安全地帯 出身地
日本 北海道 旭川市 ジャンル
活動期間
1982年 - 1992年
2002年 - 2003年
2010年 -
レーベル
共同作業者
公式サイト
安全地帯 メンバー
旧メンバー
武沢俊也(ギター・キーボード)
玉置一芳(ドラムス)
宮下隆宏(ベース)
大平市治(ドラムス)
安全地帯 (あんぜんちたい)は、日本のロックバンド 。1973年にボーカルの玉置浩二 およびギタリストの武沢豊 を中心に北海道 の旭川市 で結成。バンド名は、道路交通法 による「安全地帯 」から命名。
北海道内でのアマチュア活動後、井上陽水 のバックバンドとしての全国ツアーを経て1982年にシングル「萠黄色のスナップ 」でメジャー・デビュー 。1983年にリリースしたシングル「ワインレッドの心 」が71.4万枚の大ヒットとなり、以後「恋の予感 」「熱視線 」「悲しみにさよなら 」「碧い瞳のエリス 」など多数のヒット曲をリリース。また1985年にリリースした4thアルバム『安全地帯IV 』はオリコンチャート にて週間、年間共に第1位を獲得し累計92.9万枚の大ヒット作品となった。
1988年初秋に活動休止。玉置はソロ活動や俳優業として活動。1990年初夏に活動再開。その後1993年のシングル「ひとりぼっちのエール 」を以て再び活動休止。2002年に9年ぶりにシングル「出逢い 」発売後活動再開。その後2003年に3度目の活動休止。2010年にシングル「蒼いバラ 」にて活動再開。以降、各メンバーソロ活動と並行してバンドも定期的に活動。
メンバーと担当楽器
来歴
アマチュア時代
1972年、北海道旭川市 で玉置浩二 は、旭川市立神居中学校 2年時のクラスに転入生だった武沢豊 を迎える。中学進級時から自己流でギター を弾き始めていた玉置は、武沢の大きな掌に空手 を稽古していると恐れを覚えるほどであったが、それがクラシック・ギター を習っているからだと知り、練習曲を上手く弾く武沢に惹かれ、バンド結成を誘う。
一方、1972年、同じ旭川で、中学3年の同級生とした矢萩渉 がギター、田中裕二 がドラムでバンドを結成していた。また、同じく旭川で六土開正 は、1971年から1972年頃、年長者とバンドを組み活動していた。六土と矢萩/田中は中学同級生バンドとして知り合っていた。
1973年4月、玉置浩二(ボーカル)、武沢豊(ギター)、武沢俊也(武沢の兄、ギター・キーボード)の3人でバンド『インベーダー 』を結成する。フォークグループとしてスタートし、演奏曲目はガロ の「学生街の喫茶店 」を得意とした。後にロックグループへの志向から『安全地帯 』へ名称変更する。旭川市内に路線を持つ路面電車 、旭川電気軌道 の電停 にある安全地帯 の標識が、「Victory」の頭文字「V」に似ていたことで、初期のバンドメンバー・進藤による命名である。他案に『危険地帯』も候補に上ったが、「ロック =危険(な音楽)」というイメージを連想させることが平凡なため、採用しなかった。11月、玉置の兄、玉置一芳がドラムで、宮下隆宏がベースで参加した。レッド・ツェッペリン に憧れていた玉置一芳の影響でロックに傾倒し、ヤマハポピュラーソングコンテスト (ポプコン)第6回に初出場。第11回を除く第13回まで連続出場した。
一方、将来の他のメンバーたちは、1973年には、六土開正が自身がリーダーとなる『六土開正バンド 』を新たに結成。ここに、矢萩渉、田中裕二が参加した。
1976年、ポプコン第12回では「昔にみたもの」で北海道代表となり、つま恋本選会に出場した。この年の暮れ、12月25日、札幌市 内にてFMラジオ番組の生放送に出演し5曲演奏した。『安全地帯』としてのラジオ初出演であった。
1977年6月、玉置一芳が脱退し、ドラムに大平市治が加入する。12月、オールマン・ブラザーズ・バンド 、レーナード・スキナード などのサザン・ロック を演奏していた『六土開正バンド』と合併する。これにより、六土開正 (ベース、キーボード)、矢萩渉 (ギター)、田中裕二 (ドラム)が安全地帯に参加することとなった。
ボーカル玉置、武沢/矢萩のツインギター、六土はキーボードに回り、武沢/六土のツインキーボード、ベース宮下、ドラムは大平/田中のツインドラムという大編成8名バンドとなった。音楽性はハードロック から、ドゥービー・ブラザーズ 、ジャクソン・ブラウン を中心としたアメリカンロックへと幅が広がった。オリジナル曲の制作も増え、作詞は初期に玉置、後に武沢俊也が担当。作曲は玉置が行った。
1978年2月、旭川市郊外の永山地区にある廃農家を借り、居住空間を確保した音楽専用スタジオに改装する。『ミュージカル・ファーマーズ・プロダクション 』(略称MFP、「音楽を耕す農夫集団」の意)と命名する。屋根と壁に囲われた空間に床を張り、防音材を四方の壁に詰めて水道を引き込んだ簡素な改装であったが、費用500万円は借金したためにメンバーはアルバイトに精を出すこととなった。一方、四周300mに一軒の隣家のないMFPでは、連日連夜、1日7 - 8時間にわたって演奏練習・楽曲制作・録音に励むこととなった。なお、この音楽専用スタジオは後に脱退する宮下隆宏オーナーのフランス料理レストランに変貌し、MFPは安全地帯が設立した事務所名となる。7月、第1回ステージフライト[ 4] に出場し、グランプリを獲得する。11月、田中裕二、宮下隆宏が脱退する。そのため、六土開正はベース担当へ復帰。この頃、後に安全地帯のディレクター/エグゼクティブ・プロデューサーとなる金子章平が安全地帯の演奏デモテープを聴き、MFPを訪問した。パトリック・シモンズ のような雰囲気を醸し出すバンドメンバーの、パンチのある、ストレートな、想像以上の、演奏を見て金子は安全地帯の将来性に確信を持った。長期にわたる合宿により実力をつけ、数々のコンテストで入賞を果たし、北海道で実力No.1のアマチュアバンドとなった。
1979年5月、当時のキティレコード(現ユニバーサルミュージック )からレコーディングのチャンスが巡ってくる。しかし、バンドサウンドは未完成との判断で保留となった。8月、カルメン・マキ の旭川、札幌公演では前座として出演した。11月26日、武沢豊が飲酒運転の車に衝突され、肋骨全部の骨折という重傷で入院する。
1980年4月、今度は六土開正が病気のため入院することとなった。10月になりキティレコードから再びレコーディングの依頼があり、まだ回復していなかった六土が病院の特別許可を得てライブ参加。ライブ当夜、キティレコードと仮契約締結。11月には六土が退院、12月に武沢豊が仮退院とバンド復帰に向け活動を開始。28日のライブ終了後、音楽プロデューサー 星勝 を交えてミーティングを行う。星は心身ともに優れず意気消沈しているこの時期の安全地帯の精神的支柱となっていた。
1981年1月になり漸くキティレコードから正式なレコーディング依頼を受ける。3月に武沢俊也が脱退する。7月になると井上陽水 が星勝の紹介でMFPを訪問し共演する。陽水からはロック以外にも歌謡曲 やポップス などの幅広い音楽に目を向けるように促される。
その後、陽水の招聘により安全地帯が上京する。東京での初ライブを渋谷『屋根裏 』で開催。伊豆ポリドールスタジオ(後のキティスタジオ)にて、「オン・マイ・ウェイ 」のレコーディングを開始し、その合間に東京、大阪、神戸のライブハウスに出演する。8月、『'81井上陽水ツアー』にバックバンドに起用され、同行決定。MFPに戻り、ツアーのための練習に励む。22日、第4回ステージフライトにゲスト出演。井上のツアーの最終リハーサルとレコーディングのため再び上京し、東京で合宿生活開始。9月24日、井上陽水ツアーが熊本市民会館 からスタートし、12月10日の東京・渋谷公会堂 の最終回まで全国23カ所の公演に参加。ツアー衣装は、当初無給のため、渋谷のジーンズメイト で購入したものを履き、鉢巻きというスタイル。ツアーの経験から、自信のあった練習量、実力のある多くの同等バンドの存在に気付き挫折感を味わうが、更に練習に励む。11月、「オン・マイ・ウェイ」が正式発売前ながらブリヂストン ・スノータイヤ のCMソングに使用され、北海道、東北地方にて放映。
メジャー・デビュー
1982年
1月24日、フジテレビ 系音楽番組『夜のヒットスタジオ 』に陽水のバックバンドとして初出演。陽水の春・夏のコンサートのサポート・ミュージシャンとして参加し、秋から翌年1月までの全国ツアーのバックバンドを務めた。2月25日、1stシングル「萠黄色のスナップ 」でメジャー・デビュー 。4月、キティレコードと正式契約。メンバーが東京に転居し合宿生活を開始後、大平市治が脱退する。田中裕二が再加入することで、デビュー以後の安全地帯の5人のメンバーが確立。5月、東京『Shibuya eggman 』でライブ。7月、陽水のバックバンドとして、東京・日比谷野外音楽堂 、大阪城野外音楽堂 のコンサートをサポートする。8月上旬、札幌市郊外で開催されていた『北海道博覧会』特設会場に、FM北海道 の招聘により出演する。下旬、1stアルバム『安全地帯I Remember to Remember 』のレコーディングを伊豆ポリドールスタジオで開始し、合宿生活終了。玉置は、東京・目黒の四畳半一間のアパート を借家。一人暮らしに馴染めず、売上の芳しくないレコードの現状、コンサートが続くことも相まり、自暴自棄に陥りそうになる。苦しいなりにも自信は失っておらず、テレビCMか番組主題歌に起用される機会を窺っていた。10月25日、2ndシングル「オン・マイ・ウェイ 」を発表。11月、陽水のツアーに翌年1月まで帯同。
1983年
1月25日、1stアルバム『安全地帯I Remember to Remember 』を発表。同年秋、サントリー から発売された「赤玉パンチ 」のCMソング に使用され、陽水作詩による11月25日発売、4thシングル「ワインレッドの心 」が大ヒット。一躍全国にその名が知れ渡る。
1984年
2ndアルバム『安全地帯II 』、7thシングル「恋の予感 」、3rdアルバム『安全地帯III〜抱きしめたい 』と、立て続けにヒットさせる。
1985年
1月に8thシングル「熱視線 」、続いて9thシングル「悲しみにさよなら 」、4thアルバム『安全地帯IV 』が大ヒット。TBS の『ザ・ベストテン 』、日本テレビ 『ザ・トップテン 』年間第1位に輝き、同年のNHK 紅白歌合戦 初出場。また、FNS歌謡祭 では史上初で唯一となる2年連続で最優秀歌唱賞を受賞。
1986年
8月、神宮球場 においては初となるコンサートを井上陽水と共に行う。9月、陽水とのコラボレーションした12thシングル「夏の終りのハーモニー 」を発売。12月、オリジナル・アルバムとしては異例の全36曲、アナログ盤3枚組(LP=3枚組、CD=2枚組)となる5thアルバム『安全地帯V 』を発売。また、「ワインレッドの心」「恋の予感」「Friend 」などが香港 でカバーされ、それぞれヒットした。
1987年
安全地帯の活動の合間を縫ってソロでの活動も進められ、夏に玉置自身初のソロでのシングルとアルバムをリリースする。
1988年
秋、香港コロシアム でのコンサートを最後に活動休止を宣言。その原因として、メンバー個々の活動が活発化し、6thアルバム『安全地帯VI〜月に濡れたふたり 』以降の音楽性の追求方向のメンバー間の相違によるとされる。宣言後の5人は約2年間、個々の活動を行う。
12月、自身初のベスト・アルバム『I Love Youからはじめよう -安全地帯BEST- 』をリリースする。
1990年
7月、約2年ぶりとなる7thアルバム『安全地帯VII〜夢の都 』をリリースする。収録曲の「この道は何処へ」は1991年冬季ユニバーシアード テーマ曲。
1991年
12月、8thアルバム『安全地帯VIII〜太陽 』をリリースする。当時、テレビの音楽番組にも精力的に出演。
1992年
12月、アコースティックスタイルでのコンサートツアーの終了時点で、実質的に長期活動休止に入る。
2度の長期活動休止
1993年
2月10日、23rdシングル「ひとりぼっちのエール 」をリリースする。活動休止を境に玉置は、ソロと俳優業を中心とした活動に移行し、武沢豊 はプロデュース業に専念、他のメンバーも個々の活動に入る。この時、安全地帯の所属会社がキティレコードからSME へ移籍。2002年の活動再開まで安全地帯名義の活動は約10年間休止したままだった。
1994年
武沢が脱退を発表。メンバー4人は玉置浩二のソロプロジェクトで当分の間活動することになる。玉置一芳(ドラム)、宮下隆宏(ベース)が一時的に復帰。しかし、実質的には玉置ソロ活動のサポート・ミュージシャンが帯同して、4名の活動となった。
1998年
7月19日、旭川市の野外ライブ『旭川ライブジャム '98in北彩都 』で約5年ぶりにメンバー5人全員が揃う。
2001年
この頃より安全地帯としての音楽制作を本格的に再開する。玉置はソロ活動と並行。
2002年
7月10日、9年ぶりに24thシングル「出逢い 」がリリース。発売前日、5人揃って記者会見が行われた。8月7日に9thアルバム『安全地帯IX 』が発売。9月からツアーが始まったが、武沢は怪我のため不参加。
2003年
10月22日、10thアルバム『安全地帯X〜雨のち晴れ〜 』がリリースされる。ツアーでは5人全員が揃い、80年代の活動の場であったライブハウス「Shibuya eggman 」でもライブを行う。12月、ツアー全日程を終了。ツアー終了後約6年間、グループは再び活動休止。
「完全復活」〜現在
2010年
1月8日、前年秋からメンバーによる楽曲製作の合宿を極秘裏に行っていたことが、フジテレビ系情報番組『とくダネ! 』で放映され、27thシングル「蒼いバラ / ワインレッドの心(2010ヴァージョン) 」のリリースと3月のイベント出演が公表された。所属レコード会社はUSMジャパンに移籍(実質的には復帰)した。同日に「蒼いバラ」、2月3日にC/W曲の「ワインレッドの心 (2010ヴァージョン)」の着うた 配信がスタート。6月には、先の「ワインレッドの心 」や、「悲しみにさよなら 」等のヒット曲を新たにレコーディングし直したグループ初のセルフカバーアルバム『安全地帯 Hits 』が発売。7月からは7年ぶりとなる全国コンサートツアーを開催し、9月下旬から10月上旬にかけて台湾 ・香港 ・韓国 の海外公演も決定。なお、9月12日に行われた福岡市 での公演は、玉置浩二が体調不良の状態でステージを敢行したものの、観客とのトラブルが生じたため、コンサートは中止扱いとされた[ 5] 。全国ツアー最終の10月5日・6日は、18年ぶり24回目となる日本武道館 で公演を行った。
2012年
7月1日、Ustream 番組『ソルトモ!』にて、SMEへの再移籍ならびにデビュー30周年を節目とした初のレーベル『SALTMODERATE』の発足を発表。8月22日にはセルフカバー曲を中心としたアルバム『The Ballad House〜Just Old Fashioned Love Songs〜 』をリリースした。9月にはいわみざわ公園野外音楽堂キタオン と東京国際フォーラム でのライブを敢行。その模様が収録されたライブDVDは12月に発売。12月17日から25日にかけて、グループとして初めてクリスマスディナーショーを開催。
2013年
14thアルバム『安全地帯XIV〜The Saltmoderate Show〜 』を発売。レーベル発足後初となる全国ツアー開催。ROCK IN JAPAN FESTIVAL へ参加。その後韓国 ・香港 ・台湾 でのアジアツアーを挙行。
2017年
5月31日、デビュー35周年を記念して初のオールタイム・ベスト・アルバム『ALL TIME BEST 』をリリース。6月25日放送の『玉置浩二ショー』ではメンバー全員が出演した。さらに、11月22日にオリジナル・アルバム全14タイトルを紙ジャケット仕様と高音質CDで再発売することが決まった。『ALL TIME BEST』の発売と同時に発表されていた11月23日・24日の2日連続での日本武道館公演では、超満員となる計2万5000人を動員。12月9日の香港公演をもってツアー日程を終了する予定。
作品
シングル
フィジカル・シングル
配信限定シングル
スタジオ・アルバム
ベスト・アルバム
ライブ・アルバム
企画アルバム
CD BOX
サウンドトラック
セルフカバーアルバム
映像作品
タイアップ一覧
ソングブック
安全地帯ベスト曲集 Guitar songbook(2002年)
安全地帯X -雨のち晴れ- ギターソングブック(2003年)
NHK紅白歌合戦出場歴
脚注
注釈
出典
関連項目
外部リンク
玉置浩二 - 矢萩渉 - 武沢豊 - 六土開正 - 田中裕二 シングル
フィジカル・シングル
1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
配信限定シングル
アルバム
スタジオ サウンドトラック ベスト
ボックス・セット ライブ
カテゴリ
映像作品
関連項目
カテゴリ
シングル
1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
アルバム
映像作品
1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
提供楽曲 関連人物 関連項目
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