幼少期のウィリアムズは、家族からは「ハーム (Harm)」と呼ばれ、友達からは「ハーキー (Herky)」とか「スキーツ (Skeets)」と呼ばれていた。彼は、脊椎の形成不全による二分脊椎症の疑いがある状態で生まれ、そのため生じる痛みに一生苛まれ続けた。後年、酒や薬物に溺れるようになった原因は、この痛みにあった。材木会社の鉄道員だった父イロンゾは、会社の命令でしばしば勤務地を移った。このため一家は、アラバマ州南部のあちこちで生活した。1930年、ウィリアムズが7歳だったとき、父は顔面麻痺を患い始めた。退役軍人局(Veterans Affairs, VA)のフロリダ州ペンサコーラの病院で、脳動脈瘤が原因と診断された後、イロンゾはルイジアナ州アレクサンドリアの退役軍人医療センターへ送られた。イロンゾは8年間にわたって入院し、ウィリアムズの幼少期に父はずっと不在であった。イロンゾの入院後、母は家族を支えなければならなくなった。1933年、ウィリアムズ一家はアラバマ州ファウンテン(Fountain)に移り、伯父伯母にあたるウォルターとアリスのマクニール夫妻(Walter and Alice McNeil)と一緒に住んだ。1934年秋、一家はグリーンビル(Greenville)に移り、母は、バトラー郡裁判所の隣で、下宿屋を開業した。1935年、ウィリアムズ一家はガーランド(Garland)に転居し、新たな下宿屋を設けた。その後しばらくして、一家は従兄弟のオパール・マクニール(Opal McNeil)とともにジョージアナに移り、世界恐慌下の厳しい経済環境の中で生活した。リリーは昼は缶詰工場で働きながら、地元の病院で夜勤の看護婦としても働いた。ウィリアムズも、ピーナッツを売ったり、靴磨きや新聞配達をしたり、その他諸々の単純な仕事を引き受けていた。ジョージアナで最初に住んだ家は、火事で焼失し、一家は財産を全て失ってしまう。一家は、町の反対側のローズ・ストリート(Rose Street)の新しい家へ移り、ここでまた下宿屋を始めた。ウィリアムズはこの家の小さな庭で作った様々な野菜をジョージアナの至る所へ売りに行った。一方で、連邦下院議員だったJ・リスター・ヒルの支援を得て、一家はイロンゾの傷痍軍人年金を受け取れるようになった。イロンゾの入院という状況にありながら、一家は世界恐慌の期間を経済的に何とか乗り切って行くことができた[8]。
ウィリアムズが最初のギターを手に入れた事情については、いくつかの異なる話が伝えられている。母は、ピーナッツを売って得たお金で彼女が買い与えたと述べているが、自分がギターを買い与えたのだと主張する有力な町の住民が少なからずいる。ジョージアナに住んでいたときに、ウィリアムズはルーファス・"ティー=トット"・ペイン(Rufus "Tee-Tot" Payne)という黒人の路上演奏者に出会い[7]、自宅で食事を提供する代わりにギターを習った。ペインの音楽スタイルの基にはブルースがあった。ペインがハイラムに教えたコード、コード進行、ベース音の進行、伴奏のスタイルは、後年の曲づくりに大いに活かされることになった。後にウィリアムズは、かつてペインが教えてくれた曲のひとつ「My Bucket's Got a Hole In It」を録音した[9]。最終的に彼が作り上げたスタイルには、ペインからの影響に加えジミー・ロジャーズ(Jimmie Rodgers)などカントリー歌手たちからの影響も盛り込まれていた[10]。1937年、ウィリアムズは、指示された練習内容をめぐって学校の体育教師と喧嘩を起こした。母は教育委員会に教師を解雇するよう要求したが断られたため一家はモンゴメリーに移った。これ以降、ペインとウィリアムズ一家は接触を失った。ペインもやがてモンゴメリーへ移ったが、1939年に貧困の中で死んだ。後にウィリアムズは、ペインは自分にとって唯一の教師だったと述べている[11]。
初期の活動
1937年7月、ウィリアムズ/マクニール一家は、モンゴメリー中心部のサウス・ペリー・ストリート(South Perry Street)に下宿屋を開いた。この頃、ウィリアムズは自分の名前を非公式にハンク・ウィリアムズと改めることを決めた。その方が、自分の望みであるカントリー音楽に関わる仕事にふさわしいとと本人が語っている。学校の放課後や、週末になると、ウィリアムズは、シルバートーンのギターを抱えて、地元のラジオ局WSFAのスタジオ前の歩道で演奏した。首尾よくWSFAの関心を引くことができたウィリアムズは、時折スタジオ内に呼ばれ、放送で歌うことができた。多くの視聴者からウィリアムズに関する問い合わせが集まったため、WSFAはウィリアムズを週給15ドルで雇い、週2回、15分間の番組を任せた(当時の15ドルは、2011年の価値では230ドル程度(およそ2万円)に相当する[12])。当時のアラバマ州知事ギブ・グレイヴス(Bibb Graves)も、この放送を聴いていたひとりだった[6]。1938年8月、父イロンゾが病院から一時帰宅を許され、予告無くモンゴメリーの自宅に現れた。母は家長としての立場を譲らなかったため、彼は息子の誕生月である9月まで滞在し、その後ルイジアナの医療センターに戻っていった[7]。
1943年、ウィリアムズはオードリー・シェパードと出会い、結婚した。広報に尽力した妻により、ウィリアムズは局地的に知られた有名人となっていった。1945年、モンゴメリーに戻ってきたウィリアムズは、最初のアルバム『Original Songs of Hank Williams』を出版し、再びWSFAに出演し始めた。1946年9月14日、ウィリアムズは『グランド・オール・オプリ』の審査を受けたが、採用されなかった。一方でフレッド・ローズ(Fred Rose)と自作曲6曲について契約を結んだ。ローズはウィリアムズに代わり、この6曲をスターリング・レコードに紹介して契約を結んだ。1946年12月11日、ウィリアムズは「Wealth Won't Save Your Soul」と「Calling You」、「Never Again」、「When God Comes and Gathers his Jewels」の4曲を録音した[13]。「Never Again」と「Honky Tonkin'」は、重要なヒット作となった
1950年、ウィリアムズは「ルーク・ザ・ドリフター (Luke the Drifter)」名義でキリスト教を題材にした作品の録音を始めたが、その多くの内容は歌ではなく朗読であった。従来とは異なる作風が自身の人気に影響しないよう、変名で作品を発表することにしたのである[19]。ルーク・ザ・ドリフターは、特に「The Funeral」という作品がきっかけとなって黒人たちの間で評判になった。これは、黒人教会における子どもの葬儀の際の牧師の説教を表現したものであった[20]。黒人たちの間での人気は、ハンクの師であったルーファス・ペインに示唆を得て描き出された、登場人物のステレオタイプへの反応によるものであった[9]。ルーク・ザ・ドリフターの歌は、しばしば地方独特の生活と、人生の哲学を表したものであった[21]。ドリフター(流れ者)は、この地方を放浪し、様々な人物の話を語っていった[22]。作品の中には、パイプオルガンの伴奏付きのものもあった。一説によれば、ウィリアムズがルーク・ザ・ドリフターという別人格を作り上げたのは、自らの人格のバランスをとるためであったとも言われている[19]。
この頃のウィリアムズは、「My Son Calls Another Man Daddy」、「They'll Never Take Her Love from Me」、「Why Should We Try Any More?」、「Nobody's Lonesome for Me」、「Long Gone Lonesome Blues」、「Why Don't You Love Me?」、「Moanin' the Blues」、「I Just Don't Like This Kind of Livin'」など、それまで以上に多くのヒット曲を送り出していた[23]。1951年には、「Dear John」がヒットしたが、そのB面だった「Cold, Cold Heart」は、ウィリアムズを代表する曲になっていった。同年、この曲をポップ系の編曲でカバーしたトニー・ベネットの盤は、27週間チャートに留まり、1位も獲得した[24]。
ウィリアムズは、ノックスビルのアンドリュー・ジョンソン・ホテル(the Andrew Johnson Hotel)に午後7時8分に到着し、ロビーですぐに2人前のステーキを注文した。彼はまた、自分のために医師を呼ぶよう求めた。モンゴメリーからノックスビルまでの途上で、抱水クロラールとビールを飲んでおり、身体への悪影響を感じていたのである。往診したカードウェル医師(Dr. P.H. Cardwell)は、ウィリアムズにビタミンB12を2本注射したが、それには1/4グレーン(16ミリグラム)ほどのモルヒネが配合されていた。2人は同日午後10時45分にホテルを出ようとしたが、咳としゃっくりが抑えきれなくなったウィリアムズはホテルの従業員に抱えられて車に乗り込んだ。やがて州境を越えてウェストバージニア州に入り、ブルーフィールドに到着したところで、カーは24時間営業しているレストランで車を停め、ウィリアムズに食事をするか尋ねた。ウィリアムズは「要らない(I don't)」と答えたが、これが彼の最後の言葉だと信じられている。そのまま運転を続けたカーは、ウェストバージニア州オーク・ヒル(Oak Hill)の給油所に立ち寄った際に、寝込んでいるウィリアムズの身体が硬直し始めている事に気づいた。そしてカーは脈を確かめ、ウィリアムズの死亡を確認した。彼は給油所の店長グレン・バーデット(Glenn Burdette)にこれを知らせ、警察に通報させた。臨場した地元の警察長 O・H・ステイミー(O.H. Stamey)は、死体が関わっていたため、無線担当の警察官ハワード・ジャニー(Howard Janney)も呼び寄せた[27]。ステイミーとジャニーは、キャデラック・エルドラドの車内に、空のビール缶数個と、未録音曲の手書きの歌詞を発見した[7]。
イヴァン・マリーニン医師(Dr. Ivan Malinin)が、タイリー葬儀社(the Tyree Funeral House)で検視を行った。マリーニンは、心臓や首に出血を認め、「心臓右心室の機能不全」を死因とした。死とは無関係と考えられたが、マリーニンはウィリアムズクが数日前にモンゴメリーのバーで喧嘩をし、左腕を負傷して包帯を巻くほどのけがを負った際に[28]、鼠蹊部も激しく蹴られていたことを発見した[27]。当日の夜、カントンでウィリアムズの公演に集まってきた聴衆に、司会者が彼の死を告げたとき、聴衆は彼が公演を欠席するための言い訳だと思い笑い出した。しかし、ホークショウ・ホーキンズ(Hawkshaw Hawkins)や、他の出演者たちが「I Saw the Light」を歌い始めると、本当にウィリアムズが死んだことを悟った聴衆は、これに唱和した[28]。
ウィリアムズが死んだ状況については、今でも議論がなされている。一部の論者は、ノックスビルを出発する前に、既に絶命していたと主張している[29]。オーク・ヒルはウィリアムズの死亡地として認識されているが[8]、信憑性の高い説のひとつでは、オーク・ヒルに車が到着する20分ないし30分前に眠ったまま絶命したのだと主張されている。カーが警察を呼んだ給油所が面する通りを挟んだ向かい側には記念碑が建てられている[30]。ウィリアムズが死亡した車は、アラバマ州モンゴメリーのハンク・ウィリアムズ博物館(the Hank Williams Museum)に保存されている[31]。
遺体は、翌1月2日にモンゴメリーに到着し、銀製の棺に納められた。当初は、マクダノー・ストリート318番地(318 McDounough Street)で母が営んでいた下宿屋に2日間安置された。葬儀は1月4日に、モンゴメリー公会堂で、花で埋められた舞台上に棺を置いて行なわれた[32]。この葬儀の際には、アーネスト・タブ(Ernest Tubb)が「Beyond the Sunset」を、続いてロイ・エイカフが「I Saw the Light」、レッド・フォーリー(Red Foley)が「Peace in the Valley」を歌った[33]。推定で15,000人から25,000人が銀の棺を間近にし、公会堂は2,750人の弔問者で満員になった[34]。葬儀の間に、4人の女性が気絶し、もう1人は棺の足下に崩れ落ちてヒステリー状態となり公会堂から連れ出された[33]。ウィリアムズの葬儀は、それまでアラバマ州で行なわれた誰の葬儀よりも遥かに大規模なもので、モンゴメリーで行われた最大の行事となった[35]。葬儀のために贈られた花の量は2トンほどであったという[27]。遺体はモンゴメリーのオークウッド・アネックス墓地に埋葬された。MGMの社長が「ビルボード」誌の取材に語ったところでは、ウィリアムズの死の直前の週に、同社が彼の写真の提供を求めたのは5件だけであったが、死の直後の週にはそれが300件以上になったという。地元のレコード店では、ウィリアムズが発表した全てのレコードが完売した[34]。彼が存命中に発売された最後のシングルは、皮肉なことに「I'll Never Get Out of This World Alive」(「生きたままではこの世界から出られない」の意)であった。1952年のうちに録音されていた「Your Cheatin' Heart」は、ウィリアムズの死後、1953年に発売された。この歌はカントリー・チャートの首位に6週間とどまった。この曲名はそのまま、ジョージ・ハミルトンが主演した1964年制作の伝記映画の題名となった(邦題は『ハンク・ウィリアムス物語/偽りの心』)[7]。
1944年12月15日、ウィリアムズはオードリー・シェパードと結婚した。この結婚は、シェパードにとって2度目、ウィリアムズにとっては最初の結婚であった。2人の間には、後にハンク・ウィリアムズ・ジュニア)として名声を得る息子ランドール・ハンク・ウィリアムズが1949年5月26日に生まれた。この結婚は常に波乱含みで、たちまち危ういものとなり、ウィリアムズは二分脊椎症による背中の激痛を和らげるために依存していた酒やモルヒネ、その他の処方された鎮痛剤が原因で、深刻な問題に陥っていった。2人は1952年5月29日に離婚した[8]。 同年6月に、ウィリアムズは実家に移り住み、「Half as Much」、「Jambalaya (On the Bayou)」、「Settin' the Woods on Fire」、「You Win Again」、「I'll Never Get Out of This World Alive」と相変わらず次々とヒット曲を制作した。しかし、ナッシュビルに戻って正式に離婚手続きを完了した頃には、薬物の問題に歯止めが利かなくなっていた。この頃、関係のあった女性ボビー・ジェット(Bobbie Jett)との間には娘ジェットができたが、その誕生はウィリアムズの死の5日後のことであった[7][36]。
2006年1月20日、テネシー州控訴裁判所(Tennessee Court of Appeals)は下級審の判決を支持し、ハンク・ウィリアムズの相続人である息子ランドール・ハンク・ウィリアムズ(ハンク・ウィリアムズjr.)と、娘ジェット・ウィリアムズだけが、1951年にナッシュビルのラジオ局のために行なわれた録音を販売する権利があるとする判断を示した[41]。法廷は、もともとラジオ局WSMで放送された『Mother's Best Flour Show』のために録音された音源の発売について展開された、ポリグラムとレガシー・エンタテイメントの主張を退けた。この音源には、1997年にレガシー・エンタテイメントが取得したもので、その中にはハンク・ウィリアムズのヒット曲のライブ版や、その他の曲のカバーが収録されていた。ポリグラムは、同社が権利を継承したMGMレコードとの契約によって、ウィリアムズはラジオ用に録音した音源を発売する権利を譲り渡していた、と主張していた。2008年10月、ジョセフ・M・パルマッチオ(Joe Palmaccio)が修復した『Mother's Best Flour Show』の音源の抜粋が、『Hank Williams: The Unreleased Recordings[42]』と題されてタイム・ライフ(Time-Life)から発売された[43]。
1981年、ドリグティング・カウボーイズのスティール・ギター奏者ドン・ヘルムズ(Don Helms)とハンク・ウィリアムズ・ジュニアが組んで、「The Ballad of Hank Williams」を録音した。この曲は、ハンク・シニアが音楽業界の駆け出しだった頃のことや、過剰な金遣いについての、パロディ、ないしは、ノベルティ・ソングであり、ジョニー・ホートン(Johnny Horton)が広めた「The Battle of New Orleans」の旋律で歌われる。ハンク・ジュニアは「ドン、ダディと仕事してた頃のこと、本当はどんなだったか教えてよ」と歌い出す。これを受けてヘルムズは語りと、ウィリアムズと演奏した曲とを面白おかしく織り交ぜながら、ハンク・シニアがよく「百ドルのショーに千ドルを使っていた」と説明する。コーラスは、「だから彼は俺をクビにし、ジェリー・リバースをクビにし、みんなをクビにして、やれるだけやっちまったんだ。オールド・セドリックもクビ、サミー・ブリュートもクビにした。誰だか知らない奴までクビにしたんだ」というものだが、これは、ハンク・ウィリアムズが周りの状況に過剰反応していたことをコミカルな形で取り上げたものである[59]。1991年、カントリー歌手のアラン・ジャクソン(Alan Jackson)が「Midnight in Montgomery」をリリースしたが、この歌詞は、大晦日のショーに出かける途中で立ち寄ったハンク・ウィリアムズの墓で、ハンクの幽霊に出会うという話である[28]。同じくカントリー歌手のマーティ・スチュアート(Marty Stuart)は、「Me And Hank And Jumping Jack Flash」という曲で、ウィリアムズを讃えている。この曲の歌詞は、「Midnight in Montgomery」と同じような設定だが、駆け出しのカントリー歌手がウィリアムズの幽霊から助言をもらうという話になっている[60]。1983年、カントリー歌手デイヴィッド・アラン・コー(David Allan Coe)がリリースした「The Ride」は、ギターをもった若い男がモンゴメリーでヒッチハイクをしていて、キャデラックに乗ったハンク・ウィリアムズの幽霊に拾われ、ナッシュビルの外れまで乗せてもらうという話で、幽霊は「...俺のことをミスターなんて呼ばないでくれ、ミスター、世界中の誰もが俺をハンクと呼んでるんだから」と言う[61]。ウィリアムズが残した遺産を受け継ぎ、息子のハンク・ウィリアムズ・ジュニア、娘のジェット・ウィリアムズ、孫息子のハンク・ウィリアムズ3世(Hank Williams III)と孫娘たちヒラリー・ウィリアムズ(Hilary Williams)とホリー・ウィリアムズ(Holly Williams)は、いずれもカントリー・ミュージシャンになっている[62]。
^Spencer, Neil (October 2011). “The Lost Notebooks of Hank Williams – review”. Guardian Media Group. 2022年1月3日閲覧。 “..."Elsewhere, the air of reverence hangs heavily, with Williams's droll humour and proto-rockabilly style largely absent...”
^Bernstein, Cynthia Goldin; Nunnally, Thomas; Sabino, Robin (1997), Language variety in the South revisited, University of Alabama Press, ISBN9780817308827