フランス音楽界に17歳でデビューし一躍若者のアイドルとなる。容姿端麗でハスキー・ボイスが際立つ。当初はアメリカン・ロックのフランス語カバーを歌う。1963年に19歳で初渡米し、アメリカ・ナッシュビルの歴史的なRCAレコーディング・スタジオで「La plus belle pour aller danser(踊りに行く一番の美人)」(邦題「アイドルを探せ」 )収録のアルバム第3作「Sylvie à Nashville」を録音。本作は1964年に世界的に大ヒット。
1965年5月初来日。前月4月に20歳で21歳のロック歌手ジョニー・アリディと結婚、アイドル同士の結婚はファンのイメージを壊すとのマネージャーの忠告に[2]「アイドルという職業はない」と反論。
シルヴィは祖父・父親・兄がピアノなど楽器演奏もする芸術一家に育ち、演劇学校進学とコメディ・フランセーズを夢見ていた。7歳年上の兄エディ・ヴァルタン(Eddie Vartan、2001年死去)はジャズ・トランペッター(当初ブルーノートで演奏していた)、ジャズ・バンドを持つ音楽家、かつRCAの音楽プロデューサーでもあった。1961年春、エディが担当したデュエット・レコード制作で、録音途中に突然降板したイギリス人女優の代役に立ったのがシルヴィの歌手デビューとなった。曲目は前任者の高音の声質を真似てハミングしたコミカルな歌「Panne d'essence(ガス欠)」(Floyd RobinsonのOut of gas)であった。土壇場での交代劇だったために6月発売されたレコード・ジャケットには男性歌手フランキー・ジョルダン (Frankie Jordan) のみ写っている。ジョルダンも当時は歯科学生でロックに夢中なあまり趣味で歌いピアノを弾いていた。
偶然参加したシルヴィには滑稽(こっけい)極まりない作品に見えたこの歌は意外なヒットとなり同年12月にジルベール・ベコーのパリ・オランピア劇場公演第一部に相手役のジョルダンと招待されて初めて観客の前で歌う。この一寸の出演は伝説のオランピア劇場支配人ブリュノ・コカトリックス (Bruno Coquatrix) の目に止まり、数週間後のヴァンス・テイラー (Vince Taylor) 公演の第一部出演を依頼される。この公演にシルヴィは初めてステージ衣装を作って臨み「Quand le film est triste(Sad movie makes me cry、悲しきスクリーン)」などを歌う。1962年5月ベコーの国内ツアーに参加するが、娘の芸能界入りに特に猛反対だったシルヴィの母は巡演に出るには兄エディの付添いを条件とした。「悲しきスクリーン」 を録音した時のことを先の「ガス欠」のソングライターでもあるジョルジュ・アルベ (Georges Arber) は「シルヴィには既に彼女特有の歌い方があった。その時に私は彼女は成功すると分かった。とにかく彼女はその可能性を持っていた」[6]と評した。
1963年「Tous mes copains(邦題:おセンチな17才)」が最初の大ヒットとなる。同年6月、伝説の音楽雑誌『サリュ・レ・コパン (Salut les copains)』の1周年記念で開催したパリ・ナシオン広場コンサートに15万人の若者が集まりシルヴィ達「若者のアイドル」に熱狂する。「サリュ・レ・コパン」は1959年にジャズ・写真・芸術の熱狂的ファンでアメリカの最新音楽に精通するダニエル・フィリパキ(Daniel Filipacchi、後のアシェット・フィリパキ・メディア社長)とフランク・テノ(Frank Ténot、ジャズ評論家)がラジオEurope1で始めた伝説の人気ロック音楽番組「サリュ・レ・コパン」の成功によりその延長で出版まで及んだもの。シルヴィの兄でジャズ・トランペッターのエディ・ヴァルタンとこの二人を結びつけたのもジャズである。フィリパキは16歳年下のシルヴィをデビュー時に小さな妹のように可愛がった。シルヴィはこの1963年から1965年は頻繁にアメリカ・ニューヨークを訪れる。1963年9月、19歳を迎えて間もなく第3作目アルバム「Sylvie à Nashville/日本盤:夢のアイドル」をRCA本拠地ナッシュビルで録音。その際にまずニューヨークへ行くがサリュ・レ・コパン誌は写真入りでこの模様を報道。翌1964年5月の訪問ではTime誌のインタビューや他の雑誌撮影そしてCBSの人気番組ジョニー・カーソン「トゥナイト・ショー」の歌の録画などのほかにRCA側のディナー出席などで過密スケジュールであった。同年11月にまた3週間滞在し、英語盤アルバム「Gift wrapped from Paris」(日本盤:パリからの贈り物)を録音。翌1965年3月中旬はNBCのポール・アンカの番組に出演し、また「トゥナイト・ショー」に2度目の出演をする。
1964年、「La plus belle pour aller danser(踊りに行く一番の美人)」(邦題:アイドルを探せ)などの大ヒットにより4回目のパリ・オランピア劇場公演が1964年1月16日から2月5日まで行われる。これはビートルズとアメリカのトリニ・ロペス (Trini Lopez) との共演。当時のビートルズは人気沸騰前で、観客を動員したのはトリニ・ロペスとシルヴィであった。同年フランス映画「Cherchez l'idole(アイドルを探せ)」に出演、主題歌となった「La plus belle pour aller danser」(邦題は映画タイトルと同じ「アイドルを探せ」)を歌い、ハスキー・ボイスと容貌でスターとなる。ジョルジュ・ガルヴァレンズ (Georges Garvarentz) とシャルル・アズナヴールの作品で、19歳を迎えたシルヴィがナッシュビルのRCA本拠地で名ギタリストのチェット・アトキンスChet Atkins指揮の下でエルヴィス・プレスリーのミュージシャンやコーラスと直接同時録音したLP「Sylvie à Nashville」収録曲。
アルバム「Sylvie à Nashville」は、英語曲3作を含み、スウェーデン・トルコ・ペルーなども含めて世界的に広くリリースされる。フランスでは長期間にわたり大ヒットし商業的にも大成功となる。シングル・カットされた 「Si je chante」(恋のショック) そして日本でも長期間トップとなった「La plus belle pour aller danser」(邦題:アイドルを探せ)はそれぞれ売上第1位にランクされる。本アルバムはシルヴィ本人にとり、その後のキャリアの上で重要な一作だという[7]。この19歳の初渡米でニューヨークでTV出演も行い、滞在中に見た「1つの文化であると同時に厳しいビジネスでもある尊重されたアーティストの存在」に衝撃を受けた。「ニューヨークしか夢見ていなかった」シルヴィに「ニューヨークはアメリカを発見させてくれた」。当時フランスは、アメリカン・ロックのカバー曲を歌うシルヴィたちティーン世代の振興音楽を「Yéyé(イエ・イエ)」と揶揄(やゆ)し一まとめに括って中味も才能もない歌手のように捉え、アメリカとはメンタル的に雲泥の差があった時代。若く好奇心旺盛なシルヴィは「仕事に対する考え方とやり方において高水準を求める気難しさや厳格さやインスピレーションなど多くを学んだ」。2000年代に入ってフランス雑誌のインタビューで「アメリカはそれぞれの時代とても進歩している。その音楽も時代を感じさせない。」と語っている。
1965年4月12日、人気絶頂期の20歳で、21歳の若きフランス国民的ロッカーであるジョニー・アリディと結婚。翌1966年8月14日に一人息子で現在はシンガー・ソングライターのダヴィド・アリディ」(David Hallyday)が誕生する。同年に全曲英語アルバム「Gift wrapped from Paris」アメリカ発売。挙式後の5月に世界ツアーの一環で初来日し羽田空港には大勢のファンが殺到した。
1965年世界ツアーのため兄エディはイギリスで気鋭のミュージシャン2人をスカウト。ドラマーのトミー・ブラウン (Tommy Brown) とギタリストのミッキー・ジョーンズで、彼らは1964年から1970年代半ばまでシルヴィに斬新な曲を多く作り主要ブレーンとなる。1960年代から1970年代シルヴィとともに世界ツアーをする。1968年「Face au soleil(太陽に向かって)」、1971年「Suzan」「Annabel」「Une poignée de monnaie(一握りのお金)」、1974年「Rock'n'roll man」など。シルヴィは同様のポップ路線を続けなかった理由について、「彼らイギリス人のような才能あるソングライターに以来出会ったことがないからです」と話している[9]。ジョーンズは後にグループ「フォリナー」を結成した。
1968年4月に自動車事故に遭い左腕を骨折するが7月に「Irrésistiblement(あなたのとりこ)」、「Baby Capone(ベイビー・カポネ)」が大ヒットし12月にアルバム「La Maritza(想い出のマリッヅア)」(日本盤は「パリの妖精」)から「想い出のマリッザア」など新曲7曲を含めたプログラムで1週間のオランピア公演凱旋(がいせん)。年内および翌1969年は2度の世界ツアーに出て、夏の60日長期ツアーではオランダを含め欧州から南米や北アフリカを巡る。「Ballade pour une fugue(愛のフーガ)」のビデオ・クリップをテレビ放映、11月にシングル「Abracadabra(アブラカダブラ)」発売。
1968-1969年はイタリアでも「Irrésistiblemente」、「Come un ragazzo(男の子のように)」そして「Zum zum zum」が大ヒットし人気絶頂、国営テレビRAIで3か月間の主演音楽番組「Doppia Coppia」を持った。70年1月にはイタリア語盤「Abracadabra」と「La Maritza」発売。「Buonasera buonacera」、「Blam blam blam」、「Nostalgia」など堪能なイタリア語で多数レコード録音した。
1970年代 / オランピア劇場 L'OLYMPIA 1970 〜 豪華絢爛スペクタクル
ダイナミックなライブ・ステージが本領と言われる。契機となったのは、1970年ニューヨークでの「ポップ・ロックそしてとてもソウルなジャズ・ベースでもって ≪最新で≫ 革新的な動きについて並はずれたテクニックを持っていた」アバンギャルドな黒人ダンサー、ジョジョ・スミス (Jojo Smith) のダンス・スタジオ通い。この体験は2月の2度目の自動車事故の1週間後に残る傷痕の治療のため訪れた音楽の街で深く傷心のシルヴィの心身に新たな力を注ぐものとなる。「自分の公演に身体的な広がりや深さを取り入れてより完璧な一人のアーティストでありたい」と考えていた。その年の大半ニューヨークに滞在。クラシック・バレエとは違ったスミスの新しい逞しい踊りに触発され、同年1970年9月のオランピア劇場公演を構想する。当時のフランスでは画期的となったモダン・ダンスを取り入れた本パリ公演、振付・演出はジョジョ・スミス。ゴスペル・R&B・ソウル・ポップが渾然一体となった若いヴォーカル・グループ、ボイズ・オブ・イースト・ハーレム (the Voices of East Harlem) の面々を連れスミス本人も出演した「SYLVIE A L'OLYMPIA 70」(同年10月発売)はキャリアのターニングポイントとなる。このブルーのライヴ・アルバムのジャケット写真にはシルヴィのバックで歌い踊るスミスやボイズ・オブ・イースト・ハーレムの姿がある。本公演のためフィリップ・ラブロ (Philippe Labro) と兄エディ・ヴァルタンは「La nuit(夜)」を製作。ギターと「Bad moon rising」で幕開け、「Love or let me be lonely」のバレエ、そしてスミス一座とボイズオブ・イースト・ハーレムが登場する「Let the Sunshine In」「Love, Peace & Freedom」でフィナーレとなる。会場にはブリジット・バルドー、N・ドロン、バルバラ、フランソワーズ・アルディ、ルイ・アラゴンらが姿を見せた。シルヴィは、ボイズ・オブ・イースト・ハーレムについてニューヨークでスミスに連れられてハーレムのアポロ・シアターで感動的なジャッキー・ウィルソンの公演を見た日と同様、街の通りで演じる彼らを初めて見た日を鮮明に覚えているという。
この1970年2月の(助手席に乗っての)自動車事故からの復帰公演となりキャリアのターニングポイントと言われる記念碑的オランピア劇場公演は、同年12月に後年ファンの間で伝説となるポートレート・ドキュメンタリー番組「Sylvissima」(シルヴィシマ/スィルヴィスィマ)でTV放映される。当時のフランスで≪画期的≫と言われたモダンダンスを取り入れたロックな本スペクタクルに向けたニューヨークとパリでのリハーサル風景と公演模様の2部構成。公演後の楽屋でフィナーレのジーンズ姿のまま壁を背に座りこみブーツを脱ぎ棄ててステージの幕引きに対する不満を吐き出して塞ぎ込み両手で顔を覆って泣く姿など本公演に掛ける26歳を迎えたばかりの若きエンターテイナー・シルヴィ・ヴァルタンの横顔。本オランピア劇場公演の後、監督フランソワ・レシャンバックの1972年ドキュメンタリー・フィルム「Mon amie Sylvie(モナミ・シルヴィ)」は1971年から1972年オランピア劇場公演までカリフォルニアから南米を旅するアーティストの公私の姿を収録。YSLのラメのジャンプスーツで「Shaft」を踊った1972年の同劇場公演後は大ホールに場所を移し、1975年から1983年はパレ・デ・コングレ (Palais des Congrès) やパレ・デ・スポール (Palais des Sports) にて、ショーアップされた長期に亘るスペクタクルを興行。
1970年7月、ニューヨーク録音の「Aime-moi(愛の経験)」そして「Les Hommes(悲しみの兵士)」、「Abracadabra」など収録のアルバム「Aime-moi」発表。1971年12月にロンドンのスタジオOlympic Sound Studiosで録音したシルヴィ・ヴァルタンの代表作「Sympathie」(日本盤「哀しみのシンフォニー」)を発表した。同アルバムには、「Suzan(スーザン)」「Annabel(アナベル)」「Une poignée de monnaie(一握りのお金)」「Parle-moi de ta vie(あなたのことを教えて)」「Comme un arbre arraché(はり倒された木のように)」など全11曲が収録された。日本では、12月末日にイタリアで録音され現地発売された「Caro Mozart(哀しみのシンフォニー)」(イタリア語)を追加収録し翌1972年発売。同曲は、ヴァルタンにとって、日本での最後のヒットとなった。この曲は「モーツァルト交響曲第40番ト短調K550第一楽章アレグロ」をモチーフに、ポップ調にアレンジ製作したものである。
1972年9月オランピア劇場公演。亡き父親(1970年7月逝去)へのオマージュ「Mon père(モン・ペール)」を発表し本公演で歌う。この72年公演はロサンゼルスにアパルトマンを借り一人息子ダヴィドや母親を呼び寄せてショー準備に励む。振付・舞台演出のハワード・ジェフレー (Howard Jeffrey) とリハーサルを行う。ショーの主作品であるシルヴィお気に入りのアイザック・ヘイズの「SHAFT」に乗せて男性ダンサー達と踊る。新曲「Mon père(モン・ペール)」、「Medley (Rock 'n' Roll music – Never been to Spain – Proud Mary)」、「A song for you」(Leon Russell レオン・ラッセル1970年作品)、クラシック・シャンソン「Ne me quitte pas(行かないで)」(ジャック・ブレル)などプログラムは様々なスタイルだが、それはシルヴィの意図する構成だった。シルヴィの興味は特定の音楽カテゴリーより音楽全体。本オランピア公演プログラムも「其々が当時の自分自身の状態と好みに合ったものだ」。1973年「Non je ne suis plus la même(愛のかたち)」大ヒット。
1975年秋、フランス国内サマー・ツアーの後に1か月間のパレ・デ・コングレ・ド・パリ初公演に臨む。振付・舞台演出ウォルター・ペインター (Walter Painter)。大勢のダンサーを従えた大掛かりな本公演は翌1976年2月と12月に追加がされた。オープニングとフィナーレは「Toute ma vie」(Osmond BrothersのLove meのカバー)。隣国イタリアでは国営TVでシリーズ・ショー番組「Punto e Basta」を持つ。1976年に「L'amour c'est comme les bateaux(愛の小舟)」、「Qu'est-ce qui fait pleurer les blondes ?(そよ風のブロンド)」が大ヒット。
1977年秋、パレ・デ・コングレに戻る。ボブ・マッキーの斬新な豹柄衣裳を纏った写真家ヘルムート・ニュートンによる公演ポスターとライヴ・アルバムのジャケットも話題を呼ぶ。パリの街頭の各所に約2m四方のその公演ポスターが連なって貼られる。振付・演出クロード・トンプソン (Claude Thompson)。アンディスピュテッド・トゥルース(The Undisputed Truth)、サイケデリック・ソウル・ファンクグループのYou+Me=Loveに乗せて赤い衣装で踊るバレー、豹柄衣裳で熱唱する「Ne pars pas comme ça」(同年にアメリカ・グラミー賞R&B女性シンガー賞を受賞したThelma Houstonの「Don't Leave Me This Way」のカバー)、そして白の衣装で広いステージを縦横に歌い踊る実兄エディ・ヴァルタン (Eddie Vartan) 作曲「Dancing star(ダンスィング・スター)」のフィナーレなど見せ場の多い1か月に亘る本公演は翌1978年3月20日から4月2日まで2週間の追加となる。観客の中にはモナコ王室のプリンス・プリンセスの姿も。またパリに居合せたミック・ジャガーも来場し楽屋も訪問した。1978年「Disco queen(ディスコ・クイーン)」、1979年12月には「Nicolas(初恋のニコラ)」が大ヒットし年末の『Paris Match』誌の表紙を飾る。
1980年代 / ロング・ラン 〜 私生活優先
翌1980年は特異な新曲「La chanson au brouillon」 で無邪気な子供達への眼差しを歌っている。私生活では一人息子ダヴィドが13歳である。年末から1981年3月ロサンゼルスに留まり2年前にサインしていた初冬からのパレ・デ・スポール・ド・パリ (Palais des Sports de Paris) 公演の準備に入る。3月下旬に来日し第10回東京音楽祭に審査員として出席。夏に「L'amour c'est comme une cigarette(愛はジダンの香り)」(Morning trainのフランス語カバー)がメガ・ヒットし、11月に長期間のパレ・デ・スポール初公演に臨む。振付・舞台演出Claude Thompson。ボブ・マッキー作シースルーの衣装で自ら演じたSYLVIEの文字がポスターとなった6週間スペクタクル、「Nicolas(初恋のニコラ)」のアンコール・シーン。会場にはタキシード姿のジョニーと息子ダヴィド、またカトリーヌ・ドヌーブ、ジャック・ドゥミ、ジョージ・チャキリス、アンドレ・テシネ、ロマン・ポランスキー、ナタリー・バイなど映画界からも多数訪れた。翌1982年1月初旬最終日を迎えるや直ぐに6週間のスイス・ベルギーを含む冬期ツアーに出発、8月に1か月の国内サマー・ツアー、そして12月ラスヴェガスのMGMグランドホテルへと続く。
1979年にアメリカ進出を狙ったアメリカ的ワイルドな出で立ちのジャケットが際立つ全曲英語アルバム「I don't want the night to end(アメリカン・ナイト)」、1985年に「Made in USA」を発売。2作共、公式サイトのファン投票では其々の年代で「Sympathie」や「Confidances」と共に一番人気の、代表的アルバム。
1970年から1984年は大掛かりなスペクタクルで正にステージ活動、フランス全土と世界長期ツアーの黄金期。音楽だけではなく、ボブ・マッキーからイヴ・サンローラン、クリスチャン・ディオール、シャネル(ラガーフェルド)など、アメリカ・フランスのクチュリエによるオートクチュール衣裳も注目を浴びた。2004年10月から翌2005年2月まで、ガリエラ美術館 (Musée Galliera) が、「Sylvie Vartan, revue de mode(シルヴィ・ヴァルタンとモード展)」を開催。« revue de mode »の « revue »は、雑誌とスペクタクル公演 « magazine et spectacle » の2つの意味を持ち、展覧会は両方の側面から構成される[11]。
1989年10月、数年のステージ・ブランクを経て、アルバム「Confidanses(バルタン気質)」を発表しステージ活動再開を告知。モノクロ・ジャケットに見る通り外見や装いも70年代半ばから83年までのスペクタクル時代のゴージャスさや85年アルバム「Made in USA」発売時のアメリカ的ワイルドさからもすっかり抜け出し、全体的にシンプルでスポーティーな一面が顕著になる。長いストレート・ヘアーにナチュラル・メーク、フラット・シューズやテニスシューズを履き、カジュアル・エレガンスが際立つ装いが見られた。
1990年にエティエンヌ・ダオーのアレンジで再録した「Quand tu es là(ゲーム・オブ・ラブ)」がヒット。10月6日にソフィア初公演、1989年10月の新譜「Confidanses(バルタン気質)」から「C'est fatal(セ・ファタル)」「Il pleut sur London(ロンドンに雨が降る)」などの新曲に加え「Mon Père(モン・ペール / 私の父)」、ジョン・レノンの「イマジン」、ブルガリア・フォルクロールも含めたプログラムで観客4000人の前で歌う。またフランス文化を愛した祖父が幼少のシルヴィへよく歌ったシャルル・トレネの「Le soleil a rendez-vous avec la lune(太陽と月)」をエピソードと共に披露[12]。同年12月フランスTVで放映され、またCDライヴ「Enregistrement public à Sofia」発売。また、兄エディとブルガリア赤十字社の下に人道支援団体「Sylvie Vartan pour la Bulgarie」を設立。
1991年1月22日から、湾岸戦争が勃発しパリ市街も不穏な中、パレ・デ・スポールにて3週間に亘って公演し久しぶりにファンの前に戻る。アメリカ人ジェリー・エヴァンス (Jerry Evans) の瑞々しい振り付けやリズミカルな曲目が光るポップ・ロック公演。オープニングの「Par amour, pour pitié(愛と同情と)」、「Dancing in the streets」、子供達が成長しかつての自分達のように飛び立って行くその心境を歌う未編集の新作 「Les enfans s'en vont(子供達は去って行く)」などを披露。1989年には一人息子ダヴィドが22歳で結婚し独立している。1992年6月に2週間の日本ツアー、アルバム「Confidanses(邦題:バルタン気質)」収録の新曲に加えア・カペラでブルガリア・フォルクロール「Moya Goro」を歌った。
同年1992年12月には夏にロサンゼルス録音の新譜アルバム「Vent d'Ouest(英訳:Wind from West)」発表。Michel Compte撮影のダンサー風シルエットのシルヴィのセピア色写真が新しくブックレットも含めてストーリーを持った作品。1993年夏、ア・カペラのカバー曲「Tes tendres années(テンダー・イヤーズ)」のヒットにより、長年一緒に仕事をしたベテランのミュージシャンやコーラスとの同時録音アコースティック・アルバム「Sessions acoustiques」を一気に製作。
1995年1月、新譜「Sessions acoustiques」をテーマにカジノ・ド・パリ (Casino de Paris) 初公演。収録曲に加えヌガロの「Le Cinéma」、フェレ「La vie d'artiste(アーティストの生涯)」、ブレル「La chanson des vieux amants(懐かしき恋人の唄)」などのクラシック・シャンソン、本公演限定のダイナミックな新曲「Je ne peux pas te quitter (comme ça)(こんな風に別れられない)」、また「Divertissement sur Cyrano(シラノのスケッチ)」 などテアトラルな側面も見せた新しいアコースティック・コンサート。
1996年、ファン達には長年のトレード・マークの一つだったロングヘアーからショートヘアーの軽快なスタイルに変え、アメリカとフランス両大陸に住むシルヴィのライフ・スタイルを映した「Back to LA」「Je n'aime encore que toi(あなただけを)」収録のヒット・アルバム「Toutes les femmes ont un secret(全ての女性は秘密を持っている)」を持ってオランピア劇場公演。 1997年7月に特別な新作CD「Sylvie Vartan chante pour les enfants(シルヴィ・ヴァルタン子供達に歌う)」を発売、フランスの伝統的な童謡やフォルクロールにシルヴィとエディが其々作曲した新作2曲を収録した絵本の様な装丁のアルバム。翌1998年、シルヴィはブルガリアから女の子を養女に迎えることになるが子供に対する愛情に溢れる。
1999年に娘ダリナへのオマージュ「Darina」や息子ダヴィド作曲のハードなロック 「Ma vérité」、兄エディの「Les robes」を含む「Sensible」を発表して再びオランピア劇場に戻る。この1999年公演「Tour de siècle」は第1部をほとんど1950年代の古き良きパリに捧げたクラシック・シャンソン・メドレーという特殊な構成をとった。後の2011年7月ニューヨーク初公演の際のインタビューの中でシルヴィはこの様に語っている:「フランスの歌のレパートリーに傾いたり、母が聞いていた歌へ(1999年の)パリ・オランピア劇場公演でオマージュを捧げたいと思ったのは、やっと2000年になる寸前のことです。16歳の頃はジャズやロックに夢中でした。両親は典型的なフランスの歌(クラシック・シャンソン)を聞いていました、シャルル・アズナヴールやレオ・フェレやジベール・ベコーです。私は遅くなってからこの素晴らしい歌の財産を発見しました。」[13]
2000年代 / スペクタクル 〜 コンサート
2001年6月に重要なブレーンで最愛の兄エディ・ヴァルタンを見送った後メディアから遠ざかるが、2004年春に新譜「SYLVIE」を発表[14]。主にイタリアのミュージシャン達(ショーにも出演)による作品を携えて全盛期のパレ・デ・コングレにて9月28日から10月10日まで2週間のスペクタクルを開催。若いダンサーを引き連れて歌い踊り本来のエレガンス・ダイナミズムを取り戻す。ほぼ同時期、パリ市モード博物館(ガリエラ美術館)にて4か月間の衣裳展「Sylvie Vartan, revue de mode(シルヴィ・ヴァルタンとモード展)」が開催される。合わせてELLE誌10月25日号の表紙に登場。また4月発売された自叙伝『Entre l'ombre et la lumière』(影と光の間で)がエッセー部門1位にランクされベストセラーとなる。
2007年春、1960年代の欧米のスタンダード曲を収録した新譜「Nouvelle Vague(ヌーヴェルヴァーグ)」を制作。「Il est 5 heures, Paris s'éveille(午前5時、パリは目覚める)」からボブ・ディランの「風に吹かれて」(フランス語ヴァージョン)、ビートルズの「Drive my car」そして「スヴニール・スヴニール(Souvenir, souvenir)」、「Stand by me」(イタリア語 / 日本盤ボーナス)まで、シルヴィがパリに移住した日の少女時代を象徴するような歌からアメリカン・ロックに夢中のリセ時代・思春期に聞いた歌などが収録されている。シルヴィは2004年刊行の自伝本で「私は悲しみや幸せで死んでしまわないために歌う」と書いている通り、当時シルヴィは数年来母の病状が重くて寝たきりの状態で大変に苦しい時期にいた。オリジナル作品だと製作に時間を要するため他アーティストの曲を歌って一呼吸し生気を取り戻したシルヴィ本人の「救いのアルバム」。しかし7月初旬の発売日直前、6月下旬に最愛の母が逝く。本作を携え開催した翌2008年3月のパレ・デ・コングレ公演は、トニー・スコッティが初めて舞台演出をし、従来のダンサー達の出演はない。この年はアーティスティックな面で急転換の年となる。≪観客により近く歌詞がより伝わるようなステージ≫を好むようになる。
2011年レコード・デビュー50周年を迎える。インタビューされる毎に、従来、自分のキャリアを祝うことに無関心であると話す。2009年9月オランピア劇場公演以来アコースティック・リサイタル・ツアーを行い、2010年11月の凱旋により9月30日から10月2日まで再びパリ・シャトレ座公演を行う。「コンサート・ツアー2011」は2月10日スペイン・バルセロナのカタルーニャ音楽堂公演から始まり、7月にモントリオールとニューヨーク(ロウズ・リージェンシー・ホテル・ファインスタインズ(ボール・ルーム))で、11月はイタリアで公演。本コンサート前、3月は一カ月間パリ8区のマリニー劇場 (Théâtre Marigny) で演劇出演をする。アメリカでロングラン上演された話題の作品で1月から6月まで上演される「L'amour, La mort, Les fringues (Love, Loss and What I Wore)」- 脚色・演出ダニエール・トンプソン、オリジナル脚本ノラ・エフロンとデリア・エフロン、原作アイリーン・ベッカーマン、翻訳本『あのときわたしが着ていた服』。女性5人が舞台に登場する朗読劇で5人の俳優は毎月交代で演じ総勢30人が出演。
11月にステージ・キャリア50周年を迎えて、11月23日にファン待望の50周年記念コンサートをパリのクラシック音楽の殿堂、サル・プレイエル(Salle Pleyel)でソフィア・フィルハーモニー管弦楽団(Sofia Philharmonic Orchestra/指揮Deyan Pavlovパブロフ・デヤン)を伴って開催。2時間半を超える本特別公演にはフランスとブルガリア両国の文化大臣も姿を見せ2000人の観客を前に30数曲を歌った。プログラムは1964年の大ヒット曲「アイドルを探せ」(フランス語原題:La plus belle pour aller danser/踊りに行く一番の美人)でスタートし、ブルガリア音楽2曲「Oblatche le bialo」「Moya Goro」の他「Je croyais」(1976)を含むスタンダード・ヒット曲、また本コンサートのために制作された新曲2曲など、第二部は白いタキシード姿で登場し「La Maritza」(想い出のマリヅァ)や1972年以来コンサートの定番である「Mon père」(モン・ペール/私の父)そしてデビュー直後の十代のヒット曲メドレー、フィナーレではジャック・ブレルの「Quand on n'a que l'amour」(愛しかない時)を歌いあげ、最後に「Ma vie c'est moi l'ai choisie」(フランス語・ヴァージョン「My way」)を朗読した。公演後、ブルガリア文化大臣は同国勲章Saint Cyrille et Methode et Le Siecle d'orを授与、又レコード会社SonyRCAはこれまでレコード4千万枚を売上げた実績に対して特別トロフィーを贈った。翌日付Le Mondeル・モンド紙は「Toujours la plus belle pour aller chanter」(いつも、歌う一番の美人)の見出しで記事を掲載し「オーケストラは"シンフォニズム"はせず、当世風や流行に傾倒しない一つの行儀のいいバラエティーのアレンジに徹した。」「約40曲程を歌ったステージは記念公演という罠に掛からなかった。プレイエルで、シルヴィ・ヴァルタンはシンプルで心のこもった舞台魂だったといえる。」と結んだ。12月14日、フランス文化大臣から同国芸術文化勲章-等級コマンドゥーが授与され、その模様は高視聴率を誇る民放TF1のTVニュース13時が放映。「大臣は4千万枚のレコード売上を達成したスター・アーティストが持つ≪そのユーモアとプロフェッショナリズム≫を語りまたサル・プレイエル公演での≪その気品、ポエジーや陽気≫に言及した。」「この≪本物のアメリカ的ロックンローラー≫は≪B.バルドーやC.ドヌーヴよりも多く≫メディアに写真撮影されたとのこと。」[18] 12月にサル・プレイエル公演ライヴCD2枚組そして2012年2月にDVDが発売される。
2011年はまた、1990年に今は亡き実兄エディ・ヴァルタンと共に設立した故国ブルガリアへの人道支援活動をする非政府団体 Association Sylvie Vartan pour la Bulgarieが20周年を迎える。特に新生児医療に尽くして来て多くの要請があると言う
2012年6月「The Ultimate Collection (Coffret des années RCA rééditions)」(RCA時代1961-1986のオリジナル41作品のリマスター・レプリカ復刻盤CD全集)が発売開始される。これはスタジオ録音盤、ライヴ録音盤(日本公演ツアー盤[19]を含む)、TVコメディ・ミュージカル・ショー主演番組など初CD化を含めた正に全集。ミニチュア・ペーパースリーヴ(紙ジャケ仕様)でCD本体のデザインは黒のドーナツ盤。2013年末まで約1年に亘り限定生産されるコレクション・ボックス。日本ではフランス発売後に単品で発売される。
10月14日に新譜「SYLVIE IN NASHVILLE」 をリリース。5月にカントリーロックをテーマに≪音楽の街≫ナッシュヴィルに戻りStarstruck Studiosにて録音した意欲作。マイケル・ロイド(Michael Lloyd)指揮の下、起用した現地名ミュージシャン達はニール・ダイアモンド(Neil Diamond)、スティング(Sting)、テイラー・スウィフト(Taylor Swift)などと仕事をした中堅。オリジナル新作とカバー (「I Like It I Love It」、「Cheveux au vent」 (Against the Wind)、「Mr. John B」(「Sloop John B」)、「Etrangere」他)から成る英語1曲含む全13曲。コレクター限定版には別に2曲収録。バイオグラフィー的な歌詞を持つナンバーも多い。新譜発売を控え、10月6日フランス国営放送F2のニュース番組に独占ゲストで出演、キャリア50周年を経てなお新譜制作・コンサート・映画出演とそれは全て進展するばかりだとのコメントで迎えられた。≪フランス語は響きが美しい文学的な言語、ただ私が好むリズム、アップ・テンポの音楽に合わせるのは・・・≫とその難しさにも触れた。10月14日、新譜リリース同夜に新譜独占披露コンサート、ショーケースをテアトル・ドゥ・パリThéâtre de Parisで開催。「ここ数年方向を模索しているように見えただけに歓迎すべき中軸の置き直しを行った。失っていた活力を取り戻している。シルヴィ・ヴァルタンが歌うカントリーは快い熱狂だ。彼女の人気によってフランスの大衆が持つカントリー音楽への頑固な誤解(カウボーイとバンジョーといった固定観念)が消えることを願う。」同日付Le FIGARO紙[21]。別インタビュー[22]で ≪約10年ほど(2004年以降)歌詞を優先したむしろリサイタル的コンサートを行って来たその末に今はリズムを当初のようなロックを求めた≫ ≪たとえ新譜制作をしなくても公演をやれる、私はそのアイディアで溢れているから。例えば1970年オランピア劇場公演がそうだったように。≫ またLe Monde紙は[23]「愛するものに忠実である、アメリカはエルドラド理想郷のままあるアルバムを出した。42枚目のスタジオ録音盤だ。エレクトリック・ギター、2拍子テンポ、十代の表情、カントリーのバイオリンを添えるといった60年代のリラックスしたロックの秘法に基づいて堂々と主張している。時は過ぎる幻想は長く続く。これらフランスとアメリカの出会いは教えるものがある、魂(精神)はアメリカ人で心(感情)はフランス人である。」「シルヴィは間違いなく本物の若き女性だ、2014年2月のフォリー・ベルジェール公演を約束する。」
2014年2月中旬に「SYLVIE IN NASHVILLE」を持ってパリ・フォリー・ベルジェール(Folies Bergere)にて新しい躍動感溢れるコンサート(公演名 "Sylvie à la folie")を開催。"folie"は英語の"crazy"の類義語。幕間なしで(新譜とコレクター限定盤収録曲全15曲中)新曲14曲を含めて25曲以上を歌った。"Nos retrouvailles" (私たちの再会)で幕開け、アンコールも新譜から陽気なアメリカ娘といえる "Sandy" でソワレは頂点に達し会場は狂喜と熱狂の渦と化した。凝った舞台演出はなく音楽100%の新しいステージ。本番前2月8日のアヴァン・プルミエ(試演)について12日付Le Figaro紙は従来公演の定番であった往年のヒット曲を一つも歌わなかったことに触れて ≪彼女はあえてリスクを冒した≫ と会場にいたシルヴィの友人の一人である映画プロデューサーの称賛の言葉を載せ、又 「ナッシュヴィルはシルヴィ・ヴァルタンに感謝すべき」と書いた。
日本公演を4月16日から19日に東京と大阪[24]で開催し、公演初日に新譜「シルヴィ・イン・ナッシュビル」[25]が日本発売される。日本公演の後、ソフィア公演[26]へ直行。1990年、2009年に続いて3回目の国立文化センターでの公演となる。広告も壮大で巨大な広告塔が街頭を飾り又ビルの外壁一面を覆う広告まで設置された。国を挙げての歓迎ぶりで大統領や文化大臣も来場。今回の訪問では、「Sylvie Vartan pour la Bulgarie/シルヴィ・ヴァルタン・ブルガリア人道支援団体」の現地病院への貢献活動(5万ユーロ相当の新生児医療機器を贈呈)[27] に対しシルヴィ・ヴァルタンにソフィア名誉市民の称号が授与[28]される。またブルガリア国営ラジオにて記者会見そして現地刊行されたばかりの2012年フランス刊行の自叙伝[29]の翻訳版のサイン会など公演前後のイベントもあり過密日程をこなす。 6月から7月は新譜メインのパリ公演プログラムで昨年に続いてフランス国内サマー・ツアーに出る。猛暑の野外公演に5千人から1万人が集った。8月15日に70歳を迎えた。同日付Le Figaro紙[30]は: 「年月の流れを感じさせない人たちがいるものだ、シルヴィ・ヴァルタンはそれに属する」。
2015年は2月から2013年に続いてナッシュヴィルでアルバム制作に入る。[31][32] 4月にパリ・オランピア劇場公演。2013年発表のナッシュヴィル録音アルバムを中心に、自身の往年の名曲やファン達が熱望してきた1977年アルバム収録曲(初披露)やナッシュヴィルで制作中の新譜収録予定の真新しいロック・ナンバーまで、安定したパワフルな歌声とリズムで音楽のジャンルを超えたアーティストであることを改めて強く印象に残した公演。翌日の仏紙 LE FIGARO が報じた通り "幕間なし" で約30曲をエネルギッシュに演じた。国営TV局F2もその公演模様をリポートした。9月から4か月間パリの劇場[33]にて演劇[34]初主演。コメディ作品で定評のあるイザベル・メルゴー(映画監督・脚本家・女優)との共演でチケット・セールスの上位を占める。11月にステージ・キャリア半世紀を超えるシルヴィ・ヴァルタンを彼女のモードで辿る写真集 「Le Style Vartan」刊行、また 新作アルバム 「Une Vie en Musique」 発表。本作は7月に録音したレパートリーの再録で、シルヴィに由縁のある街、ソフィア、パリ、ロサンゼルスに因んだ全16曲を収録。同時期、1961年から1986年RCA時代シングル盤レプリカ復刻CD全集(コレクション・ボックス)が発売される。多方面で大活躍の年となる。
2024年1月末、シルヴィ・ヴァルタンが最終コンサート「JE TIRE MA REVERENCE」 を発表。2024年11月に DOME DE PARIS - PALAIS DES SPORTS : 11月8から10日。1981年と1991年以来のパリ・ドーム(パレ・デ・スポール)。その2カ月後に追加公演を公表: 2025年1月24日から26日。会場は1970年代、80年代、2000年代も馴染み深い PALAIS DES CONGRES (パレ・デ・コングレ)。2024年1月25日付フランスのパリジャン紙のインタヴュー記事によると、63年間のステージ活動に幕を引くがレコード制作は継続する。
1971年5月に6年ぶり2度目の来日、約一カ月のツアーではジャニス・ジョプリン の「ミー・アンド・ボビー・マギー(Me and Bobby McGee)」、ビートルズ「ゲット・バック(Get Back)」を披露。また滞在中に日本語でレコード録音、オリジナル曲「恋人時代」「女の時間」など見事な発音で歌い、レコード・ジャケットには「親日家」と評されている。「想い出のマリッツァ」「私のすべて」の日本語ヴァージョンも録音。73年にはクラシック・シャンソン、ジャック・ブレルの「行かないで(Ne me quitte pas)」を熱唱。
2011年4月30日、パリ8区のクラシックコンサート・ホールのサル・ガヴォ (Salle Gaveau) で開催された東日本大地震被災者支援チャリティー・コンサート「Tous en scène pour Japon」に出演。日本人演奏家も多く出演する中、65年日本でも大ヒットした「La plus belle pour aller danser(アイドルを探せ)」、「La Maritza(想い出のマリッヅア)」そして最新アルバム「Soleil Bleu(ブルーの太陽)」から「Sous ordonnance des étoiles(星の処方箋)」の全3曲を歌った。
2013年2月7日から11日にビルボード・ライヴ東京・大阪公演。65年のTVCM曲「ワンサカ娘」、最新盤から「Sous ordonnance des étoiles」(デュエット曲)や「Mon enfance」などクラシック・シャンソン4曲を含めて全15曲。アンコールはブレルの「Quand on a que l'amour(愛しかない時)」。「そこにシルヴィの強烈な個性が塗り込められ、ステージには、現在進行形の世界レベルの「歌」が立ち上がった。「流行」を消費せず、「文化」にまで高めるお国柄に脱帽。」「デュエット曲では、アルチュール H(アッシュ)の録音と共演。芸歴50年以上にして進化を続ける姿をみせつける。」[37]
2014年4月16日から19日に日本発売されたばかりの新譜「シルヴィ・イン・ナッシュビル」を持ってビルボード・ライヴ東京・大阪公演。ロックな新作から8曲と「Let it be me (Je t'appartiens)」(ジルベール・ベコー)含む全15曲にフィナーレはヒット曲4曲のメドレー。滞在中のラジオ・インタビュー[38]で、これほど長い間現役で活動することが出来るそのモチベーションを保つ秘訣を聞かれて、「変化すること」「常に新しいことにチャレンジすること」 とシルヴィ。
1991年1月11日 テレビ東京「音楽マイ・ラブ 〜 世界のトーク&ミュージック」(Music My Love) はパリ16区にあるシルヴィの自宅でのインタビューを放映。「あなたのとりこ」が流れシャンゼリゼ大通りそしてシルヴィの白い邸宅と映像で始まる。「Double Exposure (Made in USA)」から「If you walk away」と1989年アルバム「Confidanses(バルタン気質)」から「ロンドンに雨が降る」のビデオ・クリップが流れる。このインタビューは前年1990年9月末に収録されたらしく、番組の中でシルヴィは「来週ブルガリア・ソフィアで初公演をします」と興奮気味に話している(ちなみにソフィア公演は10月6日開催)。また時代を超えて第一線でいるのは日々の努力かと聞かれ「この職業はサイクルが早いから努力していたら大変です。努力ではなくて、情熱です。」「アーティストは好きだからやっているのです」また、「アメリカのアーティストのプロ精神は尊敬しています」「各国のセンスィビリティを少しずつ吸収しているのかもしれません。そういう風にしてより完璧なアーティストになれるのだと思います。」
2008年3月6日 BS-iの音楽番組「Song To Soul」ー「永遠の一曲」で名曲「アイドルを探せ」(1963年19歳のアメリカ録音アルバム『Sylvie à Nashville(夢のアイドル)』収録曲)にまつわるエピソードを関係者などが語る。2008年3月末の来日公演を前に、2月パレ・デ・コングレ公演の真っただ中にシルヴィ・ヴァルタンを取材。公演でこの一曲を歌う場面も放映した。
収録曲:「わけは聞かないで Ne me demande pas pourquoi」、「ディリンダム Dillindam」、「ロックンロール・メドレー Medley Rock n'roll」、「あなたの名前 Je t'appelle」「モン・ペール Mon pere」「シャフトSHAFT」(バレー)、「狼Loup」、「Non c'est rien」、「行かないで Ne me quitte pas」「ソング・フォー・ユー Chanson pour vous」「出発Partir」
7歳年上の実兄。音楽や美術に長ける父親譲りで、幼少にピアノを習い始め子供時代に既に学校でその音楽の才能を認められる。ソフィア・コンセルヴァトワール(音楽院)で学び、15歳でパリ移住後は楽器ホルンを入手、パリ国立高等音楽・舞踊学校で音楽の勉強を続けると同時にジャズ演奏に傾倒しトランペットに移行する。法学部に進むがジャズ好きが嵩じジャズ・トランペッターとなりバンドを持ち当初パリ・ブルーノートなどで演奏をした音楽家。有名ラジオ番組担当ダニエル・フィリパッキ (Daniel Filipacchi、後のアシェット・フィリパキ・メディア社長) などジャズ専門家達と親交があり、RCA音楽プロデューサーそして作曲家となる。シルヴィを歌の世界へ導き、また生涯重要なブレーンであった。1960年代は自身の楽団、エディ・ヴァルタン・オーケストラ (Eddie Vartan Orchestre) を率いてシルヴィのスタジオ録音や国内外公演を指揮し作曲家としても多くの曲を書いた。映画音楽も製作。1990年にブルガリアでの少年時代を書いた自伝小説「Il a neigé sur le mont Vitocha(ヴィトシャ山に雪降る)」[44]Editions Fixot刊。2001年6月19日パリにて64歳で逝去。 シルヴィへの主要作品:「Les vacances se suivent」1962年、「Je voudrais être garçon」1965年、「Sur un fil」1967年、「La nuit」1970年 / オランピア劇場、「California」1971年、「Toi mon aventure」1974年、「Dancing star」1977年、「Jour après Jour」1975年、「Orient-express」1981年、「Aimer」1982年、「Lucie」1983年、「P'tit bateau」1997年、「Les robes」1998年
ジョニー・アリディとの一人息子でアメリカ育ち。1966年8月14日ブローニュ=ビヤンクール生まれ。幼少からドラムに夢中でドラマーを夢見ていたが、1985年にシンガー・ソングライターとしてデビュー。フィルム・プロデューサーでもある。デビューした1985年4月に来日し日本発売シングル「Tonight you're mine」を披露。童顔だが骨太のハスキー・ボイスのロッカー。ドラムに魅せられたのはかつてシルヴィ・ヴァルタンのブレーンでドラマーだったトミー・ブラウン (Tommy Brown) の影響だと話す。1987年ファースト・アルバム「True Cool」でDisque d'Or受賞、1989年シングル「High」がフランスで大ヒットし第1位を獲得。90年代に「ブラインド・フィッシュ」というグループも結成し数年間アメリカ巡演をする。1999年には彼の祖父(シルヴィの父)へのオマージュ、「Tu ne m'as pas laissé le temps」が約100万枚の大ヒットとなった。他アーティストにも曲を提供していて、同年、全曲を手掛けた父親ジョニー・アリディのアルバムはジョニーの一番売れた作品。自身のアルバムもDisque d'Orを多く受賞している。1989年に22歳で結婚し2人の娘(長女:1995年誕生イローナ/Ilona、次女:1997年エマ/Emma)を持つが、2004年に再婚し同年一人息子Cameronが生まれて私生活は3人の父親。若い頃から子供を愛するシルヴィは子供や孫達と一緒に大家族でヴァカンスを過ごす。ダヴィドは自分の子供時代の母シルヴィについて聞かれて: 「小さい頃、母は必要以上に自分をマスコミからかばった。冷静で平等で凄く公正な考え方をする人で弁護士にぴったりだ。母は厳しかったが優しかった。でも自分にだけではなく周りの誰に対しても本当に優しかった。」(2004年フランス雑誌) シルヴィにはパーソナルな歌も多い。ダヴィドへ捧げる歌:Ballade pour un sourire / 微笑みのバラード(1966録音) -「シルヴィ・バルタン恋を歌う / Il y a deux filles en moi」収録、「Le roi David(ダヴィデ王)」1969年録音、1971年日本盤「恋人時代」収録。
1967年から7年間シルヴィの音楽制作主要ブレーンの一人ジャン・ルナール。2011年シルヴィのステージ・キャリア50周年記念パリ公演に姿を見せた。1967年知人から人気歌手に曲を提供することを薦められ当初ジョニー・アリディへの曲を持ってジョニーも来るはずだった新譜録音中のシルヴィがいるスタジオを夜訪れる。シルヴはジョニーは来られないため替って自分が聴いて彼に話しても良いと言う。ルナールはピアノに向かったが自分で歌い出す、終わって見るとシルヴィは白い顔をして泣いていた。再演を促されるが途中シルヴィは「この曲は私の方に向いている!」と言い出して遮る。その翌日にシルヴィの音楽ディレクターの仕事を提示される。[45]
主作品: Par amour, par pitié(愛と同情と), Deux mains(二つの手), 2'35 de bonheur(2分35秒のしあわせ), Irrésistiblement(あなたのとりこ), La Maritza(想い出のマリザァ), Aime-moi(愛の経験), Les hommes qui n'ont plus rien à perdre(悲しみの兵士), J'ai un problème(危険な関係/J.アリディとのデュオ), L'amour au diapason(恋人を探せ)
1970年2月20日(25歳)の2度目の事故は、当時の夫でロック歌手のジョニー・アリディが凍った夜道を運転中、横道にそれて大破、助手席にシルヴィと後方にミッキー・ジョーンズなどミュージシャンが同乗していた。シルヴィはフロント・ガラスで顔面を負傷。まもなくニューヨークの傷跡治療の名医から皮膚の形成外科手術を受けた。自身のスペイン・ツアー出発前の時間を割いて国内巡演中のジョニーに会いに行った際の不運。『Jours de France』1970年3月19日号の表紙は事故前のポートレート写真である。ストレートの長く豊かな髪、前に流した短い前髪、ダーク・ブラウンか黒のニット、首元にシルクのスカーフを巻きBCBGの若い女性の記念写真風だ。傷痕は完璧には消えなかった。
人道活動 - ブルガリア人道支援団体(Association Sylvie Vartan pour la Bulgarie/1990-)
ブルガリアは8歳で離れた故国。1990年10月、東欧の共産体制が崩壊した翌年に亡命後初めて訪れて、幼少時代を過ごしたソフィアでコンサートを開催。この模様は、フランス公共放送局Antenne 2が同行し収録、人気報道番組「Envoyé Spécial」で放映。本コンサートはまた同年クリスマス夜に放映された。1991年に公演ライヴCD「Live Enregistrement Public à SOFIA」も発売された。シルヴィ・ヴァルタンは、約40年ぶりの帰国で見た故国の貧しさに心を動かされて、同年1990年12月24日、実兄エディ・ヴァルタンと共にブルガリア赤十字社の元に人道支援非営利団体 「Association Sylvie Vartan pour la Bulgarie」(シルヴィ・ヴァルタン・プール・ブルガリィ)を設立。主目的は子供達の救済。
若い頃から大変な子供好きで有名なシルヴィは、恵まれない子供達や老人救済を中心に、孤児院や産院含む病院に新生児医療機器・器具などの物資・設備を提供する。ロジスティクスはブルガリア赤十字社が担当。規模が小さい団体で≪小数が篤志で活動して無駄なく最大限に寄金を支援先に向けている。私は子供達に確実に資金が届くことに強い拘りを持っています。≫。[49] 個人的にも多大に尽力して地道な活動を続ける。クリスマスには子供達に贈物を届ける。事務局長は≪シルヴィは孤児院を訪れる度にその子供達皆を自分の養子にしたいと思っている≫と微笑む。又2010年からパリ・トロカデロ広場(Jardin du Trocadero)のクリスマス市に参加してシャレーでアソシエーションが毎年アーティストに依頼し制作する特製カードなどを販売。小さいながら近年その支援は文化的分野にも及び歴史的な修道院の改修へも参加している。
毎年パリのブルガリア大使館にて定例会を開催し自ら出席する。ブルガリア現地を定期的に訪れて現状を確認するなど、ブルガリアでは社会的活動でも知られている。特に新生児医療に力を入れて活動し多くの要請に応じている。≪donne et il te sera donné.(ルカによる福音書)、私にとりこの与えるという考え方は不可欠なのです。≫[49]
Sympathie(※日本盤タイトル=哀しみのシンフォニー) La Moitie Du Chemin (※日本盤は「哀しみのシンフォニー」に差替)/スーザン/愛に生きるわたし/メディシン・マン/伐り倒された木のように/一握りのお金/君の友だち/カリフォルニア/アナベル/あなたのことを教えて/ディリンダム/いつか会う日まで
アメリカン・ナイトI don't want the night to end プロデューサー=デニー・ディアンテ(全曲英語) アメリカン・ナイト/プリーズ・ステイ/イージーラブ/はるかな渚/愛のやすらぎ/ピュアー・ラブ/くよくよしないで/キープ・オン・ロッキン/踊ろう、恋のリズム/ホット・タイム・トゥナイト
ダブル・エクスポジャーMade in USA プロデューサー=リッチー・ワイズ (全曲英語) DOUBLE EXPOSURE/ ONE SHOT LOVER/ IF YOU WALK WAY/ LET ME SHOW YOU HOW/ I SAW MARY/ OUT OF CONTROL/ WRAP YOUR ARMS AROUND ME/ RUNNING SCARED/ HEARD IT IN A HEARTBEAT/ HOOTING STAR
◎CD化有
1986 (欧CD)
RCA PD71175
ターンVirage PRODUCED BY EDDIE VARTAN FOR RCA. RIEN A FAIRE/ J'EN AI TELLEMENT REVE/ VERSION ORIGINALE/ LE VIRAGE (M.MALLORY/ DAVID HALLYDAY) / JE TOMBE AMOUREUSE/ TU N'AS RIEN COMPRIS/ AVANT (FR. BASSET/ EDDIE VARTAN) / TOUT A ETE DIT (S. LEVY/ EDDIE VARTAN) / EN 42/ JAMAIS DE TA VIE
Vent d'Ouest Qui tu es/Barrio Chino/Dernier acte/Les aventures a l'eau/Plus et encore/Dirty dancing/Cerfs volants/Sur tes levres/Earth and air/Je m'entraine/Je veux qu'il m'aime
Soleil Bleu J'AI FAIT LA MOUE/PAS SI FACILE A OUBLIER/SOUS ORDONNANCE DES ETOILES (DUO WITH ARTHUR H)/LA PRISONNIERE/LA FEMME COUPEE EN DEUX/ JE ME DETACHERAI/SOLEIL BLEU (DUO WITH JULIEN DORE)/SOIT DIT EN PASSANT/PERSONNE/TOUS CES GARCONS/LE MONDE EST MOINS DUR QUE TOI/LA VANITE
シルヴィ・イン・ナッシュビル SYLVIE IN NASHVILLE (2013年5月アメリカ・ナッシュビル録音) 髪をなびかせて (アゲインスト・ザ・ウィンド)/アイ・ライク・イット,アイ・ラヴ・イット/よそ者 (ウェイファリング・ストレンジャー)/空 (ストレンジ)/ブルー・バイユー/氷の下の炎 (エヴリタイム・アイ・ロール・ザ・ダイス)/遠いところで (ホワイ・ノット・ミー)/サンディ/レッドとゴールド (ブルー・ムーン・アンド・ファイアーワークス)/時代(エイント・ノーバディ)/ミスター・ジョン B./結構よ/カム・ア・リトル・クローサー 日本盤ボーナス・トラック: めぐりあい (バッド・ムーン・ライジング)/再会 (テル・ミー・ホワイ)/ミスター・ジョン B. (SSW ローラン・ヴルズィとのデュオ
日本配給: 2014.04.16 キングレコード 2014年4月来日記念盤
2015.11.27 (欧CD)
RCA(SONY)
Une Vie En Musique (Retake - Recorded in Sofia, Paris, Los Angeles) (Sofia録音) La Maritza/Nicolas/Mon pere/L'Orient Express/Mon enfance (Paris録音)Le petit cheval/Qu'est-ce qui fait pleurer les blondes ?/La plus belle pour aller danser/La drole de fin (Last Tango)/En ecoutant la pluie (Rhythm of the rain)/Comme un garcon (Los Angeles録音)Je n'aime encore que toi/Bye Bye Leroy Brown (Bad bad Leroy Brown)/L'amour c'est comme une cigarette(Morning train/Si je chante (My whole world is falling down)/I can't make him look at me
2018.11.30 (欧CD)
COLUMBIA(SONY)
Avec toi... (SYLVIE) (Cover album - Hommage to Johnny Hallyday/1943-2017 - Recorded in Summer 2018, California ) La Musique que j'aime /Gabrielle/Retiens la nuit/Vivre pour la meilleur (*)/Quelque chose de Tennessee/Oh! Ma jolie Sarah/Quand revient la nuit/Le penitencier/Je te promets/J'ai pleure sur ma quitare/Mirador (*)/ Que je t'aime/Sang pour sang (*)/Le Message (Messages of Sylvie Vartan)/In my life (of The Beatles/1965) (* Music written by David Hallyday, singer songwriter)
2021.10.1 (欧CD/digital)
COLUMBIA(SONY)
Merci pour le regard (50th original studio album / Recorded in 2021, Paris) LE BLEU DE LA MER NOIRE/TOUT BAS, TOUT BAS/LES VENTS CONTRAIRES (1st single)/ON S'AIME ENCORE, MAIS AUTREMENT/AVEC TOUS CES NE ME QUITTE PAS/MERCI POUR LE REGARD/J'EMPORTERAI/A DEUX PAS DE VOUS/UNE FILLE ATTEND/CE JOUR LA/UNE DERNIERE DANSE/DU COTE DU MA PEINE/MA TENDRE ENFANCE/TOUT RESTE A DIRE
2022.5.27 (欧CD/digital)
SCOTTI BROTHERS RECORDS
ODESSA- SYLVIE VARTAN CHANTE POUR UKRAINE (ウクライナ支援のため緊急リリース/アルバムの売上金全額をUNICEFを通してウクライナに寄付) ODESSA / オデッサ (1998年オリジナル作品/2022年4月パリ録音)、NICOLAS / 初恋のニコラ (1979年カバー作品)、LA MARITZA / 想い出のマリヅァ (1968年オリジナル作品/2011年サル・プレイエル公演ライヴ/共演: ソフィア・フィルハーモニー管弦楽団 )、IMAGINE / イマジン(ジョン・レノン1971年作品/シルヴィ・ヴァルタン1990年10月ソフィア初公演ライヴ)、LE BLEU DE LA MER NOIRE(黒海の青(直訳)/ 2021年10月発売オリジナル・アルバム MERCI POUR LE REGARD 収録曲)
※注:フランス盤と日本盤では 収録曲目が異なる場合があります。日本盤は発売時期も遅れています。
ライブ・アルバム
(DVD化されたものを含む)
発表
レーベル 型番
タイトル 収録年月日・会場
備考
1971
RCA
イン・パースン A l'Olympia '70 収録:1970/9/17〜10/8 オランピア (パリ)
2010.9.20: Best of 3CD Sylvie Vartan(3枚組BEST-RCAフランス)
2013.2.6:Sylvie Vartan's Story 1961/62 (初期12作品-RCAフランス)
2013.2.26:Tous mes copins (初期31作品-RCAフランス)
2016.12.20:シルヴィ・バルタン、英語を唄う(SYLVIE VARTAN en anglais...et en americain - 1963-1965ニューヨーク・ナッシュヴィル・ロンドン録音/全25曲/未発表5曲含む)(2016年11月英国レーベル(ACE RECORDS)発売の企画盤/2016年3月シルヴィ・ヴァルタンへの独占インタビュー含む英文解説の対訳付)
CD BOX SET / 全集
1995.10: Les années RCA - Intégrale studio 1961-1986 (RCA時代スタジオ録音盤CD21枚組)
2004: L'Intégral Live RCA - Coffret 7CD 1970-1983(RCA時代ライヴ全集CD7枚組)
2010.11.8: Les années RCA Vol. 1 - 5CD 1963-1966(RCA時代の初期オリジナル作品レプリカ復刻版CD5枚組)
2011.9.26: 4CD Originaux (オリジナルCD 4枚組)
2012.6 - 2013.11: The Ultimate Collection (Coffret des années RCA rééditions - 41CD)
RCA時代1961-1986のスタジオ/ライヴ/TVショー録音アルバム41作品リマスター・レプリカ復刻限定盤CD全集。1971年と73年の日本公演ライヴ盤や日本限定スタジオ録音盤「サバの女王」など17作品初CD化含む。ブックレット(58ページ)、膨大なボーナス・トラック(1971年東京公演ライヴには日本語5曲:「恋人時代」・「女の時間」・「わたしのすべて」(J'ai deux mains, j'ai deux pieds, une bouche et puis un nez)・「想い出のマリヅァ」(La Maritza)・「レナウン・ワンサカ娘](1965年放映日本TVCM挿入歌))付。2012年6月から2013年11月まで約1年半に亘り定期的に部分発売されるコレクション・ボックス・セット。(予約購入/Amazon: 第1回は5枚組/10枚組2種類のボックス・セット、続いて複数枚定期発送/販売。「サバの女王」(予約購入)で完結。
1950年5歳の時、フランス移住前、ブルガリアで父親の友人である映画監督の映画に出演。出演時間は短いものの、この経験は幼心に大変に大きく、シルヴィは俳優を夢見るようになる。しかし前述の通り、偶然の歌手デビューを果たし若者のアイドルとなり、1970年以降大スターとなる。自身の夢が叶ったという最新の主演映画、1994年ジャン=クロード・ブリソー (Jean-Claude Brisseau) 監督「L'Ange Noir(黒衣の天使)」(邦題「甘い媚薬」)は賛否両論の物議を醸した。1995年1月カジノ・ド・パリ公演後の1995年6月、横浜フランス映画祭のフランス代表団長を務めて来日。本作制作中にブリソー監督がフランスのTVや雑誌インタビューで明かしたのは、「シェルブールの雨傘」1964年、「気狂いピエロ」1965年、「城の生活」(La Vie de Château) 1966年の台本は当初シルヴィに届いていたが、歌手として大成功していたシルヴィの周辺のガードが堅く結局本人には届かずじまいだったという。ゴダールが当時シルヴィ・ヴァルタンに興味を示していたことは明らかで、「恋人のいる時間」1964年で彼女のデビュー曲「Quand le film est triste(悲しきスクリーン)」が流れ、「男性・女性」1966年では彼女のポスターが貼られているのが見える。シルヴィ自身は映画への興味は尽きない半面、良い作品に出合わず映画出演は少ない。「映画は好きだが何でも演じはしない」と話す。
主演映画
「PATATE」 1964年フランス公開 (2015年10月DVD発売)
「L'Ange Noir(黒衣の天使)」 1994年フランス公開(邦題「甘い媚薬」)
同年11月、『ELLE』11月7日号、『Cahiers du Cinéma』11月号の表紙を飾る。
書籍(フランスで出版)
1981年10月『Si Je Chante...(私が歌うのは…)』Filipacchi-Edition N°1
2004年『Nos tendres années avec...SYLVIE VARTAN(シルヴィ・ヴァルタンと過ごした若き日)』:Editions des Etannets
ファン自費出版の回想記。世代の異なる15名の熱狂的追っかけファンが公演へ向かう道中での偶然の出会いなどを綴った体験談。歓喜や落胆などファンの感動と笑いの交流の中に女性シルヴィが見える。厚さ1.2cm/B5版。表紙は1968年パリ・オランピア劇場公演で歌うYSLの白いミニ・ドレスのシルヴィ。本作の全売上金はAssociation Sylvie Vartan pour la Bulgarie(後述)へ寄付される。
2007年『Sylvie Vartan dans la lumière(光の中のシルヴィ・ヴァルタン)』XO Editions (25x20x3.5cm)
ステージ活動集大成写真集、1960年代から2007年までのステージ活動の全データを写真と共に綴った重いカラフルな豪華本。2004年自叙伝は誕生当時の時代背景や逸話から生立ち・私的な部分が主軸だが、本作はステージ活動が本領のアーティストの40年を超えるキャリアを辿るもう一方の重要な記録。トップ・ページに「DANS LA LUMIERE, A ma mère」(「光の中で」 - 母へ)と記している。シルヴィは同年6月に母を亡くしている。
2008年『Sylvie Vartan Jour après Jour』:Editions Didier Carpentier
ブルガリア政府より、1996年にMadaraマダラ勲章のシュヴァリエ、2004年にStara Plaminaスタラ・プラニナ勲章、また2011年にはパリにてブルガリア文化大臣から同国勲章Saint Cyrille et Methode et Le Siecle d'orを授与される。 2014年4月22日、ソフィアにて、シルヴィ・ヴァルタンが1990年に設立した「シルヴィ・ヴァルタン・ブルガリア救済基金」が病院へ寄贈したばかりの新生児医療機器(5万ユーロ)他その貢献活動に対しソフィア名誉市民の称号が授与される。
^2013年10月14日フランス発売の新譜SYLVIE IN NASHVILLE、日本盤にはコレクター限定盤に限り収録された2曲「C'est bon de vous voir(バッド・ムーン・ライジング)」、「Nos retrouvailles(私たちの再会)」に 最新録音の「Mr. John B」(シンガーソングライター、ローラン・ヴルズィとのデュオ)が追加され全16曲収録。
^「Ne me regardez pas comme ca」 written by Isabelle Mergault (上演期間: 2015年9月から2016年1月)
^PARIS MATCH no.3778 (9/30-10/6/2021)/INTERVIEW : SYLVIE VARTAN "Dans ce metier, seule la mort met un terme a l'activite. Tant que je le pourrai, tant que je penserai que je peux apporter quelque chose, je monterai sur scene. C'est genial, non ?"