1978年の野球(1978ねんのやきゅう)では、1978年の野球界における動向をまとめる。
競技結果
日本プロ野球
ペナントレース
セ・リーグ
パ・リーグ
*阪急が前後期完全優勝したため、プレーオフは行わずそのまま年間優勝
日本シリーズ
1978年 日本シリーズ
日付 |
試合 |
ビジター球団(先攻) |
スコア |
ホーム球団(後攻) |
開催球場
|
10月14日(土) |
第1戦 |
阪急ブレーブス |
6 - 5 |
ヤクルトスワローズ |
後楽園球場
|
10月15日(日) |
第2戦 |
阪急ブレーブス |
6 - 10 |
ヤクルトスワローズ
|
10月16日(月) |
移動日
|
10月17日(火) |
第3戦 |
ヤクルトスワローズ |
0 - 5 |
阪急ブレーブス |
阪急西宮球場
|
10月18日(水) |
第4戦 |
ヤクルトスワローズ |
6 - 5 |
阪急ブレーブス
|
10月19日(木) |
第5戦 |
ヤクルトスワローズ |
7 - 3 |
阪急ブレーブス
|
10月20日(金) |
移動日
|
10月21日(土) |
第6戦 |
阪急ブレーブス |
12 - 3 |
ヤクルトスワローズ |
後楽園球場
|
10月22日(日) |
第7戦 |
阪急ブレーブス |
0 - 4 |
ヤクルトスワローズ
|
優勝:ヤクルトスワローズ(初優勝)
|
個人タイトル
ベストナイン
ダイヤモンドグラブ賞
オールスターゲーム
高校野球
大学野球
社会人野球
メジャーリーグ
できごと
1月
- 1月14日 - 南海は柏原純一を大阪市の球団事務所に呼び、日本ハムへのトレード移籍を改め通告するも柏原は拒否、南海は柏原に対し日本ハムへ保有権を譲渡すると通告[1]。
- 1月24日 - 野球体育博物館に表彰、掲載される野球人を選ぶ競技者表彰委員会が東京・有楽町の「アラスカ」にて開かれ記者投票を開票した結果、松木謙治郎と浜崎真二を選出[2]。
- 1月25日 - 柏原純一が日本ハムへのトレードに応じると表明[3]。
- 1月27日 - 日本ハムは柏原純一と東京・六本木の球団事務所にてトレードの手続きを行い、15時より記者会見を行い入団を正式に発表[4]。
- 1月30日 - クラウンは福岡市の西鉄グランドホテルにて前中日のウィリー・デービスの入団を発表。また、テスト生として採用した中学生2名の入団を発表[5]。
2月
3月
4月
5月
- 5月6日 - 大洋の山下大輔が横浜スタジアムでの対ヤクルト7回戦の7回表にヤクルトの打者山下慶徳の遊ゴロを一塁へ悪投し、1977年8月28日対広島19回戦より続いていた連続無失策の記録が322で途絶える[26]。
- 5月9日 - ロッテの得津高宏が日生球場での対近鉄8回戦に出場し、プロ通算1000試合出場を達成。史上199人目[27]。
- 5月11日 - 南海の門田博光が平和台球場での対クラウン9回戦に先発出場し、プロ通算1000試合出場を達成。史上200人目[28]。
- 5月14日 - 西宮球場での阪急対近鉄7回戦で近鉄が16-9プロと勝利、プロ野球史上初の全員打点を、パ・リーグ史上5度目の全員得点を記録[29]。
- 5月20日 - 大洋の長崎慶一が横浜スタジアムでの対阪神10回戦においてサイクル安打を達成[30]。
- 5月21日 - 阪急の島谷金二が大阪球場での対南海9回戦の5回表に6号本塁打、9回表に安打を放ち、プロ通算1000安打を達成[31]。
- 5月23日 - 阪急の加藤秀司が西宮球場での対日本ハム7回戦の3回裏に安打を放ち、プロ通算1000安打を達成[32]。
- 5月27日 - ロッテの山崎裕之が後楽園球場での対日本ハム9回戦に出場し、プロ通算1500試合出場を達成[33]。
6月
- 6月3日
- 大洋の平松政次が札幌市円山球場での対中日10回戦で6勝目を挙げ、プロ通算150勝を達成[34]。
- 阪急の島谷金二が藤井寺球場での対近鉄10回戦の6回表に11号本塁打を放ち、プロ通算150本塁打を達成[35]。
- 6月5日 - 阪神の田淵幸一が神宮球場での対ヤクルト8回戦の3回に17号本塁打、5回に18号本塁打を放ち、プロ通算300本塁打を達成[36]。
- 6月6日 - クラウンの土井正博が西京極球場での対阪急9回戦の4回表に12号本塁打を放ち、プロ通算400本塁打を達成[37]。
- 6月7日 - 阪急の福本豊が西京極球場での対クラウン10回戦1回裏に二盗を成功させ、プロ通算650盗塁を達成[38]。
- 6月8日
- 広島の衣笠祥雄が横浜スタジアムでの対横浜9回戦の2回表に13号本塁打を放ち、プロ通算250本塁打を達成[39]。
- 大洋の松原誠が横浜スタジアムでの対広島9回戦の一回裏に適時二塁打を打ち、プロ通算1000打点を達成[40]。
- 6月14日 - 巨人の王貞治が後楽園球場での対阪神11回戦の一回裏に20号2点本塁打を打ち、プロ野球新記録となる通算1949打点[41]。
- 6月18日
- 藤井寺球場で近鉄対クラウンのダブルヘッダー12、13回戦で近鉄が連敗し、川崎球場でロッテ対阪急9回戦で阪急がロッテを5-2で勝ったため、阪急が前期優勝を決める[42]。
- 中日の高木守道がナゴヤ球場での対阪神13回戦の二回裏に5号本塁打を打ち、プロ通算1000得点を達成[43]。
- 6月21日 - ヤクルトの若松勉が広島球場での対広島14回戦の5回表に安打を放ち、プロ通算1000安打を達成[44]。
- 6月25日 - 広島の水谷実雄が広島球場での対巨人13回戦の4回裏に6号本塁打を放ち、プロ通算100本塁打を達成[45]。
- 6月28日 - ロッテは西宮球場での対阪急13回戦に6-7で敗れ、パ・リーグタイ記録の15連敗となる[46]。
7月
- 7月3日 - 川崎球場でロッテ対阪急後期3回戦でロッテが6-5で勝ち、連敗を15で止める[47]。阪急はこの試合で通算2000試合を記録[48]。
- 7月6日
- 巨人は札幌市円山球場での対広島16回戦の2回表に、先発の浅野啓司が4四球、代わった角三男が3四球、さらに角に変わって登板した田村勲も3四球で1イニング10与四球のプロ野球ワースト記録[49]。
- 大洋の松原誠が横浜スタジアムでの対ヤクルト13回戦の2回裏に10号本塁打を放ち、プロ通算300本塁打を達成[50]。
- 7月10日 - 神宮球場でのヤクルト対巨人16回戦の1回表に、巨人のジョン・シピンがヤクルトの鈴木康二朗から死球を受けた後、鈴木に暴行を働き退場、さらに巨人先発のクライド・ライトも3回に降板を命じられたことに激昂し、カメラマンのカメラを取り上げて放り投げる行為に及ぶ[51][52]。
- 7月14日 - オールスター運営委員会はファン投票の最終結果を発表。パ・リーグは日本ハムの選手が8つのポジションを占め、日本ハムは三塁手で選出された古屋英夫、遊撃手で選出された菅野光夫の出場辞退をコミッショナーに申し出て受理される。代わりに島谷金二、大橋穣が選出される[53]。
- 7月18日 - 阪急の監督の上田利治が高熱で入院、22日からのオールスターのパ・リーグ監督を辞退[54]。
- 7月19日 - オールスター運営委員会は全パ監督を務める予定だった阪急の監督の上田利治の辞退を認め、上田の代わりに南海監督の広瀬叔功が全パ監督を務めると発表[55]。
- 7月24日 - プロ野球のセ・パ合同選手会が東京・品川のパシフィックホテルにて14時から行われ、選手会を法人化して独自に運営することを正式に決定[56]。
- 7月31日 - パ・リーグ理事会にてパ・リーグ会長の岡野祐の辞任を了承。クラウンの球団代表の坂井保之が会長代行を務める[57]。
8月
9月
- 9月5日 - 阪神対巨人21回戦の試合が甲子園球場で行われ、巨人は公式戦5000試合を記録[70]。
- 9月6日
- 近鉄の鈴木啓示が後楽園での対日本ハム11回戦に完封勝利して23勝目を挙げ、10試合連続完投勝利のプロ野球新記録を達成[71]。
- 広島の山本浩二がナゴヤ球場での対中日19回戦の1回表に37号本塁打を放ち、プロ通算250本塁打を達成[72]。
- 9月9日
- 大洋の平松政次が横浜スタジアムでの対中日24回戦の7回表にフレッドから三振を奪い、プロ通算1500奪三振を達成[73]。
- 阪神の藤田平が甲子園球場での対ヤクルト23回戦に出場し、プロ通算1500試合出場を達成[74]。
- 9月10日 - 巨人の柳田俊郎が広島市民球場での対広島24回戦の二回表に10号本塁打を打ち、これは球団通算4000本塁打となる[75]。
- 9月11日 - 近鉄の鈴木啓示が西宮球場での対阪急後期9回戦に先発して5失点で敗戦投手となり、連続完投勝利の記録は10でストップ[76]。
- 9月14日
- 近鉄の鈴木啓示が西宮球場での対阪急12回戦で阪急を完封して24勝目を挙げ、米田哲也の持つリーグ最多完封63の記録を更新する64個目の完封[77]。
- 阪神は横浜スタジアムでの対大洋21回戦で3-11と敗れ、球団創設以来初の最下位が決まる[78]。
- 9月22日 - 巨人の王貞治がナゴヤ球場での対中日24回戦の8回表に38号ソロ本塁打を放ち、プロ通算2000打点を達成[79]。
- 9月23日
- 近鉄対阪急の13回戦が藤井寺球場にて行われ、この試合が後期最終戦となる近鉄は勝てば後期優勝が決まったが、阪急が近鉄を4-2と下し、優勝決定は持ち越しとなる。阪急の先発・山田久志が子の試合で勝利投手となり、プロ通算150勝を達成[80]。
- パ・リーグの後期優勝は、阪急が残り2試合の勝敗次第となり、阪急が1勝か2引き分けで阪急優勝、2敗か1敗1引き分けで近鉄優勝となる。
- 9月26日 - パ・リーグの新会長に工藤信一良が就任することが決定し、東京・九段下のホテル・グランドパレスにて記者会見を行う[81]。
- 9月27日 - 阪急が川崎球場でのロッテ12回戦でロッテを4-1で下して勝利し、パ・リーグの後期優勝が決定、阪急は前期も優勝しているため4年連続9回目のリーグ優勝が決定[82]。
- 9月28日 - 巨人の張本勲が後楽園球場での対広島26回戦に出場し、プロ通算2500試合出場を達成[83]。
- 9月30日 - パ・リーグは全日程が終了[84]。
10月
- 10月2日 - ロッテは東京・西新宿の本社で球団役員会を開き、監督の金田正一の辞表を受理し、辞任が決定。この後ロッテ本社にて金田が記者会見し辞任を正式に表明[85]。
- 10月4日 - 神宮球場にてヤクルト対中日24回戦が行われ、ヤクルトが9-0で勝利し、球団創立29年目で初優勝[86]。
- 10月9日
- 沢村賞選考委員会が東京・数寄屋橋のニュートーキョーにて12時から行われ、ヤクルトの松岡弘を選出[87]。
- ヤクルトが神宮球場での対広島最終戦で大野豊に完封を喫し、開幕からの連続得点試合が129でストップ[88]。
- 10月10日 - 広島の山本浩二がナゴヤ球場での対中日25回戦の二回表に44号本塁打を打ち、広島はプロ野球史上初めてチーム年間200本塁打を記録[89]。
- 10月11日
- セ・リーグの全日程が終了[90]。
- 阪神は午後、大阪市梅田区の阪神電鉄本社にて役員会を開き、球団社長の長田睦夫、監督の後藤次男の辞任を受理、新社長に本社専務の小津正次郎の就任を承認。16時よりホテル阪神にて記者会見し正式発表[91]。
- 10月12日
- クラウンはオーナーの中村長芳と国土計画の社長の堤義明が東京・原宿の国土計画本社にて記者会見し、クラウン球団を国土計画に譲渡しフランチャイズを福岡県から埼玉県に移転し来シーズンからチーム名を「西武ライオンズ」とすることを発表。これに先立ちパ・リーグは中村の要請で11時より緊急のオーナー会議を開き、中村が球団の譲渡を報告、その後の12球団合同のオーナー、代表者会議で承認される[92]。
- 巨人は東京・大手町の読売新聞社内会議室にて記者会見し、来年度の一軍コーチの陣容を発表。コーチ兼任の土井正三が内野守備コーチ専任となり現役引退が決定[93]。
- 10月22日 - 日本シリーズ第7戦が後楽園で行われ、ヤクルトが阪急に4-0で勝利し、初の日本一を達成[94]。この試合の6回裏、ヤクルトの大杉勝男のシリーズ第3号本塁打の判定に対し、阪急の上田利治監督がファウルだと抗議、試合が1時間19分中断[95]。
- 10月23日
- 1978年度のプロ野球表彰選手が発表され、最優秀選手に若松勉と山田久志が、最優秀新人に角三男と村上之宏が選出される[96]。
- 阪急の監督の上田利治は大阪市北区の阪急電鉄本社に阪急電鉄会長でオーナーの森薫を訪ね、心身とも疲労しチームの指揮に自信が持てないと辞任を申し入れ慰留されるも上田は固辞、退団を了承される。この後、球団社長の渓間秀典が投手コーチの梶本隆夫に対し監督就任を要請し、渓間の説得の末、梶本は了承する[97]。
- 10月27日 - ロッテは東京・錦糸町のロッテ会館にて記者会見し、野球評論家の山内一弘が新監督に就任したと正式に発表[98]。
11月
12月
誕生
1月
2月
3月
4月
5月
6月
7月
8月
9月
10月
11月
12月
死去
作品
- 楽曲
出典
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