1950年の国鉄スワローズ(1950ねんのこくてつスワローズ)では、1950年の国鉄スワローズの動向をまとめる。
この年の国鉄スワローズは、チーム創設1年目のシーズンであり、西垣徳雄監督の1年目のシーズンである。
概要
1949年のプロ野球再編騒動を受け、駅売店を運営する鉄道弘済会、日本通運、日本交通公社など、国鉄と関係の深い会社が協同して、「株式会社国鉄球団」を設立して、セントラル・リーグへ加盟を申請。戦力はノンプロの鉄道管理局の選手が中心で、加盟が遅れたこともあり他球団の余剰戦力を獲得できなかった。最終的に現在の東京ヤクルトスワローズが誕生するが、国鉄スワローズとして産声を上げた1年目は開幕からぶっちぎりで広島と最下位を争ったが、11月になってようやく最下位を脱出し7位となるが、初優勝の松竹に57.5ゲームを、同じく新球団の大洋には26.5ゲームも離される惨敗で国鉄スワローズ、そして西垣監督の1年目は終わった。それでも8月にのちの400勝投手・金田正一が高校中退で加入し、チームの救世主となった。この年は初優勝の松竹に1勝18敗、2位の中日に2勝17敗1分、3位の巨人に3勝16敗1分と上位3球団から6勝しか稼げなかったが、最下位の広島には13勝6敗と大きく勝ち越して辛うじて最下位を逃れた。チーム防御率・チーム打率共に7位で、失策数はリーグワーストの235失策と散々だった。
チーム成績
レギュラーシーズン
1950年セントラル・リーグ順位変動
順位
|
3月終了時
|
4月終了時
|
5月終了時
|
6月終了時
|
7月終了時
|
8月終了時
|
9月終了時
|
10月終了時
|
最終成績
|
1位
|
中日 |
--
|
中日 |
--
|
松竹 |
--
|
松竹 |
--
|
松竹 |
--
|
松竹 |
--
|
松竹 |
--
|
松竹 |
--
|
松竹 |
--
|
2位
|
松竹 |
1.0
|
松竹 |
0.0
|
中日 |
1.0
|
中日 |
5.0
|
中日 |
5.0
|
中日 |
7.5
|
中日 |
9.0
|
中日 |
8.5
|
中日 |
9.0
|
3位
|
巨人 |
2.0
|
巨人 |
2.5
|
巨人 |
8.0
|
巨人 |
6.5
|
巨人 |
11.5
|
巨人 |
10.5
|
巨人 |
10.5
|
巨人 |
14.0
|
巨人 |
17.5
|
4位
|
大洋 |
3.0
|
大阪 |
10.0
|
大阪 |
10.0
|
大阪 |
8.5
|
大阪 |
14.5
|
大洋 |
20.0
|
大阪 |
22.5
|
大阪 |
25.5
|
大阪 |
30.0
|
5位
|
大阪 |
5.5
|
大洋 |
10.0
|
大洋 |
12.0
|
大洋 |
11.5
|
大洋 |
15.0
|
大阪 |
22.5
|
大洋 |
24.0
|
大洋 |
27.0
|
大洋 |
31.0
|
6位
|
西日本 |
7.0
|
西日本 |
11.5
|
西日本 |
18.0
|
西日本 |
19.0
|
西日本 |
22.0
|
西日本 |
28.5
|
西日本 |
34.5
|
西日本 |
43.5
|
西日本 |
48.5
|
7位
|
広島 |
7.5
|
広島 |
18.0
|
広島 |
20.0
|
広島 |
20.0
|
広島 |
25.5
|
広島 |
36.5
|
広島 |
43.0
|
広島 |
49.5
|
国鉄 |
57.5
|
8位
|
国鉄 |
10.0
|
国鉄 |
20.0
|
国鉄 |
27.0
|
国鉄 |
29.5
|
国鉄 |
34.5
|
国鉄 |
42.5
|
国鉄 |
48.5
|
国鉄 |
54.0
|
広島 |
59.0
|
できごと
- 1月11日 - 国鉄の関係団体である弘済会、交通公社を主体とする交通協力会が球団運営を決定。
- 1月12日 - 国鉄球団のセ・リーグ加盟が承認される。ニックネームは〃スワローズ〃と決定。
- 3月10日 - 記念すべき公式戦第一戦を下関球場で大洋行うが、今西投手に2安打に抑えられ0対2で負ける。
- 3月11日 - 開幕第二戦に広島に3対2で勝ち、記念すべき初勝利(勝利投手-高橋輝)。
- 3月14日 - 開幕から12試合目のこの日の巨人戦の6回に土屋選手がチーム第一号ホームランを放つ。
[2]
選手・スタッフ
[3]
表彰選手
出典
|
---|
1950年代 | |
---|
1960年代 | |
---|
1970年代 | |
---|
1980年代 | |
---|
1990年代 | |
---|
2000年代 | |
---|
2010年代 | |
---|
2020年代 | |
---|