ジュディ・ガーランド (英語 : Judy Garland 、1922年 6月10日 - 1969年 6月22日 )は、アメリカ合衆国 の女優 、歌手 。
子役として出演した『オズの魔法使 』で人気を博し、以後も『若草の頃 』、『イースター・パレード 』、『スタア誕生 』などで抜群の歌唱力を披露してハリウッド黄金時代を代表する大スターの一人となった[ 1] 。
アカデミー・ジュブナイル賞[ 2] 、ゴールデングローブ賞 、トニー賞 特別賞などを受賞したほか、グラミー賞 の年間最優秀アルバム賞を女性として初めて受賞した。女優のライザ・ミネリ は実子。
生涯
生い立ち
ミネソタ州 のグランドラピッズ (en ) 出身。本名はフランシス・エセル・ガム (Frances Ethel Gumm )。ボードビリアン の両親のもとで3人姉妹の末っ子として生まれる。 両親はグランドラピッズに居を構え、ボードビルの演目を上映する映画館を経営していた。彼女はアイルランド、イギリス、スコットランド、フランスのユグノーの先祖を持ち、地元のエピスコパル教会で洗礼を受けた。
1926年6月、父親に同性愛の傾向があるという噂を受け、一家はカリフォルニア州ランカスターに移住した。この頃から母親は娘たちを映画に出演させるために働きかけ始めた。
デビュー
ガム・シスターズの2人の姉とともに(1935年頃)
1929年 、2人の姉と共にガム・シスターズ の一人としてデビュー。1935年 にメトロ・ゴールドウィン・メイヤー (MGM)と専属契約。当初採用候補だったディアナ・ダービン とジュディのうち、社長のルイス・メイヤー は「ジュディを追い出せ」とプロデューサー のアーサー・フリード に命じたが、ジュディの歌唱力に注目したフリードが指示を無視してジュディと契約を結んだ。
後年、娘のライザ・ミネリは母はディアナと違いダンスが上手であったのがMGMとの契約に有利に働いたのだろうと語っている。なおフリードは関係を持った女優に仕事を回す「キャスティング・カウチ」で悪名高く、また突然の契約だったことから、フリードと当時13歳のジュディの間に性的関係があったとする憶測・中傷が当時から流されたが現在では否定されている。
芸名の「ジュディ」はホーギー・カーマイケル の人気曲のタイトルから取られている。「ガーランド」の由来についてはいくつかの説があり、映画『特急二十世紀 』(1934年)でキャロル・ロンバード が演じたリリー・ガーランドにちなんでつけたという説、演劇評論家のロバート・ガーランドにちなんでつけたという説、ボードビリアンのジョージ・ジェッセル が彼女たち姉妹を評して「ガーランド(花輪)のようだ」と言ったことから付けた説などがある。
当時13歳のジュディの体重は健康的な範囲内だったが、MGMは契約に「スリムでいること」を含め強制的なダイエットを命じた。体質的に太りやすかった彼女は当時のハリウッドのスタジオでダイエット薬として使用されていた覚醒剤 (アンフェタミン )を常用するようになる。
MGMでの初期の活躍
MGMはジュディを当時の大スターだったミッキー・ルーニー とコンビを組ませ「裏庭ミュージカル」と呼ばれるシリーズを次々と制作しヒットさせた[ 3] 。2人は脇役として『サラブレッド・ドント・クライ 』(1937年)に出演し、これが初共演となった。その後、ルーニーが主役を演じるハーディ・ファミリー・シリーズの4作目『初恋合戦 』(1938年)に、ジュディは隣に住む少女として出演した。『青春一座 』(1939年)で初めてダブル主演となり、その後ハーディ・ファミリー・シリーズの『アンディ・ハーディ・ミーツ・デビュタント 』(1940年)、『二人の青春 』(1941年)を含む5作で共演した。
『オズの魔法使』撮影時のジュディ(1939年)
ガーランドは、自身とルーニーを含めた若い出演者たちは、撮影のペースについていくために常にアンフェタミンを処方されていたと述べた[38]。また、寝る前には眠りを促進するバルビツール酸を飲まされていたと述べた。このような薬物の常用が中毒を引き起こし、生涯にわたっての乱用に繋がったと述べた。しかしルーニーは彼女の中毒の責任がスタジオにあることを否定した。
『オズの魔法使』とその後の成功
1939年 にミュージカル映画『オズの魔法使 』で主役ドロシーに抜擢され、人気スターとなる。
『オズの魔法使』を製作したMGMは、当初、ドロシー役をライバル社20世紀FOX の人気子役だったシャーリー・テンプル に演じさせようと考え、その条件としてMGM側がクラーク・ゲーブル とジーン・ハーロウ という2人の大スターを20世紀FOXへ貸し出す交渉がすすめられていた。
しかしハーロウが1937年に急死し、交渉が頓挫したため、代役としてジュディが急遽ドロシー役を演じることになった[ 4] 。
結果『オズの魔法使』はジュディの才能を大々的に世に知らしめるものとなり、この役でアカデミー子役賞 を受賞する。
その後、空前の大ヒットとなった『若草の頃 』(1944年)、『ハーヴェイ・ガールズ (英語版 ) 』(1946年)、フレッド・アステア と共演する『イースター・パレード 』(1948年)といった娯楽大作で主役をつとめ、国民的な人気俳優としての地位を不動のものとしてゆく。
乱れる生活
『初恋合戦』(1938)
1941年 に作曲家のデヴィッド・ローズ と結婚した。翌年妊娠したが、当時カリフォルニア州では違法だった堕胎手術を受けている。1943年 に離婚。
そしてこの頃から神経症と薬物中毒の影響が表面化し始め、撮影への遅刻や出勤拒否を繰り返すようになる。1947年 に出演した『踊る海賊 』の撮影では、130日余の撮影中に36日しか姿を見せていない。撮影後にはジュディ自身が「私の最初の精神病院入院」と呼ぶサナトリウム への長期入院[ 5] [ 6] を余儀なくされ、自殺未遂事件[ 7] を起こす。以降、度々薬物治療のための入退院を繰り返すこととなる。
1945年 、映画監督のヴィンセント・ミネリ と再婚。翌1946年 3月、のちに女優となる娘ライザ・ミネリ を出産する。ライザは2歳のとき『グッド・オールド・サマータイム (英語版 ) 』(1949年 日本未公開)で子役として映画デビューしている。
その後も乱脈な生活と不安定な精神状態はつづき、1949年 に計画されていた『ブロードウェイのバークレー夫妻 (英語版 ) 』で、撮影を放棄するなどしたため主役を降板している。さらに同年、映画『アニーよ銃をとれ 』の撮影中に錯乱状態に陥ってアニー役から下ろされてしまう。
同名ミュージカルの映画化作品でタイトル・ロール のアニー・オークレイ 役に配役されたが、舞台でのエセル・マーマン のイメージが強いアニー役を演じることに神経質になっていた上、長年の子役から脱却した後に大人らしくない役を演じることに不安であり、バスビー・バークレー 監督との不仲もあった。バークレーは全ての楽曲を演出しており、ガーランドの努力不足、態度、熱意に厳しかった。ルイス・B・メイヤー 社長に文句を言い、バークレーを作品から解雇させようとした。この時ガーランドはうつ病で遅刻や欠席をするようになり、治療のため電気ショック療法を受けていた[ 8] [ 9] [ 10] 。
1943年 1949年5月10日、ガーランドは降板させられ、バークレーの演出に意欲のあったベティ・ハットン が後継となった。ガーランドはマサチューセッツ州ボストンにあるピーター・ベント・ブリガム病院に長期入院し、その後しばらくして飲食も睡眠も通常通りに戻った。入院中、体の不自由な子供たちと会うことで癒しとなり、1964年のインタビューにおいて、入院中の回復について、さらには「愛の奇跡 (映画) (英語版 ) 」(1963年)への影響について語った[ 12] 。
解雇
1950年 公開の『サマー・ストック (英語版 ) 』(日本未公開)の撮影をしていた1949年、以前と比較して20ポンド(約9キロ)太り、撮影に影響を与えた。ジュディは結果的に減量したものの、MGMはジュディを解雇。ショックを受けた彼女は再び自殺未遂事件を起こす。翌1950年にはヴィンセント・ミネリ と離婚。
1952年 にシドニー・ラフト と3度目の結婚をし、彼や友人のビング・クロスビー たちの勧めに従ってハリウッド を離れ、ロンドン やニューヨーク で歌手としてステージ活動を行う。これが成功し、ジャズ歌手としてのジュディの歌唱力が人々に再認識されることとなった。
銀幕復帰
1954年 、ワーナー・ブラザース で撮影された『スタア誕生 』で久々の映画出演を果たす。 ジュディと当時の夫シドニー・ルフトが設立した製作会社トランスコナ・エンタープライズによって製作され、ワーナー・ブラザースが資金、製作設備、スタッフを提供した。 この作品は大ヒットし、ジュディはゴールデングローブ賞 主演女優賞を受賞。そしてアカデミー主演女優賞 にノミネートされた。
1945年 しかしワーナー・ブラザースは、撮影中の遅刻や出勤拒否を問題視し、彼女の受賞のための宣伝や根回しを一切行わなかったほか、授賞式前に「彼女ではもう二度と映画は撮らない」と宣言した[要出典 ] 。主演女優賞は『喝采 』のグレース・ケリー が受賞し、ジュディの受賞はならなかった。
サミー・デイヴィスJr. は自伝の中で「何故あの時ジュディが敗れたのか、どうしてもわからなかった。誰かが彼女を罰しようとしたのだ」と記している。
1961年 、彼女は7年ぶりに大作『ニュールンベルグ裁判 』で映画に出演。バート・ランカスター やマレーネ・ディートリヒ と共演し、アカデミー助演女優賞 にノミネートされた。
また、同年行ったカーネギー・ホール でのコンサートは「ショービジネス最高の一夜」と称され、収録した『ジュディ・アット・カーネギー・ホール (英語版 ) 』はグラミー賞 の最優秀アルバム賞 を受賞。ジュディ自身も最優秀女性歌唱賞 を受賞する[ 13] 。
その後、薬物中毒と神経症が悪化。逮捕されることはなかったものの、FBI はジュディを監視しており、膨大なFBIの監視記録が残されている[ 14] 。
晩年
『若草の頃 (1944) [要出典 ] 1965年 にシドニー・ラフトと離婚。 1963年には精神的虐待を理由にシドニー・ラフトを起訴した。その後、2度結婚している(生涯に5回結婚)。
1969年 6月22日に居住滞在先のロンドン のベルグレイヴィア カドガン・レーン (en ) の借家で、睡眠薬の過剰摂取にてバスルームで死去。47歳だった。過去に2度自殺未遂を起こしていたこともあり自殺との見方は現在でもあるが、その可能性は低いとされている。
彼女の検視を担当した検視官のギャビン・サーストンは審問で、死因はバルビツール酸の「不注意な自己過剰投与」であると述べた。サーストンは、過剰摂取は意図的なものではなく、彼女が自殺を意図していたことを示唆する証拠はないとした。ガーランドの剖検では、胃粘膜に炎症はなく、胃の中に薬物の残留物もなかったことから、薬物は一度に摂取されたのではなく、長期間にわたって摂取されたことが示された。死亡診断書には、彼女の死因は「偶発的」と記された[要出典 ] 。
彼女には莫大な収入があったがその大半を浪費してしまっており、埋葬の費用にも事欠いたという。長女のライザ・ミネリ は、「母はハリウッドが大嫌いだった」「母を殺したのはハリウッドだ」と発言し、ハリウッドではなくニューヨークで葬儀を執り行い、ニューヨーク郊外の墓地にジュディを埋葬した(2017年になって遺族の意向によりハリウッドへ墓所が移されている[ 15] )。
評価
ゴールデン・グローブ賞 は『スタア誕生 』で最優秀女優賞を受賞 (1955年)したほか、生涯功労賞も受賞している (1962年)。グラミー賞 は受賞2回、また近年になって生涯功労賞を授与されている (1999年)[ 13] 。
アメリカ合衆国郵政公社 (US Postal Service)は、過去に彼女をデザインした記念切手 を発売しており、1990年 3月23日に発行されたアメリカクラシック映画切手の4種のうち1種には、オズの魔法使いでドロシー役に扮したものが描かれている。もう一つは2006年 6月10日に俳優シリーズとしてジュディの肖像画 切手が発行されている。
映画データベース「IMDb」が行った「偉大なハリウッド女優100人」のランキングでは24位[ 16] 。
ジュディは性的にきわめて奔放な存在として語られてきたが、現在ではそうした逸話の多くが元夫や伝記作家によって極端に誇張されていたことが明らかになっている[ 17] 。
LGBTQへの影響
ゲイ・アイコン も参照
『オズの魔法使』
ジュディは60年代のアメリカで同性愛者に対して理解を示していた数少ない著名人の一人だった。ジュディの父親がホモセクシュアルであり、自身もバイセクシュアル だったとされる[ 18] 。そのため彼女の死のニュースは、当時の同性愛者のコミュニティ に大きな動揺をもたらした。
史上初の同性愛者による暴動「ストーンウォールの反乱 」は、ジュディの葬儀が行われた教会付近で葬儀翌日に起きており、彼女の死によるコミュニティ内でのショックが影響していたとも言われているが証拠はない[ 19] 。
こうした経緯から、ジュディは同性愛者にとって象徴的な存在となった。現在「レインボー・フラッグ 」が同性愛解放運動の象徴として用いられるのは、彼女が『オズの魔法使 』で歌った「虹の彼方に 」から由来しているという説もあるが、これも確実ではない[ 19] 。
また「ドロシー(=ジュディ)のお友達」はスラングで「同性愛者」を指すことがある。ゲイを公言しているエルトン・ジョン が、ジュディへの追悼歌として書いた「グッバイ・イエロー・ブリック・ロード 」の「黄色いレンガの道」は、「オズの魔法使」でドロシーたちが「魔法使」に会いに行くために通る道(黄色の煉瓦でできた道)に由来する。
主な出演作品
ギャラリー
『雲流るるはてに』 (1946)
『スタア誕生』 (1954)
『ニュールンベルグ裁判』 (1961)
『愛の奇跡』 (1963)
『スタア誕生』撮影中
フランク・シナトラと共演するジュディ
『オズの魔法使』
『オズの魔法使』で「虹の彼方に」を歌うジュディ
伝記映画
脚注
^ “Judy Garland biography ”. IMBb. 2023年2月22日 閲覧。
^ “Academy Juvenile Award Recipients ” (英語). IMDb . 2024年12月15日 閲覧。
^ “dOc DVD Review: Mickey Rooney & Judy Garland Collection (Babes in Arms/Strike Up the Band/Babes on Broadway/Girl Crazy) (1939–1943) ”. Digitallyobsessed.com (April 1, 2009). April 3, 2010 閲覧。
^ Juneau p. 37
^ Edwards p. 108
^ “Judy Garland – Career Timeline | American Masters ”. PBS (July 7, 2004). April 3, 2010 閲覧。
^ Frank p. 231
^ “Judy Garland's Legacy ”. CBS . July 5, 2015 閲覧。
^ “Judy Garland among long list of creative figures given ECT” . The Scotsman . http://www.scotsman.com/news/health/judy-garland-among-long-list-of-creative-figures-given-ect-1-2183163 July 5, 2015 閲覧。
^ Fricke, John (2011). Judy: A Legendary Film Career . Running Press. p. 286
^ “Judy Garland: 1964 Australian Interview ” (May 1964). 12 December 2021 閲覧。 “Well it helped me by just getting my mind off myself and ... they were so delightful, they were so loving and good and I forgot about myself for a change”
^ a b “Judy Garland | Artist ”. Grammy.com . 2020年12月6日 閲覧。
^ Scott Schechter, Judy Garland: The Day-by-Day Chronicle of a Legend (2006) P.64
^ “[Judy Garland's new resting place after her remains are moved from New York to Hollywood 'to be near her three children' Judy Garland's new resting place after her remains are moved from New York to Hollywood 'to be near her three children']”. Daily Mail. 2018年12月20日 閲覧。
^ “The Greatest 100 Actress of All Time in Hollywood ”. IMDb . 2018年12月11日 閲覧。
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^ デイヴィッド・シップマン 『ジュディ・ガーランド』 (キネマ旬報社、1996) pp.153-154
^ a b “ジュディ・ガーランドはなぜゲイの人々から支持され、ゲイ・カルチャーのアイコンになったのか? ”. uDiscovermusic (2020年3月5日). 2022年5月12日 閲覧。
参考文献
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外部リンク
1928–1950 1951–1975 1976–2000 2001–現在
1950–1960 1961–1980 1981-2000 2001–2020 2021–2040