谷本 富(たにもと とめり、1867年11月12日(慶応3年10月17日) - 1946年(昭和21年)2月1日)は、明治時代から昭和初期にかけての日本の教育学者。号は梨庵。
はじめヘルバルト主義教育を紹介、その後国家主義教育、新教育、実験主義教育などを提唱した。京都帝国大学教授を務めたが、乃木希典の殉死に対する批判的論説が世間の非難を浴び、辞職に追い込まれた(澤柳事件)。
来歴
讃岐国高松生まれ。松山公立病院附属医学所、同人社を卒業後、帝国大学文科大学選科生となり、哲学全科を修了。さらに特約生教育学科で御雇教師ハウスクネヒトからヘルバルト教育学を学んだ。
1890年(明治23年)に山口高等中学校教授となり、1894年(明治27年)には日高真実の後任として高等師範学校教授となった。同校時代には1898年に『将来の教育学』を著している。
1900年(明治33年)から3年間ヨーロッパに留学し、帰国後、京都帝国大学理工科大学講師に就任。1906年刊の『新教育学講義』は留学の成果であり、それまでのヘルバルト一辺倒から転じて新教育を強く提唱した。1905年(明治38年)に文学博士、翌年に京都帝国大学文科大学教授となり、新設の教育学教授法講座を担当。1910年には再び海外に留学した。
しかし1912年(大正元年)9月、大阪毎日新聞紙上で乃木希典の殉死を「その古武士的質祖、純直な性格はいかにも立派なるんも拘わらず、なんとなくわざと飾れるように思われて、心ひそかにこれを快しとしなかった」[1]などと批判したことから強い非難を浴びる[2][3]。翌1913年、兼任していた大谷大学・神戸高等商業学校を辞任[4]。
さらに同年8月、京都帝国大学総長澤柳政太郎により谷本を含む7教授が辞表提出を強要され、辞職に追い込まれた(澤柳事件の発端)。谷本ら7教授は、京大においてさほどの支持を受けておらず、のちに京大の教授陣もこの退職を是非なしと認めている[5]。
その後は著述家、論客として活動し、龍谷大学講師、大阪毎日新聞社顧問も務めている。
栄典
著作
- 著書
- 訳書
出典
関連文献
外部リンク
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- 手島精一 1881-1885
- 箕作秋坪 1885-1886
- 主幹 手島精一 1886-1889
- 主幹 青木保 1889
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- 主任/主事 千本福隆 1889-1890/1890-1894
- 主事 谷本富 1894-1898
- 主事 中川謙二郎 1898-1900
- 主事 朝夷六郎 1900-1901
- 主事 本荘太一郎 1901-1902
- 主事/館長事務嘱託/館長 棚橋源太郎 1906-1914/1914-1917/1917-1921
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