西ドイツのTEE車両 VT11.5型の前頭部
Trans Europ Express , 略称TEE は、1957年 から西ヨーロッパ で運行されていた列車 の種別 である。すべて一等車 からなる昼行の国際列車 で一定の条件を満たしたものがTEEとされたが、後に西ドイツ 、フランス 、イタリア では国内発着の最優等列車 もTEEとなった。TEEには原則として一往復ごとに個別の列車名 がつけられていた。一等国際列車としてのTEEは1988年 に全廃され、国内列車のTEEも1991年 に廃止された。1993年 に二等車 を含む列車として復活するものの、これも1995年 に廃止された。
日本語では「欧州特急」[ 1] 、「ヨーロッパ横断特急」[ 2] [ 3] 、「ヨーロッパ国際特急」[ 4] [ 注釈 1] 等と訳される。
特徴
TEEラインゴルト (1986年)
TEEは本来、国際的に活動するビジネス客 を主な対象として設定された列車である。また第二次世界大戦 後に急速に発達した航空機 や自動車 に対抗できる速度や利便性、快適性を追求した列車でもある[ 1] [ 5] 。
TEEでは出入国管理 や税関 検査などの手続きは、原則として走行中の車内で行なえるようになっており、国境 駅での長時間停車 は不要になった。また食堂車 を連結するか、もしくは車内の厨房 からケータリング サービスが行なわれた[ 5] 。列車によっては車内からの電話 や秘書 によるタイプセット などのサービスが行なわれるものもあった[ 6] [ 7] 。
ほとんどの系統でTEEは1日に1往復から2往復程度であり、早朝に始発駅 を出て昼頃に終着駅 に着き、逆向きの列車は夕方に発車して深夜に到着するというダイヤ が組まれた。これはビジネス客の出張 利用を想定し、午後を目的地での仕事に使えるようにしたためであり、昼間を列車の中で過ごすことはあまり想定されていない[ 5] [ 1] 。
TEEの利用には各国鉄の一等 運賃 を合算したものに加え、TEE用の特急料金 が必要であった[ 1] [ 8] 。その額は1957年 当時では1 kmあたり1.47金サンチーム[ 注釈 2] [ 9] と定められており、実際にはこれを各国の通貨 に換算した料金表が適用された。例えば西ドイツ で発券される場合は225 km以下を4ドイツマルク とし、226 kmから275 kmまでは5マルクのように50 kmごとに1マルク加算された[ 10] 。なお、ビジネス客を主な対象としていたこともあり、小人料金の設定はなく、各種の割引 制度もほとんどが適用されなかった[ 11] 。ただしユーレイルパス は利用可能であり、この場合、特別料金も不要であった[ 12] 。
TEEは一部の国内区間相互発着利用の場合を除いて、基本的に全車指定席 であり、利用には予約が必要だった[ 1] 。予約業務のため、列車名や駅名、その他必要な用語について各国共通の電報略号 と通信手順が定められていた[ 13] 。
歴史
TEE以前の国際列車
戦間期 のラインゴルトの一等客車
ヨーロッパ における国際列車 の運行が本格化するのは1872年 に国際寝台車会社 (ワゴン・リ)が設立されてからである。1880年代 から1890年代 にはオリエント急行 、北急行 など多くの国際列車が生まれた[ 14] 。これらは主にワゴン・リ社の一等 寝台車 と食堂車 で編成され、国境や主要駅で機関車 や客車 をつなぎ変え ながら運行された[ 15] 。
第一次世界大戦 後の1920年代 には、こうした寝台列車のほか、サロン車(プルマン 車)による昼行の国際列車も登場した。ワゴン・リ社によるエトワール・デュ・ノール やエーデルヴァイス 、そのライバルであるミトローパ 車によるラインゴルト などが代表例であり、これらはTEEの時代まで名を残した。これらの列車は一等および二等 の客車のみ(当時のヨーロッパは三等級制 )で編成されていた[ 14] 。また、1930年代 になるとドイツ やイタリア 、フランス では、従来の蒸気機関車 牽引の列車よりも高速な気動車 や電車 による優等列車 も現れた[ 14] [ 16] 。
第二次世界大戦 によってヨーロッパの鉄道は壊滅的な打撃を受けたが、1950年代 には戦前を上回る優等列車網が復活した。1953年 、西ドイツでは12往復からなる気動車特急列車 (Fernzug, F-Zug )網が誕生した[ 17] 。同じ年イタリア ではETR300 形特急電車 (通称セッテベロ)が運行を始めた[ 18] 。
一方で、このころには鉄道は航空機 や自動車 との競争に晒されるようになった。また特急列車の利用客も変わり、ごく限られた上流階級 のための列車に代わって、国際的に活動するビジネス客のための列車が求められるようになっていた[ 5] 。
TEEの構想
1950年代の主力旅客機の一つであるDC-6 (サベナ航空 機、1960年)
TEEの構想を提案したのはオランダ国鉄 の総裁であったF.Q.デン・ホランダー(Frans den Hollander )である。彼は1953年 10月30日の記者会見 で、Europa Express(ヨーロッパ急行)という新たな国際列車を提唱した。これはすべて一等車からなる高速の気動車列車で、当時の旅客機 と同等以上の内装を有し、国境で乗務員 を交代することなく運行されるべきものとされた[ 9] 。
デン・ホランダーは、300 km から500 km程度の距離では列車は航空機に所要時間の面で優位に立てると考えた[ 5] 。また、彼はこのころ国営航空会社KLM の役員も兼ねており、当時急速に発展していた航空業界のサービスを鉄道に取り入れようという意図もあった[ 9] 。一等専用としたのは、当時の航空運賃では二等旅客が航空機を選ぶことはないと考えられたためである[ 19] 。
デン・ホランダーの提案は国際鉄道連合 で検討され、翌1954年 10月にはヨーロッパ時刻表会議 の議題となった[ 9] 。当初は国際寝台車会社 をモデルに列車運行のための新会社を設立し、オランダの気動車を元にした共通車両を製作して使用するという構想であった[ 13] 。しかし各国間の調整がうまく行かず、以下の基準を満たした車両を各国鉄が製作し、共同運行することとした[ 20] [ 8] [ 21] 。
TEEのロゴマーク
また新列車の種別 名はTrans Europ Express, 略称 TEEと定められた[ 9] 。1954年時点で共同運行に参加を表明したのは以下の7か国の国鉄 である[ 8] 。
これらの国鉄により「TEE委員会」が組織された。その本部はデン・ハーグ に置かれ、その下に技術 、時刻表 、営業の3つの専門委員会が設置された[ 13] 。TEE委員会の初代委員長にはデン・ホランダーが就任し、その後もオランダ国鉄の総裁 がTEE委員長を兼任した[ 8] [ 5] 。
オランダ国鉄とスイス国鉄はTEE用の気動車を共同で製作した。ベルギー国鉄とルクセンブルク国鉄はTEEのメンバーではあったが、車両は提供していない[ 13] 。
1956年 のヨーロッパ時刻表会議において、翌1957年 6月2日 夏ダイヤ改正 からTEEの運行を始めることが決まり、そのダイヤが承認された。また、この時までにオーストリア連邦鉄道 (オーストリア国鉄)がTEEのメンバーに加わった[ 8] 。
初期の列車
1956年の時刻表会議で翌1957年 の運行開始が決まったTEEは以下の12往復である[ 22] [ 23] 。
1958年のブリュッセル万国博覧会 における車両展示
ただし、イタリア国鉄の気動車は製造が遅れてダイヤ改正に間に合わないため[ 24] 、リーグレ、メディオラヌムの2本については冬ダイヤ改正(9月29日)時まで運行開始を遅らせることとされた[ 22] 。このため6月2日 に運行を始めたのは10往復である。実際にはリーグレは8月12日 、メディオラヌムは10月15日 に運行を始めた[ 25] 。また西ドイツ国鉄のTEE用気動車も製造が遅れ、当初は前世代の気動車による代走となった[ 26] 。
これらの列車のダイヤは、エーデルヴァイス、エトワール・デュ・ノール[ 注釈 6] 、ヘルヴェティアを除いては、一方向が早朝に発車し、逆向きの列車は夕方に発車するというものであり、「日帰り」利用が可能なように設定されていた[ 22] 。
これらに加え、1957年 10月3日にはTEEパルジファル (パリ - ドルトムント、フランス国鉄車)が、1958年 6月1日 にはTEEレマノ (ミラノ - ジュネーヴ 、イタリア国鉄車)が新設された[ 23] 。
動力の変遷
ヨーロッパ諸国の主な電化方式 直流1500V
直流3000V
交流15kV 16 2/3Hz
交流25kV 50Hz
TEEは当初すべての列車が気動車 列車であった。しかしスイス国鉄 では、アルプス山脈 やジュラ山脈 の急勾配区間を越える列車では気動車では出力不足であり、強力な電車 が必要であると考え、1957年 以来国際列車用の電車の研究を行なっていた[ 27] [ 28] 。一方で、西ヨーロッパでは主に以下の4通りの電化 方式が混在していた[ 29] 。
1961年 、スイス国鉄はこれら4方式すべてに対応したRAe TEE II形電車を投入し、ゴッタルド 、ティチーノ(ともにチューリッヒ - ミラノ )、シザルパン (パリ - ミラノ)の3往復の電車TEEが新設された[ 30] [ 23] 。
1960年代 には西ヨーロッパの主要幹線 の電化が進み、スイス以外の各国鉄もTEEに電気動力を用いようとした[ 29] 。しかし構造が複雑で取り扱いの難しい交直両用電車 は受け入れられず、電気機関車 牽引の客車列車とし、必要に応じて機関車を交換しながら運行する方法が選ばれた[ 30] 。また、国境付近など電化されていない区間ではディーゼル機関車 が用いられることもあった[ 31] 。
1963年 9月1日 、パリ - ブリュッセル 間のTEEブラバント が初の電気機関車牽引のTEEとなった[ 32] [ 33] 。
1964年 以降フランス国鉄とベルギー国鉄は共同で開発したTEE用客車 をパリ・ブリュッセル・アムステルダム 系統のTEEに用いるようになった[ 30] 。後にスイス国鉄もフランスと同型の客車を保有するようになり、フランス国鉄所有車と混結してフランス・スイス間などのTEEに用いた[ 34] 。
西ドイツ国鉄では1962年 にラインゴルト 用に製造したのと同型の客車を増備し、TEEにも使用した[ 35] 。1965年 3月1日にTEEヘルヴェティア が初の西ドイツ客車によるTEEとなった[ 36] 。
イタリア国鉄ではTEEに気動車を用い続けていたが、1960年代 末になるとイタリアのTEE用気動車は冷房 がないなど他国のTEE用客車と比べ見劣りし、もはやTEEにはふさわしくないとされるようになった。そこでイタリア国鉄も1969年 にTEE客車の開発に着手した。1972年 5月28日にTEEレマノ が客車列車化され、1972年中にイタリア国鉄担当のTEEはすべて客車化された[ 37] 。
オランダ、ルクセンブルク、オーストリア、デンマークの各国鉄の客車はTEEには用いられていない。ただしルクセンブルクを除く各国の機関車はTEEの牽引に用いられた[ 38] [ 39] 。
なお客車化によって余剰となったTEE用気動車を用いることにより、新たにTEEに格上げされた列車にディアマント (ドルトムント - アントウェルペン 、西ドイツ国鉄車、1965年昇格)とバヴァリア (チューリッヒ - ミュンヘン 、オランダ国鉄・スイス国鉄車、1969年 昇格)がある。ただしこれらも後に客車列車化されている[ 40] [ 41] 。
最後まで気動車列車として残ったTEEはエーデルヴァイス であるが、これも1974年 5月26日 に電車化され、気動車TEEは消滅した[ 42] 。
国内列車としてのTEE
1965年夏の西ドイツ(赤)およびフランス(青)の国内TEE
TEEは本来すべて国際列車 であるが、1965年 5月30日 からは西ドイツ とフランス でそれぞれの国内のみを走る最優等列車もTEEとされるようになった。このきっかけは国際特急列車(F-Zug)であったラインゴルト を新たにTEEにしようとしたことである[ 43] 。ラインゴルトはオランダ 、西ドイツ、スイス の3ヶ国を走る国際列車で、一等車のみの編成であり、1962年以来使用されている車両もTEEに十分ふさわしいものであった。そこで1964年 のTEE委員会で、西ドイツ、オランダ、スイスの3国鉄はラインゴルトをTEEとすることを提案した。ところが、ラインゴルトは途中のデュースブルク で西ドイツの国内特急列車ラインプファイル (ドルトムント - ミュンヘン )と客車のほぼ半数を入れ替えていた。そこで西ドイツ国鉄はラインプファイルも同時にTEEに加えられるべきであると主張した。これに対してフランス国鉄はル・ミストラル (パリ - ニース )もラインゴルトなどと同等の客車を用いており、TEEとされるべきであると主張した。委員会での交渉の結果、ラインプファイル、ル・ミストラルのほか、ラインゴルトと同型の客車が使われているブラウエル・エンツィアン (ハンブルク - ミュンヘン)もTEEに昇格することになり、3往復の国内TEEが誕生した[ 44] [ 45] 。なお、イタリア で1953年 から運転されていた電車 特急セッテベロ もTEEに加えることが検討されたが、特急料金が高すぎるとしてこのときは見送られた[ 43] 。
その後1970年 にブラウエル・エンツィアンはオーストリア まで延長されて国際列車となった[ 46] 。また1971年 9月27日 のダイヤ改正で、西ドイツ国鉄はTEEと同等の客車を用いた国内優等列車であるインターシティ を新設した(後述 )。これによりラインプファイルはインターシティに種別を変更し、西ドイツ国内列車のTEEは一旦姿を消した[ 47] 。
フランスでは、1969年 にル・ミストラルを補完する国内TEEとしてル・リヨネ(パリ - リヨン )が新設され、1970年 からはそのほかの幹線にも国内TEEが次々と誕生した。最盛期には、国際TEEと合わせると、パリ を起点に放射状に広がる幹線のほぼ全てにTEEが運行されていた[ 48] 。
またイタリア でも、1973年 から国内の優等列車の一部がTEEとされるようになった[ 48] 。これらは前年に国際TEEに投入した客車を改良した新型客車「グラン・コンフォルト」を用いていた[ 37] 。1974年 にはセッテベロもTEEとなった[ 18] [ 49] 。
高速化
TEEの最高速度は1957年当時はすべて140 km/hであったが、電車や電気機関車を用いることにより1960年代には160 km/h程度まで向上した[ 33] 。
1960年代 後半には日本 の新幹線 の影響を受けてヨーロッパでも鉄道の高速化 に関心が高まった。ヨーロッパ初の200 km/h運転は1965年 に西ドイツ国鉄が試験的に行なったものであるが、恒久的に行なわれたものとしては1967年 のル・キャピトール (パリ - トゥールーズ )からとなる。この列車は1970年 にTEEに昇格した[ 50] 。
1970年代 にはフランスや西ドイツの多くの路線でTEEの最高速度 が200 km/hに引き上げられた。中でもパリ - ボルドー 間のTEEアキテーヌ 、エタンダール は表定速度 が151.5 kmに達し、TGV 以前のヨーロッパでは最も速い列車であった[ 51] [ 50] 。
ネットワークの拡大
1969年 6月1日 のTEEカタラン・タルゴ (バルセロナ - ジュネーヴ )の運行開始により、レンフェ (スペイン 国鉄)が新たにTEEの運営に加わった[ 52] 。また、1974年 5月26日 にはシュトゥットガルト とコペンハーゲン を渡り鳥コース 経由で結ぶTEEメルクール が誕生し、デンマーク国鉄 もTEEに加わった[ 53] 。これによりTEEの走る国は11ヶ国(モナコ を含む)となった。
なお、1971年 5月23日 からヨーロッパでの列車番号 の付け方に関する規則が改められ、1から99までの2桁以下の番号はTEE専用となった[ 48] 。また西ドイツ を経由するTEEの中には、このとき列車番号が奇数 の向きと偶数 の向きが反転したものもある[ 54] 。
TEEの列車数が最大に達したのは1974年 - 75年 の冬ダイヤ期間である。この時期は45往復(臨時列車を除く)のTEEが運行されていた。うち30往復が国際列車、15往復がフランスとイタリアの国内列車であった[ 55] [ 56] 。
インターシティの登場
1971年の西ドイツのインターシティ網。点線は西ドイツに乗り入れるTEE。
1971年 9月26日 、西ドイツ国鉄はインターシティ という新たな優等列車を導入した。インターシティは全て一等車 からなり、車両はTEE用の客車、あるいは気動車と同一のもので、停車駅や速度も同区間のTEEと同等のものである。その意味では「国内版TEE」とも呼べるものであった[ 57] [ 58] 。
しかしダイヤ の設定に関する思想は従来のTEEとは大きく異なっていた。TEEは一つの系統につき一日一往復か二往復程度しか運行されておらず、「日帰り利用」を意識したために早朝や夕方以降の時間に偏る傾向があった。これに対しインターシティは4つの系統で約2時間間隔のパターンダイヤ を採用した。また主要駅では異系統のインターシティを相互に乗り換えられるようになっていた[ 57] [ 58] 。
国際列車であるTEEも、西ドイツ国内のインターシティ路線と重複する部分ではインターシティ網の一部を担うものと位置づけられた。このため一部のTEEでは2時間間隔のパターンに合わせるため時刻や経路が修正された[ 59] 。また西ドイツ国鉄の客車・気動車を使うTEEは原則としてインターシティと共通の車両とされ、一日の走行距離を均等にするために複数のTEEやインターシティを組み合わせた複雑な運用 が行なわれた[ 60] 。
一二等列車への転換
1970年代 になると国際列車の利用者も大衆化 し、二等車 の需要が増えるのと引き替えに、一等車 のみのTEEは利用が衰え始めた[ 57] 。このため1975年 のTEEゲーテ (パリ - フランクフルト・アム・マイン )の廃止[ 注釈 7] 以降、廃止あるいは二等車を含む特急・急行に格下げされるTEEが現れた[ 48] 。
西ドイツのインターシティも1976年 以降一部の列車に二等車を連結するようになり、1979年 5月27日 から全てのインターシティが二等車を含むようになった。この影響でインターシティ網の一部を担っていたTEEの多くも、1978年 から1979年 にかけて二等車を連結してTEEでなくなった。一方で、少数ながら残った西ドイツ国内の一等車専用の優等列車が新たにTEEに加わり、7往復の西ドイツ国内TEE(国際列車から国内列車に変更されたローラント を含む)が生まれた[ 61] [ 62] 。これにより西ドイツ、フランス、イタリアの国内TEEの総数が国際TEEの数を上回るようになった[ 55] 。ただし、西ドイツの国内TEEは数年以内に全て廃止、あるいは二等車を含むインターシティに変更された[ 63] 。
1980年 6月1日 からは西ヨーロッパの国際列車 に対してもインターシティ という種別が用いられることになり、二等車を含むようになっていた元TEEの多くが国際インターシティとなった[ 64] 。その後もTEEの廃止やインターシティへの変更は続いた[ 63] 。
1978年 のメルクール のインターシティ化によりデンマーク に乗り入れるTEEがなくなり、1981年 にはルクセンブルク 、1982年 にはスペイン およびモナコ から、さらに1984年 にはオーストリア からもTEEが姿を消した[ 61] [ 63] 。
終焉
1987年 5月31日 、ヨーロッパの国際列車の新たな種別としてユーロシティ が誕生し、元TEEであった国際インターシティの多くはユーロシティとなった[ 65] 。この時のダイヤ改正でTEEラインゴルト (アムステルダム - バーゼル )が廃止され、TEEイル・ド・フランス、ルーベンス(ともに パリ - ブリュッセル ) はユーロシティに変更された[ 66] 。なおユーロシティは二等車 を含むのが原則であったが、イル・ド・フランスとルーベンスは1993年 までTEE時代と同じ一等車 のみの編成であった[ 67] 。
また、イタリア の国内列車のTEEもこの時全てインターシティに置き換えられて廃止された。これによりTEEとして残っているのはゴッタルド (チューリッヒ - ミラノ )とフランス国内の4往復のみとなった[ 66] 。
ゴッタルドは1988年 9月25日 のダイヤ改正をもってユーロシティに種別変更され、「一等車のみからなる国際列車」としてのTEEは消滅した。フランス国内のTEEも次々と二等車を含むコライユ またはTGV に置き換えられた[ 66] 。
最後までTEEとして残ったのはパリ とトゥールコワン をリール 経由で結んでいた一往復(トゥールコワン行がフェデルブ、パリ行がヴァトー)であるが、これも1991年 5月31日 の運行を最後に廃止された[ 68] 。
なお、1982年 から1993年 までフランクフルト空港 とボン 、ケルン およびデュッセルドルフ を結ぶルフトハンザ・エアポート・エクスプレス という列車が存在した。この列車はTEEとして承認されたものではなく、ルフトハンザドイツ航空 の利用者専用であり、鉄道の時刻表 にも掲載されていなかった。しかし、西ドイツ国鉄はこれにTEEとしての列車番号 を付けて運行した[ 69] 。使用した車両は一等車専用であった時代のインターシティ用電車 、すなわちTEEと同等とされる設備を持ったものであり、2日のみではあるが正規のTEEに使用されたこともあった[ 70] 。
ノンストップ列車としての復活
1993年 5月23日(LGV北線 部分開業と同日)から、フランス国鉄 とベルギー国鉄 はパリ - ブリュッセル間を途中駅無停車で結ぶ列車4往復をTEEとし、列車種別としてのTEEが2年ぶりに復活した。ただしこれらのTEEはかつてと異なり、一等車と二等車の双方を連結していた。これらの列車にTEEの種別名を用いたのはマーケティング 上の理由によるものである。当時パリ - ブリュッセル間の列車は航空機 との競争にさらされていた。このころ「ユーロシティ」の種別は陳腐化してしまっていたため、よりイメージの良い"TEE"の名称を用いたのである[ 68] 。
1995年 1月23日、パリ - ブリュッセル間のTGV 運転開始と引き替えにTEEのうち3往復が廃止され、ブリュッセル行イル・ド・フランス(TEE 85)とパリ行ヴァトー(TEE 88)のみが残った。この一往復も1995年5月26日の運行を最後に廃止された。この日20時01分にブリュッセル南駅に到着したイル・ド・フランスが史上最後のTEEとなった[ 71] 。
TEEの功績と、21世紀のTEE
観光列車として運行される元TEE車両(2007年)
TEEが本来の目的を果たした期間は決して長くはなかったが、ビジネスユーザをターゲットとしたその上質なサービスは、鉄道におけるサービスレベルの向上に貢献した。また、各国が競ってサービス向上に努めたことも特筆されよう。これらの要素は、後のインターシティ や、現在の高速鉄道 にも引き継がれている。
そのため、ヨーロッパの鉄道趣味界 では、TEEなき後も、それに対する思い入れが強い。2007年 は、TEEが運転を開始してちょうど半世紀が経過した年であるが、既にTEEとして運転されている列車は皆無であるにもかかわらず、当時の車輌によるイベント列車を初めとして、50周年記念行事や、出版物の発行が行われている。
一方、2000年 には、中欧3カ国の鉄道事業者であるドイツ鉄道 ・スイス連邦鉄道 ・オーストリア連邦鉄道 により、"TEE Rail Alliance" と呼ばれる組織が結成されている。20世紀 末から急速に発展している航空連合 に対抗する意味もあり、この3ヶ国を相互に結ぶ列車に対し、統合されたサービスを提供することを目標としている(類似の組織としては、欧州の高速鉄道事業者連合 "Railteam" がある)。
年表
個別の列車の新設、廃止、区間変更等については後の#TEE列車一覧 節および各列車の記事を参照。
1953年10月30日 : オランダ国鉄 のデン・ホランダー総裁が"Europa Express"の構想を発表。
1954年 : TEEの基本構想がまとまる。
1957年6月2日 : TEE10往復の運行を開始。当初はオランダ 、ベルギー 、ルクセンブルク 、フランス 、西ドイツ 、スイス 、イタリア の7ヶ国で運行。
1958年10月15日 : オーストリア を経由するTEEが新設される。
1961年7月1日 : 電車 によるTEEの運行を開始。
1963年9月1日 : 電気機関車 牽引の客車 によるTEEの運行を開始。
1965年5月30日 : 西ドイツとフランスで国内TEEの運行を開始。
1969年6月1日 : スペイン にTEEが乗り入れる。
1971年5月23日 : 列車番号の付番規則改訂により、1-99はTEE専用となる。
1971年9月26日 : 西ドイツでインターシティ の運行開始。西ドイツの国内TEEが消滅。
1973年6月3日 : イタリア で国内TEEの運行開始。
1974年5月26日 : デンマーク にTEEが乗り入れる。気動車 TEE全廃。
1974年9月28日 : TEEの列車数が最大(45往復)に達する。
1978年5月28日 : 西ドイツの国内TEEが復活。デンマークからTEEが消滅。
1979年5月27日 : 西ドイツのインターシティがすべて二等車を連結するようになる。
1981年5月31日 : ルクセンブルクを経由するTEEが消滅。
1982年5月23日 : スペインからTEEが消滅。
1983年5月28日 : 西ドイツの国内TEE全廃。
1984年6月3日 : オーストリアを経由するTEEが消滅。
1987年5月31日 : ユーロシティ 創設。オランダ、ベルギー、西ドイツからTEE全廃。またイタリアの国内TEE全廃。
1988年9月25日 : 国際TEE全廃により、スイス、イタリアからTEEが消滅。
1991年6月1日 : フランスの国内TEE廃止により、TEEが一旦全て廃止される。
1993年5月23日 : パリ - ブリュッセル間で二等車を含むTEEの運行を開始。
1995年5月27日 : 最後のTEEが廃止される。
2020年9月21日:ドイツが「新世代のTEE」 - Trans Europe Express TEE2.0 ネットワークを提案[ 72] [ 73] 。
短期的に提案されるルートは以下の通り。
アムステルダム - パリ - バルセロナ
ブリュッセル - ベルリン - ワルシャワ
アムステルダム - フランクフルト - チューリッヒ - ローマ
バルセロナ - フランクフルト - ベルリン
ブレンナーベーストンネル (オーストリア・イタリア間)、フェーマルンリンク (デンマーク・ドイツ間)や、新しいドイツのシュトゥットガルト=ウルム高速線 など、新しい路線の完成によって提案がなされている日中の高速TEE2.0の計画には以下のものが含まれる。
ストックホルム - ハンブルク - パリ
ストックホルム - ベルリン - ミュンヘン
ローマ - ヴェローナ - ミュンヘン - ベルリン
パリ - ミュンヘン - ブダペスト
路線網の変遷
1957年夏
1961年夏
1965年夏
1971-72年冬
1974-75年冬
1979年夏
1984年夏
1987年夏
TEEに使用された主な車両
内燃動車
VT11.5型→VT601型 (西ドイツ国鉄)
VT601型 1986年(TEE引退後)
1957年のTEE運転開始時に製造された、液体式ディーゼル動車。7両編成、全長130.7mで両端の車両が動力車。出力は1,100PS×2 = 2,200PS。最高速度は140km/h。ボンネットスタイルが特徴。TEEには1973年まで使われ、一方1968年から1979年までは国内特急(F-Zug、インターシティ )に投入され、そして晩年は波動輸送用となる。インターシティでは160km/h運転を行うため、一部の動力車は2,200PSのガスタービンエンジン に換装されてVT602型となり、編成の片側の動力車に連結された(1982年廃車)。東西ドイツ統一 直前の1990年8月から、わずか2ヶ月間ではあるが、ベルリンとハンブルクを結ぶインターシティ「マックス・リーバーマン」にも使用され、「フリーゲンダー・ハンブルガー の再来」とも言われた(運営は東ドイツ国鉄が実施。東ドイツ国鉄としては最初で最後のインターシティでもある)。現在はイベント用に保存。TEEでは「ライン・マイン 」「サフィール 」「ヘルヴェティア 」「パリ-ルール 」「パルジファル 」「メディオラヌム」の各列車に使用された。
VT07.5型・VT08.5型 (西ドイツ国鉄)
VT08.5型
1957年のTEE運転開始時には、前述のVT11.5型の落成が遅れ、必要編成数を確保できなかった。そのため、運転開始後の短期間ながら、1950年代に製造され、既に西ドイツ国内で運用されていた特急用気動車であるVT07.5型(1951年製)・VT08.5型(1952年製、後の608型)がTEEとして運用された。VT11.5型の増備に伴い順次置き換えられたが、過渡期にはVT11.5型とVT08.5型の併結もあった。
X2700型 (RGP 825(RGP1))(フランス国鉄)
1957年のTEE運転開始時に製造された、825PSの液体式ディーゼル動車で、最高速度は140km/h。X2700型そのものは、在来型の長距離列車用の気動車 (600PS:RGP2) であったが、その一部編成 (2771 - 2781) をTEE仕様として製造し、営業運転に備えた。この気動車は動力車(流線型)と制御車(半流線型)の2両編成でユニットとなり、このユニットを2つ連結して4両編成で運用される場合が多く、制御車の先頭部分には貫通幌が内蔵され、運転台周りは非常に凝った造作となっていた。また、各編成でヘッドライトの位置や形状にバラエティがある。現在はすでに引退、車体は更新されて近郊型の気動車に生まれ変わっている。TEEでは「モン・スニ 」「アルバレート 」「パルジファル 」「イル=ド=フランス 」「パリ・ルール 」に使用された。このTEE用編成には厨房が設置され供食サービスは行われたものの、食堂車の連結はなく、座席も他国の専用車両に比較してやや見劣りがしたためか、1965年までと比較的使用期間は短かった。
DE4 (1000) 型 (オランダ国鉄) / RAm TEEI 形 (スイス国鉄)
TEE エーデルヴァイス(1973年)
1957年のTEE運転開始時に製造された、電気式ディーゼル動車。4両編成の一端が動力車で、他端は客車に運転台を付けた制御車。2ヶ国の国鉄で共同開発され、動力車をオランダが、客車をスイスが製造し、両国鉄が同一仕様の車両を所有、運用した。運行開始当初は「エーデルヴァイス 」「エトワール・デュ・ノール 」「オワゾ・ブルー 」に使用された。
なおこの形式は事故で1編成が廃車されている[ 注釈 8] 。1974年までTEEに使われて引退した後、カナダ のオンタリオ・ノースランド鉄道 に譲渡されてトロント - コクレーン 間の特急列車「ノースランダー」に1977年から1992年まで使用された。その後さまざまな曲折を経て、制御車2両と中間車3両の計5両が2006年にオランダに里帰りしている。
ALn442+ALn448(イタリア国鉄)
1957年のTEE運転開始時に製造された、機械式ディーゼル動車。2両編成ながら、1両の長さが約28mあり、供食設備も有していた。この気動車はTEE車両としては唯一床下機関を持つ車両で、客室床も他の客車より高い設計だった。また、空調装置は装備していなかった。通常は2両で運用されたが、TEE以外の運用では中間に付随車を連結し3両で運転されることもあった。1972年までTEEとして使用後、ALn442は厨房を撤去してALn460に改称し、国内特急列車に1982年まで使用された。現役当時は、「リーグレ(列車) 」「レマノ」「メディオラヌム」「モン・スニ 」に使用された。最高速度は140km/h。
仕様一覧
所属
フランス国鉄
オランダ国鉄 スイス国鉄
西ドイツ国鉄
イタリア国鉄
形式名(車両番号)
X2700/XRS7700 (RGP 825)
DE 1001 - 1003 RAm TEE 501, 502
VT 11.5
ALn442-448
基本編成[ 注 1]
2両(最大3両) D-TC
4両 D-T-T-TC
7両(最大10両) D-T-T-T-T-T-D
2両 D-D
製造数
動力車9両、制御車11両
5編成
8編成 動力車19両、付随車48両
9編成
製造開始
1956年
1957年
1957年
1957年
編成長
52.16m
98.06m
139.56m
56.15m
編成質量
84t
225t
214t
105t
編成出力[ 注 2]
605kW
735kW×2
810kW×2
360kW×2
動力伝達方式
液体式
電気式
液体式
機械式
最高速度
140km/h
140km/h
140km/h
140km/h
編成定員
コンパートメント
0[ 74]
54[ 75]
72[ 76]
0[ 77]
開放座席
81[ 74]
60[ 75]
50[ 76]
90[ 77]
計
81
114
122
90
食堂車
無
32席
46席(+バー7席)
無
空調設備
無
有
有
無
TEEでの使用期間[ 78]
1957年 - 1965年
1957年 - 1974年
1957年 - 1972年
1957年 - 1972年
出典は特記ない限りKoschinski 2007 , p. 71による。データは製造時のもので、編成に関するデータは最小の基本編成のもの。
^ Dは動力車 、Tは付随車 、TC は制御車 (動力なし)を表す。
^ 「×2」は基本編成中にディーゼル機関が2台あることを示す。
電車
RAe TEEII (1050) 形→RABe EC形 (スイス国鉄)
RAe TEEII 型(1988年)
TEE専用として製造されたものとしては最初の電車で、1961年製。4電気方式(直流1.5kV、直流3kV、交流15kV16 2/3Hz、交流25kV50Hz)に対応。クリーム色と紅色のTEE色。6両編成(登場当時は5両編成)だが、中間の1両に動力や機器を集中させており、電源や架線 の仕様の違いに対応した4つの集電装置 を持ち、室内の約半分が機器室(残りは厨房と乗務員事務室)となっている。この中間電動車はいわば機関車といえるもので、出力は594kW×4 = 2376kW、クイル式駆動で台車も3軸ボギー(中央軸は無動力車軸)となっており、日本の電車の感覚とは程遠いものがある。最高速度は160km/h。1989年以降はユーロシティ 用となり、一部座席が2等車に改装され、灰色のツートンカラーとなった。既に営業運転からは引退したが、1編成は登場当時の姿に復元され、企画列車として主にかつての「ゴッタルド」のダイヤで運転されている。TEEでは、「シザルパン 」「ゴッタルド 」「ティチーノ」「エーデルヴァイス 」「イリス」の各列車に使用されていた。
ETR300型 (イタリア国鉄)
1953年に製造された曲線美あふれる優美な電車。車体はライトグレーと緑に塗装され、先頭スカート部の赤色がアクセントであった。それまでの特急用電車であったETR200型の発展型といえるこの電車は、2+3+2の3ユニットの7両編成で、カルダン駆動。各ユニットは連接構造 になっている。運転席を2階に上げ、先頭部1階を展望スペースとした最初の本格的な長距離電車でもあった。このデザインは、その後日本の名鉄パノラマカー や、小田急3100形「NSE」 に多大な影響を与えた。当初は2編成が製造され、その後第3編成が増備された。全3編成のうち第1・第3編成は引退後に解体されたが、第2編成のみは電車基地に留置されている。この電車は、日本には『ベスビアス特急』という文化映画で紹介され、イタリアを代表する電車として、日本にも知られることになった。ローマ - ミラノ間の運転で元々はTEE列車ではなかったが、国内列車もTEEに組み込まれるようになってからは、そのままTEE列車「セッテベロ」として運用された。この時点で台車の交換、ヘッドライトの強化などを行い200Km/h運転に対応した(試運転では240km/hを記録)。全長165.5m、定員160名(登場時)、自重301t、出力は180kW×12 = 2,160kW。
403形 (西ドイツ国鉄)
403形 1993年
もともとは国内のインターシティ 用として1973年に製造されたが、1979年の夏ダイヤからインターシティへの二等車連結により定期運用を失い、団体列車としての使用の傍ら1981年2月に国内TEE「ゲーテ」で一時的に使用された。1982年からはルフトハンザ・エアポート・エクスプレス 用に改装されて運用された。ルフトハンザ・エアポート・エクスプレスは航空機のチケットで乗車する列車で、正規のTEEではなかったが、西ドイツ国鉄ではTEEと同格に扱われた。4両編成で、その風貌から「ドナルドダック」と呼ばれた。1993年運転終了。最高速度は200km/h。
客車
フランス国鉄車
DEVステンレス客車
1950年代にフランス国鉄 の客車研究部(Division des études des voitures , DEV)の設計した客車。車体をアメリカ合衆国 バッド社 のライセンスで製造したステンレス 製とすることで、従来の客車より軽量化されている[ 79] 。
1956年にパリ - ニース 間の特急列車「ル・ミストラル 」向けに製造された車両は「ミストラル1956形」とも呼ばれ、一等コンパートメント車 とコンパートメント・バー合造車 からなる。最高速度は160km/h。1965年のミストラルのTEE昇格とともにTEEの車両となった。ステンレス製であるためTEEの標準色とは異なり、車体は無塗装で窓の上に細い赤 帯と"TRANS EUROP EXPRESS"の金文字が入る[ 79] 。
1969年にミストラルに新型車両が投入されてからはアルバレート (パリ - チューリッヒ )やゲーテ (パリ - フランクフルト・アム・マイン )に転用されたが、このころには新型のTEE用客車と比べると見劣りするようになっていたため評判は好ましいものではなかった[ 80] 。1976年にTEE運用からは退き、その後はフランス国内の列車などに用いられた。1980年代には一部の客車が二等車 に格下げ改造されている。1989年 9月をもってフランス国内での運用を終え、1990年には24両がセネガル に譲渡された[ 81] 。
このほか、1978年 に運行を始めたパリ - トゥールコワン 間のTEE(フェデルブ、ガヤン、ヴァトー)も短期間ではあるが1950年代のステンレス客車(ミストラルのものとは異なる)を用いていた[ 82] 。
PBA客車
フランス国鉄とベルギー国鉄 が共同で開発した車両で、1964年からパリ・ブリュッセル・アムステルダム(PBA)系統 のTEEに用いられた。TEE線用車両として設計された初の客車である。車体はステンレス製で最高速度は160km/h。塗装はミストラル56形と同様である。内訳は以下の通り。記号はフランス国鉄・ベルギー国鉄における分類記号と1972年以降のUIC分類記号 である。
一等開放座席車(A8s/A8tu) 11両 - ベルギー国鉄所属
一等コンパートメント車(A8myfi/A8u) 7両 - フランス国鉄所属
一等開放座席・バー合造車(A3Rmyfi/A3rtu) 4両 - フランス国鉄所属
一等開放座席・厨房合造車(A5smyfi/A5rtu) 7両 - フランス国鉄所属
荷物 ・電源車 (A2Dsmfi/A2Dx) 7両 - フランス国鉄所属
専用の食堂車 はなく、列車内の厨房から座席へのケータリング サービスが行なわれることになっていた[ 83] 。
1984年 以降パリ・ブリュッセル・アムステルダム系統のTEEがインターシティ やユーロシティ に変更された際には、一部の車両が二等車に改造された。1996年 のユーロシティ「エトワール・デュ・ノール」の廃止により運用を終えた[ 83] 。
ミストラル1969客車
1969年 にミストラルに投入された客車で、「新ミストラル(Nouveau Mistral)」とも呼ばれる。基本的な設計はPBA形と同様であるが、PBA系統よりも乗車時間が長いことが想定されていたので食堂車が存在する。またミストラル専用に売店 や理容室 、秘書 室を備えた「特別バー」車もあった[ 84] 。
1968年から1970年にかけて86両が製造され、フランス国内TEEのミストラル、リヨネ、ロダニアンのほか、パリ・ルール (パリ - ドルトムント )にも用いられた。1974年にはさらに36両が増備され、シザルパン (パリ - ミラノ )およびパリ - ブリュッセル系統の増発にあてられた。1974年製造分の開放座席車のうち5両はスイス連邦鉄道 、6両はベルギー国鉄の所属である。パリ・ブリュッセル・アムステルダム系統ではPBA形と混結して用いられた[ 84] 。
車両の内訳は以下の通り[ 84] 。
一等開放座席車(A8tu) : 28両 + 11両(ベルギー国鉄、スイス国鉄所属)
一等コンパートメント車(A8u) : 27両 + 15両
特別バー車(Arux) : 4両 - ミストラル専用
食堂車(Vru) : 11両 + 2両
一等開放座席・バー合造車(A3rtu) : 2両 + 3両
一等開放座席・荷物 ・電源車 (A5Dtux) : 14両 + 5両
1976年以降のリヨネ、ミストラルなどの廃止とともに、ミストラル69型はアルバレートやフランス国内の他方面への列車に転用された。1984年以降は一部が二等車に改造されている。1996年に営業運転を終え、1999年には44両がキューバ に売却された[ 84] 。
グラン・コンフォール (Grand Confort)
1960年代 にフランス国内の列車の高速化と居住性の向上を主な目的として開発された車両である。車内は1964年製のPBA形とほぼ同じであるが、窓 やドア の断熱 、防音 性能が改善されている。最高速度は200km/h。車体は耐候性鋼 製で、側面が曲面状になっているのが大きな特徴である。これは曲線部分の通過速度を上げるため車体傾斜 機能を持たせようとしたためである。ただし車体傾斜機能そのものは、運用を想定されている路線では時間短縮効果が少なく割に合わないとして見送られた[ 85] 。
グラン・コンフォール客車は本来TEE用ではなく、1970年 にエタンダール (パリ - ボルドー )で使用を始めた際にはこの列車はまだTEEではなかった。このため塗装はTEE標準色ではなく、灰色地に窓部分が赤帯の「グラン・コンフォール」塗装であった。1970年の冬ダイヤ改正から、グラン・コンフォール客車を用いるフランス国内列車をTEEに加えるようになり、まずル・キャピトール (パリ - トゥールーズ )が客車の更新とともにTEEとなった[ 85] 。その後パリを起点に南西(ボルドー、トゥールーズ)方面、東(ストラスブール )方面、西(ナント )方面のフランス国内TEEに用いられた[ 86] 。1973年になって窓の上にTRANS EUROP EXPRESSの文字も取りつけられた[ 85] 。
車両の内訳は以下の通り[ 87] 。
一等コンパートメント車(A8u) : 40両
一等開放座席車(A8tu) : 21両 + 13両(1973年以降増備)
食堂車(Vru) : 10両
一等開放座席・バー合造車(A3rtu) : 6両
一等開放座席・荷物・電源車(A4Dtux) : 13両
1981年以降、一部は二等車に改造されている。1989年のジュール・ヴェルヌ (パリ - ナント)の廃止とともにTEEでの運用を終え、その後は国内の一般列車やルクセンブルク へのユーロシティ に用いられた。1999年に営業運転を終了している[ 86] 。
その他
1963年のブラバント(パリ - ブリュッセル )の新設や1964年のオワゾ・ブルー(同)の客車列車化の時点では、PBA形客車の製造が間に合わなかったことから、前世代の鋼製客車が一時的に用いられた[ 88] 。
ミストラルは1969年まで旧国際寝台車会社 の食堂車(1928年製)とプルマン(サロン)車(1929年製、コート・ダジュール形)を連結していた。また同期間に用いられていた電源車は1927年製の旧パリ・オルレアン鉄道 の車両である[ 79] 。
ル・キャピトールは1970年のTEE昇格時から1974年まで、一部1970年以前の客車(200km/h対応ではあるが空調設備はない)を連結していた[ 86] 。
西ドイツ国鉄 TEE/IC客車
ラインゴルトの復元編成(2007年)
西ドイツのTEE用客車は1962年 に当時はまだTEEではなかったラインゴルト 、ラインプファイル に使用された車両が元になっている。車体はそれまでのドイツの優等列車用客車をもとに制定された国際鉄道連合のUIC-X規格に準拠している[ 35] 。最高速度は初期のものは160km/hであるが、1960年代後半以降に製造された車両は200km/h運転に対応している[ 89] 。
1965年 からTEEにも用いられるようになった。ラインゴルト用客車はクリーム地に紫 帯の塗装であったが、1965年以降TEE向けに製造された車両はクリーム地に赤のTEE標準色であり、ラインゴルトの客車も後にこの色に塗り替えられた[ 35] 。
車両の内訳は以下の通り[ 89] [ 90] 。なお製造数にはTEE運用についたことのないものも含まれる。またここでは1980年に使われなくなった扉の配置を表す記号である"ü"は省略している。
種類
UIC分類記号・形式番号
製造開始年
製造数
備考
一等コンパートメント車
Avmh111 Avmz111
1962年
267
Avmz207
1977年
100
一等開放座席車
Apmh121 Apmz121
1962年
100
Apmz122
1975年
35
一等展望車
ADmh101
1962年
5
一等コンパートメント・バー合造車
ARDmh105
1965年
11
ARDmz106
1970年
3
ARmz211
1971年
56
ARmh217
1972年(改造)
10
国内列車用車両からの改造
食堂車
WRmh131
1962年
5
WRmh132
1965年
27
WRmz135
1969年
36
パンタグラフ による給電
クラブ車
WGmh804
1982年(改造)
3
国内列車用車両からの改造
ADmh101形展望車は中央部が二階建て となっており、二階部分はドーム屋根の展望室である。1962年に製造された3両は車両側面には"RHEINGOLD"の文字が書かれていが、1963年製造分ではこの文字は"DEUTSCHE BUNDESBAHN"に置き換えられている。WRmh131形食堂車は厨房部分が二階建てとなっている。こちらの側面には"DSG"(ドイツ寝台車食堂車会社、旧ミトローパ の西ドイツ側)の文字が書かれていたが、1967年に"TRANS EUROP EXPRESS"と改められている。この2形式はラインゴルトのほか、1973年までラインゴルトと途中駅で一部の車両を入れ替えていたラインプファイル、1973年以降ラインゴルトと共通の車両を用いていたエラスムス のみで用いられたが、最高速度は160km/hに限られており、1976年を最後に運用を外れた[ 91] 。WGmh804形「クラブ車」はラインゴルト専用であり、1983年以降ラインゴルトのミュンヘン 方面編成に連結された[ 92] 。
1971年 にインターシティの運行が始まると、TEEと同形式の客車がインターシティにも用いられるようになった[ 57] [ 58] 。TEEにおける運用は1987年のラインゴルトの廃止とともに終わったものの、インターシティ・ユーロシティ 用車両としては、改装を重ねながら新型の客車とともに用いられ続けている[ 92] [ 90] 。ただしバー車は1990年代にインターシティには連結されなくなった[ 93] 。
ドーム形展望車は1976年にTEEで用いられなくなった後、改装されて観光列車「アプフェルプファイル(Apfelpfeil)」に用いられた。その後1981年にスイス の旅行会社「ライズビューロー・ミッテルスルガウ」に売却され、さらにそこから北ヨーロッパ の企業に転売された。2005年には4両がドイツに里帰りし、1962年当時の塗装やTEE色に復元されて観光用に運行されている。残る1両は2007年現在スウェーデン で保存されている[ 94] 。
なお西ドイツ国鉄車のTEEには、多客期には1954年 以来用いられている長距離列車用一等客車が増結されることもあった[ 95] 。
イタリア国鉄車
国際TEE客車(1977年、TEEメディオラヌム)
イタリアのTEE用客車は1972年 に使用を開始した国際TEE用客車と、1973年 から用いられている国内TEE用「グラン・コンフォルト(Gran Conforto)」客車の二種類が存在する。国際TEE用客車は荷物車 が電源車 を兼ねているのに対し、グラン・コンフォルト客車は架線 から機関車 経由で電力を得るため電源車はない。塗装も国際用がTEE標準色であるのに対し、グラン・コンフォルトはクリーム地に灰色と2本の細い赤帯という独自のものであった[ 96] 。
車両の内訳は以下の通り[ 96] 。ただしグラン・コンフォルトについては1987年までの製造数で、TEE運用に用いられていないものも含まれる。
種類
国際TEE用
グラン・コンフォルト
製造開始
製造数
製造開始
製造数
一等コンパートメント車(A)
1972年
13
1973年
120
一等開放座席車(As)
1972年
5
1973年
30
食堂車(WR)
1972年
5
1973年
31
荷物・電源車(Ds)
1972年
5
-
荷物車
-
1976年
20
他国のTEE用客車にみられる車内バーは存在しない。また国内TEE用の荷物車はUIC-X規格の荷物車をグラン・コンフォルト色に塗り替えたものが使われていたが、1976年以降専用の荷物車が製造された[ 96] 。
グラン・コンフォルト客車は1987年にTEEでの運用を終えた後も、一部を二等車に改造されて国内インターシティ 用に用いられ続けた。1989年から1991年にかけても新世代のグラン・コンフォルト客車が製造されている。2007年時点でトレニタリア には約350両のグラン・コンフォルト客車が在籍する。塗装は白地に緑と青帯のXMPR色に改められている[ 96] 。
スペイン国鉄 Talgo III RD
TEEカタラン・タルゴ(1981年)
スペイン国鉄の低床連接式客車タルゴ の第3世代 Talgo III に、広軌 のスペインと標準軌 のフランス・スイスを直通するための軌間可変 機構を持たせたものである。1969年 以降カタラン・タルゴ (バルセロナ - ジュネーヴ )に用いられた。タルゴ特有の一軸連接台車を用いており、車体長はほかの客車の半分以下である。また連結器 が標準的なものとは異なるため、牽引する機関車は専用の連結器を装着している必要がある[ 97] 。
車両の内訳は以下の通り[ 97] 。
一等開放座席車 : 35両
バー・厨房車 : 4両
食堂車 : 7両
荷物・電源車 : 8両
1982年 にカタラン・タルゴがインターシティ化されるとともに一部の客車が二等車に改造された。カタラン・タルゴはバルセロナ - モンペリエ 間に短縮されて運行を続けているが、LGVペルピニャン・フィゲラス線 の旅客営業が始まるとともに廃止される見込みである[ 97] 。
スイス国鉄の食堂車
チューリッヒ - ミュンヘン 間のTEEバヴァリア は1971年 の脱線事故以降、西ドイツ国鉄のTEE客車による列車となっていたが、この編成に含まれる食堂車 はスイス国鉄の車両であった。この車両は元は1967年に製造された一般国際列車用の車両である。1972年には塗装を赤色からTEE色に改めている。1977年のバヴァリアの急行格下げ以降は、TEE色のまま他方面への国際列車にも使用された[ 98] 。
客車を牽引した主な電気機関車
CC40100型 (フランス国鉄) / 18型 (ベルギー国鉄)
ベルギー国鉄18型
1964年から製造された、4電気方式のC-C機。客車と同じステンレス製のボディで統一美観を保っていた。出力3,850kW、最高速度240km/h。「オワゾ・ブルー」「イル=ド=フランス」「エトワール・デュ・ノール」等を牽引した。
CC6500型 (フランス国鉄)
CC6500型
CC40100型とともにその前面形状から「ゲンコツ 」と呼ばれた、直流専用のC-C機。2次形を除き最高速度200km/h。「ミストラル 」「アキテーヌ」「キャピトール」等を牽引した。
E03型→103型 (西ドイツ国鉄)
103型 旧標準塗色
1966年に製造を開始し、1970年から量産化されたドイツの代表的C-C機。出力7,440kW、最高速度200km/h。「ブラウエル・エンツィアン 」に初めて使用された。「ラインゴルト」をはじめ西ドイツ担当のTEEの多くを牽引し、一部は塗り替えられて「ルフトハンザ・エアポート・エクスプレス」専用機となった。
Re 4/4I 形 (スイス国鉄)
Re 4/4I 形 10033号機 1982年
1946年から製造された小型のB-B機で最高速度は125km/h、当初は標準の濃緑色塗装、1972年以降は専用機がTEEカラーに塗装され使用された。スイスの食堂車を連結していた「バヴァリア」と短編成(3-4両)の「ラインゴルト」専用であった。TEE塗装機は10033、10034、10046、10050の4両(1950年 - 1951年製造)が在籍していたが、すでに引退。
Re 4/4II 形→Re420形 (スイス国鉄)
Re 4/4II 形 11253号機 1983年
1963年から製造されたスイスの代表的電気機関車。14.8m、80tのB-B機ながら、4700kWの出力を誇り、クイル式駆動で回生制動付き。TEE塗装機は11158 - 11161、11249 - 11253の9両が在籍。最高速度140km/h。「ヘルヴェティア 」「ローランド」「レマノ」「シザルパン 」等を牽引したはか、ごく初期の「バヴァリア」もこの機関車が牽引していた。現在も汎用機として使用されている。
E444型 (イタリア国鉄)
イタリアのすべての客車TEE列車を牽引したB-B機。"Tartaruga "(亀)と愛称され、車体にも小さく空を飛ぶ亀の絵が描かれていた。1985年以降、高速新線走行用に大規模修繕工事が実施され車体デザインも大幅に変更された。この改造により最高速度は200km/hに向上した。
269形(スペイン国鉄)
1973年より製造が開始された客貨両用のB-B機。WN駆動で、客車牽引時の最高速度は140 - 160 km/h。TEEを牽引した電気機関車のなかで唯一、設計および製造に日本の企業(三菱グループ )が関与しており、一部の車両は日本から輸出されている。専用のアダプター車両と共にカタラン・タルゴの牽引に用いられた。
保存車両
ニュルンベルクの保存車 (2010年)
現役時代に使用された主な車両のうち、ドイツ、イタリア、オランダの気動車は整備され保存されている。また、スイスのTEE電車は、動態保存 でイベント列車に使用されている[ 99] 。イタリアのETR300型電車は1編成が動態保存されている[ 100] 。ドイツではVT602 003号車(旧形式名VT11.5)など4両が、ドイツの鉄道発祥の地のニュルンベルク 中央駅のすぐ西にあるニュルンベルク交通博物館 に静態保存 されている[ 99] 。
TEE列車一覧
TEEとして運行されていた列車は以下の通り[ 101] 。運行開始、終了はTEEとしての運行期間を示し、これ以前や以後にも別の種別の列車として存在していたものもある。経路は運行開始時のものであり、その後の変化については主要なもののみ記載している。また曜日などにより運休となったり運行区間を延長、短縮していた列車もある。
脚注
注釈
出典
^ a b c d e 坂本 1958
^ 山之内 1981 , p. 9
^ 山之内 1970 , p. 90
^ 植田 1978 , p. 51
^ a b c d e f 山之内 1981 , pp. 9–15
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関連項目
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