「黄金島 」はこの項目へ転送 されています。日本の古名 については「ジパング 」をご覧ください。
イル・ドール (仏 : Île d'Or )は、フランス のヴァール県 、サン=ラファエル の東部に属する島 。1910年 から1925年 にかけてミクロネーション として存続し、第二次世界大戦 中にはル・ドラモン の浜辺でドラグーン作戦 が行なわれた。
概要
※以下、「黄金島」と表記する。
黄金島は赤色の火山岩である流紋岩 で形成されている。これはその母体であるエステレル山塊 とともに特異な環境下にある。それは島の周囲の青い石英質の火山岩エステリテ を主体とする浜辺と諧調が刻々と変化する青い地中海である。黄金島は天候や時刻、日光の条件によってさまざまな表情を見せ、多くの芸術家たちの創作意欲を刺激した。たとえばベルギー の漫画家であるエルジェ が1937年 に発表した『タンタンの冒険 』シリーズ第7作「黒い島のひみつ 」は黄金島に触発された可能性がある。
黄金島が歴史上に記されるのは19世紀末のことである。2代目オーナーである医師で旅行作家のオーギュスト・リュトー(Auguste Lutaud[ 画 1] )は黄金島の国王を自称し、かつてバルバリア海賊 の監視用に造られたようなベル・エポック 調の「黄金塔」を建て、バカンス でコート・ダジュール を訪れた著名人たちを招いてパーティーを催した。第一次世界大戦 が勃発するとこれらのお祭り騒ぎに終止符が打たれ、第二次世界大戦 末期にはル・ドラモンの浜辺でドラグーン作戦が実行された。塔は大戦終結から1年後に偶発的な火災に見舞われ、17年後に修復された。現在「黄金塔」は個人所有の住居となっている。
位置
黄金島は地中海に位置し、フランスの行政上ではヴァール県、サン=ラファエルにあるコミューン、ル・ドラモンの一部となっている。コート・ダジュールのこの町には35キロメートルの海岸線がある[ 1] · [ 画 2] 。ル・ドラモンは首都の東に位置し、サン=ラファエルに次ぐ大きさを持ち、都心から約8キロ離れている。海岸は黄金島に近く、北北西に630メートル、ドラグーン上陸点から東に400メートル進むとポワント・ド・レスキン・ド・レ « pointe de l'Esquine de l'Ay » に達し、プーサイ港から北北東に430メートルの距離がある[ 2] 。島の長さは195メートル、幅は113メートル、面積は1,095ヘクタール で、地上高は15メートルである[ 3] 。
海岸と黄金島の位置
地質
海岸と黄金島の地質平面図 *p - 流紋岩 *rMi とrPx - ペルム紀 層 *3aM - トラシ=アンデサイト・ベサルティーク [ 画 3] *3F - ドレライト *E - エステリテ *K - ホルンフェルス *E2-3 - ブロックと小石 *Fx-z - 沖積層 *Z - 人工砕石層 *黄色の線は断層
黄金島を構成する土壌と岩盤はコート・ダジュール とアルプ=マリティーム県 にある地中海沿岸山脈エステレル山塊がその母体となっている。島は流紋岩(地質図のp を参照、以下同)で形成されており、それを抱く海底には青みがかった小石が敷き詰められたように見える(Z )。これらの石は古代から利用されてきた鉱物エステリテ(E )採掘の名残であり[ 4] 、この特異性は地質が物語っている。この地域の岩盤を形成するプロヴァンス・クリスタリネ « Provence cristalline » またはプロヴァンス・バリスカン « Provence varisque » はフランス南東部の山塊マッシフ・デ・モール やタヌロン (フランス語版 ) の土壌の変成作用 によって生まれたミグマタイト や花崗岩 のほか、エステレル山塊を形成しているペルム紀 層の堆積岩 から成っている。したがって、この地域の最も古い地層は古生代 末期、およそ2億5千万年前のものである。それらはバリスカン造山運動 の結果としてタヌロンやモーレス « Maures » 山塊に露頭 し、エステレル火山帯が形成された。この火山活動はリフト 型であり[ 5] 、この地域の東側は堆積盆地 、北側はタヌロン山塊に区分される。火山帯には赤色の流紋岩が含まれており[ 6] 、この地域には約3千万年前の漸新世 にル・ドラモンの土壌が露頭して[ 7] エステリテ岩が侵入 した。青みがかったマグマ由来のカルコ=アルカリ 岩が砂岩 とペルム紀の流紋岩に貫入 している[ 8] 。
地名
黄金島は地名学 の対象とされたことがない。したがって、18世紀以前の羅針儀海図 や海図 にもその名を探すことは困難である。しかし、1453年 のコンスタンティノープル包囲戦 に続くオスマン帝国 のマグリブ 侵略と、跋扈 ( ばっこ ) するバルバリア海賊 が地中海の両岸に永続的な戦争をもたらした[ 9] 結果、この島は同海域の通航者、とくにアラブ人 の良く知るところとなった。ローランス・ブロー=ラガン(Laurence Bureau-Lagane[ 注 1] )は、1910年 に島のオーナーであるオーギュスト・リュトーによって書かれた標語「救いは誠実なり」 « Le salut est dans la sincérité »に着目した。これは蔵書票 [ 画 4] 、絵はがき[ 画 5] 、代用貨幣 [ 12] 、切手[ 13] に以下のアラビア語 で記されている。この النَّجَات فِي الصَّدْق (elnajât_ fî elSadq_) は2語で構成されており、النَّجَات فِي (elnajât fî) は「誠実で騙されない」という意味であり、救い を意味する الصَّدْق (elSadq_) と組み合わされている。これはフランスの航海用語における「アメル 」(直訳では、苦い)に相当する。すなわち航海上においては見間違うことが許されず、自分の船の位置を正確に知らなければならない。ラガンはこの標語がアラビア語の「信頼できる島」に由来する可能性を指摘した。
1778年から1780年の黄金島(カッシーニ・マップ第169番より[ 画 6] )
黄金島に関する最初の記録としては、1732年 から1746年 にかけて記された文献にある[ 14] 「ナガエ湾の計画」« Plan de la baye de Nagaye » が挙げられる[ 注 2] 。ここには「主権者ジャック・アイロール(Jacques Ayrouard)の黄金の島」と書かれており[ 16] 、地図製作者 のジャック=ニコラ・ベリン (フランス語版 ) が1764年 に発行した地図「ナガエ湾近郊の海岸」にもこの島が描かれている[ 17] 。ただし、ベリンは実地検証を行わずに机上のみで地図製作を進めており、信憑性には疑問がある[ 18] 。続いて、1778年 から1780年 にかけて調査されたセザール=フランソワ・カッシーニ (フランス語版 ) 発行の"アンティーブ"と呼ばれるカッシーニ・マップ (フランス語版 ) 第169番に « L'Isle de Do » という名が記された[ 19] 。さらに、1826年 のナポレオンの地籍 にもこの名前が記載されている[ 20] 。なお、« L'Isle de Do » はエスターシュ・エリソン(Eustache Hérisson)が1838年 に発行した「4部門のプロヴァンス道路地図」にも記載されており[ 21] · [ 22] 、地図製作者のベルー(Bellue)が発行したヴァール県の地図にはプロヴァンス語 で « ile de dou » と記載されている[ 注 3] 。一方、1846年 に再びベルーが発行した海図「地中海沿岸の灯台と標識」には « I. d'O » と記されている[ 23] 。そして、1856年 に地質学者 のイポリート・ド・ヴィルヌーヴ=フラヨスク が発行した「ヴァール 、ブーシュ=デュ=ローヌ 、ヴォクリューズ 、バス=ザルプ の地質および水路図」において、今日呼ばれるところの « Ile d'Or » (黄金島)と記載された[ 24] 。なお、« Ile d'Or » と « île de Do » との関連性については証明されていない。
歴史
岩礁
ボルトチューブ の断面と接続図[ 注 4]
これまで数多く行われてきた水中発掘調査 で証明されているように、古代ローマ の航路は地中海沿岸を通っている。2017年 にはル・ドラモンで10隻の難破船が発見されたが[ 注 5] · [ 28] 、それらはおよそ紀元前50年 から[ 29] 紀元前500年 にかけてのものである[ 注 6] 。いくつかの仮説によれば、黄金島の周囲80メートル付近の海域には船を座礁させる岩礁 があるとされる[ 31] 。調査によると船は紀元前425年 から紀元前455年 にかけて難破し、黄金島の西約500メートル、水深42メートルの地点に横たわっていた[ 32] 。これは1965年 10月5日 にジェーン・イサベルデンスとフレデリック・デュマ によって発明 (フランスの考古学用語で発見・報告を意味する)され[ 32] 、盗掘者がはびこる中での調査は1995年 に終了した。
その結果、この船は全長 が約16メートル、DWT が40トンほどの小ぶりの船で、大きな円筒形のアンフォラ (ケアリー "Keay" 35型[ 注 7] )が積まれていた。その中身はおもに魚油 と塩漬け 肉であったが、ケアリー25型や[ 注 7] 細長いスパティア « spatheia » 型[ 注 8] のものも含まれていた。周囲に陶土の原料となる石が豊富にあることから、オリーブの保存用とみられるさまざまな大きさの壺や、透明なセラミーク・シギリー 製のものを含む多数の皿もあり、珍しいものでは建築物の軽量化のために建材に埋入される中空の陶製ボルトチューブ が連結された形、あるいはバラバラの姿で発見されている[ 注 4] 。
これらの積み荷から、この船が高い確率でローマン・アフリカ 、あるいはチュニジア の港から来たことを示している。さらに、発見されたコインに刻まれた年代から船の沈没がヴァンダル王国 時代であることが判明した。この難破は征服者の野望が潰えたことを示す一方、ローマとアフリカの海上交易を特徴づけるものと言える[ 35] 。
私有島
1891年、黄金島から海岸を望む。ジェイムズ・ジャクソン撮影。
1887年 4月に作家のギ・ド・モーパッサン が愛艇 ベラミ号での8日間を綴った旅行記「水の上」« Sur l'eau [ 注 9] » には、黄金島について次のように記されている。
La rade d'Agay forme un joli bassin bien abrité, fermé, d'un côté, par les rochers rouges et droits, que domine le sémaphore, au sommet de la montagne, et que continue, vers la pleine mer, l'île d'Or, nommée ainsi à cause de sa couleur
[ 36] .
アゲ の
ラデ (港湾)は山の頂に真っ赤な岩に囲まれたセマフォ
[ 注 10] を抱く、外洋に向かって伸びる可憐で優雅な盆地を形作っている、黄金島、その色からこのように名づけられた。
それから2日のち、モーパッサンは釣りをするためにベラミ号で黄金島の近くに向かい、こう記した。
Une demi-heure plus tard, nous embarquions tous les trois dans le youyou et nous abandonnions le
Bel-Ami pour aller tendre notre filet au pied du Drammont, près de l'île d'Or
[ 37] .
30分後、わたしたち3人はyouyou
[ 注 11] でベラミを出発して黄金島のちかく、ドラモンの麓に網を仕掛けた。
1897年 10月5日 、州は黄金島を競売にかけ、レオン・セルジャン(Léon Sergent、1861-1931 · [ 画 7] )という人物が280フラン で落札した · [ 40] · [ 注 13] 。レオン・セルジャンはエクス=アン=プロヴァンス の工員を養成するフランス国立高等工芸学校 の奨学金を受けて測量士 になり、1881年 にはサン=ラファエルの国勢調査を担当した。1863年 のサン=ラファエルにはパリとカンヌを結ぶ列車が日に3本通っており、カンヌ やニース ほど有名でも世俗的でもなかったが、地価の低いフレンチ・リヴィエラ はイギリスの貴族を魅了した[ 注 14] 。
セルジャンはイタリア旅行中にこの地で出逢った裕福な行楽客のイギリス人女性キャサリン・メアリー・ベンタール(Catherine Mary Bentall、1859-1952)と1885年 10月27日 に結婚した[ 画 8] 。彼は知人の紹介によりサン=ラファエルの建築家としてイギリスの植民地を訪れ、1894年 初頭には同地の副領事 となった[ 47] 。これは彼が医師のオーギュスト・リュトーと交友を結ぶきっかけとなった[ 画 1] 。それから数年間、彼の家族と友人たちは島でのバカンスを愉しんだ。彼らは島へピクニックに行き、時には星空の下で夜を過ごした。
自称王国
黄金島王国
Royaume de l'île d'Or
(国旗)
(国章)
国の標語: {{{2}}} ≪ Le salut est dans la sincérité ≫(救いは誠実なり)
公用語
フランス語
首都
不明
最高指導者等
元首等
変遷
現在 亡国
建設中の黄金塔(1909年8月10日[ 49] · [ 注 15] )
オーギュスト・リュトーの子孫が保有する公証書によれば、セルジャンがリュトーとその息子に黄金島を300フラン(2019年時点で1,191.73ユーロ)で売却したのは1909年 1月26日 のことである[ 40] · [ 41] 。海軍士官 でヨットマン のイヴ・ラガン がリュトーの子孫から聞いたところによれば、セルジャンはカードゲーム の負債を清算するために島の売却を申し出たとしているが、これはありそうもない噂のようで、急遽ジュラ県 への出立が決まったセルジャンが、リュトーに島の買い取りを持ちかけたとする説の方がより真実に近いようである。
オーギュスト・リュトー(1847-1925)は婦人科学者 として1874年 にパリ で論文を発表し、ロンドン にあるオピタル・フランセーズ という病院に勤め、アメリカ合衆国 を旅行したあと[ 52] パリに定住した。この英語を話す医師はサン=ラザール刑務所 で当初婦人科を担当し[ 53] 、あるイギリス人女性から彼女がバカンスに訪れていたコート・ダジュールの話を聞いた[ 54] 。リュトーは1886年 5月18日 にサン=ラファエルのヴァレスキュールにある女子寄宿学校の世話人の家である「ル・シャレー・レ・ミモザ」« Le chalet Les Mimosas »(ミモザ のコテジ といった意味)を購入した。これはのちに司法物件としてサン=ヴァレスキュール市民団体の競売にかけられ、現在は « Moineaudière »(鳥のスズメ を指す)という名前の別荘になっている[ 注 16] 。
リュトーは1887年 3月17日 に自身の医療施設「オテル・コンチネンタル」« Hôtel Continental »、「オテル・デザングレ」« Hôtel des Anglais » の資金として年金を受給し、同じ条件で前述の寄宿学校を購入[ 56] 、セルジャンを建築家として雇い、学校を「オテル・デザングレ」に改装し[ 57] · · [ 59] · [ 画 10] 、ミモザと隣接する土地に[ 60] 別荘「ヴィラ・デザガヴェス」« Villa des Agaves » を建てた[ 61] 。この1891年 9月17日 に竣工した1階に厩舎のある世話人のパヴィリオン « Ce pavillon de gardien »(英語圏のゲートハウス に相当する)[ 62] · [ 63] は「オテル・デザングレ」とともに1898年 4月1日 に売却されている[ 57] 。リュトーは1908年 から翌年にかけて再びミモザに住んだが[ 64] · [ 65] 、1920年 12月15日 にようやくミモザに買い手が付いた[ 66] 。当初リュトーはル・ドラモンの麓のシャレーを借り、1905年 に取得していた30年間の定期借地権 であらたな家を建てた。リュトーは遥かにプーサイの可憐な盆地と黄金島を見晴るかす家を「シャレー・ド・イル・ドール」« Chalet de l'île d'Or » と呼んだ[ 68] 。 彼の後継者たちは未だにそこでバカンスを過ごしている。
1909年 5月15日 にリュトーは購入したばかりの黄金島に塔の建設を始めた。これは現在バルバリア海賊 の監視塔と見なされている[ 注 17] · [ 画 11] 。この塔の断面は正方形であるが、これは特別な例である。コルシカ島 にはジェノヴァ塔 が多数存在するが、それらはほとんど円塔である[ 70] 。しかし、四角塔はより大きな荷重に耐えられる[ 71] 。当時のマスコミが報じたように、この塔はレオン・セルジャンによって建設されたものであり[ 72] les souvenirs de ses descendants 、彼は完成記念式典にゲストとして招かれている[ 74] 。建設にあたって、ピエール=フランソワ・カバッセ(Pierre-François Cabasse)が仲介役を務め[ 75] · [ 画 11] 、建築デザイナーとしてオーギュスティン・カンバ(Augustin Camba[ 76] )が起用され、最後に熟練した採掘工 [ 78] とそれをカットする石工 [ 79] などのル・ドラモンの労務者が動員された · [ 注 18] 。
アン=マリー・ギローによれば[ 注 19] 、塔の建設を手がけたアウレリオ・ボルギーニ(Aurelio Borgini)はイタリアの石工の子孫でレストラン 経営者[ 注 20] 、アメリア・ボルギーニ(Amelia Borgini)の父親かつ黄金島の将来的な名付け親であり、トスカーナ州 ペーシャ に近いヴェラーノにある聖マルティーノ・シスト教区教会 の技術的に困難な鐘楼 の建設にも[ 画 12] このル・ドラモン出身のイタリア人が影響を及ぼしたという[ 80] · [ 83] · [ 注 21] 。しかし、この最後の仮説には議論の余地がある[ 注 22] 。塔の建設に必要な水、砂、セメント、鋼の梁は船で運ばれたが、石はイタリアから取り寄せた胸壁 の部分を除いて島の石が使用されており、これは塔の赤い色から証明される · [ 注 23] 。塔の高さは18メートル、5つの床面はそれぞれ8平方メートル、壁は薄い部分で1メートルの厚みがある。塔全体にはコンソール があり、塔上に胸壁と出し狭間 を戴いている。黄金塔は16か月の建設作業ののち、1910年9月に完成した。
1910年9月19日、国王リュトーによって戴冠 されたアメリアに拝謁するマリアーニ [ 画 13] · [ 注 24] 。
1910年9月19日に地元と全国のマスコミが報道したリュトーの黄金島国王就任式典[ 86] はベル・エポック 風に行われた。それはル・ドラモンの学校の全校生とともに彼らの最高の名誉・平和・栄光を象徴するオーク 、オリーブ 、赤いゲッケイジュ の枝の絨毯の上で進められ[ 87] 、リュトーは祝辞を受けた[ 注 26] 。この戴冠式の精神的な父王を務めたのはアンジェロ・マリアーニ で、最後にリュトーは黄金の鍵と王冠を授けられた[ 92] 。この鍵は先端がトライデント となっているセプター である[ 注 27] · [ 88] 。つづいてアメリア・ボルギーニが戴冠し、1日女王の座に就いた。彼女はこの象徴的な鍵を受け取り、後世に王国との関係を示す写真が残された[ 80] 。そのため、黄金島は一時「サン=アメリ島」« Sainte-Amélie » とも呼ばれていたようである。就任式典にはヴァール県 首長のルイ・ユデロ 、彫刻家のオスカル・ロティ 、画家のアントワーヌ・リュミエール とその子である写真家のリュミエール兄弟 などが参列し、リュトーはサラセン を意識して宣言した。
Mahomet […] autorisait la polygamie pour les hommes seulement ; moi, je l'autorise pour les hommes et pour les femmes
[ 94] .
マホメット は...男性のみに一夫多妻制を認めました。わたしはそれを男性と女性のために認めます。
その声は王族が斉唱する国歌 でさえぎられ[ 95] · [ 94] · [ 96] 、祝典は幕を閉じた[ 97] 。
黄金島の国章 が入ったアウグストゥス1世の蔵書票
その後、オーギュスト・リュトーはアウグストゥス1世 « Auguste Ier »(アウグストゥスはオーギュストのラテン語読み)を名乗り、標語を制定した。
Le salut est dans la sincérité.
救いは誠実なり
[ 注 28] · 。
そして、紋章学 に基づいた自称国王の紋章 が作成された。エスカッシャン は左上から順に以下の4つの部分 で構成されている。
海の島にある塔 と右から昇る太陽 。
背景の2つに分かれたクーペ の上部はモノクローム、下部は水平の縞 で示され、その上 には左に向かって 星 と三日月 が配されている。
"2"と同じ背景に白蛇がからみついたトライデントが配されている[ 注 29] 。
イセエビ を示す。
サポーター はカーブした 2本のオリーブの枝に向かい合わせに 乗った2頭の想像上の動物 で、シールドの周囲 は王冠で覆われて いるが、これは自発教令 に則ったものである[ 注 30] · [ 注 31] 。この紋章は彼の図書室の蔵書票 [ 画 4] 、はがき[ 画 5] · [ 画 14] · [ 注 32] 、ル・ドラモンに面した黄金島の岩に埋め込まれた大型のプラーク にも記されている。彼はまた黄金島が描かれた切手も発行した。最後に彼は自身の在位中にイスラム世界 をあらわす三日月と五芒星 が描かれた肌色 の旗を塔上に掲げた[ 87] · [ 100] · 。
この式典では2つの忘れがたい出来事があった。何人かのゲストは黄金島に赴いたが、100名のゲストには黄金島をのぞむル・ドラモンの松 の木陰で豪華な食事が振舞われた。料理のメニュー は画家のアルベール・ロビダ によって飾られた[ 画 15] 。この風刺画家 は、リュトーがミニム博士の名義で発表した著書「ヒポクラテスのパルナッソス」の挿絵も描いた[ 102] 。この最初の宴は1911年 9月12日 に催され[ 103] · [ 104] · [ 画 15] 、アンジェロ・マリアーニはゲストにヒジュラ暦 に基づく王国の建国年と紋章が入ったメダルを贈った[ 注 33] · [ 注 34] · [ 注 36] · [ 104] 。
それから2年後、大々的に[ 108] · [ 109] 古代ギリシアのディテュランボス のごとくに地元[ 110] · [ 111] と全国のマスコミ[ 112] が報道した、オーギュスト・リュトーの兄弟であるアルジェリア総督 のシャルル・リュトー (フランス語版 ) に敬意を表して催された1913年 9月25日 の宴会のゲストにはジョゼフ・ガリエニ 夫妻と警察官のグザヴィエ・パオリ (フランス語版 ) が含まれていた[ 画 17] · [ 画 18] 。乾杯 の席でアウグストゥス1世はロンドンの弁護士であるアーネスト・グランドクレメント(Ernest Grandclément)を海軍大臣に任命した。グランドクレメントは自身が所有するヨットのエステロ号 « Estello » から数発の祝砲を撃ち、同じくロンドンのウィリアム・セシル卿(Lord William Cecil)を王国の領事に任命した。その後彼は共和国に戻ることを提案し、サン=ラファエル の家でシャンパン・グラス 片手の祝宴が夜まで続いた[ 111] 。
それから11年が過ぎ黄金島は無人となったが、アウグストゥス1世は退位せずに1925年 8月25日 に世を去った。彼の最期の願いに従って、その骨壺は彼の没年が記されたプラーク の後ろに埋められた[ 114] 。
ドラグーン作戦
1944年8月15日、テキサス師団の援護のためにグリーンビーチに上陸するアメリカ陸軍第36歩兵師団 753戦車隊
第二次世界大戦 中、黄金島は略奪の対象となり、海岸に面した岩に記されたアウグストゥス1世の紋章が占領者による砲撃の標的となった。そのため今日紋章はほとんどその痕跡をとどめていない。1944年 8月15日 に実行されたドラグーン作戦 [ 注 37] はフランスの第2戦線で攻撃範囲の右翼にある上陸地点のコードネームはキャメル(Camel)と名付けられ、アルジャン川 の東岸からアゲ まで15キロメートルに渡っていた。彼らは第36歩兵師団 に属し、テキサス師団とも呼ばれていた[ 注 38] 。彼らの指揮官はジョン・E・ダールキスト 少将である。上陸地点として3つの浜辺が選ばれ、そのうちの1つは黄金島に面したプーサイ(米軍のコードネームはキャメル・グリーンビーチ)の中央であった[ 注 39] 。当初、この浜は初動作戦に適していると見なされたが、援軍部隊の上陸には狭すぎた。第141歩兵部隊第2大隊と第3大隊が共同戦線を敷いた。彼らに対する反撃は軽微で、交戦中に1発の砲弾が窓から塔の中に撃ち込まれたが奇跡的に爆発しなかった。第143歩兵部隊が計画通りに島への上陸を果たしたが、第142連隊は敵の激しい反撃に遭い、海軍の第87機動部隊の指揮官である海軍少将のスペンサー・S・ルイス(Spencer S. Lewis)の命令によりフレジュス への上陸は中止された。それから10時間のうちに2万人の兵士が島に上陸した[ 120] · [ 121] 。
黄金島では記念式典が催され、上陸から1年後の1945年 8月15日 には陸軍将軍ジャン・ド・ラトル・ド・タシニ と戦争大臣アンドレ・ディテルム によってロレーヌの十字架 を形象した戦没者の記念碑が建立された。式典の最後に花火が打ち上げられたが、落下したロケットが塔に火を放ち、階段を除いた建物の内部が破壊された。1960年 8月、塔の所有者は戦争被害 の補償金として7,343.92フラン(2019年時点の貨幣価値で12,117.67ユーロ)を受け取った[ 41] · 。それから20年後の1964年 8月15日にはシャルル・ド・ゴール がエステリテの記念碑であるロレーヌの十字架に代わってこの浜辺をD-デイ ゆかりの地に指定した · [ 注 39] 。
第二の家
D F (D enis F rères)のイニシャルが入ったフランス海軍旗 の図像。黄金島の領有時に掲揚された。
1962年 、オーギュスト・リュトーの次男で最後の息子であるレオン・リュトーはフランソワ・ブロー(François Bureau、1917-1994[ 122] · [ 画 19] )に父親の骨壺を埋めた場所を除いた島のほとんどの部分を売却した。ブローの息子であるオリヴィエは1965年 にある計画を父親にもちかけた。それは塔の修復である。ブローは第二次世界大戦後、当初から自由フランス海軍 に籍を置くフランス海軍将校 だったが、黄金島の大統領になる前は海運会社 のデニス・グループ(Denis Frères)を経営していた[ 124] 。おそらく彼は休暇を過ごしていたロクブリューヌ=シュル=アルジャン (フランス語版 ) 、レ・ズィサンブル での航海中にその場所に魅了されたと推測される。彼は黄金島を購入して間もなく、外壁と階段だけが残っていた塔を1年がかりで修復した。ファサード と胸壁 を統合し、元の開口部を尊重しながら床面を修復し、新しい貯水槽を設置した。最後に土を運び込んで地中海の庭を造成した。さらに電気を得るために発電機を設置し、スパルタ式 で質素ながら、彼はすべてのバカンスを家族とここで過ごすことができた。彼はD-デイ 50周年イベントに参加した翌日の1994年 8月16日 の朝、黄金島の伝統的な水泳ツアー中に76歳で死去した。ピンクの花崗岩で造られたプラーク が、彼の子供たちによって島の外洋に面した岩に設置されており、彼の島への想いを今に伝えている。
現在塔の所有権は建築家オリヴィエ・デトロイヤ(Olivier Detroyat)の支援のもとで2000年 に修復キャンペーンを始めた彼の家族が保持している。彼はまずファサードを封印し胸壁を改修した。屋根から取り入れられた雨水は2つの貯水槽に集められるが、これは飲用ではなくひとつは水の重みによって床面を補強するため、もうひとつは水を塔下に蓄えるために機能している。ガスはいくつかの家電製品に電力を供給し、2012年 以降は胸壁の後ろの屋根の上部にあるソーラーパネル で発電されている。最後に記念物としてジャック・ロビネ(Jacques Robinet)によって製作されたステンドグラスの窓が設置された。リュトー王朝の記念日宴会の伝統は続いており、2013年 の大宴会100周年にはグラフィック・アート・コンテストが開催された[ 130] 。同じ年の7月27日には島の伝統的な水泳ツアーに先行してカヤック によるハイキングレースが行なわれた。昼には参加者全員に素晴らしいアンチョイド (フランス語版 ) が供され、午後には水上槍試合 が開催された。夕方にはパイロテクニクス でにぎやかに演出されたコンペティション の結果発表と賞金授与が行なわれ、食前酒 と大きなパエリア が振舞われた。夜には花火大会が行われて祝典は幕を閉じた[ 131] 。夏の間は黄金島の周囲が潜水 やシーカヤック 練習の人気スポットとなり、簡単な周航や停泊もできる[ 画 20] 。現在はアウグストゥス1世と同じくデニス・グループの旗 の掲揚は廃止されている。
招待客
オーギュスト・リュトーは大規模な社交レセプションを展開しており、王国の発足時[ 画 21] · [ 画 22] と1911年、1913年9月25日の祝宴に招かれた一部のゲストは同様に招待されたマスコミによって報道されている。祝宴に招待された多くのジャーナリストは自身の抑えがたい宣伝欲求を証言しており、リュトーの友人の医師たちや上流社会のメンバーもサン=ラファエルで過ごすバカンスの素晴らしさを語っている[ 94] · [ 111] 。黄金島には現在でも何名かの人物が招待されている。
ベル・エポック
2名の特徴的な人物が描かれた1911年9月12日の祝宴のメニュー(アルベール・ロビダ 画[ 注 40] · [ 画 23] )
1911年 以降[ 104] リュトーは弟のシャルル・リュトー(1855-1921[ 133] · [ 注 41] )の公式訪問に敬意を表して1913年の祝宴を催した。シャルル・リュトーはフランスの上級公務員 であり、ローヌ県 をはじめとした多くの知事を務めている。彼はリヨンの軍事知事 であるジョゼフ・ガリエニ(1849-1916[ 135] )将軍と親交を結び、ガリエニはフレジュスにあるシャルルの別荘「ラ・ガベレ」« La Gabelle » でバカンスを過ごした[ 136] 。リュトーはしばしばシャルルを招待したが、弟が植民地時代に総督を務めたブラックアフリカ 、フランス領インドシナ 、マダガスカル においてムスリム は同化 できないと考えたリュトーにとって、フランスと法律面で平等となる可能性を秘めた北アフリカ の存在は[ 137] 、こうした彼の交友関係を説明する一助となる。
100名のゲストに発送された祝宴の招待状[ 111] はグザヴィエ・パオリ(1833-1923[ 画 17] · [ 138] )によって作成された。国王の腹心であるこのコルシカ人はパスカル・パオリ の子孫で、パオリは自分の母親を通じてオラース・セバスティアニ [ 139] と親交を結んだ。パオリの正式な肩書はパリ - リヨン - 地中海鉄道警察の特別委員であるが[ 140] 、その立場はあいまいで目立たず、リュトーの予備役から解放されたあとに出版された回顧録ではフランスの主権者の弁務官 としての側面が省かれている[ 141] 。実際彼は政治警察 に注力しており、秘密裡にフランスに滞在する外国の要人の護衛を務め、日々内務省に彼らの動静を報告し、可能な限り行動を共にする必要があった。この「王の守護者」かつ「共和国の大シャンベラン [ 142] 」(侍従長といった意味)は黄金島王国にいる。
1913年9月25日開催の祝宴の招待状。差出人の署名はパオリ [ 注 42] 。
祝宴の招待者リストは9月21日までにヴァレスキュールにあるアンジェロ・マリアーニ(1838-1914[ 144] )の別荘「ヴィラ・アンドレア」« La villa Andréa » に届くよう取り計らわれた[ 145] · [ 画 18] 。これは2人の親密さを物語るものであるが[ 146] · [ 147] 、ボルドーワイン にコカイン を添加したマリアーニ・ワイン [ 画 24] を世界中で販売していたこのコルシカの薬剤師は[ 148] リュトーの友人であった。マリアーニの義理の兄弟であるジュリアス・ジャロス(Julius Jaros)がアメリカ旅行中のリュトーをニューヨークで歓待したエピソードはこれを裏付けている[ 149] 。定期刊行物「サンプル・ルヴュー」« Simple Revue » のジャーナリストであるジョルジュ・ルニャールは黄金塔完成の報告記事でこう記している。
par modestie, M.Mariani n'avait pas permis que le vin de coca figurât sur le menu, mais il en fut fait une rude consommation. Dans l'île on s'en restaura, ou bien on le prit comme apéritif ; et sur la terre ferme, sous prétexte qu'il est digestif, les amateurs ne s'en privèrent pas
[ 150]
謙虚さからか、ムッシュ・マリアーニはメニューにマリアーニ・ワインを載せることを許可しませんでしたが、それは大量に消費されました。食前酒としてただ同然に。陸上では消化剤という口実のもとに、普通の人もそれを放棄しませんでした。
-ジョルジュ・ルニャール
2人の親密さはマリアーニ・アルバム に載ったリュトーの肖像画によっても証明される[ 52] · [ 画 1] 。写真や招待者リストからも分かるように、彼は祝宴に参加している。
さらに、植民地行政官のイギリス貴族ウィリアム・セシル卿とレディー・セシルがいる。ウィリアム・セシル(William Cecil、1854-1943)は英国裁判所の役員を務めており、彼は1892年 にヴィクトリア女王 から終身のグルーム・イン・ウェイティング (待機中の新郎、英国王室への入閣組を示す)に任命された。したがって、女王がセシルをロンドンの領事に任命したことは驚くにはあたらない。1927年 にセシルはジョージ5世 からジェントルマン・アッシャー (王室の召使をあらわす高官)を拝命している[ 151] 。一方、レディー・セシルとして知られる考古学者 のメアリー・ロス・マーガレット・セシル (1857-1919[ 152] )は、父親のアマースト男爵 が1903年 5月30日 にヴァレスキュールに建てた別荘「ルー・クストー」« Lou Casteou » に夫と滞在するようになり、自然とその場所はリュトーのヴァレスキュールにおける拠点として使用されるようになった[ 153] · [ 154] 。20世紀以降の考古学的発見と著述により、彼女はエジプト研究 の中心的存在となった[ 155] · [ 156] 。
1913年9月25日の招待宴。
さまざまな分野の芸術家も含まれている。写真家で画家のアントワーヌ・リュミエール (1840-1911[ 157] )はリュミエール兄弟 の父親で、黄金島プロジェクトのスポンサーの1人である。彼はサン=ラファエル近郊のアンテオール(Antheor)出身で、沿岸に別宅 のアトリエを持っていた[ 158] 。メダル彫刻家のオスカル・ロティ(1846-1911[ 159] )も1897年 以降ヴァレスキュールに別荘「ヴィラ・マリー」« villa Marie » を所有している[ 160] · [ 161] 。このフランス芸術アカデミー 会員でスムーズ のデザイナーは王国の美術大臣として戴冠式にのみ出席した[ 162] 。カロリュス=デュラン (1837-1917[ 163] )は常連である。彼は1905年 に芸術アカデミーのメンバーとなり、ローマ・フランス・アカデミー とヴィラ・メディチ のディレクターになった。このおしゃれな肖像画家も1880年 にサン=テギュルフ(Saint-Aygulf)に別荘を建てた[ 164] 。つまりフレジュス の近くである[ 165] 。学者ではジャン・エカール (1848-1921[ 166] )がいる。1909年 にアカデミー・フランセーズ 会員となったこの詩人・劇作家・小説家はプロヴァンス を愛し、サン=ラファエルによく滞在した[ 167] · [ 168] 。マスコミによれば彼は国民教育省 の大臣でもある[ 169] 。
政界との関係もまた祝宴の重要性を示している。ヴァール県 首長のルイ・ユデロ (1868-1945[ 170] )も常連である。マスコミはこの祝宴はまるで第三共和政 のアコレード であると揶揄した[ 94] 。モナコ の元治安判事で国務大臣 のエミール・フラック(Émile Flach、1853-1926[ 171] )もいた。しかし、最もよく知られているのはフランス郵便・電信・電話 (PTT)担当国務次官 のジュリアン・シミャン (1850-1926[ 172] )で、この有名人は1913年の招待宴で乾杯の音頭を取っている[ 111] 。
ジャン・エカール(1848-1921)
M・R・M・セシル(1857-1919)
ウィリアム・セシル(1854-1943)
エミール・フラック(1853-1926)
ルイ・ユデロ(1868-1945)
A・リュミエール(1840-1911)
リュミエール兄弟 (兄1862-1954)
(弟1864-1948)
シャルル・リュトー(1855-1921)
グザヴィエ・パオリ(1833-1923
[ 画 17] )
ジュリアン・シミャン(1850-1926)
20世紀後半
この頃オーナーはしばしばフィリップ・ド・ゴール 提督を招待した (1921-[ 173] )。彼の別荘もアゲ にある[ 174] 。ジョン・テンプルトン=コティル 提督(1920-2011[ 175] )ルシヨン の「ムーラン・ド・リバス」« Le moulin de Ribas » 居住のイギリス海軍 士官は1940年 から1944年 にかけて自由フランス海軍 に所属し、シャモア級 掃海艇シュヴルイユ号連絡将校 の任にあたった。軍事関係とはほど遠いイヴォン・ガタス (1925-[ 176] )ブルリ(Boulouris)に別荘を持つビジネスマンも招待されている。
芸術の題材として
黄金島の長時間露光 デジタル写真(2014年)
ル・ドラモンの黄金島は1941年 3月17日 にフランスのサイト に登録され、1996年 1月13日 にはエステレル山塊 の東部に認定された[ 178] · [ 179] 。黄金塔の建材でもある赤い流紋岩 には植生 がほとんどなく、この場所の特異な魅力を余すところなく伝える。この島と塔の装いはこの海岸でもっとも多くの写真に収められ、サン=ラファエル の観光や広告の参考資料となった。
詩
黄金島の煌きは夢幻的であり、詩人のギュスターヴ・デュー(Gustave Dhyeux、1879-1965[ 180] · [ 注 45] )は1909年に発表した詩集 « Album de Saint-Raphaël-en-Provence »(プロヴァンス - サン=ラファエルのアルバム[ 181] )に黄金島に寄せる詩を載せている。
Île d'Or ! Île de chimères !
Île de songes très lointains…
Île rose ! Île de lumière,
Que l'eau de lazulite enceint.
Telle qu'une touffe de roses
Dans l'ardente mer bleue éclose
Elle apparaît, radieux îlot
Où vient se câliner le flot.
黄金島!キメラの島!
遥か彼方の夢の島…
桃色の島!光の島
ラズライトの水は
孕 ( はら ) んでいる
バラの房のように
燃える青い海で
孵 ( かえ ) る
かの女が現れる、輝く島
流れはいずこに向かうのか
On voit, à l'aube, sur cette île
Un léger scintillement d'or,
Alors que Phébus ne profile
Que des bigarrures, encor.
Mais surtout elle est l'Île Rose,
Lorsque du soleil s'y repose.
Île de rêve, où pour mourir,
Il serait doux de s'assoupir…
[ 182]
暁にこの島を観る
かすかな黄金の
煌 ( きらめ ) き
フォボスの証は
ただ、重なりあう縞
それでも、島は桃色
太陽がそこにあるとき
夢の島、終焉の地
眠りは甘し…
映画
1924年以前、ジョルジュ・ルニャールは「サンプル・ルヴュー」にこう書いた。
Si un jour vous voyez présenté un drame moyenâgeux ayant pour titre Le Seigneur de l'île d'Or vous n'ignorerez plus qu'il eut pour décor la tour du Dr.Lutaud. いつの日か『黄金の島の王』という中世のドラマが上映されたとしたら、観客はリュトー博士の塔を舞台にしたことに気づかないでしょう。
1965年 公開のイタリアを舞台としたコメディ映画『大追跡 』ではベバ・ロンカー 演じるバックパッカー のウルスラが、夜のD-デイ 上陸ビーチに裸で入浴しているところにベナンティーノ・ベナンティーニ演じるイタリアマフィアのミッキーが加わる場面があるが、この1時間7分15秒の場面の背景に黄金島が登場している[ 画 25] · [ 184] 。フランスのテレビシリーズ『エクストレーム・リミット 』は1994年 から1995年 放送回の多くの場面が黄金島で収録され、2016年 公開の映画『プラネタリウム 』ではナタリー・ポートマン 演じるローラ・バーロウが上陸ビーチで裸で日光浴をする場面の背景に黄金島が映し出される[ 注 46] 。
宣伝
アシェット・リーブル は、旅行雑誌の「コレクシオン・ルルタール」(Collection Le Routard)2016/2017年版でエステレル ; コート・ダジュール特集号の表紙に黄金島の写真を使用した[ 注 49] 。
絵画
2016年夏に黄金島を訪れた画家達
1932年 にC・パーディネル(C. Pardinel)が新聞「イリュストラシオン 」のために描いた水彩画 「ブルリから見たル・ドラモンと黄金島」« Le Dramont et l’île d'Or vus de Boulouris » は、モチーフを正確に反映したものである[ 注 50] 。1936年 には考古学者でフレジュス美術館の学芸員であるアルフォンス・ドナデュー(Alphonse Donnadieu)が画家のポール・ブレ(Paul Bret)に自著「プロヴァンスの風景」« Paysages de Provence » の挿絵を依頼し、ブレは「黄金島」と題する118点のドローイング でル・ドラモンを表現した[ 注 51] 。1936年 には海軍公認画家 のレオン・アフネル(Léon Haffner)が著書「海の襲撃」« À l’assaut des océans » で17世紀のガレー船 を描いている。この絵では満帆の船が黄金島の前を航行しているが、実際にはまだ建てられていない黄金塔が描き込まれている。タイトルは「ウサギの耳の帆」と題され[ 194] 、これは帆船用語の « allure au portant »(風下)に因み[ 注 52] 、そこに船が姿を見せている。実際適速航行時には翼はここに示されたように両側に展開される[ 196] 。1972年 にはピエール・ブーデ が27センチ×35センチの板に油彩画 を描いた。これは「サン=ラファエル近郊の黄金島」« L'île d'Or près de Saint-Raphaël » と題され、彼が得意とする点描 は用いていないものの、プーサイ港にイーゼル を据えたために多くの色が使われている[ 注 53] 。パリ国立高等美術学校 の教授であるマルセル・ブイス(Marcel Bouissou)は島の滞在中に空想的な絵を描いた。それはいくつかの抜け穴のある丸い塔に隣接した円形のダンジョン となっており、要塞の前には鎧を着た騎士が非常に長い槍を持って立っている。この絵は「夢の中の黄金島」« L'île d'Or en rêve » と名付けられた。2004年 8月15日 、ロナン・オリエ はプロヴァンス上陸 60周年を記念して、他の8名の提督から海軍公認画家 に任命された。 彼はこの機会に上陸ビーチ全体を構図に据え、キャンバスに島を描いた。彼は自分の作品に「エルジェ にインスピレーションを与えた小さな島 "黒い島"」« La petite île qui inspira Hergé pour L'Île Noire » と名付けた[ 199] 。2013年 7月27日 には王国建国式典2周年と100周年を記念して開催された絵画コンテストの賞品が授与された[ 130] 。
バンド・デシネ
黄金塔の右側にあるゴリラを連想させる岩は、あたかもタンタンの冒険 のRanko を思わせる。
黄金島はエルジェが1937年 に発表した『タンタンの冒険 』の第7巻「黒い島のひみつ 」に影響を与えた可能性がある。これは東の海から島に近づくと確認できる。塔の右側には物語に登場する勇敢な Ranko のような輪郭のゴリラに似た岩がある。しかし、この冒険はスコットランド を舞台にしており、島は丸いダンジョンを戴く本物の城[ 画 35] · [ 注 54] となる。城のモデルにはユー島 にあるヴィエイユ城 (フランス語版 ) またはスコットランドのロックランザ城 (英語版 ) が挙げられる[ 画 38] · [ 画 39] 。スコットランドではマル島 にある贋金造りがいる島と同じ名前のベンモア山 (英語版 ) で物語は山場を迎えるが、デュアート城 (英語版 ) も候補に挙げられる[ 200] · [ 画 40] 。他の発想源としては、エルジェが滞在したことのあるロケノレ (フランス語版 ) のモルレ湾 に建つ黒い島の灯台 も含まれる。海から遠く離れた1930年代のダンジョンは暗くくすんだ色であり[ 画 41] 、ブリュッセル のハル門 など[ 201] · [ 画 42] 、いくつかの要素が混在した仮説も提唱されている。ゴリラはむしろ映画の『キング・コング 』とスコットランドのネッシー に触発されていると考えられる[ 202] 。
写真
1937年にスイスの地質学者 で探検家 のレオ・ウェールリ はフランス旅行中にこの岩に挑み、その際に撮った黄金島のスライド写真 のいくつかは現在チューリッヒ・スイス連邦工科大学図書館 に収蔵されている[ 画 43] 。海軍公認画家のフィリップ・プリソン はフランスのすべての海岸について写真レポートを作成し、2010年 7月1日 に出版した『海から来たフランス人』の「ピレネー山脈 からマントン へ」の章で外洋のさまざまな角度から撮影された黄金島の写真を公開した[ 203] 。多くの公式レガッタ を撮影したジル・マルタン=ラージェ(Gilles Martin-Raget)は2010年に開催されたヴォクリエ・ド・サントロペ (フランス語版 ) で黄金島を背景とした「アトランティーク 」の写真を撮った。このスクーナー は2008年に建造されたもので、帰化アメリカ人のチャーリー・バー が所有していた有名な1903年製「3本マストのスクーナー 」の忠実なレプリカである。彼は1905年 に12日間というヨットによる北大西洋横断記録 を樹立し、その座を75年間保持した。2012年にはミシュラン がグリーンガイド のコート・ダジュールとモナコ特集号の表紙に黄金島の写真を使用した[ 注 55] 。この写真には2013年7月27日に開催された王国の祝宴2周年記念の写真コンテストで賞が授与された[ 130] 。
音楽
2016年 6月7日 にオルタナティヴ ・アーティストのベンジャミン・フィンチャー(Benjamin Fincher)はアルバム『サンタ・ルチア』« Santa Lucia » をリリースした。タイトルは彼が子供の頃にバカンスを過ごしたサン=ラファエルの入り江から命名されている。このアルバムには当地にある駅と同数の9つの音楽トラック とカラー写真が収録されており、サン=ラファエルからカンヌまでの列車の旅と一致するようにすべてが綿密に調整されている。ドラモン駅 に当たる3曲目は « L'île où dort M.Lutaud (Le Dramont) »「ムッシュ・リュトーが眠る島(ル・ドラモン)」というタイトルの2分41秒の作品である[ 206] [ 207] 。
絵はがき
1910年の絵はがき。左上にアラビア語の銘文がある。オーギュスト・リュトー発行。
黄金島の装いと紋章は非常に多くのサン=ラファエルの絵はがきに使われている。その歴史は古く、黄金塔建設以前の1900年 にポール・エルムリンジェ社(Paul Helmlinger et Cie)が編集したコート・ダジュールのシリーズに « Le sémaphore d'Agay et l'île d’Or »(アゲ のセマフォと黄金島)という作品がある[ 注 56] 。また1910年にはオーギュスト・リュトーの需めに応じて作られた絵はがきが発行されている[ 208] 。リュトーは黄金島と塔を東から撮影した写真をもとに印刷されたモノクロームの絵はがきを持っており、これには左上にアラビア語の銘文 النَّجَات فِي الصَّدْق (elnajât_ fî elSadq_)(救いは誠実なり[ 注 57] )があり、右側には紋章と中央の島の下にはラテン語 で Insula Aurea (黄金島)と記され、下端のキャプションには « Elle est dénommée St-Raphaël. L'île d'Or et la tour sarrazine, chaine de l'Estérel et des Maures. » ( それはサン=ラファエルと呼ばれています。黄金島とサラセン の塔、エステレル とムーア人 の鎖)とある。 1910年代初頭、アントニー・バンディエリ[ 注 24] とサン=ラファエルの写真編集者ピエール=クーレ(Pierre-Coullet[ 209] )は黄金島の戴冠式その他のイベントに招待され、2枚の絵はがき「サン=ラファエル、黄金島とサラセンの塔」「海から見た黄金島とサラセンの塔、ドラモンのセマフォ[ 注 10] 」を発行した[ 注 58] 。これは他にも「アゲ」「曲がりくねった島の道」「ドラモンと黄金島の岩」などがあり、ときには着色されて発行された。これはバイリンガル やイギリス人の植民地への関心を物語るものである[ 注 59] 。また、1950年 から1955年 にかけてブロマイド と呼ばれる写真プロセスによって空中写真 から作られた最初期の半近代的な絵はがきのひとつは、おそらくル・ドラモンをモチーフとした「黄金島とセマフォの景色」であり[ 211] 、これは写真および出版業者によって発行された[ 212] 。 その後、銀塩写真 からデジタル写真 までオフセット印刷 による無数の現代の絵はがきが発行されている。
切手
1910年にオーギュスト・リュトーが発行した切手[ 注 60] · Template:Ef2 。
このオーギュスト・リュトーによって1910年に発行された[ 注 61] 切手 は青と白で印刷された19×24ミリと40×24ミリのもので[ 214] · [ 注 62] 、王国の到来を記念したものである。しかしこれらには価値がなく、フランスの郵便切手は「フランス郵便・電信・電話 」(PTT)から提供される · [ 13] · [ 208] 。
D-デイ 50周年を記念して、フランス郵政公社 はいくつか切手を発行し、それらはいくつか消印 が捺された[ 注 63] 。サン=ラファエルの消印は、精密機器研究製造協会(SECAP)によって製造される。第2型は日付印の左側に捺されるもので、第3型はテキストで補足されたイラスト印である[ 注 64] 。参考画像 47に示されているように、陸地から見た黄金島と米仏の国旗が組み合わされ、D-デイ50周年をあらわす 1944-1994 の年記があり、消印は単一の円に « 83 St-Raphaël Var » と書かれている[ 注 65] 。
黄金島のようなミクロネーション のソマリランド は、2007年1月に150×112ミリ判の地図を発行した。111件の発送分に貼られた切手は理論上、100から1,100ソマリランド・シリング の価値がある[ 注 66] 。最初の大きい切手はおそらく黄金島に触発されたタンタンの冒険 の「黒い島 」の表紙を背景に使い、下部には本と同じく海とボートが描き込まれている。最初の挿入図も冒険に登場する若い記者である[ 注 67] 。
2007年 5月19日 、ベルギー郵便局 はエルジェの生誕100年を記念して、全24巻の『タンタンの冒険』の表紙を使った切手を25種類発行した。これは各巻の表紙の中央に作者の肖像をあしらった210×230ミリのシートで70万部印刷された。切手はそれぞれ異なる言語で発行され、言語は通常作品の舞台となる国に応じて選択されている。各々の額面金額は0.46ユーロである[ 注 68] 。おそらく黄金島に触発されたと考えられる「黒い島」に関しては1966年版の表紙が使われており、裏面にはファン・エメリックによる作品と作者の解説がフランス語とオランダ語で記されている[ 画 52] 。
フランス郵政公社は2013年 7月1日 に4つのシリーズコレクション切手を発表し、そのなかの地中海諸島編には8つのコレクターズ・アイテムが含まれている。フランスの島々を描いたこれらのアイテムには20グラム以下の郵便料金分に対応した自己接着切手 が6点含まれており、「黄金島」と題されたそのうちのひとつは島の空中写真が使われている[ 注 69] 。
1913年9月25日のアウグストゥス1世戴冠式の2度目の祝宴の100周年を記念して、サン=ラファエル・フレジュス切手収集愛好会が3種類のフレーム切手 を発行した。まず同一デザインによる30枚分の切手シートと[ 画 54] フランス郵政公社 がネーミングした2種類のスーヴェニール切手帳 がある。それは「4種類の切手を各1枚タイプ」と[ 画 55] « Mon souvenir à moi » (私の記憶)と名付けられた「2種類の切手を各4枚タイプ」である[ 画 56] 。図像はすべて写真からの複製であり、切手帳の見返しには1枚の切手を拡大した図像が印刷されている。島の風景は異なる場合があるものの、すべての切手でプーサイ港が手前に位置している。これらの切手にはそれぞれ発行日(2013年 7月27日 )が印刷されており、フランスの20グラム以下の郵便物に適用される自己接着タイプとなっている。
メダル
最初のメダル は[ 注 70] 同じ図像で青銅 と銀 の2タイプが造られ、1911年の祝宴でアンジェロ・マリアーニ からアウグストゥス1世に授与された[ 224] 。これらは王国の到来を記念するメダルである[ 注 33] 。そのため裏面 には黄金島の国章 が刻まれており[ 注 34] 、ヒジュラ暦 に従って王国の建国年を読むことができる[ 注 36] 。2016年にサン=ラファエル は聖ルカ鋳造所 « la Fonderie saint Luc » に観光メダルを発注した[ 画 57] · [ 注 71] 。これはわずかに図像を変えて2019年まで再発行されており、表側は黄金島をあらわし[ 注 72] 、裏側にはサン=ラファエルの街景が示されている[ 注 73] 。
画像をクリックして拡大
オーナー
黄金島の3名のオーナー
F・ブロー (1917-1994)
参考文献
(本稿の執筆のために使用した文献)
関連項目
参考画像
^ a b c オーギュスト・リュトー (マリアーニ・アルバム より)
^ ル・ドラモン沿岸のパノラマ写真 (ル・ドラモンの西側からサン=ラファエルを望む。左側に黄金島が見える。2019年7月撮影。)
^ トラシ=アンデサイト と玄武岩 との中間組成にある火山岩
^ a b オーギュスト・リュトーの蔵書票
^ a b オーギュスト・リュトー発行の絵はがき (1910年)
^ サン=ラファエルの地図 (トリミング前)
^ レオン・セルジャン (1906年)
^ a b c レオン・セルジャンの家族写真 (1906年)
^ サン=ラファエル83番にある別荘 « Moineaudière »(スズメ)
^ メリメ・データベース のアーカイヴより、「グラン・オテル・デザングレ 」『pop.culture.gouv.fr』フランス。2022年3月10日時点のオリジナル よりアーカイブ。2022年3月7日閲覧 。 .参考画像
^ a b 黄金塔建設の声明書
^ 聖マルティーノ・シスト教区教会
^ 戴冠式のオリジナル写真 (補正前)
^ a b 1910年に印刷されたはがきの裏面 (切手は黄金島とオスカル・ロティ の原案によるスムーズ の図案)
^ a b 1911年9月12日のメニュー
^ 名前が刻まれたメダル
^ a b c グザヴィエ・パオリ (ナダール 撮影)
^ a b 1913年の祝宴の招待状 (署名はパオリ)
^ フランソワ・ブロー
^ リゾート客たち (2005年7月)
^ 塔の前に佇む招待客たち (1910年9月19日)
^ 1910年9月19日の祝宴
^ オリジナルのイラスト (アルベール・ロビダ画、1904年)
^ “マリアーニ・ワイン ”. The nonist. 21 March 2022 閲覧。 .
^ Franck; Jérôme (August 2007). "Autour de Louis de Funès" . www.autourdelouisdefunes.fr (site personnel) . ch. « Lieux de tournage », p. Cap Dramont (83), lieu de tournage du Corniaud . 2018年9月9日閲覧 。
^ 映画「プラネタリウム」でのナタリー・ポートマン
^ ミシュランガイド掲載の黄金島 (1930年)
^ フランス郵便・電信・電話会社年鑑の表紙 (1933年)
^ パリ - リヨン - 地中海鉄道のポスター
^ 黄金島のポスター (署名:ムッシュZ)
^ 「コレクシオン・ルルタール」表紙 (2016/2017年版)
^ 水彩画「ル・ドラモンと黄金島」 (C・パーディネル画、1932年)
^ ドローイング「ブローニュ=ビヤンクール」 (ポール・ブレ画、1936年)
^ 板に油彩 (カタログ番号178)「サン=ラファエル近郊の黄金島」 (ピエール・ブーデ 画、1972年)
^ a b 『黒い島のひみつ(1966年版表紙): 1966年版表紙 』(jpg)。https://www.bedetheque.com/media/Couvertures/tintin07b36_423.jpg 。29 April 2019 閲覧 。 .
^ 『黒い島のひみつ(1938年版表紙): 1938年版表紙 』(jpg)。https://www.bedetheque.com/media/Couvertures/TintinHistorique7_28042008_143053.jpg 。29 April 2019 閲覧 。 .
^ 『黒い島のひみつ(1943年版表紙): 1943年版表紙 』(jpg)。https://www.bedetheque.com/media/Couvertures/tintinhistorique071943eocouleura20_12045.jpg 。29 April 2019 閲覧 。 .
^ 『タンタンの城、ロックランザ城「黒い島」1966年版のケース 』(jpg)20 september 2018。https://montjoye.net/images/chateau/EU/ecosse/lochranza/les-aventures-de-tintin-l-ile-noire-Lochranza.jpg 。29 April 2019 閲覧 。 .
^ ロックランザ城 (ジョン・セル・コットマン 画、1800年頃)
^ Richard Ferriere. "Tintin et l'aviation: L'Île Noire (1938)" (jpg) . richard.ferriere.free.fr (site personnel) (photographie et extrait de dessin de couverture comparatifs). 2019年4月24日閲覧 。
^ ブリュッセルのハル門 (1890年から1900年に撮影)
^ Ranko『タンタンの冒険 ベンモア城の泉: 黒い島のひみつ 』(jpg)(le foruDes Pyrénées à Mentonm des tintinophiles)6 December 2011-12-06。http://img67.xooimage.com/files/e/c/d/668_001-2f6aad5.jpg 。25 April 2019 閲覧 。 .
^ レオ・ウェールリによる黄金島のスライド写真
^ ミシュラン・グリーンガイド表紙 (2012年2月21日号)
^ アントニー・バンディエリ撮影の絵はがき「サン=ラファエル、黄金島とサラセンの塔 」「サン=ラファエル、海から見た黄金島とサラセンの塔、ドラモンのセマフォ 」
^ サン=ラファエルの郵便印 (1994年)
^ タンタンの冒険切手1
^ タンタンの冒険切手2
^ タンタンの冒険切手3
^ タンタンの冒険切手4
^ アラビア語版タンタンの冒険切手 (ベルギー発行、2007年)
^ "Bloc 2007: La poste belge 01" (jpg) . www.bedetheque.com (base de données). Besançon : bedetheque.com. 2021年9月29日閲覧 。
^ 切手コレクション:天と地の間…フランスの島々
^ Double-J / L'invitation aux voyages (27 July 2013). "83 - Fréjus Saint-Raphaël" (jpg) . www.double-j.org (forum) (Collectors Timbres poste :: Sud (ex Provence-Alpes-Côte d'Azur)). 2019年12月5日閲覧 。
^ Double-J / L'invitation aux voyages (27 July 2013). "83 - Fréjus Saint-Raphaël" (jpg) . www.double-j.org (forum) (Collectors Timbres poste :: Sud (ex Provence-Alpes-Côte d'Azur)). 2019年12月5日閲覧 。
^ Double-J / L'invitation aux voyages (27 July 2013). "83 - Fréjus Saint-Raphaël" (jpg) . www.double-j.org (forum) (Collectors Timbres poste : Sud (ex Provence-Alpes-Côte d'Azur)). 2019年12月5日閲覧 。
^ Admin『聖ルカ鋳造所による観光メダル 』(jpg)(forum)2019年1月30日。https://i.servimg.com/u/f86/11/79/80/29/saintr10.jpg 。2019年12月16日 閲覧 。 .
^ サン=ラファエルの紋章
^ オーギュスト・リュトーのトリミング前の写真 (ウジェーヌ・ピルー 撮影)
脚注
注釈
^ ローランス・ブロー=ラガンはフランス国際海難救助協会 (SNSM)発行の雑誌 "Sauvetage" 編集長[ 10] 。
^ « Nagaye » ナガエは « Agay » すなわち、サン=ラファエル のコミューン であるアゲを指す[ 15] 。
^ おそらくこの地名 の発音はオック語 に由来しており、フランス語圏で黄金島はプロヴァンス語 の « ile de dou » (/ildədu/) と発音される。
^ a b アーチ型のボルトチューブは同形状の型枠として建物の天井などに使用された[ 25] 。これを積んだ船が見つかることはまれで、通常は散り散りの状態で発見される[ 26] 。
^ 難破船の名前がわからない場合は、残骸は発見された場所の名前にちなんで命名され、同じ場所の残骸と区別するための文字が追加される[ 27] 。
^ 新しいものでは18世紀の船が見つかっている[ 30] 。
^ a b このサイモン・ケアリー による分類によると、25型と35型はアフリカ製のものとしている[ 33] 。
^ ケアリーによれば、この型もアフリカ由来としている[ 34] 。
^ これは4月6日 にアンティーブ を出発して14日にモナコ に着くまでのコート・ダジュール紀行と、旅とは直接関係のない随想が交互に記されており、モーパッサンは黄金島を訪れた日にちを4月8日 から4月10日 にかけてとしている。この作品には吉江喬松 、青柳瑞穂 、関根秀雄 、木村庄三郎 らによる日本語訳版がある。また、モーパッサンには同名の短編小説があり、これは1876年 に « En canot »(カヌーで)という題名で発表され、1881年 に前記のタイトルに変更されている。
^ a b « sémaphore » 直訳すると腕木通信塔 を指す。
^ 英語圏のディンギー に相当する。
^ 1894年、定期刊行物の "Le Cycle" には以下のように記されている。すべてのサイクリストは...使用2年目から車輌の代金が支払われることを知っています
[ 43] 。
^ これは2019年時点の貨幣価値で1,112.16ユーロ に相当する[ 41] 。1897年当時の物価は自転車1台の価格が150フラン[ 42] 、労務者の平均月収が250から400フラン[ 43] · [ 注 12] 、当時量産が始まったばかりの自動車のプジョー の価格帯は1台約7千から2万5千フランである[ 44] 。
^ リヴィエラという用語はイタリア語に由来しており、ジェノヴァ湾 の沿岸地域を連想させる。フレンチ・リヴィエラという呼称は宗主国のイギリス人が19世紀末にコート・ダジュール に住んだ者に洗礼を施すために使った。この用語は1888年 に作家のステファン・リエジャール によって造られた[ 45] 。
^ 撮影者不明。おそらく建築家のレオン・セルジャンがスポンサーに作業の進捗状況を報告するために撮られた。
^ サン=ラファエル83番にある « Moineaudière »(スズメ)と命名された別荘[ 画 9] (プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュール地域評議会より Françoise Baussan 撮影[ 55] )。
^ この名称は20世紀から使われはじめ、起源は11世紀 までさかのぼるとも言われているが、実際はもっと近く1675年 以降のこととされている。すべての時代にわたり海岸の住民を奴隷として略奪 するバルバリア海賊 の来襲を監視した[ 70] 。
^ 建設技師の募集が行なわれたと推察される。
^ アン=マリー・ギロー(Anne-Marie Guillot)は、1901年 生まれのイオラント・ボルギーニの孫娘で、後者は1899年 12月10日に生まれ、1986年 6月7日にバスティア で亡くなったアメリア・ボルギーニの5人姉妹の1人である。この6人の子供たちはみなヴェラーノで生まれた[ 80] 。アメリアの両親であるアウレリオ(1864年 8月24日生)とマリア・ピエリ(1863年 2月23日生)も同地出身である[ 81] 。
^ アウレリオは1901年に孫の1人が亡くなったときに石工 を務めていた[ 82] 。1911年 の国勢調査においてはレストラン経営者と登録されている[ 81] 。
^ ヴェラーノの聖マルティーノ・シスト教区教会 は一部の現地民によってコピーされたものであるという仮説は仲介者によると確かなものではない[ 83] 。胸壁 、コンソール 、出し狭間 のいずれもが、黄金塔 やc:File:Pont_suspendu_Oued_Cherrat.jpg シェラーの吊橋 の主塔 とは似ていない。
^ とりわけ、フランスの建築家 は、この教会と黄金塔のコンソールや出し狭間、胸壁の間に類似性を見出していない
^ 塔の建設に島の石が使用されていることは、2011年に撮影された黄金島の航空写真 によって証明されている。岩面を剥ぎ取る必要はなく、前方には十分なボリュームの空洞があるため、痕跡を残さずにいくつかの場所で採掘することも可能である。
^ a b 元の写真はおそらく1870年 にボレット で生まれた当時唯一のイタリア人写真家兼出版者であるアントニー・バンディエリ(Antoine Bandiéri)によって撮影されたものである[ 84] · [ 85] 。彼は王国の到来を祝うすべてのイベントに招待された。
^ この献辞の起草者であるポール・ベルトネイ(Paul Bertnay、1846-1928, これは本名 François Xavier Louis Paul Breynat のアナグラム )は、リヨン 出身のジャーナリストで人気小説家であった。彼は就任式と来たるべきパーティーに招かれており[ 89] 、サン=ラファエル近郊のアンテオール(Anthéor)にある別荘、ポーレット(Paulette または Paulotte)に住んでいた[ 90] · [ 91] 。
^ 就任式で国王に捧げられた献辞は以下の通りである。
Cette clef de fleurs entourée. Que ces hommages vous agrée, Ô Roi, le premier des Lutaud ! Grand souverain de l'île d'Or. Pour vos sujets soyez un père. Que votre règne soit prospère Pendant de bien longs jours encor. Vive le roi de l'île d'Or ! [ 88] · [ 注 25]
この花の鍵を包む このことばがあなたを慶ばせますように 初代王リュトー! 黄金島の偉大な支配者。 成すべきことを成したまえ。 あなたの王国に栄えあれ 末長く 万歳、黄金島の王!
^ これはおそらく紋章に示されているように、自由端にトライデントがあるアスクレピオスの杖 である。
^ 「救いは誠実なり」はトルコ で示された主張とされる[ 98] 。
^ トライデント は海の神ネプトゥーヌス の持ち物であり、島を取り巻く事象を示すと言われている。それにからみつく 白蛇 を追加することでアウグストゥス1世を示す医師のシンボル、アスクレピオスの杖 が現れる。彼は黄金島国王を自称しているので、これは王笏 と見なすこともできる[ 99] 。
^ Insulae Aureæ Proprio Motu (ラテン語で黄金島自発教令)は記念メダルの表側 に記された通りに理解されている。つづけてフランス語で « Auguste Premier de sa propre volonté roi de l'île d'Or »(オーギュストは彼自身の意思で黄金島の王となった)と記され、島の命名と彼が自主的に王になったという事実の2つの要素が取り上げられている。
^ a b この紋章には色が着いていないため、事実上紋章の意味をなさないことが判明している。紋章そのものも紋章学的には異質であり、その象徴性に関しても様々な意見がある。
^ 少なくとも1枚のはがきの左側にある捺印と右側のアウグストゥス1世の署名 Charleroy はカール5世 の名前であり、右側の文面にある Yoelrey Propri omotu Insulae aureae はラテン語で「我、彼の意思による黄金島の王」という意味である[ 画 14] 。
^ a b このメダルは直径35ミリ、重さが21グラムの銀製である。
^ a b c このメダルには額面が入っておらず、階ごとに3つの窓がある5階建ての塔が刻まれ、塔上には旗が掲げられている。旗のエンブレムは五芒星 を示しており、星と三日月 はイスラム文明 を思い起こさせる[ 106] 。右上に向かって太陽の光が差し、周囲にはラテン語で Augustus Primus Insulae Aureæ Proprio Motu Rex (黄金の島々の最初の王アウグストゥス)と記されている[ 12] 。
^ 東アラビア語ではヒジュラ暦1227年は西暦1812年を指すが、これは王国のどのイベントにも対応していない。これは実際にはヒジュラ暦1327年 ١٣٢۷ 、すなわち島の購入年である西暦1909年 を指していると推測できる。2番目の数字の3をあらわす ٣ がアラビア語を知らないか彫刻に失敗したために、2を指す ٢ になったものと考えられる。
^ a b c メダルの反対側には[ 12] 「自称王国」の節で説明したアウグストゥス1世の紋章が示される[ 注 31] 。通常は標語が書かれるべき場所にラテン語で Proprio Motu と記されている。この場所の中央にはヒジュラ暦 1227年 ١٢٢٧ 、すなわち東アラビア語で1812年と刻まれている[ 注 35] 。同じく暦の基礎となるヒジュラ暦1328年 MCCCXXVIII は王国の建国が宣言された1910年 を指し、周りを4回繰り返した標語 النَّجَات فِي الصَّدْق (elnajât_ fî elSadq_) で囲んでいる。このメダルを持っていた少なくとも1名の人物が証明するように、意図された名前を刻むためのスペースがある[ 画 16] · 。
^ 当初、この作戦は「アンビル」Anvil (英語圏で金床 や"叩く" などの意味をもつ)というコードネームが付けられていたが、ウィンストン・チャーチル の要請で"Dragon Forcer" 竜の力の意味も込めた Dragoon 「ドラグーン」という名前に変更された。チャーチルには同盟国のロシア が連合国 に拒否される前に、バルカン半島 を経由してベルリン まで前進を続けるという、戦後処理も視野に入れた目算があった[ 116] 。
^ テキサス師団の歴史は1821年 にさかのぼる。兵士には当時独立したばかりのメキシコ人、現在のテキサス州旗にもあるローン・スター(Lone Star)が含まれており、彼らは政府に対する不信感から独自の部隊を作り上げた[ 117] 。1917年 7月18日 には他の部隊の協力によりテキサス州兵部隊が第36歩兵師団に編成された[ 118] 。
^ a b グリーンビーチは黄金島とは異なる地質を持っている。近くの採石場から採掘されたエステリテ の小石で形成されており、上陸作戦 に参加した兵士は Quarry Beach (採石場の浜辺)と呼んだ。この石についての説明は記念碑に示されている[ 119] 。
^ 2名のイラストには左からScience(科学)Génie(天才)と記され、ブリア=サヴァラン の言葉が引用されている。On devient cuisinier, mais on nait rôtisseur.
— Brillat-Savarinキュイジニエ にはなれますが、ロティスール は生まれつきです。 -ブリア=サヴァラン ※コースは以下の通りである。
MENU du 12 Septembre 1911
Hors d’œuvre
Bouillabaisse
Filet de bœuf bordelaise
Petits pois à la française
Poulets rôtis
Salade russe
Tartelettes aux fruits
Dessert
Café – Liqueurs
Mercurey - Champagne
メニュー 1911年9月12日
前菜
ブイヤベース
ボルドー産ビーフ - テンダーロイン
プチポワ ・フランセーズ
ローストチキン
ロシア風サラダ
フルーツタルト
デザート
コーヒー - リキュール
メルキュレ - シャンパン
^ 彼は1913年 3月22日 から1918年 1月29日 までアルジェリア総督 を務めた[ 134] 。
^ 宛名にあるフィリップ・ジュモー(Philippe Jumaud、1880-1942)は、定期刊行物「コート・ダジュールのタブレット - 世界・スポーツ・文学・音楽・美術」の発行人である[ 143] 。
^ フランス人文院 の制服を着用している。
^ レジオンドヌール勲章グラントフィシエ 章を佩用 ( はいよう ) している。
^ ギュスターヴ・デューは、ギュスターヴ・ガッサー(Gustave Gasser、1879-1965)が時々使用するペンネーム[ 180] 。
^ 映画「プラネタリウム 」でのナタリー・ポートマン [ 画 26] (「ザ・サン紙 」より[ 186] )
^ JL Beuzonは兄弟のイラストレーターであるジョゼフ・ブゾン(Joseph Beuzon、1864-1940[ 188] )とルイ・ブゾン(Louis Beuzon、1872-1949[ 189] )の共同ペンネーム。
^ リシャール・ツィレンキエヴィチ が2016年 6月8日 に公開したブログよりアーカイヴ[ 画 30] · [ 190] 。
^ アシェット・リーブル 発行「コレクシオン・ルルタール」2016/2017年版エステレル; コート・ダジュール特集号[ 画 31] · [ 191]
^ 『イリュストラシオン -自動車と観光』1932年10月1日号「モーターショー特集」掲載のイラスト[ 画 32] · [ 192]
^ アルフォンス・ドナデュー著『プロヴァンスの風景』より「ブローニュ=ビヤンクール [ 画 33] 」章題:サン=ラファエルからアゲの港までの黄金の曲がりくねった道 、ブルリ、エステレルの浜辺、ローマの採石場、ル・ドラモン、ジャンヌ女王 の伝説を巡って(ポール・ブレ画[ 193] )
^ « allure au portant » 帆がマストのビーム下の後方から来る風をとらえたときに起こる現象を指す[ 195] 。
^ 2011年3月15日、ヴェルサイユ開催のオークション・カタログ「19世紀の現代絵画・彫刻」より第178番(カタログの40ページに掲載)[ 画 34] · [ 197] 。
^ 黒い島 があるとされる場所にはいくつかの説がある。「黒い島のひみつ」には3つの版があり、1937年版[ 画 36] 1943年版[ 画 37] 、そして1966年版である[ 画 35] 。
^ ミシュランのグリーンガイド表紙「コート・ダジュール、モナコ」[ 画 44] 海と山のわたしたちの間道を見つける[ 205] 。
^ ポール・エルムリンジェ社の絵はがき「アゲのセマフォと黄金島 」
^ ラテン語による銘文 Insula Aurea (黄金島)はアラビア語の標語 النَّجَات فِي الصَّدْق (elnajât_ fî elSadq_ ) (救いは誠実なり)の隣にある(#地名 の節を参照)。
^ アントニー・バンディエリ撮影の絵はがき[ 画 45] は大流行の始まりに過ぎなかった。これは1910年 から1930年 にかけて出版社の「レオン & レヴィ 」が多数の9×14cmの絵はがきを再版したことで証明される[ 210] 。
^ レオン & レヴィ社発行の再版絵はがき 「アゲ」「曲がりくねった島の道」「 ドラモンと黄金島の岩」
^ この切手は1910年 5月1日 時点の25サンチーム で発行されている可能性がある。外国向けのものを含み、20グラム以下の郵便物に適用される[ 213] 。
^ これを貼った1910年9月24日付けのマコン 宛の手紙が知られている[ 13] 。
^ 縦型の切手は1910年に使用されたが、横型の切手が使用された記録は見つかっていない。1910年または1913年の2回目の祝宴で使用された可能性はある[ 214] 。
^ フランス郵政公社 は消印の種類を使用期間が3か月以内(最短1か月)のものと、2年以内のものとに分類している[ 216] 。
^ 公式な郵便印では、第3型は目的に沿った内容の極力簡略化された線画で構成されており、テキストがないタイプがあるかもしれない[ 216] 。
^ ジャン・ゴアンビック著『切手収集・歴史の証人』「連合国との戦争(1944-1994)」より[ 画 46] · [ 217] 。
^ ソマリランド は国際社会で認められておらず、その通貨と切手には価値がないとされる。もっとも切手は国内では見つからず、表示された値に関わりなく同じ価格で販売される[ 218] 。
^ デイヴィッド・D・アール著「タンタンの冒険のスーヴェニール切手と表紙」[ 画 47] · [ 画 48] · [ 画 49] · [ 画 50] (アブハジア 、ソマリランド 、およびその他の自己宣言された独立国より)[ 219] · [ 220] · [ 221] 。
^ Fabio V. Sezioniの切手フォーラムで発表された画像[ 画 51] · [ 222] 。
^ フランス郵政公社 、副CEOのナタリー・コラン による記事「切手コレクション:天と地の間…フランスの島々」より[ 画 53] · [ 223] 。
^ メダルについてはすでに当該記事で取り上げているが、フランス語版ウィキペディアの会話ページ にもメモがある。
^ 観光メダルは銅合金の地金にアルミと金でめっきを施したもので、直径34ミリ、厚さは13.24ミリ、重さが13.24グラムである[ 225] 。
^ 観光メダルには額面がなく、表側の中央に黄金島と塔があり、周囲には « ILE D’OR * 83 * SAINT RAPHAEL * Fonderie Saint Luc * » という銘文がある。
^ 観光メダルの裏側には古い港、バリエール・グループ のカジノ のドーム、ノートル=ダム=ド=ラ=ヴィクトワール大聖堂の2つの尖塔の端の部分など、サン=ラファエル の街景が含まれている。上部にコミューン の紋章があしらわれ[ 画 58] 、周囲には « VAR * 83 * SAINT RAPHAEL * Fonderie Saint Luc * » の銘文がある。
^ Lindsay Benoist は2020年7月1日付けの電子メールでウィキペディアの寄稿者に以下の手紙を送っている。Je suis l'arrière-petite-fille de Léon Sergent et de Catherine Mary Bentall. わたしはレオン・セルジャンとキャサリン・メアリー・ベントールの曾孫です。
出典
^ Philippe Bridoux-Martinet. "Découvrir la ville: Histoire de la commune" . www.ville-saintraphael.fr . Saint-Raphael: Hôtel de Ville de Saint-Raphaël. 2018年9月12日閲覧 。
^ Visualisation sur Géoportail (consulté le 2018-09-12) .
^ Visualisation sur Géoportail (consulté le 2018-09-12) .
^ Daniel Brentchaloff; René Mazeran (1999). "Exploitation antique de l'estérellite: mise au point pétro-archéologique". Mémoires de l'institut de préhistoire et d'archéologie Alpes Méditerranée . Nice : Institut de préhistoire et d'archéologie Alpes Méditerranée . XLI : 17-26. ISSN 1286-4374 。
^ Matthias Schultz (14 December 2016). "Présentation de la géologie régionale du Var: le massif hercynien des Maures et de Tanneron" . planet-terre.ens-lyon.fr . Lyon : École normale supérieure de Lyon . p. Présentation générale. ISSN 2552-9250 . 2018年9月14日閲覧 。
^ Matthias Schultz (2016) .
^ Pierre Thomas (29 February 2016). "Filons d'andésite et les intrusions de diorite oligocènes (post-subduction) d'Italie du nord, témoins magmatiques d'un détachement lithosphérique également à l'origine des andésites des Alpes françaises" . planet-terre.ens-lyon.fr . Lyon: École normale supérieure de Lyon . ISSN 2552-9250 . 2018年9月14日閲覧 。
^ Pierre Thomas (8 February 2016). "Un volcanisme français ignoré voire « interdit »: le volcanisme andésitique oligocène de la plaque européenne des Alpes franco-suisses" . planet-terre.ens-lyon.fr (extrait de la carte géologique de Nice au 1/250 000 localisant les principaux affleurements (étoiles) de magmatisme calco-alcalin oligocène des Alpes-Maritimes et du Var). Lyon: École normale supérieure de Lyon . figure 9. ISSN 2552-9250 . 2018年9月14日閲覧 。
^ Nicolas Faucherre; Patrick Ferreira; Laurent Vidal (July–August 2015). "Les tours génoises: Architecture et quotidien" (pdf) . Dossiers d'archéologie . Dijon: Éditions Faton (370, Corse. Richesses archéologiques de la préhistoire à l'époque moderne): 59. ISSN 1141-7137 . 2019年9月17日閲覧 。
^ BnF (ed.). "BnF Data: Laurence Bureau-Lagane" . www.bnf.fr/fr . 2022年3月19日閲覧 。 .
^ a b c "Monnaies: France 1910 Médaille l'île d'Or d'Auguste Lutaud" . www.gadoury.com . Monaco : Éditions Victor Gadoury. 2019年7月5日閲覧 。
^ a b c Harald Zierock (18 December 2016). "Club philatélique et cartophile de Truchtersheim: La philatélie sous tous ses angles" . wwwphilatelie-truchtersheim.e-monsite.com (Album philatélie. Érinnophilie). Lupstein: Club philatélique et cartophile de Truchtersheim. L'île d’Or / 'Insula Aurea. 2019年8月5日閲覧 。
^ Jacques Ayrouard; Louis Corne (1732–1746). "Page de titre". Recueil de plusieurs plans des ports et rades et de quelques cartes particulières de la mer Méditerranée, avec les figures des terres remarquables pour les reconnoissances des atterrages (cartes marines). 2019年10月30日閲覧 。
^ Abbé Expilly [in フランス語] (1762). "AGA". Dictionnaire géographique historique et politique des Gaules et de la France . Vol. 1, A–B. Paris: Desaint et Saillant. p. 19. 2019年9月26日閲覧 。
^ Jacques Ayrouard & Louis Corne , vue 48
^ Jacques-Nicolas Bellin [in フランス語] (1764). Port de Nagaye et coste voisines (carte marine). Paris. BNF : cb40584660g . 2019年9月25日閲覧 。
^ Olivier Chapuis [in フランス語] (1999). "1 4 Faux et usage de faux". À la mer comme au ciel: Beautemps-Beaupré et la naissance de l'hydrographie moderne, 1700-1850 : l'émergence de la précision en navigation et dans la cartographie marine (texte remanié de : th. doct. : Histoire : Paris 4 : 1997). Histoire maritime (フランス語). préf. Jean Meyer . Paris: Presses de l'université Paris-Sorbonne . p. 182. ISBN 2-84050-157-0 . 2019年9月25日閲覧 。
^ Micas; Trécourt; Bourgoin (jeune); César-François Cassini de Thury [in フランス語] (1780). Carte générale de la France: n° 169, [Antibes]. f. 148 (carte). 2019年9月25日閲覧 。
^ Cadastre napoléonien: Commune de Saint-Raphaël (Var, France) (sur archives.var.fr). Vol. Plan parcellaire, D2 des Plaines (10). Draguignan : Archives départementales du Var . 1826. 2020年7月29日閲覧 。
^ Eustache Hérisson (1838). Carte routière de la Provence divisée en ses quatre départemens (carte). Paris. 2019年9月25日閲覧 。
^ Département du Var: Divisé par les contributions indirectes en directions d'arrondissements, recettes sédentaires, recettes ambulantes à cheval, recettes ambulantes à pied et recettes buralistes (carte). Toulon : Bellue. 1838. 2019年9月25日閲覧 。
^ Phares et fanaux des côtes de la mer Méditerranée: Partie comprise entre le cap Creux et Livourne (carte marine). Toulon: Bellue. 1846. 2019年10月2日閲覧 。
^ Hippolyte de Villeneuve-Flayosc [in フランス語] (1856). Carte géologique et hydrographique du Var, des Bouches du-Rhône, de Vaucluse et des Basses-Alpes (ancienne Provence) . Paris. BNF : cb407409589 . 2019年9月17日閲覧 。
^ Alain Bouet (1999). "6 Les fusées céramiques". Les matériaux de construction en terre cuite dans les thermes de la Gaule narbonnaise (Publication sur OpenEdition Books : 8 avril 2019). Scripta Antiqua, no.1. préf. Philippe Leveau . Pessac : Ausonius Éditions. p. 116-121. doi :10.4000/books.ausonius.9525 . EAN : 9782910023140. 2019年5月30日閲覧 。
^ Claude Santamaria (1995) , chap. Les tubuli de voûte, p. 67-68
^ Véronique Boisvert (2017). Le musée archéologique de Saint-Raphaël (dossier pédagogique). Saint-Raphaël : Musée archéologique de Saint-Raphaël . 2019年5月2日閲覧 。 p. 7
^ Véronique Boisvert (2017) , p. 6
^ Claude Santamaria (1975). "L'épave A du cap Dramont (Saint-Raphaël): fouilles 1971-1974" . Revue archéologique de Narbonnaise . Montpellier : Presses universitaires de la Méditerranée (8): 190. 2019年5月2日閲覧 。
^ Jean-Pierre Joncheray [in フランス語] ; A. Lopez; J. Toulet; C. Brandon (1993). "L'épave Dramont H : Un naufrage de la seconde moitié du XVIIIe siècle". Cahiers d'archéologie subaquatique . Fréjus : Cahiers d'archéologie subaquatique (11): 37-66. ISSN 1141-4375 。
^ Jean-Pierre Joncheray [in フランス語] (1973). "Céramique arétine de l'épave D du cap Dramont (Saint-Raphaël)" . Revue archéologique de Narbonnaise . Montpellier: Presses universitaires de la Méditerranée (6): 275. 2019年5月2日閲覧 。
^ a b Claude Santamaria (1995). "L'épave Dramont « E » à Saint-Raphaël (Ve siècle ap. J.-C.)" . Archaeonautica . CNRS Éditions (13). doi :10.3406/nauti.1995.1143 . ISSN 2117-6973 . 2019年4月30日閲覧 。 chap. Introduction, p. 11
^ Fanette Laubenheimer (15 October 2012). "Des amphores et des hommes: Chronique 12" (pdf) . Dialogues d'histoire ancienne . Presses universitaires de Franche-Comté . 1 (38/1): 251 (vue 14). doi :10.3917/dha.381.0239 . 2019年4月30日閲覧 。
^ Claude Santamaria (1995) , chap. Les amphores de la cargaison, p. 5
^ Claude Santamaria (1995) , chap. Conclusions, p. 191-192
^ Guy de Maupassant (1904). "6 avril". Sur l'eau . Œuvres complètes illustrées de Guy de Maupassant. ill. Henri Lanos , grav. Georges Lemoine. Paris: Société d’éditions littéraires et artistiques. 2019年4月25日閲覧 。 p. 88
^ Guy de Maupassant & Henri Lanos (1904) , p. 132
^ a b Direction générale de l’enregistrement des domaines et du timbre [in フランス語] (15 February 1909). "Transcription des actes translatifs de propriété d'immeubles: Conservation de Draguignan" . Hypothèques : Registre de formalité . 1 - An VIII-1952. Draguignan: Archives départementales du Var (sur archives.var). 952, 4Q3983 (65): f. 117-118 (vues 118-119 / 202). 2020年8月1日閲覧 。
^ a b c Jean-Luc Tavernier [in フランス語] ; Insee [in フランス語] . "Convertisseur franc-euro: Pouvoir d'achat de l'euro et du franc - Base 2015" . www.insee.fr (le convertisseur franc-euro mesure l'érosion monétaire due à l'inflation). Montrouge : Insee. 2020年5月22日閲覧 。
^ Philippe Tétart (2015). "Des traces originales; La presse sportive azuréenne et niçoise (1876-1914)". In Jean-Paul Derai; Yvan Gastaut [in フランス語] (eds.). Rencontres autour du patrimoine sportif et de la mémoire du spor (pdf) (communications présentées lors des 4 premières éditions 2012-2013-2014-2015). Musée national du Sport ; Université Nice-Sophia-Antipolis . p. 9. 2020年3月29日閲覧 。
^ a b Louis Minart; Louis Baudry de Saunier [in フランス語] ; Henri Piazza (23 February 1894). "[?]". Le Cycle : organe hebdomadaire spécial de la vélocipédie . Paris (131): 125-126. ISSN 1146-9684 。
^ Pierre Souvestre [in フランス語] (1907). "5 XIX À l'aube du siècle". Histoire de l'automobile . Paris: Éditions Dunod (Henri Dunod et E. Pinat). p. 415. 2019年5月6日閲覧 。
^ "Introduction" (pdf) . Recherches régionales : Alpes-Maritimes et contrées limitrophes . [Nice]: Archives départementales des Alpes-Maritimes . 52 année (197, Colloque : 250 ans de présence britannique sur la Riviera): 2. January–March 2011. ISSN 2105-2891 . 2019年6月30日閲覧 。
^ Lindsay Benoist (January–March 2011). "Saint-Raphaël: la communauté britannique et le développement de la ville (1880-1914)" (pdf) . Recherches régionales : Alpes-Maritimes et contrées limitrophes (colloque : 250 ans de présence britannique sur la Riviera ). Nice: Archives départementales des Alpes-Maritimes . 52 année (197). ISSN 2105-2891 . 2020年6月3日閲覧 。 p. 52 n. 93
^ Angelo Mariani ; Joseph Uzanne [in フランス語] (1904). "Le docteur Lutaud". Figures contemporaines, tirées de l'album Mariani: Quatre-vingt portraits, autographes, notices et biographies . Vol. 9. Henri Brauer , Marius Clément, W. Lenders, A. Prunaire et D. Quesnel (gravure sur bois ). Paris: Henri Floury . 2020年7月21日閲覧 。 p. vue 175
^ a b Angelo Mariani & Joseph Uzanne (1904) , p. vue 174
^ "Échos de la république des lettres: Décès" . Romans-revue : revue de lectures . A (10): 798. 15 October 1925. 2019年5月18日閲覧 。
^ "Auguste Lutaud: Le roi de l'île d'Or". Îles : Le goût du voyage, l'appel des îles (récit). Lausanne : Îles magazine (71, La Croatie : Dubrovnik, Hvar, Korcula, Trogir, Mljet, Brac, Vis et mille et une îles désertes…): 112. September–October 2000. ISSN 1012-8107 。
^ Inventaire général du patrimoine culturel [in フランス語] . "83 - Saint-Raphaël: Maison de villégiature dite La Moineaudière " (jpg) . patrimages.maregionsud.fr (immatriculation 04830733XE). photogr. Françoise Baussan. Marseille : Conseil régional Provence-Alpes-Côte d'Azur. 2020年7月2日閲覧 。
^ Direction générale de l'enregistrement des domaines et du timbre [in フランス語] (22 March 1887). "Transcription des actes translatifs de propriété d'immeubles: Conservation de Draguignan" . Hypothèques : Registre de formalité . 1 - An VIII-1952. Draguignan: Archives départementales du Var (sur archives.var). 633, 4Q3666 (24): f. 84-89 (vues 85-90 / 202). 2020年8月2日閲覧 。
^ a b Direction générale de l'enregistrement des domaines et du timbre [in フランス語] (22 December 1898). "Transcription des actes translatifs de propriété d'immeubles: Conservation de Draguignan" . Hypothèques : Registre de formalité . 1 - An VIII-1952. Draguignan: Archives départementales du Var (sur archives.var). 801, 4Q3833 (42): f. 104-110 (vues 105-111 / 202). 2020年8月3日閲覧 。
^ Lindsay Benoist (2011) , p. 50 N. 83
^ Direction générale de l'enregistrement des domaines et du timbre [in フランス語] (13 November 1891). "Transcription des actes translatifs de propriété d'immeubles: Conservation de Draguignan" . Hypothèques : Registre de formalité . 1 - An VIII-1952. Draguignan: Archives départementales du Var (sur archives.var). 703, 4Q3735 (10): f. 13-17 (vues 14-18 / 202). 2020年8月3日閲覧 。
^ Direction générale de l'enregistrement des domaines et du timbre [in フランス語] (22 December 1898). "Transcription des actes translatifs de propriété d'immeubles: Conservation de Draguignan" . Hypothèques : Registre de formalité . 1 - An VIII-1952. Draguignan: Archives départementales du Var (sur archives.var). 801, 4Q3833 (42): f. 108 (vue 106 / 202). 2020年8月3日閲覧 。
^ Base POP Mérimée|IA83000576.
^ Jacques Chevillard (June 2007). "Quartier de Valescure". Les villas anciennes de Saint-Raphaël (1880-1920) . Saint-Raphaël: (imp. du Forum). p. 182-184. ISBN 978-2-9529253-0-3 。
^ "Paris mondain et la Côte d'Azur" . Paris-mondain : annuaire du grand monde parisien et de la colonie étrangère . Paris: A. Saint-Martin. 1 : 654 col. 1. 1908. 2020年5月16日閲覧 。
^ Parisette (6 October 1909). un des pseudonymes de Désirée Langer. "La vie hors Paris: Dans le bleu" . Le Figaro . 3. Paris: Le Figaro. 55e année (276): 1 col. 2-3. 2020年6月8日閲覧 。
^ Direction générale de l'enregistrement des domaines et du timbre [in フランス語] (29 October 1921). "Transcription des actes translatifs de propriété d'immeubles: Conservation de Draguignan" . Hypothèques : Registre de formalité . 1 - An VIII-1952. Draguignan: Archives départementales du Var (sur archives.var). 1107, 4Q4138 (4): f. 9-11 (vues 9-11 / 199). 2020年8月3日閲覧 。
^ Société d'études scientifiques et archéologiques de Draguignan et du Var (1925). "Liste des membres de la société" . Bulletin de la Société d'études scientifiques et archéologiques de la ville de Draguignan . Draguignan. 35, Mémoires XII-XIV 1924-1925: 141. 2019年6月6日閲覧 。
^ a b Nicolas Faucherre; Patrick Ferreira; Laurent Vidal (July–August 2015). "Les tours génoises: Architecture et quotidien" (pdf) . Dossiers d'archéologie . Dijon: Éditions Faton (370, Corse. Richesses archéologiques de la préhistoire à l'époque moderne): 59. ISSN 1141-7137 . 2019年9月17日閲覧 。
^ Jonatan Christiansen (2014p). "La signalisation maritime dans l'Antiquité: aménagement du littoral et appropriation territoriale". In Laurence Mercuri; Ricardo González Villaescusa; Frédérique Bertoncello (eds.). Implantations humaines en milieu littoral méditerranéen: facteurs d'installation et processus d'appropriation de l'espace : Préhistoire, Antiquité, Moyen Âge (actes des rencontres, 15–17 octobre 2013 / XXXIVe rencontres internationales d'archéologie et d'histoire d'Antibes). Rencontres internationales d'archéologie et d'histoire d'Antibes, no.34 ; 2013. Antibes: Éditions APDCA. pp. 229–241. ISBN 2-9041-1054-2 . 2020年6月27日閲覧 。 , p. 232
^ Parisette (17 September 1911). un des pseudonymes de Désirée Langer. "Chronique iledorienne" . Saint-Raphaël-Journal : Politique, mondain, littéraire, sportif, financier et d'intérêt local (sur archives.var.fr). 2. Saint-Raphaël. Quatorzième année (101): vue 133/384 col. 2. ISSN 2137-7073 . 2020年5月20日閲覧 。
^ Vidi (25 September 1910). "La tour de l'île d'Or: à Saint-Raphaël" . Saint-Raphaël-Journal : Politique, mondain, littéraire, sportif, financier et d'intérêt local (sur archives.var.fr). 2. Saint-Raphaël. Quatorzième année (51). ISSN 2137-7073 . 2020年5月10日閲覧 。 p. e 226/281 col. 2
^ "Place Pierre Coulette". Dénombrement de 1911: Liste nominative des habitants de la commune de Saint-Raphaël (sur archives.var.fr). Archives départementales du Var . 1911. p. vue gauche 3. 2020年5月20日閲覧 。
^ "Route de Valescure". Dénombrement de 1911: Liste nominative des habitants de la commune de Saint-Raphaël (sur archives.var.fr). Draguignan: Archives départementales du Var . 1911. p. vue droite 39. 2020年5月16日閲覧 。
^ Bescherelle aîné [in フランス語] (1874) [1845-1846]. "C". Dictionnaire national: ou, dictionnaire universel de la langue française . Vol. 1 (4 ed.). Paris: Éditions Garnier Frères . p. 547 col. 1. 2020年6月7日閲覧 。
^ Bescherelle aîné [in フランス語] (1874). "T". Dictionnaire national: ou, dictionnaire universel de la langue française, op. cit. . Vol. 2. p. 1426 col. 3. 2020年6月7日閲覧 。
^ a b c Philippe Pons (10 May 2020). "Île d'Or et carriers du Dramont: Histoire de la tour" . www.capesterel3c.com Le blog du 3C - Collectif des copropriétaires de Cap Esterel . 2020年5月11日閲覧 。
^ a b "Quartier du Dramont". Dénombrement de 1911: Liste nominative des habitants de la commune de Saint-Raphaëllieu=Draguignan (sur archives.var.fr). Archives départementales du Var . 1911. p. vue droite 75. 2020年5月16日閲覧 。
^ "Décès de Idago Ulivieri". Registres de l'état civil: Saint-Raphaël (sur archives.var.fr). Vol. Décès. Draguignan: Archives départementales du Var . 21 July 1910. vue 23 en haut à gauche. 2020年6月24日閲覧 。
^ a b Nicolas Pascal (14 June 2020). photogr. Sophie Louvet. "Et si la tour de l'île d'Or était d'inspiration toscane ?: Les carriers toscans du Dramont, employés à la construction de la fameuse tour de style sarrasin, de 1909 à 1910, auraient reproduit un monument à l'image de ceux de leurs villages" . Var-Matin . Nice: Groupe Nice-Matin . ISSN 0224-5477 . 2020年7月1日閲覧 。 inscription nécessaire.
^ "11 boulevard Félix martin". Dénombrement de 1906: Liste nominative des habitants de la commune de Saint-Raphaël (sur archives.var.fr). Draguignan: Archives départementales du Var . 1906. p. vue 85. 2020年7月1日閲覧 。 。
^ "1 rue du Veillat". Dénombrement de 1911: Liste nominative des habitants de la commune de Saint-Raphaël (sur archives.var.fr). Draguignan: Archives départementales du Var . 1911. p. vue 6 à gauche. 2020年6月1日閲覧 。
^ "Échos: Le roitelet" . Gil Blas . Paris. 31e année (12278): 1 Col. 4. 25 September 1910. 2020年5月23日閲覧 。
^ a b George de Celi (25 September 1910). "Notes d'actualité: Le roi de l'île d'Or" . La Gazette de France . Paris: Au Bureau d'adresse et de rencontre. 279e année: 1 col. 5. OCLC 74709672 . 2019年8月8日閲覧 。
^ a b Henri Giraud (21 September 1910). photogr. Bandiéri. "Le roi de l'île d'Or: En pleine République, en présence d'un préfet, dans une île tout près d'Agay et non loin de Saint-Raphaël un roi a été couronné et acclamé" . Le Petit Niçois (numérisé par les archives départementales des Alpes-Maritimes ). Nice. 31e année (262). p. 1 col. 1-3. ISSN 1769-5414 . 2020年5月22日時点のオリジナル よりアーカイブ。2020年5月22日閲覧 。
^ Template:BNF brut
^ Bertrand (24 December 2013). "Le Noël 1908 d'Octave Uzanne à Anthéor (Côte d'Azur): « Repas monstre de Noël avec les Bertnay, les deux Donnay, Descaves, Terrasse, un nommé Schneider et son amie, cantatrice youpine… »" . www.octaveuzanne.com (blog) . p. n. 1. 2020年5月24日閲覧 。 .
^ "Chronique locale: Arrivées" . Saint-Raphaël-Journal : Politique, mondain, littéraire, sportif, financier et d'intérêt local (sur archives.var.fr). 2. Saint-Raphaël. Quatorzième année (50): vue 223/281 col 3. 18 September 1910. ISSN 2137-7073 . 2020年6月4日閲覧 。
^ Vidi (1910) , p. vue 226/281 col.
^ a b c d "Le roi de l'île d'Or" . L'Express du Midi : Organe quotidien de défense sociale et religieuse . Toulouse. 20e année (6511): 1 col. 5. 26 September 1910. ISSN 2017-0238 . 2020年5月21日閲覧 。
^ "King of the isle of gold". Daily Mail (英語). Londres: DMG Media. 25 September 1910. ISSN 0307-7578 。
^ "Informations: Le roi de l'île d'Or" . La Gazette des eaux : Journal hebdomadaire d’hydrologie et de climatologie médicale . Paris: Librairie des Facultés de médecine et de pharmacie ; Expansion scientifique française. 56e année (2692): 512 col. 1. 8 October 1910.
^ Vidi (1910) , p. vue 226/281 col.
^ A. C. Barbier de Meynard (1886). Dictionnaire turc-français: supplément aux dictionnaires publiés jusqu'à ce jour . Vol. 2. Paris: Ernest Leroux . p. 202 col. 2. 2020年6月26日閲覧 。
^ Norbert Guillot; Philippe Pons (10 May 2020). "Île d'Or et carriers du Dramont: Histoire de la Tour" . www.capesterel3c.com Le blog du 3C - Collectif des copropriétaires de Cap Esterel . 2021年11月4日閲覧 。
^ Aymard Camille (24 September 1910). "L'avènement de Lutaud Ier" . La Liberté . Paris. 45e année (16187): 1 col. 6-7. 2019年7月1日閲覧 。
^ Docteur Minime (1896). Le Parnasse hippocratique . ill. Albert Robida. Paris: A. Maloine . 2019年6月1日閲覧 。
^ "Chronique locale: À l'île d'Or" . Saint-Raphaël-Journal : Politique, mondain, littéraire, sportif, financier et d'intérêt local, op. cit. (sur archives.var.fr). 2. Quatorzième année (100): vue 131/384 col.1. 10 September 1911. 2020年6月4日閲覧 。
^ a b c Parisette (17 September 1911). un des pseudonymes de Désirée Langer. "Chronique iledorienne" . Saint-Raphaël-Journal : Politique, mondain, littéraire, sportif, financier et d'intérêt local, op. cit. (sur archives.var.fr). 2. Quatorzième année (101): vue 133/384 col. 2-4. 2020年5月20日閲覧 。
^ Fanny Caroff (Spring 2000). "Différencier, caractériser, avertir: les armoiries imaginaires attribuées au monde musulman" . Médiévales . Saint-Denis: Presses universitaires de Vincennes (38, L'invention de l'histoire): 141. ISSN 1777-5892 . 2020年5月19日閲覧 。
^ "Le roi de l'île d'Or" . Le Radical : organe du parti radical et radical-socialiste . Paris. 33e année: 4 col. 4. 27 September 1913. 2019年7月1日閲覧 。
^ "Çà et là: Le roi de l'île d'Or" . Les Nouvelles : Grand journal du soir . Paris. 6e année (1626): 2 col. 4. 25 September 1913. BNF : 32826312 . 2019年7月7日閲覧 。
^ "À l'île d'Or" . Saint-Raphaël-Journal : Politique, mondain, littéraire, sportif, financier et d'intérêt local (sur archives.var.fr). 2. Saint-Raphaël. Dix-septième année (207): vue 134/308 col. 2-3. 29 September 1913. ISSN 2137-7073 . 2020年6月4日閲覧 。
^ a b c d e Jean du Piol (27 September 1913). "La fête chez le roi: Une journée à l'île d'Or" . Le Petit Niçois (numérisé par les archives départementales des Alpes-Maritimes ). Nice. 34e année (269): 1 col. 3-4. ISSN 1769-5414 . 2019年6月1日閲覧 。
^ André Nède (2 February 1914). "La vie hors Paris: Fortuna…" . Le Figaro . 3. Paris: Le Figaro. 60e année (38). p. 1 col. 2-3. 2018年8月12日閲覧 。
^ "La sobre sépulture du Dr Lutaud" (jpg) . Nice-Matin . Nice: Groupe Nice-Matin . 19 August 1984. ISSN 0224-5477 . 2019年7月4日閲覧 。
^ Eugene L. Rasor (2000). "7 Winston S. Churchill and World War II". Winston S. Churchill, 1874-1965: a comprehensive historiography and annotated bibliography . Bibliographies of world leaders, no.6 (英語). Westport, Conn.: Greenwood Press . p. 95. ISBN 978-0-313-30546-7 . 2019年5月10日閲覧 。
^ John B.L. Scribner. "Texas Military Forces Historical Sketch: The War For Texas Independence" . texasmilitaryforcesmuseum.org (Directories) (英語). 2019年5月11日閲覧 。
^ John B.L. Scribner. "Texas Military Forces Historical Sketch: 36th Infantry Division" . texasmilitaryforcesmuseum.org (Directories) (英語). 2019年5月11日閲覧 。
^ Steve Zaloga (2011). "7 The Other D-Day : Operation Dragoon". Armored Attack 1944: U.S. Army Tank Combat in the European Theater from D-day to the Battle of the Bulge (英語). Mechanicsburg, PA: Stackpole Books. p. 241. ISBN 978-0-8117-0769-5 。
^ Bruce Malone (3 January 2016). "France's Forgotten D-Day: Operation Dragoon and the Invasion of Southern France" . www.militaryhistoryonline.com (英語). Camel Beach. 2019年5月9日閲覧 。
^ John A. Hyman (1945). "36th Infantry Division History: From The Riviera To The Rhine" . texasmilitaryforcesmuseum.org (Link Archive (extraits d'un livre en préparation par la Section des relations publiques, avec la coopération de sources officielles )) (英語). 2019年5月10日閲覧 。
^ Template:BNF brut
^ "Nominations". Journal de la marine marchande . Paris: Journal de la marine marchande. 65e année (3310). p. 1163 col. 2. 26 May 1983. ISSN 0762-3151 。
^ a b c Caroline Caizergues (14 February 2013). "Centenaire de l'île d'Or: Lancement d'un concours photo et peinture" . ville-saintraphael.fr . Saint-Raphaël: Mairie de Saint-Raphaël. 2019年6月4日閲覧 。
^ "Centenaire de l'île d'Or: Un anniversaire inoubliable !" (pdf) . Le lien : Magazine municipal de Saint-Raphaël . Saint-Raphaël: Mairie de Saint-Raphaël (107, C’est la rentrée). 18 téléchargée (vue 10/15). September–October 2013. 2019年6月3日閲覧 。
^ Template:BNF brut
^ FranceArchives. "Lutaud, Charles Etienne" . francearchives.fr (inventaire - F/1a, F/4, LH). Paris: Service interministériel des archives de France . ISSN 2556-3521 . 2019年6月26日閲覧 。
^ BNF brut|11903977n.
^ Pierre Lyautey [in フランス語] (1959). "VI 1 Veillée d'armes 1904-1914". Gallieni . Paris: Éditions Gallimard . p. 214. BNF : 32401496 。
^ Gilbert Meynier [in フランス語] (1981). L'Algérie révélée: la guerre de 1914-1918 et le premier quart du XX siècle . Travaux de droit, d'économie, de sociologie et de sciences politiques, no.130. préf. Pierre Vidal-Naquet . Genève ; Paris: Librairie Droz ; Diffusion Minard : Diffusion Champion . p. 31.
^ Template:BNF brut
^ Angelo Mariani (1889). "Xavier Paoli". Figures contemporaines, tirées de l'album Mariani: Soixante-dix-huit biographies, notices, autographes et portraits . Vol. 4. préf. Jules Claretie , grav. A. Brauer, D. Quesnel, H. Sorensen et A. Prunaire. Paris: Henri Floury . p. vue 194 n. 2020年6月25日閲覧 。
^ Joseph Fabre (1894). "2 I Accident sur un chemin de fer". Manuel à l'usage des candidats aux fonctions de commissaire de police ou d'inspecteur spécial de la police des chemins de fer . Paris: A. Hennuyer. p. 393. 2020年6月9日閲覧 。
^ Xavier Paoli [in フランス語] (1912). Leurs Majestés (5 ed.). Paris: Paul Ollendorff . 2019年6月25日閲覧 。 , page de titre
^ Lara, René. "Préface ". In Xavier Paoli (1912) .
^ Laurence Engel [in フランス語] . "Les Tablettes de la Côte d'Azur: monde, sports, littérature, musique, beaux-arts" . presselocaleancienne.bnf.fr (Presse locale ancienne) . Paris: Bibliothèque nationale de France . 2019年12月20日閲覧 。 .
^ Template:BNF brut
^ Désirée Langer (1 May 1910). "La villa Andréa (villa Mariani)". Simple revue : bulletin mensuel, littéraire, artistique et mondain . Paris: 258–261. ISSN 2018-5081 . BNF : 32868349 。
^ Georges Régnal (May–June 1914). pseudonyme collectif de Casimir et Désirée Langer. "Angelo Mariani" . La Nouvelle Revue . 4. Paris. 13, trente-quinzième année: 222. 2020年5月16日閲覧 。
^ "Chronique locale: Arrivées" . Saint-Raphael-Journal : Politique, mondain, littéraire, sportif, financier et d'intérêt local (sur archives.var.fr). 2. Saint-Raphaël. Quatorzième année (48): vue 214/281 col. 4. 4 September 1910. ISSN 2137-7073 . 2020年5月10日閲覧 。
^ "Succursales et maisons du vin Mariani" . Le Temps : supplément illustré . 17. Mesnil-sur-l'Estrée: Firmin Didot et Cie. 43e année (18820s, Les figures contemporaines : extraits des prochains tomes XIII et XIV de l'album de Mariani): vue 16 col. 1-2. 13 January 1913. 2019年6月28日閲覧 。
^ Auguste Lutaud [in フランス語] (1896). "Préface". Les États-Unis en 1900 . Paris: Société d'éditions scientifiques. p. VIII. 2019年6月27日閲覧 。
^ Georges Régnal (15 October 1910). pseudonyme collectif de Casimir et Désirée Langer. "L'île d'Or et son roi". Simple Revue . Paris. ISSN 2018-5081 。
^ Richard Hill (1967). A biographical dictionary of the Sudan (英語) (2 ed.). Frank Cass. p. 98. BNF : 39406421 。
^ Notice d'autorité : Système universitaire de documentation .
^ Lindsay Benoist (2008). "Splendeurs et infortunes d'un lord anglais de Valescure: Lord Amherst et la villa Lou Casteou" (pdf) . Bulletin de la Société d’histoire de Fréjus et de sa région . Fréjus: Société d'histoire de Fréjus et de sa région (9): 92 (vue 5). ISSN 1774-590X . 2019年6月30日閲覧 。
^ "Notice no IA83000636" . base Mérimée , ministère français de la Culture .
^ Lady William Cecil [in フランス語] (1903). "Report on the Work Done at Aswân" . Annales du service des antiquités de l'Égypte (英語). Le Caire: Institut français d'archéologie orientale (4): 51-73. 2019年6月30日閲覧 。
^ Lady William Cecil [in フランス語] (1905). "Report of Work Done at Aswan during the First Months of 1904" . Annales du service des antiquités de l'Égypte (英語). Le Caire : Institut français d'archéologie orientale (6): 273-283. 2019年6月30日閲覧 。
^ Template:BNF brut
^ Maurice Donnay [in フランス語] (1 March 1949). "Scènes de la vie parisiennes" (PDF) . Revue des Deux Mondes (1829-1971) (notes journalières). Paris: Revue des Deux Mondes (5): 35. JSTOR 44855685 . 2020年5月23日閲覧 。
^ Template:BNF brut
^ "Notice no IA83000622" . base Mérimée , ministère français de la Culture .
^ Geneviève Négrel (2003). "Historique". Maison de villégiature (villa) dite villa Reichenberg, puis villa Marie . Inventaire général du patrimoine culturel région Provence-Alpes-Côte d'Azur, no.dossier IA83000622. photogr. Gérard Roucaute. Région Provence-Alpes-Côte d'Azur - Inventaire général du patrimoine. 2019年7月1日閲覧 。
^ "Échos et nouvelles: Ministère vacant" . Le Radical : organe du parti radical et radical-socialiste . Paris. 31e année. p. 1 col. 4. 27 March 1911. 2019年7月1日閲覧 。
^ Template:BNF brut
^ "Notice no IVR93_19868300142XB" . base Mérimée , ministère français de la Culture .
^ Jean-Louis Augé; Frank Claustrat; Agathe Dupont; et al. (2003). Carolus-Duran, 1837-1917 (exposition : Lille, Palais des beaux-arts, 9 mars-9 juin 2003 ; Toulouse, Musée des Augustins, 27 juin-29 septembre 2003) (フランス語). Paris: Réunion des musées nationaux . p. 152. ISBN 2-7118-4553-2 。
^ Template:BNF brut
^ "Revue du mois". Mercure de France : série moderne . Paris: Mercure de France. 15e année (170): 566. 1 February 1904. BNF : 34427363 。 .
^ "Chronique locale: Départ" . Saint- Raphaël-Journal : Politique, mondain, littéraire, sportif, financier et d’intérêt local (sur archives.var.fr). 2. Saint-Raphaël. Quatorzième année (50). vue 223/281 col. 3. 18 September 1910. ISSN 2137-7073 . 2020年5月10日閲覧 。
^ "Nos échos: M. Jean Aicard, ministre" . Paris-Midi : dernières nouvelles de la matinée . Paris. 6e année (1923). vue 2 col. 3. 16 June 1916. 2019年7月1日閲覧 。
^ Template:BNF brut
^ Template:Base Léonore
^ Notice d'autorité : Système universitaire de documentation .
^ Template:BNF brut
^ Christine Clerc (2003). "Les de Gaulle". Tigres et tigresses: histoire intime des couples présidentiels sous la Ve République (フランス語). Paris: Plon . ISBN 2-259-20251-9 。
^ "Rear-Admiral John Templeton-Cotill: Rear-Admiral John Templeton-Cotill, who died on May 23 aged 90, was one of the postwar Navy's most colourful characters" . The Telegraph (英語). Londres: Telegraph Media Group. 12 June 2011. 2019年12月13日閲覧 。
^ Template:BNF brut
^ Décret du 1996-01-03 portant classement de sites .
^ DIREN PACA [in フランス語] (September 2008). Mandelieu-la-Napoule, Théoule-sur-Mer (06), Saint-Raphaël, Fréjus, Les Ardrets-de-l'Estérel, Tanneron: Massif de l'Esterel oriental (pdf) (catalogue départemental des sites classés, Alpes-Maritimes et Var). Marseille: DIREN PACA. 2019年6月6日閲覧 。
^ a b BNF brut|11008693q.
^ Henry Carnoy [in フランス語] (1987). "4 Gasser". Dictionnaire biographique international des écrivains: vol. 1-4 (fac-sim. de l'éd. de Paris, 1902-1909, collection des grands dictionnaires biographiques internationaux). Hildesheim ; Zürich ; New York : Georg Olms Verlag. p. 72. ISBN =978-3-4870-6703-2 。
^ "L'île d'Or" . Saint-Raphaël-Journal : Politique, mondain, littéraire, sportif, financier et d'intérêt local (sur archives.var.fr). 2. Saint-Raphaël. Quatorzième année (49). vue 218/281 col.2. 11 September 1910. ISSN 2137-7073 . 2020年8月28日閲覧 。
^ Claude Geourjon (16 September 2005). "Erreurs de films: Corniaud, Le (1964)" . www.erreursdefilms.com (site personnel) . p. 3. Géographie. 2019年4月23日閲覧 。
^ Beth Allcock (5 February 2017). "Natalie Portman flashes her curvy derriere as she strips naked for new movie Planetarium " (jpg) . The Sun (photographie) (英語). Londres. 2019年12月21日閲覧 。
^ Manufacture française des pneumatiques Michelin [in フランス語] (1931). "Côte d'Azur. Haute-Provence". Guides Michelin régionaux . Clermont-Ferrand : Michelin et Cie. BNF : 34098415 。
^ Template:BNF brut
^ Template:BNF brut
^ Richard Zielenkiewicz [in フランス語] (8 June 2016). "Archives du blog: 2016. Juin" (png) . 1.bp.blogspot.com (blog de l'illustrateur ) . p. Saint-Raphaël. 2019年4月23日閲覧 。
^ Estérel, Côte d'Azur (jpeg) . Le Routard. Vanves : Hachette . 2016–2017. p. Première de couverture. ISBN 978-2-0191-2493-9 . 2022年3月8日閲覧 。
^ Jacques Baschet (1 October 1932). ill. Charles Pardinel. "Le Dramont" (jpg) . L'Illustration : L'automobile et le tourisme . Bobigny: Éditions de l'Illustration. 90e année (4673, numéro=Numéro spécial salon de l'automobile): Le Dramont et l’île d'Or vus de Boulouris. ISSN 0246-9251 . BNF : 34366081 . 2020年5月22日閲覧 。
^ Alphonse Donnadieu (1936). "IV En suivant la corniche d'Or de Saint-Raphaël à la rade d'Agay par Boulouris, le quartier d'Estérel-Plage, les carrières romaines des Caous, Le Dramont, et la légende de la reine Jeanne". Paysages de Provence: La Côte d'Azur de Saint-Raphaël à la baie de Nice (jpg) . ill. Paul Bret. Boulogne-Billancourt: Éditions Berger-Levrault . p. fig. 25. L'île d’Or . 2020年5月23日閲覧 。
^ Léon Haffner (29 April 1936). "Galères". À l’assaut des océans . Bibliothèque d'histoire politique, militaire et navale. préf. Alphonse Rio . Paris: Éditions de la Nouvelle Revue critique. p. 115. BNF : 32215497 。
^ John John Isler; Peter Isler (2015). "5 Partons à la voile". La Voile pour les nuls . Pour les nuls (フランス語). Translated by Claude Raimond. préf. Maud Fontenoy . Paris: Editis . p. Les allures. ISBN 978-2-7540-7424-7 。 ;
^ Pierre Cabanes [in フランス語] ; Olivier Chaline [in フランス語] ; Bernard Doumerc; Alain Ducelier; Michel Savignon (2001). "4 1 La mer (XVIIe-XIXe siècle". Histoire de l'Adriatique . L'Univers historique. préf. Jacques Le Goff . Paris: Éditions du Seuil ]. ISBN 2-0202-8235-6 。 )|passage=Naviguer}}
^ Éric Pillon; Éric Pillon enchères (2011). "Pierre Boudet". Floralies 2011, 2e partie: tableaux du XIX siècle et modernes, sculptures (pdf) (catalogue de vente, Versailles, Hôtel des ventes du château, 15 mai 2011). Versailles. p. 38 (vue 40) ; lot 178 : image. BNF : 42507683 . 2019年4月27日閲覧 。
^ Philippe Metzger; Benoît Lugan; Jean-Louis Goubin (2004). L’œil des maîtres: Les peintres officiels de la Marine à la revue navale du 15 août 2004 (フランス語). préf. Jean-Louis Battet , Michel Bez et Jean-François Deniau . Paris: Éditions des Riaux. ISBN 2-84901-018-9 。
^ Richard Ferriere. "Tintin et l'aviation: L'Île Noire (1938)" . richard.ferriere.free.fr (site personnel) . 2019年4月23日閲覧 。
^ Daniel Justens; Alain Préaux (2011). HerGPS: l'univers géographique d'un célèbre reporter (フランス語). Waterloo : Avant-Propos. ISBN 978-2-930627-11-3 。
^ Benoît Peeters [in フランス語] (2002). "3 Fausse monnaie". Hergé, fils de Tintin . Grandes biographies (フランス語). Paris: Flammarion . ISBN 2-08-210042-1 。
^ Philip Plisson [in フランス語] ; Arnaud Guérin; Patrick Mahé [in フランス語] ; Gilles Martin-Raget (2012). La France vue de la mer (フランス語). Vol. 5, Des Pyrénées à Menton. Paris: Éditions du Chêne . ISBN 978-2-8123-0544-3 。
^ Michelin, guides touristiques (21 February 2012). Côte d'Azur, Monaco: découvrez nos circuits entre mer et montagne (jpg) (image de couverture). Le guide vert (フランス語). Boulogne-Billancourt: Manufacture française des pneumatiques Michelin . p. couverture. ISBN 978-2-06-716888-6 . 2019年5月6日閲覧 。
^ Etienne Poiarez (18 May 2016). "Benjamin Fincher – Santa Lucia" . www.indiemusic.fr . 2020年9月27日閲覧 。
^ Benjamin Fincher (13 May 2016). L'île où dort M.Lutaud (Le Dramont) (YouTube video). 2020年9月27日閲覧 。
^ a b O. W. Newport (December 1986). Translated by de l'anglais par M. Monicard. "Les îles françaises de la Méditerranée (deuxième partie)" (pdf) . Bulletin de liaison semestriel de l'Association philatélique du pays d'Aix : le pays d'Aix en philatélie Provence (original paru dans Stamp Magazine , novembre 1985) (フランス語). Aix-en-Provence : Association philatélique Aix-en-Provence (5): L'île d'Or. ISSN 1168-0326 . 2020年7月27日閲覧 。
^ Alain (21 April 2014). "Angelo Mariani (1838-1914): Blog dédié à l'inventeur corse de la première boisson à la coca" . angelomariani.wordpress.com (blog) . Une brève histoire de la Fontaine dite la Siagnole à Valescure commune de Saint-Raphaël (Var). 2020年7月27日閲覧 。
^ Dercetas (27 December 2011). "Levy Fils et Cie ( LL )" . cparama.com (forum). 2020年7月27日閲覧 。
^ "Le Dramont. L'île d'Or et vue sur le sémaphore" (jpg) . archives.var.fr (cliché). photogr. Lapie Service aérien, dans « iconographie ». Draguignan: Archives départementales du Var . 2020年7月27日閲覧 。
^ Jacques Fournier (24 July 2016). "Histoire d'éditeur de cartes postales: LAPIE" . atec-troyes.blogspot.com (blog de l'Académie troyenne d’études cartophile). pseudonyme : Fouinos. Troyes. 2020年7月26日閲覧 。
^ L'Adresse Musée de La Poste [in フランス語] (January 2014). "Tarifs postaux 1849-2014 de la lettre de premier échelon de poids et de la carte postale dans le régime intérieur et le régime international" (pdf) . www.ladressemuseeedelaposte.fr . La Poste . p. 4. 2019年8月5日閲覧 。
^ a b Christer Brunström (2004). "Insula Aurea Phantom: Background information to the Insula Aurea stamps" (jpg) . Atalaya - Cinderella Magazine (英語). Halmstad: Christer Brunström. 30, Winter 2004-5 (1): 6–7. 2021年9月29日閲覧 。
^ a b Association des collectionneurs de flammes et d’estampilles (Ascoflames). "Flamme-annonce: La flamme" . AS.CO.FLAM.ES, le périodique de l’Association des collectionneurs de flammes et d'estampilles (site non modéré). Saint-Aubin-de-Médoc: Ascoflames. 2021年9月26日閲覧 。
^ Jean Goanvic. "La philatélie, témoin de l'istoire: Documentation philatélique replacée dans son contexte historique" (jpg) . histoire-et-philatelie.fr (site personnel). p. 2. La guerre aux côtés des Alliés (1940-1945). 2021年9月25日閲覧 。
^ David H. Ahl. "Hergé ~ Tintin Philately Stamps, Souvenir Sheets and Covers" . www.swapmeetdave.com (英語). Abkhazia, Somaliland, and Other Self-Declared Independent States. 2021年9月30日閲覧 。
^ David H. Ahl. "Hergé ~ Tintin Philately Stamps, Souvenir Sheets and Covers" (jpg) . www.swapmeetdave.com (site personnel) (英語). p. Abkhazia, Somaliland, and Other Self-Declared Independent States. 2021年9月30日閲覧 。
^ David H. Ahl. "Hergé ~ Tintin Philately Stamps, Souvenir Sheets and Covers" (jpg) . www.swapmeetdave.com (site personnel) (英語). p. Abkhazia, Somaliland, and Other Self-Declared Independent States. 2021年9月30日閲覧 。
^ "Prêt-à-poster 2007: La poste somalilandaise" . www.bedetheque.com (base de données). Besançon: bedetheque.com. 2021年9月29日閲覧 。
^ Fabio V. Sezioni. "Immagini relative ai miei messagi per il forum filatelia e francobolli" (jpg) . www.fabiovstamps.com (forum) (イタリア語). Milan: Centro italiano filatelia resistenza. p. 132. 2021年9月29日閲覧 。
^ Nathalie Collin [in フランス語] . "Collector - Entre ciel et terre… Les îles françaises: Les îles méditerranéennes" (jpg) . www.laposte.fr . Paris: La poste . 2019年4月25日閲覧 。
^ Parisette (17 September 1911). un des pseudonymes de Désirée Langer. "Chronique iledorienne" . Saint-Raphaël-Journal : Politique, mondain, littéraire, sportif, financier et d'intérêt local (sur archives.var.fr). 2. Saint-Raphaël. Quatorzième année (101). vue 133/384 col. 3. ISSN 2137-7073 . 2020年5月20日閲覧 。
^ "Token - Fonderie Saint Luc (Saint Raphaël, île d'Or)" . collectgram.com (site de collectionneurs) (英語、ポルトガル語). 2019年12月7日閲覧 。
^ Alain (30 October 2015). "Angelo Mariani (1838-1914): Blog dédié à l'inventeur corse de la première boisson à la coca" . angelomariani.wordpress.com (blog) . p. La villa Andréa de Valescure à Saint-Raphaël (Var), propriété d’Angelo Mariani. 2020年6月26日閲覧 。
^ Muriel Périne (28 October 2009). "Qui sont les héritiers du « quartier anglais » ?" . Nice-Matin . photogr. Philippe Arnassan. Nice: Groupe Nice-Matin . ISSN 0224-5477 . 2020年6月26日閲覧 。
^ Antoine Dosdat. "Généalogie d'Antoine Dosdat: Laurence Bureau" . gw.geneanet.org . Geneanet. 2020年6月26日閲覧 。
外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、
イル・ドール に関連するカテゴリがあります。