ジョン・ロナルド・ルーエル・トールキン [ * 1] (John Ronald Reuel Tolkien, CBE, FRSL 、1892年 1月3日 - 1973年 9月2日 )は、イギリス の文献学 者、作家 、詩人 、イギリス陸軍 軍人 。『ホビットの冒険 』や『指輪物語 』の著者として知られる。
概略
オックスフォード大学 で学び、同大学ローリンソン・ボズワース記念アングロ・サクソン語 教授(1925年 - 1945年 )、同大学マートン学寮英語英文学教授(1945年 - 1959年 )を歴任。文学討論グループ「インクリングズ 」のメンバーで、同会所属の英文学者C・S・ルイス や詩人チャールズ・ウィリアムズ (英語版 ) と親交が深かった。カトリック の敬虔な信者であった。1972年3月28日エリザベス2世 からCBE(大英帝国勲章 コマンダー勲爵士)を受勲した。
没後、息子のクリストファ は彼の残した膨大な覚え書きや未発表の草稿をまとめ、『シルマリルの物語 』、『終わらざりし物語 』、『中つ国の歴史 (英語版 ) 』などを出版した。これらは、生前に出版された作品とあわせ、「アルダ 」や「中つ国 」[ * 2] と呼ばれる架空の世界に関する物語、詩、歴史、言語、文学論の体系を形作っている。1951年から1955年にかけ、トールキンはこのような書き物の総体を legendarium (伝説空間、伝説体系)と呼んでいた[ 1] 。
小惑星 (2675) Tolkien はトールキンの名前にちなんで命名された[ 2] 。
生涯
家系
父方の先祖のほとんどは職人であった。故地は現在のドイツ のザクセン州 にあたる。イギリスに渡ったのは18世紀 ごろで、「迅速かつ熱心に、イギリス的に」なったという[ 3] 。苗字のTolkien は、ドイツ語のTollkiehn (注:tollkühn は「無鉄砲」の意)を英語化したものである。強いて語源に沿って英訳するならば、dull-keen (注:日本語では「鈍い・鋭い」)となるような語であり、あえて矛盾した語を重ねる撞着語法 (oxymoron 、こちらは古代ギリシア語由来で「鋭い・鈍い」の意味)の言葉である[ * 3] 。
母方の先祖としてジョン・サフィールドおよびエディス・ジェーン・サフィールドの夫妻がおり、バーミンガム に住んでいて、市の中心に店を持ち、1812年 以来はラム・ハウスと呼ばれるビルで商売をしていた。ウィリアム・サフィールドが書店と文房具屋を経営していたのである。曽祖父も前述の祖先と同じ名のジョン・サフィールドという名で、1826年 から服地と靴下を商っていた[ 4] 。
子供時代
オレンジ自由国 (現在は南アフリカ共和国 の一部)のブルームフォンテーン で、イギリスの銀行支店長アーサー・ルーエル・トールキン(1857–1896)と妻メイベル・トールキン(旧姓サフィールド)(1870–1904)の間に生まれた。1894年 2月17日 生まれのヒラリー・アーサー・ロウエルという弟が一人いる[ 5] 。
アフリカに住んでいたとき、庭でタランチュラ に噛み付かれた[ 6] 。これは、彼の物語で後に類似したことが起こる出来事である。3歳の時母と共にイングランド に行った。当初はちょっとした親族訪問のつもりだったが、父アーサーは家族と合流する前に脳溢血で倒れてしまい、南アフリカでリューマチ熱 により亡くなってしまった[ 7] 。家族の収入が無くなってしまったので、母は彼女の両親としばらく住むためにバーミンガム に行き、1896年 には(現在はホール・グリーンにある)セアホール (英語版 ) に移った。ここは当時ウースターシャー の村で、現在はバーミンガムの一部である[ 8] 。トールキンはセアホールの水車小屋やMoseley BogやLickey Hillsの探索を楽しんだようで、この地での経験も、BromsgroveやAlcesterやAlvechurchといったウースターシャーの町や村や、おばの袋小路屋敷 (英語版 ) (Bag End)と同様、その後の作品に影響を与えたと思われる[ 9] 。
母は二人の息子たちの教育に熱心で、トールキンが熱心な生徒であったことは、家族の中で知られていた[ 10] 。植物学 に多くの時間を割き、息子に植物を見たり感じる楽しみを目覚めさせた。若きトールキンは風景と木を描くのを好んだが、好きな科目は言語関係で、母は早いうちからラテン語 の基本を教えた[ 11] 。その結果ラテン語を4歳までには読めるようになり、やがてすぐにすらすらと書けるようになった。バーミンガムのキング・エドワード校 (英語版 ) に入学して、バッキンガム宮殿 の門に掲示されたジョージ5世 の戴冠式のパレードの「道順を決める」のに協力したり[ 12] 、学資不足のためセント・フィリップス校 (英語版 ) に一時籍を移したりもした。
1900年 、母はバプテスト であった親戚の猛烈な反対を押し切ってローマ・カトリック に改宗した[ 13] ため、全ての財政援助は中断された。その母は1904年 に糖尿病 で亡くなり、トールキンは母が信仰の殉教 者であったと思うようになった[ 14] 。この出来事はカトリックへの信仰に深い影響をもたらしたようで、信仰がいかに敬虔で深かったかということは、C・S・ルイス をキリスト教 に改宗させた際にもよく現れている。しかしルイスが英国国教会 を選び大いに失望することになった[ 15] 。
バーミンガムのエッジバーストンの塔の影
孤児となったトールキンを育てたのは、バーミンガムのエッジバーストン地区 (英語版 ) にある、バーミンガムオラトリオ会 (英語版 ) のフランシス・シャヴィエル・モーガン (英語版 ) 司祭であった。トールキンはPerrott's Folly とエッジバーストン水道施設 (英語版 ) のビクトリア風の塔の影に住むことになる。この頃の住環境は、作品に登場する様々な暗い塔のイメージの源泉となったようである。別に強い影響を与えたのは、エドワード・バーン=ジョーンズ とラファエル前派 のロマン主義 の絵画だった。バーミンガム美術館 には、大きくて世界的に有名なコレクションがあり、それを1908年頃から無料で公開していた。
青年時代
16歳のときに3歳年上のエディス・メアリ・ブラット と出会い、恋に落ちた。だがフランシス神父は、会うことも話すことも文通することも21歳になるまで禁じ、この禁止に忠実に従った[ 16] 。
1911年 、キング・エドワード校に在学中の3人の友人のロブ・キルター・ギルソン、ジェフリー・バッチ・スミス、クリストファ・ワイズマンと共に、半ば公然の「秘密結社」である「T.C.B.S. 」を結成した。これは、学校の近くのバロウズの店 (英語版 ) や学校図書館で不法にお茶 を飲むことを好むことを示す「ティー・クラブとバロヴィアン・ソサエティ」の頭文字を取った名である[ 17] 。学校を去った後もメンバーは連絡を保ち続け、1914年 12月にロンドンのワイズマンの家で「協議会」を開いた。トールキンは、この出会いから詩を作りたいと強く思うようになる。
1911年夏、友人たちとスイス に遊びに行ったが、1968年 の手紙[ 12] にその生き生きとした記録が残されている。彼ら12人がインターラーケン からラウターブルンネン までを縦走し、ミュレン の先の氷堆石 まで野営しに冒険したことが、(「石と一緒に松林まで滑ることを含めて」)霧ふり山脈 を越えるビルボ の旅のもとになっていることを指摘している。57年後まで、ユングフラウ とシルバーホルン (英語版 ) (「私の夢の銀枝山Silvertine(ケレブディル)」)の万年雪を見て、そこから去るときの後悔を覚えていた。彼等はクライネ・シャイデック を越えグリンデルワルト へ向かい、グレッセ・シャイデック (英語版 ) を過ぎてマイリンゲン (英語版 ) に、さらにグリムゼル峠 を越え、アッパーヴァレー を通りブリーク 、そして、アレッチ氷河 とツェルマット に着いた。
21回目の誕生日の晩、エディスに愛を告白した手紙を書いて、自分と結婚するように彼女に頼んだが、返信には「自分を忘れてしまったと思ったので、婚約した」とあった。ふたりは鉄道陸橋の下で出会い、愛を新たにする。エディスは指輪を返し、トールキンと結婚する道を選んだ[ 18] 。1913年 1月にバーミンガム で婚約後、エディスはトールキンの主張に従いカトリックに改宗した[ 19] 、1916年 3月22日 にイングランド のウォリック で結婚した[ 20] 。
1915年 に優秀な成績で英語 の学位を取り(エクセター学寮 で学んでいた)オックスフォード大学 を卒業後、第一次世界大戦 時にイギリス陸軍 に入隊し、少尉 としてランカシャー・フュージリアーズ の第11大隊 に所属した[ 21] 。部隊は1916年 にフランスに転戦し、トールキンもソンムの戦い のあいだ、同年10月27日 に塹壕熱 を患うまで通信士官を務め、11月8日 にイギリスへと帰国した[ 22] 。自軍兵士たちが激戦で次々と命を落し、T.C.B.S.からもギルソンとスミスは死亡し、トールキンとワイズマンのみが戦争を生き延びた。スタッフォードシャー 、グレート・ヘイウッド で療養していた間に、「ゴンドリンの陥落 」に始まる、後に『失われた物語の書 』と呼ばれる作品群についての着想が芽生え始めたとされる。1917年 から1918年 にかけて病気が再発したが、各地の基地での本国任務が行なえるほど回復し、やがて中尉に昇進した。 ある日キングストン・アポン・ハル に配属されたとき、夫婦でルース (英語版 ) の近くの森に出掛け、そして、エディスは彼のためにヘムロックの花の咲いた開けた野原で踊り始めた。「私たちはヘムロックの白い花の海の中を歩いた」[ * 4] 。この出来事から、トールキンはベレン とルーシエン の出会いの話の着想を得、彼がしばしばエディスを彼のルーシエンと呼んだ[ 23] 。
キャリア
トールキンの家、オックスフォード
第一次大戦後、退役してからの最初の仕事は、オックスフォード英語辞典 の編纂作業であった。トールキンはWで始まるゲルマン系の単語の語誌や語源をおもに担当した[ 24] 。1920年 、リーズ大学 で英語学の講師 の地位を得、1924年 に教授 となったが、1925年 秋から、ペンブローク学寮 (英語版 ) に籍を置くローリンソン・ボズワース記念アングロ・サクソン語教授 (英語版 ) として、オックスフォードに戻った[ 25] 。
ペンブロークにいる間に『ホビットの冒険 』と『指輪物語 』の『旅の仲間 』と『二つの塔 』を書く。また1928年 、モーティマー・ウィーラー (英語版 ) がグロスターシャー 、Lydney Park のアスクレペイオン (古代ローマの診療所)の発掘を行うのを助けた[ 26] 。学術刊行物の中では特に1936年 に講演され、翌年に出版された“Beowulf : the Monsters and the Critics ”は『ベーオウルフ 』研究において、また広く古英語文学研究において、時代を画するほどの大きな影響を与えた[ 27] 。Lewis E. Nicholsonは、トールキンの『ベーオウルフ』に関する論文は「『ベーオウルフ』批評の大きな転機として広く認識された」と述べ、純粋に歴史学的要素より詩学的な本質に迫る要素を評価したことを認めている。[ 28] 。しかしまた、いわゆる言語学的な要素のみならず、広い意味での文献学的な研究への道を切り拓いたとも言える。事実、彼は書簡の中で『ベーオウルフ』を「『ベーオウルフ』は私の最も評価する源泉の一つである」と高く評価した[ 29] 。 実際に『指輪物語』には、『ベーオウルフ』からの多くの影響が見出される[ 30] 。これを書いた頃は、『ベーオウルフ』の中で描かれる歴史的な部族間の戦争の記録は重視する一方、子供っぽい空想に見られるような怪物との戦いの場面を軽視するのが、研究者たちの一致した見方だった。トールキンは、特定の部族の政治を超越した人間の運命を『ベーオウルフ』の作者は書こうとしたのであって、それ故に怪物の存在は詩に不可欠だったと主張した(逆に、フィンネスブルグの戦いの挿話および古英詩断片 のように、『ベーオウルフ』やその他の古英詩中で部族間の特定の戦いを描くところでは、空想的な要素を読みこむことに異論を唱えた)[ 31] 。1940年代前半には、トールキンは『ベーオウルフ』の原型となった民話の試作『セリーチ・スペル 』を執筆していたようである[ 32] 。
1945年 にはオックスフォードのマートン学寮 に籍を置くマートン記念英語英文学教授 (英語版 ) となり、1959年 に引退するまでその職位にいた。1948年 に『指輪物語』を完成、最初の構想からおよそ10年間後のことであった。1950年代にはストーク=オン=トレント にある息子のジョンの家で、学寮の長い休日の多くを過ごした。イギリスの田園をむしばむと考えた、工業化 の副作用を激しく嫌悪していたのである。成人後の人生の大部分のあいだ、自動車を忌み嫌い、自転車に乗るのを好んだ[ 33] 。この態度は『指輪物語』における、ホビット庄 の無理矢理な工業化など、作品のいくつかの部分からも見て取ることができる。
妻エディスとの間には4人の子供を儲けた。神父になったジョン・フランシス・ロウエル(1917年 11月16日 - 2003年 1月22日 )、教師になったマイケル・ヒラリー・ロウエル(1920年 10月22日 - 1984年 2月27日 )、父の後を継いだクリストファ・ジョン・ロウエル (1924年 11月21日 - 2020年 1月16日 )、そして長女のプリシラ・アン・ロウエル(1929年 6月18日 - 2022年 2月28日 )である。
W・H・オーデン は『指輪物語』に熱狂し手紙を書いたことをきっかけに、しばしば文通する長年の友人となった。オーデンは、出版当初から作品を称賛した評論家の中で最も高名なひとりだった。トールキンは1971年 の手紙で、
「近年私は非常に深くオーデンに世話になっている。彼が私を支持してくれて、私の作品に関心を持ってくれるので、非常に元気づけられた。一般にはそういう批評がなかった最初の頃に、彼は非常に良い批評や手紙を送ってくれた。実際、彼はそれの為にあざけられた」
と書いた[ 34] 。
引退と晩年
オックスフォード のWolvercote墓地にあるJ・R・R・トールキンと妻のエディス・トールキンの墓
1969年度のノーベル文学賞 の候補者103人の一人にリストアップされていたことが、2020年に公開された選考資料により明らかになっている[ 35] 。
オックスフォードのWolvercote墓地には夫妻の墓があり、中つ国の最も有名な恋物語の一つから、「ベレン 」そして「ルーシエン 」の名が刻まれている。
著作
最初の文学的野心は詩人になることだったが、若い頃の第一の創作欲は架空言語の創造だった。それらは後でクウェンヤ とシンダール語 に発展するエルフ語の初期の形態を含んでいた。 言語がそれを話す民族を指し示し、民族が言語の様式と視点を反映する物語を明らかにすると信じて、(この名前が紛らわしいと考えるようになったのでいくらか後悔することになるが)後にエルフと呼ぶようになった伝説の妖精についての神話と物語を書き始めた(英語で書いたが、かれの創造した言語の多くの名前や用語を含んでいた)。 第一次世界大戦の間、療養中に書きはじめた『失われた物語の書』にはベレンとルーシエンの恋物語が含まれ、これらは後に長い物語詩The Lays of Beleriand としてまとめられ、自身が完成できなかった『シルマリルの物語』にも発展して含まれることになる。トールキンが繰り返し構想を変えていったことについては、死後に刊行された『中つ国の歴史』に収められた数々の原稿に示されている。
トールキンの作品はいくつかのヨーロッパの神話伝承から多くの影響を受けている。『ベーオウルフ 』に代表されるアングロサクソンの古伝承、『エッダ 』、『ヴォルスンガ・サガ 』をはじめとする北ゲルマン人の神話体系(北欧神話 )、アイルランドやウェールズなどのケルトの神話やフィンランドの民族叙事詩『カレワラ 』などである。
このまじめな大人向けの作品に加えて、トールキンは自分の子供たちを喜ばせるために話を作ることを楽しみにしていた。毎年毎年、「サンタクロース からのクリスマスレター」をしたため、一続きのお話を添えた。これらの小話はのちに一冊の本にまとめられ、『クリスマスレター付き サンタ・クロースからの手紙 』として出版された。
だがトールキンは、自分の空想物語が一般に受け入れられるとは夢想だにしなかった。かつての教え子だった編集者のとりなしで1937年 に『ホビットの冒険 (The Hobbit)』と題された本を出版すると、子供向けを意図したにもかかわらず大人にも読まれ、アレン・アンド・アンウィン社が続編の執筆を要請するほどの人気を呼んだ。これがトールキンを刺激することになり、1954年 から1955年 にかけて、最も有名な作品となる叙事詩的小説『指輪物語 (The Lord of The Rings)』が上梓された。『指輪物語』はしばしば「三部作」と表現されるが、本来は一編の物語である。現在、三部作として扱われることがあるのは、最初の出版時に編集上の都合で分冊されたのが定着したからである。このサガを書き上げるまでにほぼ10年かかったが、その間インクリングズ の仲間たち、中でも『ナルニア国ものがたり 』の作者で親友のC・S・ルイス は絶えず支援を続けた。『ホビットの冒険』も『指輪物語』も、『シルマリルの物語』の神話に続く物語であり、トールキンがはっきり述べていたように、ずっと後の物語である(どちらも、現在からは遥か昔のこととして書かれている)。
1960年代 、『指輪物語』はアメリカ の多くの学生たちの間で好評を博し、ちょっとした社会現象となった。現在でも世界中で高い人気を保っている『指輪物語』は、売上の点からも読者の評価という点からも、20世紀 における最も人気の高い小説の一つとなった。英国のBBCとWaterstone's bookstore chainが行った読者の世論調査で『指輪物語』は20世紀の最も偉大な本と認められた。amazon.comの1999年 の顧客の投票では、『指輪物語』は千年紀で最も偉大な本となった。2002年 には、BBCの行った「最も偉大な英国人」の投票で92位に、2004年 に南アフリカで行われた投票では「最も偉大な南アフリカ人」の35位になった。英国人および南アフリカ人のトップ100の両方に現われるのはトールキンだけである。その人気は英語圏だけにとどまらず、2004年 には100万人を超えるドイツの人々が、『指輪物語(ドイツ題:Der Herr Der Ringe)』が広範囲の文学のうち最も好きな作品として投票した。
トールキンは当初、『指輪物語』を『ホビットの冒険』のような児童書にしようと考えていたが、書き進めるにつれ次第に難解で重々しい物語となっていった。『ホビットの冒険』と直に繋がる物語であるにもかかわらず、より充分に成熟した読者を対象とするようになり、また後に『シルマリルの物語 』やその他の死後出版された書籍に見られるような膨大な中つ国の歴史を構築し、それを背景にして書き上げた。この手法と出来上がった作品群の緻密で壮大な世界観は、『指輪物語』の成功に続いて出来上がったファンタジー文学 というジャンルに多大な影響を残した。
文献学 のエキスパートであり、研究した言語や神話学は彼の創作にはっきりと影響を残している。『ホビットの冒険』のドワーフの名前は『エッダ 』の『巫女の予言 』から取られた。また例えば「龍の蓄えからカップを盗む泥棒」などという一節は『ベーオウルフ 』から取られている。トールキンはベーオウルフについて誰もが認める権威で、詩についていくつかの重要な作品を出版した。かつては出版されなかったトールキンの『ベーオウルフ』の翻訳は、Michael Droutが編集した。
中つ国の物語は死の直前まで書き続けられていた。その後、息子のクリストファは、ファンタジー作家ガイ・ゲイブリエル・ケイ の助力を得て、素材の幾つかを一冊の本にまとめ、1977年 に『シルマリルの物語 (The Silmarillion) 』として出版した。クリストファはその後も中つ国創造の背景資料の刊行を意欲的に続けた(ただしその多くは未邦訳)。『中つ国の歴史 』シリーズや『終わらざりし物語 』のような死後に発表された作品には、トールキンが数十年もの間、神話を考察し続け、絶えず書き直し、再編集し、そうして物語を拡張し続けていた結果、未完成だったり、放棄されたり、どちらかを選ばなければならない内容や、明らかに矛盾する内容の草稿が含まれている。『シルマリルの物語』に至っては『指輪物語』との一貫性を維持するべく、クリストファは編集にかなりの労力を費やした。しかしクリストファ自身も『シルマリルの物語』には多くの矛盾が残っていると認めている。1951年 の第二版で一つの章が抜本的に改訂された『ホビットの冒険』でさえ、『指輪物語』と完全に辻褄があっているわけではない。
アメリカ のウィスコンシン州 ミルウォーキー にあるマーケット大学 (英語版 ) の図書館は、トールキンの手書き原稿や覚書き、及び手紙の多くを保存している。また、オックスフォード のボドリアン図書館 には、『シルマリルの物語』関係の書類と学術的な資料などが残されている。その他、『指輪物語』と『ホビットの冒険』の手書き原稿および校正刷り、『農夫ジャイルズの冒険』といった多くの「マイナーな」作品の手書き原稿、ファンの作った編集作品といったものまでが、貴重な資料として巷に出回っている。
言語
文献学 、言語に関する研究は生涯を通じて熱心に取り組んだ学問であり、それが高じて約15の人工言語 を発明するにいたった。中でも二つのエルフ語 、すなわち「クウェンヤ 」と「シンダール語 」は特に有名である。彼はこれらの言語が誕生した背景として、中つ国 の詳細な宇宙論 や歴史を創り上げた。
トールキンは専門であるアングロ・サクソン語 (古英語)や古ノルド語 に加えて、他のインド・ヨーロッパ語族 の諸言語(フランス語 、スペイン語 、イタリア語 などのロマンス諸語 とラテン語 、ドイツ語 やオランダ語 などのゲルマン諸語 とその古語(古サクソン語 など)、ゲール語 やウェールズ語 といったケルト諸語 、バルト諸語 やスラヴ諸語 など)、さらにはウラル語族 のフィンランド語 など、非常に多くのヨーロッパの言語に様々な水準で通じていた。彼は個人的な手紙の中で、特にフィンランド語が彼の耳に心地よく響き、これがクウェンヤ の着想を与えたと書いている。
彼は作品以上に、言語の面で以後のファンタジー文学に広く永続的な影響を及ぼしている。特に"dwarf"(ドワーフ )の複数形を"dwarfs"ではなく"dwarves"としたり、"Elf"(エルフ )の形容詞形を"elfish"ではなく"elvish"と表記する慣例は彼によって生まれた。
派生作品
1951年 のミルトン・ウォルドマンへの手紙(Letters #131)の中でトールキンは「多少なりとも繋がっている伝説」を創造した意図に関して次のように書いた。
「循環は威厳のある全体に繋がりながら、絵画および音楽およびドラマという手段で他の人たちの心や手が参加する範囲を残すべきである」
多くの芸術家がトールキンの作品に触発された。トールキンが個人的に知っていたのは、ポーリン・ベインズ(トールキンの好きな『トム・ボンバディルの冒険 』と『農夫ジャイルズの冒険 』のイラストレーター)と、ドナルド・スワン(『道は続くよどこまでも 』に曲を付けた)だった。1970年代 初期、デンマーク のマルグレーテ2世 は『指輪物語 』のイラストを描いた。作品を贈られたトールキンは、女王のイラストと彼自身の絵の様式との類似点に驚いたという。
しかし、生前に行われた著作に基づいた別の分野の作品をほとんど評価せず、時にはこっぴどくこきおろした。
1946年 の手紙(Letters #107)では、ドイツ版『ホビットの冒険』のためのホルス・エンゲルスによるイラストの提案に対して、あまりにもディズニー 的であると拒否した。
「たれた鼻のビルボ、わたしの意図したオーディン のような放浪者でなく下品な道化になってしまったガンダルフ」
また、アメリカのファンダムの出現にも懐疑的で、1954年 にアメリカ版の『指輪物語』のブックカバーの提案に次のように回答している(Letters #144)。
「『宣伝文』の案を送ってくれてありがとう。アメリカ人は概して批判または修正に全く従順ではない。しかし彼らはたいして努力していないので、私が改善するためにかなり努力をせざるを得ないと感じる」
そして1958年 、Morton Grady Zimmermanが提案した映画化構想に対し、いらいらした様子でこう書いている(Letters #207)。
「著者の焦燥(しばしば憤慨していること)を理解するのに充分想像力を働かせるようお願いしたい。彼は自分の作品が一般に不注意に、場合によっては無謀に扱われ、どこを探しても敬意の払われている印がないのに気付いている」
この手紙には脚本の場面ごとの批判などがとうとうと続く(「またしても、けたたましい音や、ほとんど無意味な切りあいの場面である」 )。しかし、トールキンは映画化という考えについて全く反対していた訳ではない。1968年 、彼は『ホビットの冒険』と『指輪物語』の映画化、上演権および商品権をユナイテッド・アーティスツ に売った。その際製作への影響を懸念して、将来にわたりディズニー が関与することを一切禁止した(Letters #13, 1937年 )。
「アメリカ人が心地よく見るために可能な限り(中略)、(わたしがその作品について心からの嫌悪している)ディズニー・スタジオ自身のものか、それに影響を受けたもの全てを拒否することを(中略)忠告しておいたほうがいいだろう」
ジョン・ブアマン が70年代に実写による映画化を計画したものの、結局ユナイテッド・アーティスツは1976年 に製作の権利をソウル・ゼインツ の会社の傘下にあったトールキン・エンタープライズ (英語版 ) に売却。ユナイテッド・アーティスツが配給にまわって最初に実現した映画化は『指輪物語』のアニメーション作品だった。ラルフ・バクシ 監督によるロトスコーピング 手法で製作され、1978年 に公開された。
その後『指輪物語』の配給権はミラマックス 社を経てニュー・ライン・シネマ 社に移り、2001年 から2003年 にかけてピーター・ジャクソン の監督によってロード・オブ・ザ・リング 三部作として初めて実写映画化された。
書誌
創作
1936年 Songs for the Philologists , E.V. Gordon他と共著
1937年 『ホビットの冒険 』The Hobbit or There and Back again
1945年 『ニグルの木の葉 』Leaf by Niggle (Dublin Review誌に掲載)
1945年 『領主と奥方の物語 』The Lay of Aotrou and Itroun , Welsh Review 誌に掲載
辺見葉子訳、「ユリイカ」1992年7月号所収、青土社
1949年 『農夫ジャイルズの冒険』Farmer Giles of Ham
1953年 『ビュルフトエルムの息子ビュルフトノスの帰還』The Homecoming of Beorhtnoth, Beorhthelm's Son 論考Ofermod とともに出版された
『指輪物語 』The Lord of the Rings
1954年 第一部『旅の仲間』The Fellowship of the Ring
1954年 第二部『二つの塔』The Two Towers
1955年 第三部『王の帰還』The Return of the King
1962年 『トム・ボンバディルの冒険』The Adventure of Tom Bombadil
1964年 『木と葉』Tree and Leaf
『妖精物語について』On Fairy-stories
『ニグルの木の葉』
1966年 The Tolkien Reader (『ビュルフトエルムの息子ビュルフトノスの帰還』、『妖精物語について』、『ニグルの木の葉』、『農夫ジャイルズの冒険』、『トム・ボンバディルの冒険』を収録)
1966年 Tolkien on Tolkien (自伝的)
1967年 『星をのんだかじや』Smith of Wootton Major
1967年 The Road Goes Ever On (ドナルド・スワン と共著)
学術的な著作
没後に出版された作品
1974年 『ビルボの別れの歌』Bilbo’s Last Song
1975年 Guide to the Names in The Lord of the Rings (編集版) - Jared Lobdell編 A Tolkien Compass 1st edition 所収。トールキンが書いた『指輪物語 』の翻訳指示。
1975年 Pearl (poem) と Sir Orfeo の翻訳
1976年 『サンタ・クロースからの手紙』The Father Christmas Letters
1977年 『シルマリルの物語 』The Silmarillion
1979年 Pictures by J. R. R. Tolkien
1980年 『終わらざりし物語 』Unfinished Tales
1980年 Poems and Stories (『トム・ボンバディルの冒険』、『ビュルフトエルムの息子ビュルフトノスの帰還』、『妖精物語について』、『ニグルの木の葉』、『農夫ジャイルズの冒険』、『星をのんだかじや』をまとめたもの)
1981年 The Letters of J. R. R. Tolkien Selected and edited by Humphrey Carpenter with assistance of Christopher Tolkien
1981年 The Old English Exodus Text
1982年 Finn and Hengest: The Fragment and the Episode
1982年 『ブリスさん』Mr. Bliss
1983年 The Monster and the Critics and Other Essays (論考集)
1983年 - 2002年 The History of Middle-earth (英語版 ) シリーズ
I. 1983年 The Book of Lost Tales 1
II. 1984年 The Book of Lost Tales 2
III. 1985年 The Lays of Beleriand
IV. 1986年 The Shaping of Middle-earth
V. 1987年 The Lost Road and Other Writings
VI. 1988年 The Return of the Shadow (The History of The Lord of the Rings v.1)(『指輪物語の歴史』)
VII. 1989年 The Treason of Isengard (The History of The Lord of the Rings v.2)
VIII. 1990年 The War of the Ring (The History of The Lord of the Rings v.3)
IX. 1992年 Sauron Defeated (The History of The Lord of the Rings v.4)
X. 1993年 Morgoth's Ring (The Later Silmarillion v.1)
XI. 1994年 The War of the Jewels (The Later Silmarillion v.2)
XII. 1996年 The Peoples of Middle-earth
2002年 The History of Middle-earth Index
1988年 『木と葉』Tree and Leaf
『妖精物語について』On Fairy-stories
『ニグルの木の葉』Leaf by Niggle
『神話の創造』Mythopoeia
上記すべて『妖精物語について ファンタジーの世界』 猪熊葉子訳 評論社 2003年 ISBN 4-566-02111-4 所収
1994年 Poems from 'The Lord of the Rings'
1995年 J. R. R. Tolkien: Artist and Illustrator (a compilation of Tolkien's art)
1995年 Poems from 'The Hobbit'
1995年 『クリスマスレター付き サンタ・クロースからの手紙』Letters from Father Christmas
1997年 Tales from the Perilous Realm
「農夫ジャイルズの冒険」Farmer Giles of Ham
「トム・ボンバディルの冒険」The Adventure of Tom Bombadil
「ニグルの木の葉」Leaf by Niggle
「星をのんだかじや」Smith of Wootton Major
上記すべて、『農夫ジャイルズの冒険 トールキン小品集』2002年 ISBN 4-566-02110-6 所収
1998年 『仔犬のローヴァーの冒険』Roverandom
2002年 『トールキンのベーオウルフ物語 注釈版』Beowulf and the Critics (Medieval and Renaissance Texts and Studies, Volume 248) Michael D.C. Drout 編
2005年 Guide to the Names in The Lord of the Rings (完全版) - Wayne Hammond and Christina Scull 編 The Lord of the Rings: A Reader's Companion 所収。トールキンの説明による『指輪物語』の翻訳指示。
2007年 The Children of Húrin
2007年 The History of The Hobbit
2009年 『トールキンのシグルズとグズルーンの伝説 注釈版』The Legend of Sigurd and Gudrún
2013年 『トールキンのアーサー王最後の物語 注釈版』The Fall of Arthur
2015年 『トールキンのクレルヴォ物語 注釈版』The Story of Kullervo
2017年 『ベレンとルーシエン 』Beren and Lúthien
2018年 The Fall of Gondolin
入手可能な日本語訳
伝記文献
本多英明 『トールキンとC・S・ルイス』笠間書院 、新装版2006年
マイケル・コーレン『トールキン 『指輪物語』を創った男』井辻朱美 訳、原書房 、2001年
コリン・ドゥーリエ『トールキンとC・S・ルイス 友情物語―ファンタジー誕生の軌跡』成瀬俊一訳、柊風舎、2011年
『ユリイカ 詩と批評 総特集:J・R・R・トールキン 没後50年-異世界ファンタジーの帰還』2023年11月臨時増刊号、青土社
伝記映画
脚注
注釈
^ Tolkien の発音については The Return of the Shadow: The History of The Lord of the Rings, Part One [Edited by] Christopher Tolkien, London: Unwin Hyman [25 August] 1988 (The History of Middle-earth; 6) ISBN 0-04-440162-0 に拠れば「トル キーン」 [tɒ́lkiːn] (太字にアクセント )。アクセントの位置は完全に一致している訳ではなく、トールキン家には第二音節にアクセントを置いて「トルキーン 」 [tɒlkíːn] と発音していた人もいた。 『小学館ランダムハウス英和大辞典 第2版 』 ISBN 4-09-510101-6 に拠れば英音 で「トル キーン」 [ˈtɒlkiːn] 、米音 で「トウル キーン、タル キーン」 [ˈtoʊlkiːn, ˈtɑl-] 。 『研究社英米文学辞典 』 ISBN 4767430003 ではトルキーン と記されており、また『「熊谷市」と「トルキーン」――固有名詞の読み方の変化に関する一考察 』(鈴木聡 、『月刊言語 』2005年1月号(大修館書店)掲載)によればトーキン と呼ぶ人もある。オックスフォード大学に留学してトールキン教授に師事した猪熊葉子 の証言によると、トーキンが一番近いとのこと。 また、Reuel の発音については『小学館ランダムハウス英和大辞典 第2版 』(前掲)に拠れば「ルー エル」 [ˈɹuːəl] 。
^ 中つ国 (Middle-earth)は古英語「ミッダンイェアルド(middanġeard)」から直接、あるいは古北欧語「ミズガルズル (Miðgarðr)」からの借入が混じって、中世から現代まで音声学的変遷を経て受け継がれた単語で、「天と地の間にある、人間が住んでいる土地」を意味する。この語はトールキン以外にウォルター・スコット やナサニエル・ホーソーン なども作品中で使用している。
^ 因みに「ラッシュボールド(Rashbold)」という苗字が、『The Notion Club Papers 』というトールキン作品で学部学生ジョン・ジェスロ・ラッシュボールドとペンブロークの老教授ラッシュボールドの二人の人物名として登場するが、それはトールキン自身の名前のもじりである。Sauron Defeated , page 151, Letters , 165)。
^ 田舎の方言で、トールキンは散形花序 の白い花を持つ毒ニンジンに類似した様々な植物をhemlock'ドクニンジン'と呼んだ。エディスが踊った場所に咲く花は、おそらくコシャク(Anthriscus sylvestris)かニンジン(Daucus carota)だろう。John Garth Tolkien and the Great War (HarperCollins/Houghton Mifflin 2003) and Peter Gilliver, Jeremy Marshall, & Edmund Weiner The Ring of Words (OUP 2006)を参照のこと。
出典
^ Carpenter & Tolkien 1981 , #131, 153, 154, 163
^ “(2675) Tolkien = 1934 VO = 1937 RH = 1939 FR = 1949 FO = 1950 QA1 = 1952 DX = 1969 JE = 1969 KB = 1970 RB = 1973 QX = 1975 BV = 1982 GB ”. MPC. 2021年9月30日 閲覧。
^ Carpenter & Tolkien 1981 , #165
^ “取り壊される前のジョン・サフィールドの店 ” (英語). Birmingham.gov.uk. 2009年6月19日時点のオリジナル よりアーカイブ。2013年6月29日 閲覧。
^ 菅原 1982 , p. 23
^ 菅原 1982 , p. 22
^ 菅原 1982 , p. 26
^ 菅原 1982 , p. 30
^ 菅原 1982 , p. 131
^ 菅原 1982 , p. 32
^ Doughan, David (2002年). “JRR Tolkien Biography ” (英語). Life of Tolkien . 2006年3月12日 閲覧。
^ a b Carpenter & Tolkien 1981 , #306
^ 菅原 1982 , p. 35
^ 菅原 1982 , p. 44
^ Carpenter 1978
^ Doughan, David (2002年). “War, Lost Tales And Academia ” (英語). J. R. R. Tolkien: A Biographical Sketch . 2006年3月12日 閲覧。
^ 菅原 1982 , pp. 61–63
^ 菅原 1982 , pp. 79, 80
^ 菅原 1982 , p. 85
^ 菅原 1982 , p. 100
^ 菅原 1982 , p. 85
^ 菅原 1982 , p. 107
^ Cater, Bill (2001年4月12日). “われわれは愛、詩、そして妖精物語について話あった ” (英語). UK Telegraph. 2007年3月24日時点のオリジナル よりアーカイブ。2006年3月13日 閲覧。
^ Gilliver, Marshall & Weiner 2006
^ 菅原 1982 , pp. 125, 126, 132, 133
^ Tolkien 1932
^ 菅原 1982 , pp. 165–167
^ Ramey, Bill (1998年3月30日). “The Unity of Beowulf: Tolkien and the Critics ” (英語). Wisdom's Children . 1999年4月27日時点のオリジナル よりアーカイブ。2006年3月13日 閲覧。
^ Carpenter & Tolkien 1981 , no. 25, p.31
^ Kennedy, Michael (2001年). “Tolkien and Beowulf - Warriors of Middle-earth ” (英語). Amon Hen . 2002年3月8日時点のオリジナル よりアーカイブ。2006年5月18日 閲覧。
^ Tolkien 1982 . 主に Alan Bliss の Introduction の pp. 4-5 ほか、Eotena の語義を幻想的に解釈して「巨人」の意味で解するか、「ジュート族」を表す語と解釈するかについては Finn and Hengest 内の随所で議論される。
^ トールキン, J.R.R. 『トールキンのベーオウルフ物語 <注釈版>』原書房 2017 pp.413-414
^ Carpenter & Tolkien 1981 , no. 64, 131, etc.
^ Carpenter & Tolkien 1981 , #327
^ 1969年度ノーベル文学賞候補者 (PDF ) - スウェーデンアカデミー(スウェーデン語、7ページ目を参照)
参考文献
Carpenter, Humphrey (1977), Tolkien: A Biography , New York: Ballantine Books, ISBN 0-04-928037-6
ハンフリー・カーペンター『J・R・R・トールキン - 或る伝記』菅原啓州 訳、評論社、1982年。ISBN 4566020649 。 新版2002年
Carpenter, Humphrey (1978), The Inklings , Allen & Unwin
Carpenter, Humphrey; Tolkien, Christopher, (eds.) (1981), The Letters of J. R. R. Tolkien , London: George Allen & Unwin, ISBN 0-04-826005-3
Gilliver, Peter; Marshall, Jeremy; Weiner, Edmund (2006), The Ring of Words: Tolkien and the OED , OUP
Tolkien, J. R. R. (1932). “The Name 'Nodens'”. Report on the Excavation of the Prehistoric, Roman, and Post-Roman Site in Lydney Park, Gloucestershire
Tolkien, J. R. R. (1982), Finn and Hengest: The Fragment and the Episode
外部リンク
英語
日本語