チーム 国光 (チームくにみつ、英 : TEAM KUNIMITSU )は、日本のレーシングチーム。設立は1992年 で、正式商号 は株式会社チームクニミツ( 本社:東京都 新宿区 )。チーム創設者は元レーシングドライバーの高橋国光 。当初はドライバー兼監督だったが、1999年 にドライバーを引退し、翌2000年 より監督に専念する。
全日本ツーリングカー選手権・N1耐久・スーパー耐久参戦歴
1992年、「チーム国光」名義で初参戦。スカイライン GT-R で全日本ツーリングカー(JTCC)選手権 へ。高橋国光 と土屋圭市 のコンビ。チームタイサン がプロデュースし、ニスモ がマネジメントする体制となった。翌年もこの体制で参戦継続。第2戦オートポリス で初優勝する。
翌1994年はスプリントレース化されたため土屋のみの参戦、マシンはホンダ・シビックフェリオ に変更された。JTCCには翌1995年まで参戦した。
1993年からN1耐久シリーズ にコカ・コーラ のスポンサードを得て第2戦より参戦開始した。マシンはプレリュード 、ドライバーは土屋圭市と飯田章(但し全日本ツーリングカー選手権第2戦と重なった第3戦鈴鹿のみ大井貴之 /渡辺明で参戦)。第5戦十勝スピードウェイ で優勝。1998年はインテグラタイプR で参戦。ドライバーは山野哲也 と西翼での参戦だった。
年度
車両
ドライバー
順位
Point
1992年
STP タイサンGT-R (スカイラインGT-R)
高橋国光土屋圭市
9位
74pts
1993年
11位
59pts
1994年
STP 圭市シビック (シビック・フェリオ)
土屋圭市
16位
20pts
1995年
ADVAN 圭市シビック (シビック・フェリオ)
土屋圭市
21位
7pts
鈴鹿8時間耐久ロードレース参戦歴
1997年、「チーム国光・HSC」名義で初参戦。HRC(ホンダレーシング) からのサポートを受け、マシンはワークス仕様のRVF/RC45 を使い、ライダーはHRC所属の幼馴染コンビ、加藤大治郎 と武田雄一 で参戦した。ゼッケンに高橋国光ゆかりの100番を付け、往年のホンダ・ロードレーサー 「RCカラー」で参戦した初年度の1997年は、台風第9号 の影響で予選スペシャルステージが中止となった結果、金曜日に行われた計時予選で最速だった加藤がポールポジション を獲得したが、決勝では雨の影響で加藤が2度転倒し9位での完走となった。1998年はメインスポンサーにラッキーストライク が付いた以外は同じ体制で参戦したが、加藤のライディング中にチェーン が切れるトラブルが発生。この際のダメージが大きくリタイヤとなった。
全日本GT選手権・SUPER GT参戦歴
RAYBRIG HSV-010 (2011年参戦マシン) RAYBRIG NSX CONCEPT-GT (2014年参戦マシン) RAYBRIG NSX-GT (2020年参戦マシン)
STANLEY NSX-GT(2022年参戦マシン)
JGTC初年度である1994年 の第3戦からポルシェ・911 で参戦を開始、参戦2戦目のSUGO ラウンドで早くも初勝利を挙げた。翌年もポルシェを走らせた後、1996年からホンダ・NSX にマシンをチェンジしたが、この年は、それまで同チームやホンダがル・マン24時間レース で走らせていたマシンに小改造を施した程度のマシンであり、既に純粋なGTマシンとして熟成されつつあったスープラ やGT-R と言った国内勢のワークスマシンはもちろん、この年のJGTCを席巻したマクラーレン・F1 相手にも歯が立たず、ランキング17位と低迷した。しかし、翌1997年 からホンダがワークス参戦を開始するに当たって新型マシンの供給を受けるようになり、以降は事実上のホンダワークスチームの1つとして活動し続けている。2010年からはHSV-010 GT 、2014年からはNSX CONCEPT GT 、2017年からはNSX-GTと、常に新型マシンの供給を受けて参戦している。
当初はADVAN (横浜ゴム )やBP がメインスポンサー であったが、1997年の第2戦からは、1996年のル・マン24時間レース にメインスポンサーであったスタンレー電気 に変更され、同社のブランド「RAYBRIG(レイブリック) 」を冠したマシンで参戦していた。
マシンメンテナンスは、ノバ・エンジニアリング (1994年〜1995年)、シフト(1996年)、ムーンクラフト (1997年〜2004年)、M-TEC (2005年〜2016年)、オートテクニックジャパン (2017年~)が行っている。なお、ムーンクラフト担当期には同社の代表である由良拓也 がチーム監督を1999年まで務めていた。
毎春開幕前のテストではカーボン地のボディーにその年のデザインが施されたPHASE仕様でテストを行うことがある。
参戦当初より一貫して使用しているカーナンバー「100 」は、かつて高橋国光が二輪ロードレース世界選手権 に参戦し、1961年にホッケンハイム で開催の西ドイツGP 250ccクラスで日本人 として初優勝した時のバイクナンバーにちなむ[ 1] [ 2] 。また、レーシングカーには97年、98年の鈴鹿8時間耐久ロードレース に高橋が名誉監督を務めたチーム国光・HSC、ラッキーストライク ・HSCから参戦した加藤大治郎 のMotoGP における永久欠番となった加藤のゼッケン「74 」が記されたステッカーを貼付している。
2018年はホンダのエース格である山本尚貴 と2009年のF1ワールドチャンピオン・ジェンソン・バトン の布陣で戦い、初のドライバーズタイトルを獲得。この年はチームタイトルも併せて獲得し、チーム初戴冠にしてダブルタイトル獲得となった。HONDA 勢にとっては2010年の童夢以来8年ぶりのタイトル獲得。また、2015年には苦戦が続いたホンダ勢の中で唯一優勝を飾り、最終戦までタイトルを争うなど、ホンダ系の有力チームの1つに数えられている。
2020年は前年から引き続きの山本尚貴と、前年をもってSUPER GTを離れたジェンソン・バトンに変わり、前年までNAKAJIMA RACING に所属していた牧野任祐 の布陣で戦う。第7戦終了時点で自力チャンピオンの可能性を5チームが残す大接戦になるが、最終戦ファイナルラップの最終コーナーでガス欠により失速したKeePer TOM'S GR Supra の平川亮 を躱してトップチェッカーを受け、2年ぶりとなるダブルタイトルを獲得した。
2021年は前年に引き続きの山本尚貴と牧野任祐(病気療養中のため初戦のみ武藤英紀 が出場)の布陣で戦う。なお、スタンレー電気が「RAYBRIG 」ブランドの廃止(2021年3月)を発表したため、本年度より「Stanley 」ブランドで戦う[ 3] 。最終戦までランキングトップを守っていたが、富士スピードウェイ での最終戦で4位走行中の51周目にGT300クラスの王座争いをしていたARTA NSX GT3 に追突されそのまま上位から後退。au TOM’S GR Supra が逆転でチームタイトルを獲得した[ 4] 。
主なスポンサー
関連項目
脚注・出典
^ 本田技研工業. “SEEVERT GALLERY 1961年ホッケンハイム/高橋国光日本人初優勝! ”. 2015年5月3日 閲覧。
^ 本田技研工業 (2006年6月23日). “2006年グッドウッド・フェスティバル・オブ・スピード参加概要 ”. 2015年5月3日 閲覧。
^ RAYBRIGブランド終了に伴い、”RAYBRIG NSX-GT”今週末ラストラン。チームは活動継続 - motorsport.com 2020年11月26日
^ J-SPORTS (2022年2月19日). “それぞれの感情が交錯した2021 SUPER GT最終戦 ”. 2021年12月6日 閲覧。
外部リンク