アカデミー授賞式に出席するグレース。1956年
グレース・パトリシア・ケリー (Grace Patricia Kelly、1929年 11月12日 - 1982年 9月14日 )は、モナコ公国 の公妃。元アメリカ合衆国 の女優 。
同時代に活躍した女優マリリン・モンロー の明るさとセクシーさを前面に出した美貌とは対照的な、気品に満ちた容姿が「クール・ビューティー」 (cool beauty) と賛美された。人気絶頂の最中、ヨーロッパの君主と結婚し、女優業から引退した。
生涯
生い立ち
1929年 、ペンシルベニア州 フィラデルフィア のアイルランド 系カトリック の裕福な家に生まれた。父ジョン・ブレンダン・ケリー (John B. Kelly, Sr.) はスラム 育ちの煉瓦 職人であったが、上流階級の競技であるボート競技 で頭角を現し、ボート関係者の嫌がらせにもめげず、オリンピックボート競技 において1920年のアントワープオリンピック で2個の金メダルを獲得し一躍国民的英雄になった。そして1924年のパリオリンピック でも金メダルを1個獲得した。その後、彼は煉瓦製造会社を立ち上げ億万長者になった。母マーガレット(1898年 - 1990年)はドイツ系 で元モデルであり大学講師だった。父方の叔父はピューリッツァー賞 を受賞した劇作家のジョージ・ケリー (英語版 ) 。兄は1956年のメルボルンオリンピック のオリンピックボート競技で銅メダルを獲得したジョン・ブレンダン・ケリー・ジュニア (1927年 - 1985年)。
少女時代はおとなしく、人前に姿を現すのが苦手な赤い頬の子供で、3人姉妹の中でも真ん中のグレースが1番不器用であったという。その一方、ダンスやピアノを学び、やがて演技に興味を示すようになる。
女優時代
ハイスクール卒業後、家族の反対を押し切り女優を志す。ニューヨーク でモデルのアルバイトをしながら演技を学び、1949年 に舞台『父』でブロードウェイ デビューした。グレース自身は舞台女優を目指していたが、その後、舞台の出演中にハリウッドから誘いがかかり、1951年 、22歳で映画に出演しデビュー(『Fourteen Hours 』)。この作品を見た製作者のスタンリー・クレイマー が『真昼の決闘 』でゲイリー・クーパー の相手役に抜擢した。映画監督アルフレッド・ヒッチコック のお気に入り女優で『ダイヤルMを廻せ! 』『裏窓 』『泥棒成金 』などの作品でヒロインをつとめている。彼がグレース・ケリーを評して"Grace Kelly is a snow covered volcano"(雪に覆われた活火山)と述べた逸話はあまりにも有名。
1954年 に『モガンボ 』でアカデミー助演女優賞 にノミネートされ、1955年 には俳優ビング・クロスビー の妻役でシリアスな演技を見せた『喝采 』でアカデミー主演女優賞 を受賞。
非常に恋多き女性として有名で、ゲイリー・クーパー 、クラーク・ゲーブル 、レイ・ミランド 、ビング・クロスビー 、ウィリアム・ホールデン 、オレグ・カッシーニ 、ジャン=ピエール・オーモン などの、主に自分より年長の男性と浮名を流した。父親が彼女に冷淡な癖に、異性との交際には異常なほどうるさかったことも、背景にある。
結婚・公妃として
ホワイトハウス訪問(1961年)
カンヌ国際映画祭 で知り合ったモナコ 大公レーニエ3世 (在位1949年 - 2005年 )と結婚。公妃となるため女優業を引退、1956年のミュージカル映画 『上流社会 』が最後の作品となった。(1966年 の麻薬撲滅キャンペーン映画『悪のシンフォニー 』にはグレース妃として特別出演している)
挙式は、カトリック の伝統に沿い、グレースの出身地であるアメリカ合衆国で行われることも検討されたが、最終的にはモナコで行われることになった。
1956年 1月5日 、婚約を発表。同年4月18日 、モナコ大公宮殿 にて法的な結婚式が行われた(The Civil Wedding)。翌4月19日 、モナコ大聖堂 (サン・ニコラ大聖堂)にて、カトリック式の挙式が行われた(The Cathedral Wedding)。これらの模様は、ヨーロッパ諸国で生中継された。
結婚後は3人の子どもに恵まれ、公妃としても病院を設立したり、自身の名前を冠したバレエ学校を支援するなど精力的に活動した。
1982年 9月13日 、自らハンドルを握りローバー3500 を運転して南仏のロックアジェル の別荘からモナコに戻る途中に脳梗塞 を発症。そのまま急カーブの坂道でガードレール に激突し、道路横の崖を40メートルほど転落して自動車は大破した。事故後すぐに病院へ搬送されたが意識が回復しないまま翌日に死亡(52歳)。この事故死を受けてモンテ・カルロ では全てのカジノ の営業を一日間中止して喪に服した。
同乗していた次女のステファニー 公女(当時17歳)は軽傷であり、9月26日 [ 1] に退院した。現地報道では、一時情報が錯綜し、ステファニー公女が運転していたとも報道された[ 2] 。
9月18日 、モナコ大聖堂にて葬儀 (英語版 ) が行われ、各国の王族・要人の他、フランク・シナトラ らハリウッド 俳優も参列した。
子女
カロリーヌ(左)、ステファニー(中央)、アルベール(右)、夫レーニエと (1966年)
レーニエ3世との間には、一男二女がある。
逸話
モナコ大聖堂内グレース公妃が眠るお墓。
バラ「プランセス・ド・モナコ」(1982年)メイヤン作。彼女に献呈されることになっていたバラ(発表前に他界)。ピンクと白の2色は、モナコの国旗 をイメージしている。
1957年 に長女の妊娠をマスコミに悟られないよう、カメラを向けられた際、エルメス の鞄 「サック・ア・クロワ」で腹を隠した。この事でバッグが有名になり、商品は「ケリーバッグ 」と改名された。
ポール・ギャリコ の小説『トンデモネズミ大活躍 』に献辞 があるが、これは、彼女が初めて作った陶製のネズミ の置物を題材にした作品の執筆をギャリコに依頼しており、それを受けたもの。
日本文化 を愛好し、特に華道 をはじめ植物に関するものが大好きで、モナコに日本庭園 を造営することを希望していた。死後、レーニエ3世の指示によって、別府保男 設計による本格的な日本庭園がつくられた。1994年に開園。庭園内の茶室「雅園」は、フランス語 訳すると"Jardin de Grace"すなわち"グレースの庭"の意となる。
澤田廉三 (元国連大使)・美喜 (三菱財閥 令嬢で後のエリザベス・サンダースホーム 創設者)とは澤田夫妻のニューヨーク 駐在時から家族ぐるみの親交があり、王妃になったのちも美喜の慈善活動を支援した。また澤田家長女恵美子は、親友として日本人ではただひとりモナコでの結婚式に招待を受け、モナコ公子出生時にはモナコ宮殿に手助けで滞在、1982年グレースの来日時には案内役を務めた。
その他
日本では「グレース王妃 」の呼称が用いられることもある。しかし、レーニエ3世はモナコ大公(Prince of Monaco)であり、グレースは王妃(Queen)ではない。
出演映画
脚注
^ 1982年9月28日 朝日新聞「モナコ王女が退院 負傷の王女」
^ 1982年9月16日 朝日新聞「華麗な生涯、悲劇の別れ 女性の夢を独演」
関連項目
外部リンク
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