デイム・セリア・エリザベス・ジョンソン (Dame Celia Elizabeth Johnson, DBE 、1908年 12月18日 - 1982年 4月26日 )は、イングランド の女優である。舞台・映画・テレビで活動した[ 1] 。映画『軍旗の下に (英語版 ) 』(1942年)、『幸福なる種族 (英語版 ) 』(1944年)、『逢びき 』(1945年)、『地中海夫人 (英語版 ) 』(1953年)への出演で特に知られる。
1928年に舞台女優としてキャリアをスタートさせ、ウェスト・エンド やブロードウェイ の舞台に立ち成功を収めた。その後は映画やテレビにも出演するようになったが、舞台での活動も生涯続けた。
若年期と教育
ジョンソンは1908年12月18日にサリー州 リッチモンド で生まれた。
1919年から1926年までロンドンのセント・ポール女学校 に通った。在学中にグスターヴ・ホルスト が指揮する楽団でオーボエを演奏したことがある。1926年に王立演劇学校 に入学し、マーガレッタ・スコット (英語版 ) と同じクラスになった。その後、パリに渡ってコメディ・フランセーズ で映画俳優ピエール・フレネー (英語版 ) の下で学んだ[ 2] 。
セント・ポール女学校卒業までに、学校で劇に出演したことはあったが、それ以外に演技経験はなかった。それにもかかわらず演劇の道を選んだことについて、後に「むしろそれが好きだと思ったからです。それが私にとって唯一得意なことでした。」と語った[ 3] 。
キャリア
1928年、ハダースフィールド のシアター・ロイヤルで上演されたジョージ・バーナード・ショー 作の『バーバラ少佐 (英語版 ) 』のサラ役でプロの初舞台を踏んだ。翌年にロンドンに移り、ハマースミス のリリック劇場 (英語版 ) で上演された"A Hundred Years Old "で、アンジェラ・バトリー (英語版 ) の代役でクリタ役を演じた。1930年、"Cynara "でジェラルド・デュ・モーリエ やグラディス・クーパー と共演した。翌年にアメリカに渡り、ニューヨークで上演された『ハムレット 』でオフィーリア 役を演じた。
ロンドンに戻り、小さな作品にいくつか出演した後、1933年から2年間"The Wind and the Rain "に出演して地位を確立した。[ 4] 。1935年にジャーナリストのピーター・フレミング (英語版 ) と結婚し、1939年には第一子となる長男を出産した[ 4] 。1940年、『高慢と偏見 』のエリザベス・ベネット (英語版 ) 役、『レベッカ 』のド・ウィンター夫人役で舞台活動の全盛期を迎えた。後者は上演期間中の1940年9月にドイツ空軍 の爆撃で劇場が破壊されたため、上演が中止された。
第二次世界大戦 中、ジョンソンは未亡人となった姉および義姉と同居し、7人の子供たちの世話を手伝った。稽古や上演に長い時間のかかる舞台に時間を割くことができないため、映画やラジオなどの時間のかからない仕事を積極的に引き受け[ 3] 、それにより家族と過ごす時間や婦人警察隊の活動のための時間を捻出することができた[ 4] 。戦中は、いずれもデヴィッド・リーン 監督、ノエル・カワード 脚本の映画である『軍旗の下に (英語版 ) 』(1942年)と『幸福なる種族 (英語版 ) 』(1944年)に出演した。
リーンとカワードは、次の作品『逢びき 』の主役をジョンソンに依頼した。ジョンソンがこの仕事を引き受けたのは家庭の事情からだったが、この役に興味を持ち、夫に対し「これがとても良い役であり、是非とも演じたい役であるという事実から逃れることはできません。自身が既に、どのように演じようか、どのように台詞を言おうかと考え始めていることに気づきました」と書いている[ 3] 。平凡な中流階級の主婦が、駅のリフレッシュメント・ルーム (英語版 ) で出会った既婚の医師と恋に落ちるというストーリーの恋愛映画で、好評を博し、現在では名作とみなされている。ジョンソンはこの作品でニューヨーク映画批評家協会賞 主演女優賞 を受賞し、アカデミー主演女優賞 にノミネートされた。
1946年と1947年に娘が生まれ、それから約10年間は子育てを優先して、女優業からは少し距離を置いた[ 4] 。
1957年、舞台"Flowering Cherry "でラルフ・リチャードソン と共演した[ 4] 。1958年、舞台『芝生は緑 (英語版 ) 』の初演に出演した[ 5] 。ローレンス・オリヴィエ 率いるロイヤル・ナショナル劇団 の一員として『棟梁ソルネス (英語版 ) 』(1964年)と『花粉熱 (英語版 ) 』(1965年)に出演し、テレビ映画にも出演した[ 4] 。
賞と栄誉
1945年の『逢びき』でアカデミー主演女優賞 にノミネートされた。英国アカデミー賞 には生涯で6度ノミネートされ、1969年の『ミス・ブロディの青春 (英語版 ) 』で英国アカデミー賞 助演女優賞 を受賞した。1973年の『プレイ・フォー・トゥデイ (英語版 ) 』の『クレアモントホテル』で英国アカデミー賞テレビ部門 主演女優賞 (英語版 ) を受賞した。
「演劇界への貢献」により[ 4] 、1958年に大英帝国勲章 コマンダー(CBE)に叙され、1981年にデイム・コマンダー(DBE)に昇格した。
私生活
ジョンソンは1935年12月10日に元陸軍軍人でジャーナリスト・紀行作家のピーター・フレミング (英語版 ) と結婚した。フレミングは、『ジェームズ・ボンド 』シリーズの著作で知られるイアン・フレミング の兄である。フレミングは1971年8月18日に心臓発作で急死した。
フレミングとの間には、以下の3人の子供がいた。
ニコラス・ピーター・ヴァル・フレミング(Nicholas Peter Val Fleming、1939年 - 1995年) - 作家・ジャーナリスト。20代前半から、パートナーの銀行家クリストファー・バルフォアと共に暮らしていた[ 6] 。
キャサリン(ケイト)・フレミング(Katherine (Kate) Fleming、1946年 - ) - 自由党 党首ジョー・グリモンド (英語版 ) の息子で雑誌編集者のジョニー・グリモンドと結婚し、3人の子供をもうけた。1991年に母の伝記"Celia Johnson: A Biography "を執筆した。
イブ・ルシンダ・フレミング(Eve Lucinda Fleming、1947年 - ) - ルーシー・フレミング (英語版 ) の芸名の女優。1975年のBBCのテレビドラマ"Survivors "に出演した。俳優・作家のサイモン・ウィリアムズ (英語版 ) と結婚した 。
ジョンソンは、子供が幼い間は、子育てに専念するために女優業から距離を置こうとした。娘のケイトが執筆した伝記には、ジョンソンは「いつでも笑う準備ができている」「明るく母性的な」女性であったと記されており、ケイトは、母は子育てに専念したい気持ちと演劇に関わりたい気持ちの間でしばしば葛藤していたと回想している[ 3] 。
ジョンソンの生家に設置されたブルー・プラーク
死去
1982年、ジョンソンはアンジェラ・フート (英語版 ) 作の舞台"The Understanding "で巡業をしており、ウェスト・エンドでの上演も予定されていた。その間の休暇中の4月26日、オックスフォードシャー州 ネトルベッド (英語版 ) の自宅で友人達とコントラクトブリッジ をしている最中に脳卒中 で倒れ、その数時間後に自宅で死去した[ 3] 。遺産の総額は約15万ポンドだった[ 7] 。
2008年、ジョンソンの生誕100周年を記念して、幼少期に住んでいたリッチモンドの家にブルー・プラーク が設置された。除幕式典には娘のルーシー・フレミングとケイト・グリモンドも参列した。『タイムズ 』紙に対しケイトは、「演劇の悲劇」とは、最高の演技であっても人々の記憶から消えてしまうことであり、母の現在の名声はほぼ映画『逢びき』での演技によるものであると述べた。ケイトはまた、ビデオの出現によって、新たな観客がこの映画を見ることができるようになり、この映画の現代的な評価によって「名作」とみなされるようになったと述べた[ 3] 。
フィルモグラフィ
脚注
参考文献
外部リンク
1968–1980 1981–2000 2001–2020 2021–2040
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