テルミドール9日のクーデター (テルミドールここのかのクーデター、Coup d'état du 9 Thermidor ) は、1794年 7月27日 (フランス革命暦 II年テルミドール9日)に起きた、フランス革命 を主導していたマクシミリアン・ロベスピエール が率いる山岳派 (ジャコバン派)独裁に対立する勢力によるクーデター である。「テルミドール9日のクーデタ」、「テルミドールのクーデター」とも呼ばれ、フランス語版では「ロベスピエールの失脚」(La chute de Robespierre)」と呼ばれる
これによりロベスピエールとその同志であるルイ・アントワーヌ・ド・サン=ジュスト 、ジョルジュ・クートン 、フィリップ=フランソワ=ジョゼフ・ル・バ (英語版 ) らが失脚し、処刑者や自殺者が出た。
テルミドール反動 とも呼ばれる。
テルミドールとは、革命時制定されたフランス革命暦 で「熱月」を意味する。この事件により実質的に一連のフランス革命 は終焉したとされ、市民革命 は終わりを告げた。また、革命暦は後にナポレオン・ボナパルト により廃止された。
背景
ジャコバン派 が1793年 から1794年 にかけてフランス内外の戦乱を収拾した後、国民は恐怖政治 に嫌気が差すようになっていた。94年春にエベール 派とダントン 派が粛清されると、ジャコバン派の一部は国民公会 の中間派と密に協力してロベスピエールを打倒しようとした。また、恐怖政治の先鋒としてパリ以上に行き過ぎた弾圧を行っていた地方派遣議員 (ジョゼフ・フーシェ 、ポール・バラス 、ジャン=ランベール・タリアン ら)は、ロベスピエールの追及を恐れて先制攻撃を画策していた。
一方、恐怖政治の中心だった公安委員会 も、ロベスピエール派(ロベスピエール、サン=ジュスト、クートン)・戦乱収拾により勢力を拡大した穏健派(ラザール・カルノー など)と、恐怖政治のさらなる強化を主張する強硬派(ジャック・ニコラ・ビョー=ヴァレンヌ 、ジャン=マリー・コロー・デルボワ など)に分裂していた。それに嫌気が差したのか、ロベスピエールは6月半ばから7月26日 まで、公の席にほとんど姿を見せなかった。その間にも反対派の陰謀は進行していた。7月22日 には対立関係にあった公安委員会および保安委員会 による合同会議が開かれたが、ロベスピエールはもはやサン=ジュストの忠告にも耳を貸さなくなっていた。
テルミドールの演説
7月26日 (テルミドール8日)、国民公会でロベスピエールは、サン=ジュストらに諮らないまま「粛清されなければならない議員がいる」と演説をした。議員達はその名前を言うように要求したが、ロベスピエールは拒否。攻撃の対象が誰なのかわからない以上、全ての議員が震えあがった。反対派たちの結束はこれで決定的なものとなった。
その晩、ロベスピエールはジャコバン・クラブ で演説し、「諸君がいま聞いた演説は私の最後の遺言 である」と発言した。彼は翌日の悲劇を予感していたのかもしれない。
テルミドール9日の始まり
詰め寄るジャコバン派を抑えて演壇を占拠し弾劾を続けるテルミドール派。ナイフを振りかざしているのがタリアン
翌7月27日 (テルミドール9日)午前11時、ロベスピエールらは国民公会に臨んだ。正午ごろ、サン=ジュストが「自分は特定の党派など関係ないし、党派争いを望まない。」とロベスピエール擁護の演説を始めると、突如タリアンが「昨日同じように孤高を気取っていた奴がいたはずだ。暗幕を切り裂け。(暗幕に隠されたロベスピエール派の結託を明らかにせよ。)」と野次り、サン=ジュストの演説を打ち切らせた。さらに議長のコロー・デルボワは繰り返し発言を求めるロベスピエールらの発言を阻止。議場から「暴君を倒せ」と野次が飛ぶなか、タリアンはロベスピエール派の逮捕を要求した。午後3時、山岳派議員のルイ・ルーシェが逮捕について採決を求めると、ロベスピエール派の擁護の声は反対派の怒号にかき消され、全会一致でロベスピエール、クートン、サン=ジュスト、ル・バ、ロベスピエールの弟のオーギュスタンのプロスクリプティオ が決議された。
ジャコバン派の最後
7月28日のロベスピエールの死刑執行をもって恐怖政治は終了した。
その後、パリ市のコミューンが蜂起し、そのすきにロベスピエールらはパリ市庁舎 に逃げ込む。市庁舎にはロベスピエールを守るべくパリ市国民軍司令官フランソワ・アンリオ 率いる200人の国民衛兵と3500人の群集が集結してきたが、独裁者と呼ばれたくないロベスピエールに彼らの先頭に立つ気はなかった。なお、このときアンリオは泥酔状態だったという。この間に、国民公会は、ロベスピエールらコミューンに従うものを法の外 に置くことを決定した。深夜になって国民衛兵は引き上げ、国民公会が派遣したポール・バラス 率いる軍隊はやすやすと市庁舎を占領した。ル・バはピストル自殺し、ロベスピエールも自殺を図るが失敗して顎に重傷を負い、逮捕された。のちに准将 に昇進したシャルル・アンドレ・メルダ は自らが顎を撃ち砕いたと主張している。その後、ロベスピエールらはコンシェルジュリー 牢獄に連行されて短い最後の夜を過ごした。
翌7月28日 、かつてロベスピエールの指示に従って反対派を断頭台に送り込んでいた革命裁判所の検事アントワーヌ・フーキエ=タンヴィル はロベスピエールらに死刑の求刑を求め、裁判長より死刑判決が下された。午後6時、ロベスピエール兄弟、サン・ジュスト、アンリオら22人は革命広場でギロチン により処刑された。翌日には70人のコミューンのメンバーが処刑され、その翌日には12人が同じ罪状で処刑された。
さらに、ジャン=バティスト・カリエ やフーキエ=タンヴィルらジャコバン派の生き残りは、同年から翌年にかけて次々に逮捕され、死刑に処せられた。クーデターに加わっていたビョー=ヴァレンヌやコロー・デルボワも公安委員として恐怖政治を推進した責任を問われ、ギュイヤンヌ へ流罪となった。
7月28日に処刑された人物
脚注
外部リンク
主要事件
1788年 1789年 1790年 1791年 1792年 1793年 1794年 1795年 1797年 1799年
1792年 1793年 1794年 1795年 1796年 1797年 1798年 1799年 1800年 1801年 1802年
軍事指揮官
フランス陸軍 フランス海軍対仏大同盟軍