美具久留御魂神社(みぐくるみたまじんじゃ)は、大阪府富田林市宮町にある神社。式内社で、旧社格は郷社。大阪みどりの百選に選定されている[1]。当社は下水分社(しものすいぶんのやしろ)とも称され、建水分神社(上水分社、千早赤阪村)、錦織神社(富田林市)とともに「河内国の三水分(みくまり)社」と呼ばれている。
祭神
- 主祭神 - 美具久留御魂大神(大国主命の荒魂)。大国主命の荒御魂は龍神の和爾神であったという。美具久留御魂とは水泳御魂(みくくるみたま)に由来する水の神であるという。
- 配祀神 - 天水分神(あめのみくまりのかみ)、弥都波迺売命(みずはのめのみこと)、国水分神(くにのみくまりのかみ)、須勢理比売命(すせりひめのみこと)、木花咲耶比売神
歴史
創建
社伝によれば、崇神天皇10年(紀元前88年)にこの地にしばしば大蛇が出没したので、天皇自ら視察して「これは大国主命の荒御魂によるものである」といい、出雲振根に杵築大社から生大刀・生弓矢を勘請させ大国主命の神体として[要出典]祀らせたのに始まるという。崇神天皇62年、丹波国氷上郡の氷香戸辺が神懸かりして「玉萎鎮石(たまものしずし)。出雲人祭(いずもひとのいのりまつる)真種之甘美鏡(またねのうましかがみ)。押羽振甘美御神(おしはふるうましみかみ)底宝御宝主(そこたからみたからぬし)。山河之水泳御魂(やまがわのみくくるみたま)静挂甘美御神(しずかかるうましみかみ)。底宝御宝主也(そこたからみたからぬしなり)」と宣託した。天皇は直ちに皇太子の活目入彦命(後の垂仁天皇)を当社に遣わして祀り、「美具久留御魂(みくくるみたま)」の名を贈り、相殿に四神を配祀したという。
概史
六国史では、嘉祥3年(850年)にみえる「河内国和爾神」の神階が従五位上に進んだと見えるが、これを当社に比定する説がある。日本文徳天皇実録には光孝天皇により「河内大社」の勅額を奉られたとある。
延長5年(927年)成立の『延喜式』神名帳では、河内国石川郡に「美具久留御玉神社」と記載され、式内社に列している。河内国二宮、石川郡総社と称されたともいう。また、平安時代には神宮寺が境内に創建されている。
楠木正成は、建水分神社(上水分社、千早赤阪村)とともに当社(下水分社)を楠木氏の氏神として崇敬していたが、元弘元年(1331年)に正成が下赤坂城に立て籠もって鎌倉幕府と戦った赤坂城の戦いの際に巻き込まれてしまい、幕府軍に焼き払われた。しかし、幕府滅亡後は正成により社領が寄進され、間もなく社殿も再建された。
天正13年(1585年)に豊臣秀吉による紀州征伐の兵火により社殿や神宮寺の堂舎・下之坊以下の十七坊を焼失するが、万治3年(1660年)に社殿が再建された。その際、神宮寺は復興されなかった。
明治維新後、1872年(明治5年)に近代社格制度において郷社に列せられている。
1996年(平成8年)には本殿、拝殿、社務所などの大改築が行われた。
当社は東向きに建てられており二上山を真正面に臨む位置にある。
境内
本殿は丘陵の山腹に建てられ、その前に上拝殿が、山麓に下拝殿が建てられている。
- 本殿 - 万治3年(1660年)再建。
- 幣殿
- 神門
- 上拝殿 - 万治3年(1660年)再建。
- 祭具庫
- 下拝殿(割拝殿)
- 鎮魂殿
- 社務所
- 神輿蔵
- 祖霊殿
- 地蔵堂
- 嘉喜門院御廟所 - 南朝の後村上天皇の女御で長慶天皇の生母である歌人・藤原勝子を祀る。
- 御旅所 - 東に700m離れた所にある。
- 宮神社裏山古墳群(美具久留御魂神社裏山古墳群) - 本殿の後背にある神体山(神奈備山)に分布する計4基から構成される古墳群である。
- 前方後円墳1基(1号墳) - 古墳時代前期のものであるが、当社の奥神籬天神奉斎所となっている。墳丘長約58メートルを測り、墳丘上では円筒埴輪(朝顔形埴輪含む)が検出されているほか、1930年(昭和5年)頃に墳丘付近で銅鏡1面が出土したと伝わる[3][4]。
- 円墳3基(2-4号墳) - 古墳時代後期のもの。
摂末社
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本殿・上拝殿
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宮神社裏山1号墳
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奥神籬碑(宮神社裏山1号墳上)
例祭
脚注
参考文献
関連項目
外部リンク