スィルヴィア・メアリー・ライケンス(Sylvia Marie Likens, 1949年1月3日 – 1965年10月26日)は、アメリカ人の少女。彼女の両親が世話を依頼したガートルード・バニシェフスキー(Gertrude Baniszewski)とその子供たちから、虐待と拷問の責め苦を受けて殺された。ガートルードは、世話と養育の義務を放棄してスィルヴィアを虐待し、拷問し、最終的に死に至らしめた。スィルヴィアはこの者たちから蔑ろにされ、侮蔑され、性的な辱めを受け、殴打され、飢えさせられ、痛め付けられ、火傷を多数負い、栄養失調および脱水症状に陥った。スィルヴィアに対する虐待と拷問は三ヵ月間に亘って続いた。1965年10月26日、スィルヴィア・ライケンスの遺体を警察官が発見した[2]。死後に行われた病理解剖で判明したのは、スィルヴィアの全身は150もの傷で覆われており、その中には打撲の痕、火傷の痕、熱湯をかけられた痕も含まれ、皮膚は糜爛が発生し、ただれていた。スィルヴィアと一緒にガートルードの家に同居していた妹のジェニー・ライケンスは、ガートルードから脅迫され、姉に対する虐待に参加させられたこともあった[3]。剖検の結果、スィルヴィアの死は、脳の腫れ、脳内出血、硬膜下血腫、広範囲に亘る皮膚の損傷に伴う末梢循環不全に加え、重度の栄養失調を併発したことによる「殺人」と断定された[4]。
ガートルード・バニシェフスキー、長女のポーラ・バニシェフスキー、長男のジョン・バニシェフスキー、隣人のコイ・ハバード(Coy Hubbard)とリチャード・ホッブス(Richard Hobbs)は、スィルヴィア・ライケンスに対する拷問と殺人の罪で裁判にかけられ、1966年5月に有罪判決を受けた。この裁判の検察官、リローイ・ニュー(Leroy New)は、この事件を「これまでインディアナ州で起こった事件の中で、最も極悪非道なもの」と表現した[5]。ガートルード・バニシェフスキーの弁護人を務めたウィリアム・C・アーベッカー(William C. Erbecker)は、スィルヴィア・ライケンスが受けた拷問について、「犬に対してもしないであろう、目に余る所業」と表現した。八時間に亘る審議を経て、陪審員はガートルード・バニシェフスキーに対し、「第一級殺人」(The First Degree Murder)で「有罪」との評決を下した。ガートルードは終身刑を宣告されたが、1985年に仮釈放となった。長女のポーラは「第二級殺人」(The Second Degree Murder)で有罪となり、1972年に釈放となった。コイ・ハバードとリチャード・ホッブスの両名は、インディアナ矯正施設(The Indiana Reformatory)で過ごしたのち、1968年2月27日に仮釈放が認められた。
ガートルード・バニシェフスキー(Gertrude Baniszewski)[7]は、1928年9月19日、インディアナ州インディアナポリスにて、父ユー・マーカス・ファン・フォッサン(Hugh Marcus Van Fossan)と、母モリー・マートル・オークリー(Molly Myrtle Oakley)の娘として生まれた。父・マーカスは1899年3月22日、イリノイ州に生まれ、オランダ人の血統である。母・モリーは1896年10月13日、イリノイ州に生まれた。二人は1915年に結婚した[8]。ガートルードは八人兄弟の五番目の子供として生まれ、生誕時の名前は「ガートルード・ナディーヌ・ファン・フォッサン」(Gertrude Nadine Van Fossan)[9]。
1939年10月5日、ガートルードは、父親が心臓発作で死ぬ場面を目撃した。16歳のとき、ガートルードは高校を中退し、18歳の警察官、ジョン・ステファン・バニシェフスキー(John Stephan Baniszewski, 1926 - 2007)と結婚した[10]。ジョンはペンスィルヴェニア州ヤングスヴィルの出身で、ポーランド人の血統であった。ジョンとガートルードは四人の子供を儲けたが、ジョンは激昂しやすい性格で、ガートルードを殴ることもあった。二人は十年後に離婚した。その後、ガートルードはエドワード・ガスリイ(Edward Guthrie)という男性と再婚する[11]が、この結婚は三ヵ月しか続かなかった[10]。それからまもなく、ガートルードはジョン・ステファン・バニシェフスキーと再婚し、二人の子供を儲けるも、1963年にジョンとの二度目の離婚を迎えた[12]。三度の離婚を経て、ガートルードは、デニス・リー・ライト(Dennis Lee Wright)という20歳の溶接士と交際し始めたが、デニスもまた、ガートルードに暴力を振るう人物であった。デニスとの間に子供が一人生まれ、ガートルードは父親と同じ名前である「デニス」と名付けたが、子供が生まれた直後の1964年5月、夫はガートルードを捨てて去っていった。ガートルードはデニスに対し、子供に対する金銭面での支援および父親としての責任を果たすよう求めて訴訟を起こしたが、デニスは子供の世話をしようとはしなかった。1965年の時点でガートルードは七人の子供を連れていた。17歳のポーラ、15歳のステファニー、12歳のジョン、11歳のメアリー、10歳のシャーリー、八歳のジェイムス、一歳のデニス・リー・ライトである[1]。ガートルードの体格は、身長約168cmに対し、体重は約45kgで[13]、13回妊娠し、七回の出産と六回の流産を経験しており、「身体がやつれた、低体重の喘息患者」であり[4]、恋愛や結婚に何度も失敗し、最近の流産による精神的緊張が原因でもたらされた鬱病に苦しんでいる」と説明された[12]。また、癇癪を起こしやすい人物でもあった[14]。最初の夫であるジョン・バニシェフスキーは、別れた妻とその子供に対する養育費を支払ってはいたが、滞納することも多かった[15]。ジョンは警察用のベルトを残していった[15]。ガートルードは、子供たちを養うために金銭面で困窮していた。ガートルードは、隣人や知人の家で裁縫や清掃といった雑用仕事をこなしてお金を稼いだこともあった[16]。ガートルード一家は、インディアナポリス東ニューヨーク通り3850番地に住んでおり、月々の家賃は55ドルであった[17]。ガートルードは、末っ子が私生児であることを知られたくなかったため、自分自身を「ライト夫人」(Mrs. Wright)と呼び、周囲からもそのように呼ばれていた[10]。
スィルヴィア・ライケンス
スィルヴィア・メアリー・ライケンス(Sylvia Marie Likens)は、1949年1月3日、レスター・C・ライケンス(Lester C. Likens, 1926 - 2013)[18]と、エリザベス・"ベティ"・フランセス(Elizabeth "Betty" Frances, 1927 - 1998)の間にて、2歳年上のダニエルとダイアナ、1歳年下のベニーとジェニファー、二組の二卵性双生児の間に生まれ、五人兄弟の三番目の子供であった。妹の一人であるジェニファー・フェイ・ライケンス(Jennifer Faye Likens)[19]は左足に急性灰白髄炎(Poliomyelitis)の症状があり、生後四カ月でこの状態になった[20]。ジェニーは足を引きずって歩いており、鋼鉄製の副木を装着していた[21]。レスターとエリザベスの結婚生活は不安定なものであった。夏の間、夫婦はインディアナ周辺を巡業する移動遊園地(Traveling Carnival)の従業員として働き、砂糖菓子、ビール、炭酸飲料の売店に立っていた[1]。仕事場は立て続けに移動し[22]、一家は金銭面で深刻な状況に陥っていた。夫婦の子供たちは両親の仕事を手伝っていたが、スィルヴィアとジェニーの二人については、安全面と育成を考慮し、遊園地での仕事には関わらせなかった[16]。レスターとエリザベスの長女であるダイアナ・メイ・ライケンス(Dianna May Likens)[23]は、家族とは疎遠の身であり、妹たちには近付かないよう言い付けられていた。スィルヴィアとジェニーの二人は、親戚や祖母の家で過ごすことが多くなった[24]。彼ら兄弟姉妹たちは、1949年から1965年にかけて、19もの家で暮らしていた[15]。スィルヴィアは、子守、御遣い、友人や隣人のためのアイロンがけといった雑用仕事をこなし、それによって得た収入の一部を母親に渡していた[25]。スィルヴィアは心優しく、自信と活力に満ちた少女であり、髪の毛は肩の下まで長く伸びた波打つ茶髪であり、友人からは「クッキー」(Cookie)との愛称で呼ばれていた[1]。作家のデニース・ノエ(Denise Noe)は、「ライケンス一家は常に貧しく、結婚生活にも問題があった。レスターとエリザベスは、離婚と復縁を何度か繰り返していた。双子の子供が二組おり、ジェニーは足に障害を抱えており、特別な世話が必要であった事情を考慮すると、スィルヴィアは『自分は両親から蔑ろにされている』と感じていたかもしれない」と書いた[21]。スィルヴィアは溌溂な少女であったが、幼少期、兄弟の一人とふざけて騒がしくじゃれ合っていたときに前歯が折れた[20]。それ以来、彼女は笑顔を見せる際には口を固く閉ざすようになった[26][21][1]。スィルヴィアは「ビートルズ」(The Beatles)の楽曲を好んで聴いており、お気に入りの歌詞は「all the stars in the sky」であったという[21]。また、スィルヴィアは気弱で不安な性格の妹・ジェニーを気遣っていた[27]。二人が地元にあるスケート場を訪れた際、スィルヴィアはジェニーが滑られるよう手を取って補助し、ジェニーは麻痺が起こっていない脚で滑るのに成功した[28][21]。
1965年7月
1965年6月、スィルヴィアとジェニーの二人は、両親とともにインディアナポリスに住んでいた。7月3日、母・エリザベスが窃盗で逮捕され、拘留された。父・レスターは、スィルヴィアとジェニーの二人を、ガートルード・バニシェフスキーの元に預けることにした。ガートルードの長女・ポーラと次女・ステファニーは、アーセナル工業専門学校(Arsenal Technical High School)にて、スィルヴィアとジェニーの二人と知り合った。レスターはガートルード一家に、週につき20ドルを支払う契約を交わし[1]、ガートルードは、レスターが戻ってくるまで、スィルヴィアとジェニーの二人を、自分の子供のように世話する、と約束した[29]。『インディアナポリス・スター』(The Indianapolis Star)紙が伝えるところによれば、レスターは「娘たちにはある程度のしつけが必要だ」と考え、ガートルードに対してそうするよう勧めたという[4]。独立記念日である7月4日を迎えたのち、スィルヴィアとジェニーの二人は、ガートルード一家が住んでいる東ニューヨーク通り3850番地に移った。移動遊園地がアメリカの東海岸を巡業することになり、釈放されたエリザベスは夫とともに季節労働の巡業の旅に加わった[30]。エリザベスは、夫がスィルヴィアとジェニーの二人をガートルードの元に預け、1965年11月に二人を迎えに行くまで、ガートルード一家に対し、週につき20ドルを支払う契約を交わした話を了解した[16]。ガートルードの屋敷は、犬が住めるような環境ですらなかった。二階では、スィルヴィアとジェニーの分はおろか、ガートルードの子供たちに必要な数のベッドも足りなかった。食料は少なく、食器も調理器具もほとんど無かった。レスターは前金として20ドルをガートルードに渡し、「娘たちには決然と接して欲しい」と伝え、スィルヴィアとジェニーの二人をガートルードに託した[2][24]。のちの裁判に出席し、証言台に立った父・レスターは、「詮索したくなかったのです」と証言した。レスターのこの証言について、デニース・ノエは、「自分の子供たちが暮らすことになる家について調べようともしない、という奇妙な表現だ」と書いた[24]。
8月の中旬までに、ガートルードは虐待の標的をスィルヴィア一人のみに集中させるようになった。虐待を始める最大の動機となったのは、スィルヴィアの若さ、容姿、スィルヴィアの普段の振る舞い、スィルヴィアの秘めたる能力に対する、ガートルードの嫉妬の情、と見られている[34]。のちに開かれた裁判での証言によれば、スィルヴィアに対する虐待は、スィルヴィアとジェニーがアーセナル工業専門学校からガートルードの自宅に戻ってから、週末に行われたという。ガートルードは、スィルヴィアを殴打し、飢えさせ、ゴミ箱の中に入っている残飯や腐った食べ物を食べさせた[35]。あるとき、ガートルードは「砂糖菓子を盗んだ」としてスィルヴィアを非難したが、そのような事実は無い[33]。デニース・ノエは、「ガートルード・バニシェフスキーは、このような非難を浴びせることで、自分自身が恐れていたことを外部に投影しようとしたのだろう」と書いた[33]。8月下旬、ガートルード一家が教会の日曜学校に出席し、その日の晩餐会にて、ポーラがスィルヴィアとジェニーの二人に対して「食べ過ぎだ」と非難した。二人は前述の箆で尻を15回叩かれた[36]。8月下旬のある日、スィルヴィアは、一家でカリフォルニア州ロング・ビーチ(Long Beach, California)に住んでいた1965年の春に、男の子と出会った話を聞かせた[37]。ガートルードはスィルヴィアに対し、「男の子と、『何か』したことはあるかい?」と尋ねた。スィルヴィアはこの質問の意味が解らないまま、「そうかもしれない」と返答し、その男の子と一緒に氷滑りに出かけたり、海辺の公園に一緒に行ったことがある、と語った。ジェニーやステファニーとの会話を続けながら、スィルヴィアは「男の子と一緒に布団の中に入ったことがある」と発言した。これを聞いたガートルードが「スィルヴィア、どうしてそんなことをしたんだい?」と尋ねると、スィルヴィアは「分からないわ」と返答して肩をすくめた。数日後、ガートルードはスィルヴィアとの会話の際にこの時の話題を振り、「スィルヴィア。あなたのお腹、膨らんでいるわね。妊婦に見えるわよ」と言った。スィルヴィアは、ガートルードのこの言葉を「冗談」と解釈したと思われ、「ええ、確かにそうね。食事療法に励まなくちゃ」と答えた。ガートルードは家にいた娘たちに対し、「女はね、男の子と『あること』をすると、子供ができるんだよ」と告げたのち、スィルヴィアの性器に蹴りを入れた。ガートルードの長女・ポーラは妊娠三ヵ月であった。スィルヴィアの容姿を妬ましく思っていたポーラは、スィルヴィアに対する虐待に参加した。ポーラは椅子に座っていたスィルヴィアを台所に叩き落とし、「あんたには椅子に座る資格なんて無いわ!」と言い放った[38]。
あるとき、夕食の場で、ガートルード、ポーラ、近所に住んでいたランディ・ゴードン・レッパー(Randy Gordon Lepper)という名の少年の三人で、マスタード、ケチャップ、香辛料を大量に詰め込んだホット・ドッグをスィルヴィアに無理やり食べさせた。スィルヴィアがこれに耐えきれず二度嘔吐する[20]と、その吐き戻したものを食べるよう命令された[39][40]。自分が受けた虐待に対する報復行為として、スィルヴィアはアーセナル工業専門学校にて、「ステファニーとポーラは娼婦である」という流言飛語を広めた、と伝えられたが、のちに開かれた裁判の場で、妹・ジェニーは、姉はそのような噂を広めたことは無い、と証言し、これは姉を陥れるために広められた冤罪である、と主張した[20]。ステファニーは、学校で、ある男の子からナンパ紛いで声をかけられ、その男の子から、スィルヴィアが「ポーラとステファニーは娼婦だ、とする噂を広めた」と聞かされた。帰宅したステファニーはスィルヴィアにそのことを尋ねると、スィルヴィアはその噂を広めた趣旨を認めた。ステファニーはスィルヴィアを引っ叩いたが、スィルヴィアが涙を流しながらステファニーに謝罪し、それに対してステファニーも落涙した。ステファニーの恋人で15歳のコイ・ランドルフ・ハバード(Coy Randolph Hubbard)は、スィルヴィアに容赦の無い攻撃を浴びせた。彼女を平手打ちし、頭を壁に叩き付け、床に向かって仰向けの姿勢で倒した。これを知ったガートルードは、箆でスィルヴィアを殴った[41]。またあるとき、ポーラはスィルヴィアの歯と両眼を集中的に殴り、自分の手首が折れるほどの強い力で、スィルヴィアの顔を殴り付けた[42]。のちにポーラは、手首にはめたギプスでスィルヴィアを引っ叩いた[20][43]。ガートルードは、「スィルヴィアは乱交と売春に関与している」と主張してスィルヴィアを非難し、売春行為や女という生き物の婬奔な性質について怒鳴り散らした。のちにガートルードは、スィルヴィアの妹・ジェニーに対し、姉を引っ叩くよう強要するようになり、ジェニーがそれを拒否しようものなら、ジェニーを殴った。のちの証言で、ジェニーは、姉があまり痛みを感じることが無いよう、利き腕の右手ではなく、左手で殴ったという[44]。コイ・ハバードは、自身の級友と一緒にガートルードの家を訪れ、ガートルードやガートルードの子供たちとも共同してスィルヴィアを痛め付けた。近所の子供たちもスィルヴィアに対する虐待に加わったが、これはガートルードからの働きかけによるものであった[45]。コイ・ハバードは、スィルヴィアの身体を柔道の練習台代わりに使って痛め付け[46]、彼女の皮膚にタバコの火を押し付け、スィルヴィアの性器に重傷を負わせた[47]。スィルヴィアの身体にできたタバコによる火傷の痕は、100箇所以上に及んだ[14]。
1965年9月のある日、スィルヴィアとジェニーは、インディアナポリスにある公園にて、ライケンス一家の長女・ダイアナと出会った。スィルヴィアとジェニーは、ダイアナに対し、自分たちがガートルードたちから虐待を受けていること、とくに、スィルヴィアが虐待の矛先を集中的に向けられており、自分が言ってもおらず、やってもいないことを虐待の口実にされている趣旨を告げた。しかし、スィルヴィアもジェニーもガートルードの自宅の住所については明言せず、当初のダイアナは、二人の言い分について「誇張しているに違いない」と考えていた[56][57]。ダイアナが、「虐待されている」というスィルヴィアたちの主張を「誇張だ」と考えた理由の一つとして、自分たちが何か無作法な振る舞いを見せると、父・レスターは躾の一環として、子供たちをベルトで叩いていた[28]。この数週間前にも、スィルヴィア、ジェニー、ダイアナはこの公園で出会っていた。このときのダイアナは、ガートルードの11歳の娘・メアリーと一緒にいた。スィルヴィアは姉に対して空腹を訴え、サンドウィッチを食べさせてもらっていた[58]。9月下旬、メアリーはこのときの様子を家族に話し、それに対してスィルヴィアは沈黙を守った。ガートルードはスィルヴィアを「食い意地が張っている」と非難し、ポーラとともにスィルヴィアの首を絞め、こん棒で殴った。その後、二人は「スィルヴィアの罪を洗い清めてやる」として浴槽を熱湯で満たし、スィルヴィアの頭を掴んで入浴させた。スィルヴィアが意識を失えば、浴槽に頭をぶつけて目覚めさせた[28][45]。それからまもなく、近所に住む少年、マイケル・ジョン・モンロー(Michael John Monroe)[49]の父親がアーセナル工業専門学校に電話し、「全身に亘って皮膚潰瘍のある少女が、バニシェフスキーの家に住んでいる」と、匿名で通報した。スィルヴィアが数日間に亘って学校に姿を見せておらず、学校の保健室の教員がこの申し立てについて調査を行うため、ガートルードの屋敷を訪問した。ガートルードは「スィルヴィアは家から逃げ出した」「スィルヴィアが今どこにいるのかは分からない」と述べた。さらにガートルードは、スィルヴィアは「手に負えない子供」であり、スィルヴィアの身体に見られる皮膚潰瘍については、「然るべき衛生状態を拒否した結果としてできたものだ」と主張し[49]、スィルヴィアの存在はガートルードの子供たちや、本人の妹・ジェニーにも悪影響を及ぼしている趣旨を附言した。学校側は、スィルヴィアの安否について、それ以上の調査は実施しなかった[16]。ガートルードの屋敷に近接する隣家には、レイモンド・ヴァーミリオン(Raymond Vermillion)とフィリス・ヴァーミリオン(Phyllis Vermillion)という中年の夫婦が住んでいた。彼らの眼には、ガートルードはスィルヴィアとジェニーにとって申し分の無い人物に映り、夫妻はガートルードの屋敷を二度訪問している。しかし、この二度の訪問の際、ヴァーミリオン夫妻は、ポーラがスィルヴィアを痛め付けている場面や、スィルヴィアの目の周りに黒い痣ができているのを目撃していた。このとき、ポーラはお湯の入ったコップをスィルヴィアに投げ付けたり、スィルヴィアを虐待している話を公然と自慢すらしていた[59]。二度目の訪問の際、夫婦には、スィルヴィアが極めて従順で、その唇は腫れ、なにやら「ゾンビに見えた」という。ポーラはスィルヴィアをベルトで殴り始めた[59]。だが、ヴァーミリオン夫妻は、スィルヴィアの身体に見られる歴然たる虐待の痕について、当局に通報したりはしなかった[60]。ヴァーミリオン夫妻が当局に通報しなかったことについて、デニース・ノエは、「正常な感覚の持ち主で、責任感のある大人でさえ、このような行為を『犯罪』と認識できないのであれば、充分な教育を受けていないスィルヴィアのような少女でも認識できるはずだ、などと考えられるだろうか?」と書いた[59]。
「I'M A PROSTITUTE AND PROUD OF IT」(私は、自分が娼婦であることが嬉しくて堪らない)[70][4][62]
ガートルードは文字を刻みきれず、食料品店にジェニーを連れて行った際に出会った14歳のリチャード・ディーン・ホッブス(Richard Dean Hobbs)[14]に、スィルヴィアの腹部に刻む文字の食刻を完成させるよう指示した。食刻の最中、スィルヴィアは歯を食いしばり、呻き声を上げながらこれに耐え続けた。ホッブスはのちの証言で、この拷問について、「あっという間だったし、重症ではない」と主張した[71]。ホッブスは、ガートルードの10歳の娘・シャーリーとともに、スィルヴィアを地下室へ連れていき、かんぬきを使ってスィルヴィアの左胸の下部に「S」の文字の焼き印を彫ろうとしたが、輪っかの形を誤って逆方向に彫ってしまった。この深い火傷は数字の「3」に似た形となった[72]。彼らはジェニーを呼び出し、姉の身体に焼き印を刻むよう命令した。ジェニーはその場でしばらく呆然自失となったのち、この命令を拒否した。ジェニーは平手打ちを喰らうも、拒否した[69]。
「Jenny, I know you don't want me to die, but I'm going to die. I can tell it.」(「ジェニー。あなたが私を死なせまいとしているのは伝わってくる。でもね、私はもう長くないの。分かるのよ」)[74][6]
翌日、ガートルードはスィルヴィアを起こし、口述筆記で手紙を書かせた。その手紙の内容は、「スィルヴィアは地元在住の匿名の少年の集団と性的な関係を持つことに同意していたが、この少年たちはスィルヴィアの全身を虐待し、拷問し、損壊を加えたのだ」というものであり、さらに、この手紙を綴ることでスィルヴィアの両親を欺き、「スィルヴィアはガートルードの屋敷から逃亡した」と思い込ませる意図があった[75]。ガートルードは、この手紙の冒頭部分を「To Mr. and Mrs. Likens」(「ライケンス夫妻へ」)で書き始めるよう命令した[76]。スィルヴィアにこの手紙を書かせてから、ガートルードは、息子のジョン、スィルヴィアの妹・ジェニーに、スィルヴィアに目隠しさせ、「ジミーの森」(Jimmy's Forest)と呼ばれる近くの森林地帯にスィルヴィアを連れていき、そこで放置して死ぬに任せるという腹積もりであった[77]。スィルヴィアが手紙を書き終えると、ガートルードは地下へと続く階段の手すりにスィルヴィアを縛り付け、クラッカーを食べるよう勧めたが、スィルヴィアは「犬にあげてよ。私は要らない」「私よりもお腹が空いているだろうから」と答え、拒絶した[78][76]。これを受けて、ガートルードはそのクラッカーをスィルヴィアの口の中に強制的に押し込み、息子のジョンとともに、スィルヴィアの腹を殴った[79][69]。デニース・ノエは、「スィルヴィアは、自分にはもはや失うものはないと感じていて、反抗的な態度に出たのかもしれない。あるいは、自分の腹部に刻み込まれた言葉の恐ろしさのあまり、生きる気力が失せていたのかもしれない」と書いた[76]。
1965年10月29日の午後、インディアナ州レバノンにある「ラッセル&ヒッチ葬儀場」(The Russell & Hitch Funeral Home)にて、スィルヴィア・ライケンスの葬儀が執り行われた。儀式の司宰は牧師のルイ・ギブスン(Louis Gibson)が担当し、葬儀には100人を超える会葬者が参列した。スィルヴィアの遺体が収められた灰色の棺は、儀式を通じてずっと開いたままであった。1965年7月以前に撮影されたスィルヴィアの顔写真が棺に飾られた[104]。ルイ・ギブスンはスィルヴィアに対する弔辞の中で、「誰であれ、いずれは最期の時を迎えますが、この少女が味わわされたような苦痛の中で死なねばならない理由などありません」[17]と述べたのち、スィルヴィアの棺に大股で歩み寄り、こう附言した。「スィルヴィアは永遠の眠りについたのです」[104]
スィルヴィアの棺は霊柩車に乗せられ、遺体はオーク・ヒル共同墓地(The Oak Hill Cemetery)へと運ばれ、そこで埋葬された。この霊柩車は、墓地へと向かう14台の車列を構成する一台となった[104]。スィルヴィアの墓石には、「Our Darling Daughter.」(「私たちの最愛の娘」)との碑文が刻まれている。
1966年3月16日に開かれた正式な公判前に実施される公聴会の場で、数人の精神分析医たちが、判事のソウル・アイザック・ラブ(Saul Isaac Rabb)の前で、スィルヴィア・ライケンス殺害容疑で起訴された三人に実施した精神鑑定(Psychiatric Evaluations)について述べた。精神分析医たちはいずれも、「三人とも、裁判に耐えうる責任能力はある」と証言した[108]。
裁判
1966年4月18日、インディアナポリスの市郡庁舎にて、ガートルード・バニシェフスキー以下五人に対する裁判が始まった[109]。陪審員の選定は数日間続いた。4月16日、検察官のリローイ・K・ニュー(Leroy K. New)と次席検事のマジョリー・ウェスナー(Marjorie Wessner)は、五人の被告人全員に対して死刑を求刑する意向を発表した。判事を務めるソウル・アイザック・ラブに対し、検察側は、「被告人らのスィルヴィア・ライケンスに対する虐待は、『協調して』[110]行われたことで起訴されたのであり、被告人全員を一緒の場で裁くべきである」「一人一人が個別に裁かれた場合、判事も陪審員も、彼らの犯した犯罪の「全体像」に関する証言を聴くことができなくなる」と主張した。検察のこの主張は認められ、五人の被告人全員が、一緒の場で裁判にかけられた[109][111]。インディアナ州の現代法によれば、「15歳未満の子供が犯罪を実行した場合、その時点で『犯罪を犯す意図は無い』と推定されているが、充分な証拠を提出された場合、この推定は反証される可能性がある。起訴されなかったのは7歳未満の子供だけであった[112]。
ガートルード・バニシェフスキーの弁護人は、ウィリアム・C・アーベッカー(William C. Erbecker)が、長女・ポーラの弁護人は、ジョージ・ライス(George Rice)[114]が、リチャード・ホッブスの弁護人は、ジェイムス・G・ネダー(James G. Nedder)が、コイ・ハバードとジョン・バニシェフスキーの弁護人は、フォレスト・ボウマン・ジュニア(Forrest Bowman Jr.)が、それぞれ務めた[115][116]。この弁護団は、「ガートルード・バニシェフスキーがスィルヴィア・ライケンスに対する虐待と拷問に参加するよう圧力をかけた」と主張し[109]、ガートルードは「精神異常」(Insanity)を理由に無罪を主張した[1]。
五人の被告人に対する裁判は、陪審員による評決が下されるまで17日間続いた[109]。1966年5月19日、八時間に亘る審議を経て、男性八人、女性四人で構成される陪審員たちは、ガートルード・バニシェフスキーに対し、第一級殺人(The First Degree Murder)で「有罪」と認定し、「終身刑」との評決を下した[144]。長女のポーラ・バニシェフスキーは、第二級殺人(The Second Degree Murder)で「有罪」と認定され[109]、リチャード・ホッブスとコイ・ハバードの両名は、過失致死を理由に「有罪」と認定された[145]。ソウル・アイザック・ラブ判事が判決を言い渡したとき、ガートルードとその子供たちは突然泣き崩れ、お互いに元気付けようとした。ガートルードは、啜り泣きながらジョンと抱き合った[6]。一方、ホッブスとハバードの二人は平然としていた。
ディーンはまた、「多くの人々が、この事件について、小説『蠅の王』(『Lord of the Flies』, ウィリアム・ゴールディング〈William Golding〉が1954年に発表した)になぞらえています。しかし、あれは制御不能状態に陥った子供たちの物語に過ぎません。この虐待事件においては、監督する大人の存在がありました。虐待に加わった子供たちは、暴走したわけではなく、言われたとおりに行動していただけなのです」と語った[46]。
マリオン郡の公共福祉局は、ガートルードの逮捕後、11歳のメアリー、10歳のシャーリー、8歳のジェイムスを、それぞれ個別の里親の元に預ける措置を取った。1960年代後半、彼らの父親が子供の親権を取り戻すと、三人の姓は、法律に従って「Blake」に変更された。メアリーは名前をのちに「メアリー・S・ブレイク・シェルトン」(Marie S. Blake Shelton)に変更した。メアリーは2017年6月8日に亡くなった。62歳であった[163]。
一歳のデニス・リー・ライトは、養子縁組に出された。デニスを引き取った養母は、デニス・リー・ホワイト(Denny Lee White)と名付けた。2012年2月5日、デニスはカリフォルニア州にて亡くなった。47歳であった[105][46]。
「Some good news. Damn old Gertrude died. Ha ha ha! I am happy about that.」(「吉報よ。あの忌々しいガートルードのババアが死んだとさ。アッハッハッハッハッハ!実に喜ばしいわ!」)[171]
ジェニーはガートルードの訃報について、「ガートルードは穏やかな最期を迎えた」「あの女を電気椅子に掛けて欲しかった」と語った。また、母・エリザベスについて、「どうか母を責めないで欲しい。私は母を責めたことはありません。母の唯一の間違いは、ガートルードを信頼したことだけです」と語っている[171]。2004年6月23日、ジェニー・ライケンスはインディアナ州ビーチ・グローヴ(Beech Grove, Indiana)にて、心臓発作を起こして亡くなった[57]。54歳であった[46][6]。
「I see a light; hope. I feel a breeze; strength. I hear a song; relief. Let them through, for they are the welcome ones.」(「光が見える、希望。そよ風を感じる、力強さ。歌が聞こえる、安堵。道を空けてあげなさい。彼らは歓迎されているのだから」)[173][174][175][167]
また、裏面には以下の碑文が刻まれている。
「This memorial is in memory of a young child who died a tragic death. As a result, laws changed and awareness increased. This is a commitment to our children, that the Indianapolis Police Department is working to make this a safe city for our children.」(「この慰霊碑は、無惨な最期を遂げた少女への追悼を込めて造られました。この少女の死によって、法律が変わり、人々の認識も変わりました。これは、子供たちが安全に暮らせる都市にするようインディアナ警察署が取り組んでいる、子供たちに対する責任なのです」)[174][175]
『隣の家の少女』(The Girl Next Door) … 作家のジャック・ケッチャム(Jack Ketchum)がスィルヴィア・ライケンスの事件に触発され、1989年に発表した小説『The Girl Next Door』を映画化した。批評家のニール・ゲンツリンガー(Neil Genzlinger)は、「『隣の家の少女』のような、観ていて不快になってくる映画を作るつもりなら、そうすることで埋め合わせができる理由を明確にすべきである。この映画を監督したグレゴリー・M・ウィルソン(Gregory M. Wilson)は、そのような理由を持ち合わせていないか、あったとしても、どう伝えれば良いのかを分かっていない。すなわち、脳を漂白剤に浸けて、痕跡を記憶からすべて洗い流してしまいたい、と思わせるような映画を作ったのだ」と書いた[178]。
『アメリカン・クライム』(An American Crime) … 2007年1月19日、サンダンス映画祭にて初めて上映された。『隣の家の少女』とは異なり、実際の事件に忠実な描写が多い。監督を務めたトミー・オヘイヴァー(Tommy O'Haver)はインディアナポリスの出身でもある。オヘイヴァーは、高校生のころに『蠅の王』を読み、この小説とスィルヴィア・ライケンスの事件について類似性を見出したという。また、映画の脚本を執筆するにあたり、スィルヴィア・ライケンスの事件の裁判記録を全て耽読したという[179]。
^ abFlowers, R. Barri; Flowers, H. Lorraine (January 2004). Murders in the United States: Crimes, Killers and Victims of the Twentieth Century. Taos, New Mexico: Paradise House Press. p. 120. ISBN0-7864-2075-8
Bowman, Forrest Jr. (2014). Sylvia: The Likens Trial. California: CreateSpace. ISBN978-1-502-58263-8
Dean, John (1999). The Indiana Torture Slaying: Sylvia Likens' Ordeal and Death. Kentucky: Borf Books. ISBN0-9604894-7-9
Dean, John (2008). House of Evil: The Indiana Torture Slaying. United States of America: St. Martin's Paperbacks. ISBN978-0-312-94699-9
Flowers, R. Barri; Flowers, H. Loraine (2001). Murders in the United States: Crimes, Killers and Victims of the Twentieth Century. North Carolina: McFarland and Company. ISBN0-7864-2075-8