叡福寺(えいふくじ)は、大阪府南河内郡太子町太子にある太子宗の本山の寺院。山号は磯長山(しながさん)。本尊は如意輪観音。新西国三十三箇所客番札所。聖徳太子の墓所とされる叡福寺北古墳(磯長墓〈しながのはか〉)があることで知られる。開基は聖徳太子または推古天皇とも、聖武天皇ともいわれる。聖徳太子建立三太子の一つで、野中寺(羽曳野市)の「中の太子」、大聖勝軍寺(八尾市)の「下の太子」に対して、「上の太子」と呼ばれている。また、大阪みどりの百選に選定されている[1]。
歴史
草創
この寺にある叡福寺北古墳(磯長墓)には、聖徳太子、太子の母・穴穂部間人皇女、太子の妃・膳部菩岐々美郎女が埋葬されているとされ、「三骨一廟」と呼ばれる[2][3]。叡福寺の所在する磯長(しなが)は蘇我氏ゆかりの地であり、聖徳太子の父(用明天皇)と母はともに蘇我氏の血を引いているが、この古墳の被葬者を聖徳太子とすることについては異説もある。なお、叡福寺近辺には敏達天皇、用明天皇、推古天皇、孝徳天皇の陵もある。
寺伝によれば、聖徳太子は生前、推古天皇28年(620年)にこの地を自らの墓所とするように定めたという。推古天皇29年(621年)、穴穂部間人皇女が没するとここに葬られる。翌年の推古天皇30年(622年)には、相次いで没した聖徳太子と妃の膳部菩岐々美郎女が追葬されたといわれる。太子の没後、伯母にあたる推古天皇が土地建物を寄進し、墓守りの住む堂を建てたのが叡福寺の始まりとされている。約1世紀後の神亀元年(724年)に聖武天皇の発願[4]で東院・西院の2つの七堂伽藍が整備されて東院は転法輪寺、西院は叡福寺と称したという[5]。しかし、このことは正史には見えず史実かどうか定かではない[注 1]。叡福寺の創建年代については諸説あり、実際の創建は平安時代以降に下るとする見方もある。この頃には当時は御廟寺と呼ばれていた。
叡福寺は聖徳太子ゆかりの寺として、歴代の天皇や権力者に重んぜられた。平安時代には嵯峨天皇をはじめ多くの天皇が参拝している。承安年間(1171年 - 1175年)には高倉天皇の勅により、平清盛の命で子の平重盛が堂塔の修理を行っている[5]。また聖徳太子は仏教の興隆に尽力したため、日本仏教の開祖として賛仰された。空海・良忍・親鸞・日蓮・一遍など新仏教の開祖となった僧たちが、太子の墓所があるこの寺に参籠したことが知られている。当寺は法隆寺や四天王寺と並ぶ太子信仰の中核でもあった[4]。
南北朝時代以降
南北朝時代の貞和4年(1348年)1月12日には合戦に巻き込まれて堂舎が炎上している[6]。
なお、当寺は13世紀中頃には御廟寺の他、転法輪寺、科長(しなが)寺、石河寺などと呼ばれており、叡福寺と呼ばれるようになるのは15世紀初頭以降である。以後も当寺の呼び名は増え、太子寺、上太子寺、普門寺などとも呼ばれるようになっていく[7]。
当寺は戦国時代には塔頭も20余あったが[8]、天正2年(1574年)の織田信長による焼き討ちで大きな被害を受けてしまい、古代の建物は一つも残っていない[4]。南にある西方院の寺伝によると、この時の被害は明智光秀の焼き討ちによるものであったという[9]。
その後、後陽成天皇の勅願により豊臣秀頼が伽藍を復興し、慶長8年(1603年)に聖霊殿が再建されるなどし、慶長年間(1596年 - 1615年)に再興されている[4]。
長らく金堂は再建されていなかったが、とりあえず仮屋として正徳5年(1715年)に再建がなされたが[10]、その後、本格的な金堂が建てられることとなり、享保17年(1732年)に金堂がようやく再建された[8]。
当寺は聖徳太子信仰の高まりもあって「三国一の霊場」とも呼ばれるようになった[11]。
境内の南側には元塔頭の西方院がある。
当寺の付近には、敏達天皇陵、用明天皇陵、推古天皇陵、孝徳天皇陵、小野妹子の墓、大津皇子の墓、源頼信の墓、源頼義の墓、源義家の墓などがある[4]。
境内
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南大門
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二天門
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聖徳太子御廟
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浄土堂
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聖霊殿
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多宝塔
聖徳太子御廟(叡福寺北古墳)
叡福寺が聖徳太子磯長廟として祀り、聖徳太子らの墓所とされる叡福寺北古墳は、宮内庁により皇族の陵墓(磯長墓)に指定されている。1889年(明治12年)、学術調査がなされた。聖徳太子の墓所とするのは後世の仮託だとする説もある。古墳は約直径55メートルの円墳で、横穴式石室をもち、内部には3基の棺が安置されているという。中央の石棺に穴穂部間人皇女(母)が葬られ、東と西の乾漆棺(麻布を漆で貼り固めた棺)には東に聖徳太子、西に膳部菩岐々美郎女(妻)が葬られているとされる。
江戸時代までは参拝のために石室内に入れたというが、明治になり入場が規制され、1889年(明治12年)の修復調査が実施された際に横穴入口をコンクリートで埋めてしまったため、中を調査することは困難である。また調査の際に棺は確認できたが、遺骸は風化して残っていなかったとされている。
墳丘の周囲は「結界石」と呼ばれる石の列によって二重に囲まれている。2002年(平成14年)に結界石の保存のため、宮内庁書陵部によって整備され、墳丘すそ部が3か所発掘された。同年11月14日、考古学、歴史学の学会代表らに調査状況が初めて公開された。墳丘の直径が55メートルを下回る可能性が指摘されている。
文化財
重要文化財
大阪府指定有形文化財
大阪府指定史跡
前後の札所
- 新西国三十三箇所
- 8 西方院 - 客番 叡福寺 - 9 飛鳥寺
- 仏塔古寺十八尊
- 1 家原寺 - 2 叡福寺 - 3 海住山寺
- 河内西国霊場
- 20 楠妣庵観音寺 - 21 叡福寺 - 22 額田寺
- 聖徳太子霊跡
- 5 野中寺 - 6 叡福寺 - 7 世尊寺
- 西山国師遺跡霊場
- 14 當麻寺奥の院 - 15 叡福寺 - 客番 四天王寺
- 河内飛鳥古社寺霊場
- 14 高貴寺 - 15 叡福寺 - 客番 住吉大社
- 神仏霊場巡拝の道
- 56 観心寺 - 57 叡福寺 - 58 道明寺天満宮
太子廟の七不思議
- 樹木が生い茂った御廟内には、松や笹が生えない。
- 鳥が巣を造らない。
- 大雨が降っても御廟の土が崩れない。
- 御廟を取り巻く結界石は何度数えても数が合わない。
- メノウ石に太子の御記文が彫られたものが、太子の予言どおりに死後430年後の天喜2年(1054年)に発見された。
- 御廟も西にあるクスノキは、母后を葬送したときに、太子自らがかついだ棺の轅(ながえ)を挿したものが芽をふき茂った。
- 寛平6年(894年)、法隆寺の康仁大徳が御廟内を拝見した時、太子の着衣は朽ちていたが、その遺骸は生きているように温かくやわらかだった。
韓国人窃盗団による盗難事件
1998年(平成10年)に高麗仏画「楊柳観音像」を含む仏画32点が盗まれた。2004年(平成16年)10月にソウルで韓国人窃盗団が逮捕され、2005年(平成17年)1月には懲役判決を受けた。韓国では、日本にある高麗仏画は文禄・慶長の役や日本統治時代に略奪されたと認識する人もおり、窃盗団は「神が『日本が略奪した我が国の文化財を取り戻せ』と言った」と主張したが、盗品をすぐ売却して金に替えており、金銭目的の犯行だと判明している。「楊柳観音像」は韓国に持ち込まれたといわれているが、行方不明である[24]。
その他
南大門の南側には聖徳太子の3人の乳母を祀る日本最初の尼寺とされる西方院がある。また聖徳廟と南大門の延長線上の南側にある南林寺は叡福寺の四季講堂であったといわれている(南林寺パンフレットより)。
聖徳太子1400年御遠忌大法会では雅楽(東儀秀樹)、幸若舞(幸若知加子)、宗教舞踊(金剛流)が奉納された。
所在地
交通アクセス
脚注
注釈
- ^ 江戸時代に製作された当寺を描いた絵図に『建久四年古図』というものがあるが、これは椿井文書である。この絵図には当寺の東側に転法輪寺という寺院が描かれている。江戸時代にこの絵図がかなり複製されたことにより、転法輪寺という寺院があったとの話が広まってしまったのではないかとされる(竹内街道歴史資料館『聖徳太子廟の香花寺』10p)。また、『叡福寺略縁起并古跡霊宝目録』には転法輪寺とは叡福寺の異号であると書かれている(竹内街道歴史資料館『聖徳太子廟の香花寺』12p)。
出典
参考文献
- 『写真資料 日本の文化遺産 建造物編(下)』日本図書センター、2008年。ISBN 978-4-284-80002-0。
- 磯長山叡福寺「河内国 上之太子 磯長山 叡福寺縁起」(現地案内板)
- 太子町立竹内街道歴史資料館『聖徳太子廟の香花寺 叡福寺縁起と境内古絵図』太子町立竹内街道歴史資料館、2000年
- 太子町立竹内街道歴史資料館『西方院の寺宝 -三尼公の威光-』太子町立竹内街道歴史資料館、2019年
外部リンク
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