ブリティッシュ・レーシング・モータース (B ritish R acing M otors,BRM )は、かつてF1 に参戦していたコンストラクター。1962年 のコンストラクターズチャンピオン。チーム名は主にオーウェン・レーシング・オーガニゼーション (Owen Racing Organisation )として活動していた。
沿革
創設
ブリティッシュ・レーシング・モータースは第二次世界大戦 直後の1945年 に、技術者のレイモンド・メイズ とピーター・バーソン により創設された。イタリア車やドイツ車が席巻していたグランプリ レースにイギリス製のフォーミュラカー で参戦し、英国自動車工業界の威信を示すという理念を掲げ、開発資金の出資を募った。
1950年代
過給式V16エンジンを搭載した処女作15
航空用エンジンから発想を得たスーパーチャージャー 付きV型16気筒 エンジンは開発が難航し、1950年のF1世界選手権 開幕に間に合わず、地元イギリスGP でデモ走行を行うに止まった。翌年のイギリスGP でデビュー(5位入賞)したが、選手権が翌年から2年間はF2 規定で行われたため、このエンジンは国内レース以外に使い道がなくなってしまった。チームは共同出資者のひとりであるアルフレッド・オーウェン 卿に買収され、新たに直列4気筒 エンジンを開発し、1956年 からF1に再挑戦した。
その後もBRMが足踏みしている間、後発のヴァンウォール やクーパー が英国勢として先んじて成功を収めた。ようやく1959年 の第3戦オランダGP でヨアキム・ボニエ が初優勝を果たしたが、ミッドシップ マシンへの移行期に再び低迷した。
1960年代
1962年ドイツGP にてグラハム・ヒル がP57 をドライブする。
1961年 から施行された1,500ccエンジン規定には、初期はコヴェントリー・クライマックス からエンジン供給を受けたことでしのぎ、シーズン後半からはインジェクター 付きのV型8気筒 エンジンを開発。技術部門の新統括者トニー・ラッド が手掛けたP57 は、1962年 に突如一線級のマシンとなる。チームメカニック出身のドライバー、グラハム・ヒル が9戦中4勝を挙げ、ロータス のジム・クラーク を振り切りワールドチャンピオンとなり、コンストラクターズとの2冠を達成した。
1965年 までの4年間はロータス(クラーク)対BRM(ヒル)のライバル対決がF1界の中心となり、ヒルはモナコGP を3連覇し「モナコ・マイスター 」と讃えられた。また、ヒルと名コンビを組んだリッチー・ギンザー に代わり、1965年に加入したジャッキー・スチュワート は早くも1勝を挙げ、驚異の新人と呼ばれた。
1500ccエンジンの成功期が終わり、チームは1966年 から施行された新規定用に3,000ccのH型16気筒 のP-75エンジン を開発する。同エンジンは水平対向8気筒を2段重ねし、2本のクランクシャフト からアイドラーギアで出力を纏めて取り出したF1史上でも類を見ないレイアウトのエンジンだった。このエンジンは馬力こそあれ重量超過で壊れやすく、おまけにアウトプットシャフトの位置の高さと下面の排気管の取り回しから重心も高くなってしまうという明らかな失敗作だった。2年間の試行が行われたが成績は低迷し、開発は放棄。ヒルとスチュワートは移籍してしまった。供給先のロータスが下記の通り一勝を上げたのはせめてもの慰めであった。その後、V型12気筒 のP-142エンジンを開発したが非力さは否めず、ラッドもチームから離脱した。
1970年代
ヤードレーカラーのP153 (ドニントン・グランプリ・コレクション 収蔵)
1970年 、チームは化粧品会社ヤードレー のスポンサードを得て体制を強化。新デザイナー、トニー・サウスゲート が手掛けたマシンで5年ぶりの1勝を得る。翌1971年 も新車P160 で3勝を挙げコンストラクターズ2位へ浮上したが、スポーツカーレースでペドロ・ロドリゲス とジョー・シフェール の看板ドライバー2人が相次いで事故死するという悲劇に見舞われた。代役のピーター・ゲシン がイタリアGP を制したが、このレースはゲシン以下5位までが0.61秒差でゴールするF1史上最高の大接戦だった。
1972年 にはタバコブランド、マールボロ という大スポンサーを獲得し、一気に5台体制での参戦となった(ドライバーはスポット参戦を含め計10名)。大雨のモナコGPでジャン=ピエール・ベルトワーズ が見事に勝利したが、新車P180 で躓き、体制もやや拡げ過ぎであった。1973年 はベルトワーズにクレイ・レガツォーニ 、ニキ・ラウダ の3台体制で臨み、ラウダは好走が認められ、翌年フェラーリ 入りを果たすことになる。
1974年 、スポンサーのマールボロがマクラーレン に鞍替えしたため、一転して資金難に陥る(ちなみに、前スポンサーのヤードレーもマクラーレンに移っている)。オーナーであるオーウェン卿の死により、チームは妹婿のルイス・スタンレー卿に譲られ、スタンレー・BRM (Stanley-BRM )へ再編される。翌1975年 以降、1台体制で細々と参戦を続けたが、1977年 のイタリアGP を最後にチームは消滅した。
エンジン供給
H型16気筒 のBRM・P75エンジン
他の英国系チームがコヴェントリー・クライマックス やフォード・DFV などの市販レーシングエンジンを使用していたのに対し、BRMは新レギュレーションに対応したエンジンの開発が間に合わなかった1961年を除けば、一貫してシャシーとエンジンを自社製作するフルコンストラクターとして参戦していた。他チームへのエンジン供給も行っており、1962年 から1965年 にかけては、1,500ccのP56エンジンをBRP 、ギルビー などのチームが搭載した他、ロータスやブラバム のシャシーと組み合わせて、多くのプライベーターが使用した。
1966年 に開発したH型16気筒のP-75はロータスも使用したが(タイプ43)、BRM同様に低迷の原因となり、ジム・クラークがアメリカGP でこのエンジン唯一の勝利を得るに止まった。この他、V型12気筒のP-142をマクラーレン、クーパーなどグランプリF1チームやスポーツカーレースのミラージュ が使用した。
復活、SWCへの参戦
1992年 、F1と同様のエンジン規定となったスポーツカー世界選手権 をF1参入の好機と考え、BRMの名前が復活。完全オリジナルマシンのP351は自社製3.5リッターのV型12気筒エンジンを搭載。デザイナーはザクスピード のポール・ブラウン。
BRMは第1戦を欠場し第2戦のシルバーストーン500kmから参戦。しかし予選は通過するも、順位は最下位。このタイムは1つ前のゲプハルト・C91の1分50秒045から10秒遅れの2分00秒182であり、ポールポジション のプジョー・905 からは約36秒遅れのタイムであった。また決勝ではスタート前にオイルポンプのトラブルが発生し、スタートすら出来なかった。第3戦となるル・マン24時間耐久レース でも20周程でリタイアとなっている。BRMはル・マンを最後にSWCから撤退。その後IMSA GTPのワトキンズグレン戦に参戦するが、こちらもリタイアに終わった。
後にP351をベースとしたオープンプロトタイプのP301をル・マンとISRS(インターナショナル・スポーツカー・レーシング・シリーズ)に参戦させたが、こちらも結果は残していない。
変遷表(コンストラクターとしての参戦のみ)
太字 はドライバーズタイトル獲得者
斜体 になっているドライバーはスポット参戦など
斜体 になっているチームはプライベーター(括弧内に使用した車体の型番を記載)
*コンストラクタータイトルは1958年から設定された。このためコンストラクターとしてのポイントやランキングは存在しない。
関連項目
1950年代 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
創設者 主なチーム関係者 主なドライバー F1マシン スポーツカー 主なスポンサー
太字はBRMにおいてドライバーズワールドチャンピオンを獲得。