1950年の近鉄パールスでは、1950年シーズンについての近鉄パールスの動向をまとめる。
この年の近鉄パールスは、チーム創設1年目のシーズンであり、藤田省三監督の1年目のシーズンである。
概要
1949年のオフにプロ野球がセントラル・リーグとパシフィック・リーグに分裂すると、親会社の近畿日本鉄道は新球団「近鉄パールス」を結成して1947年の南海電気鉄道分離に伴い近畿グレートリングを売却して以来3年ぶりの球界参入となった。新球団の初代オーナーは後にビスタカーの導入や都ホテルの全国拡大などを推し進める佐伯勇本社専務(1951年から社長)が就任。佐伯オーナーはじめ近鉄首脳は法政大学の監督を務めていた藤田省三を初代パールスの監督に迎え、他球団からの中古や藤田監督の人脈から東京六大学の選手が多数入団させるなど戦力を開幕までに整備。しかし、新興球団・パールスは開幕こそまずまずの成績を残すものの5月以降は成績がBクラスに転落。8月に最下位に転落すると、二度と浮上できず藤田監督の1年目は最下位でシーズンを終えた。
チーム成績
レギュラーシーズン
1950年パシフィック・リーグ順位変動
順位
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3月終了時
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4月終了時
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5月終了時
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7月終了時
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8月終了時
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9月終了時
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10月終了時
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最終成績
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1位
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毎日 |
--
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毎日 |
--
|
毎日 |
--
|
毎日 |
--
|
毎日 |
--
|
毎日 |
--
|
毎日 |
--
|
毎日 |
--
|
2位
|
南海 |
0.5
|
南海 |
2.0
|
南海 |
5.0
|
南海 |
9.5
|
南海 |
12.0
|
南海 |
13.0
|
南海 |
15.0
|
南海 |
15.0
|
3位
|
東急 |
2.5
|
大映 |
5.5
|
大映 |
13.5
|
大映 |
18.0
|
大映 |
18.5
|
大映 |
14.5
|
大映 |
17.5
|
大映 |
19.5
|
4位
|
近鉄 |
3.0
|
東急 |
7.5
|
東急 |
16.0
|
阪急 |
20.5
|
東急 |
21.0
|
東急 |
22.0
|
阪急 |
25.5
|
阪急 |
28.5
|
5位
|
西鉄 |
3.0
|
西鉄
|
西鉄 |
17.5
|
東急 |
21.0
|
西鉄 |
23.0
|
西鉄 |
26.5
|
東急 |
28.0
|
西鉄 |
31.5
|
6位
|
大映 |
3.5
|
近鉄 |
8.0
|
近鉄 |
17.5
|
近鉄 |
23.0
|
阪急 |
23.0
|
阪急 |
27.0
|
西鉄 |
29.5
|
東急 |
32.5
|
7位
|
阪急 |
5.0
|
阪急 |
11.5
|
阪急 |
18.0
|
西鉄 |
23.5
|
近鉄 |
28.5
|
近鉄 |
30.0
|
近鉄 |
35.0
|
近鉄 |
37.5
|
[1]
できごと
選手・スタッフ
[2]
表彰選手
脚注
出典
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1950年代 | |
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1960年代 | |
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1970年代 | |
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1980年代 | |
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1990年代 | |
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2000年代 | |
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