] 。
小泉信吉 (1918-1942年) - 長男。昭和17年、南太平洋にて海軍中尉として戦死。
阿部泰蔵 - 妻・富子(とみ)の父。明治生命保険 の創設者であり初代頭取。
水上瀧太郎 - 本名は阿部章蔵。妻・富子の兄。明治生命保険専務であり小説家 。御田小学校以来の信三の親友でもある。
美澤進 - 従姉弟(父・信吉の姉の娘)の夫。横浜商法学校 の初代校長。
巽孝之丞 - 祖父・小泉文庫の従兄弟。銀行家。
中村啓次郎 - 祖父・小泉文庫の従兄弟。巽孝之丞の弟。衆議院議長 。
その他
脚注
注釈
^ これは澱粉飴製造会社を興し成功していた義弟・横山長次郎に設計から何から全てやってもらったものであり、完全なる人任せの家であったと自ら著書で述べている[ 10] 。
^ 病院で心身共に衰弱していたこの年の夏、義弟・横山長次郎の甥である忠雄(横山虎雄 の息子)が持ってきた蓄音機でベートーヴェンの曲を聴き、この世の美しさを改めて感じ涙している[ 14] [ 15] 。
出典
外部リンク
成文化前 成文化後 財団法人下※1920-兼大学総長 学校法人下※理事長兼大学長
競技者表彰
1960年代 1970年代 1980年代 1990年代
90 真田重蔵 , 張本勲
91 牧野茂 , 筒井修 , 島岡吉郎
92 廣岡達朗 , 坪内道則 , 吉田義男
93 稲尾和久 , 村山実
94 王貞治 , 与那嶺要
95 杉浦忠 , 石井藤吉郎
96 藤田元司 , 衣笠祥雄
97 大杉勝男
99 中西太 , 広瀬叔功 , 古葉竹識 , 近藤貞雄
2000年代 プレーヤー
エキスパート
特別表彰
1950年代 1960年代
60 飛田忠順 , 河野安通志 , 桜井彌一郎
62 市岡忠男
64 宮原清
65 井上登 , 宮武三郎 , 景浦將
66 守山恒太郎
67 腰本寿
68 鈴木惣太郎 , 田邊宗英 , 小林一三
69 三宅大輔 , 田部武雄 , 森岡二朗 , 島田善介 , 有馬頼寧
1970年代
70 田村駒治郎 , 直木松太郎 , 中馬庚
71 小西得郎 , 水野利八
72 中野武二 , 太田茂
73 内海弘蔵 , 天野貞祐 , 広瀬謙三
74 野田誠三
76 小泉信三
77 森茂雄 , 西村幸生
78 伊丹安広 , 吉原正喜 , 岡田源三郎
79 平沼亮三 , 谷口五郎
1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代 新世紀