青木 保(あおき たもつ[1][2]、1852年1月3日(嘉永4年12月12日[3])- 1908年(明治41年)3月27日)は明治時代の日本の文部官僚、教育者。旧足守藩士。
来歴
嘉永4年12月12日(1852年1月3日)、青木元永の長子として備中国足守に生まれる[3]。幼名は英之進[4]。藩校・追琢舎を経て犬飼松窓、山田方谷らに漢学を学んだのち、明治3年(1870年)12月に足守藩選出の貢進生として大学南校に入学[3]。貢進生制度が廃止され、校名が南校、第一大学区第一番中学と移り変わる中、英語専攻の学級に在籍して学業を続け[5]、明治6年(1873年)4月に同校が専門学校である開成学校(ほどなく東京開成学校と改称)に改組されると法学科の予科に編入されている[6]。
明治8年(1875年)7月、退学して兵庫県十一等出仕となり、同県四等訳官兼権中属、次いで中属兼三等訳官に昇任[3][7]。明治10年(1877年)1月、官立大阪師範学校の教員兼監事に転じ、明治11年(1878年)1月には校長心得を命じられたが、同校は経費削減のため翌2月に廃止され、残務引継に追われた[7][8]。その後、同年5月に秋田県師範学校(12月に秋田師範学校と改称)副校長となり、7月には秋田県五等属に就任。翌年1月まで県学務課長兼師範学校長を務めた[7][9]。秋田時代には元大阪英語学校教師クリストファー・カロザースを英語教師として招聘する契約を結んだほか[10]、明治11年7月に紀行作家イザベラ・バードが当地を訪れ師範学校に立ち寄った際に校内を案内している[1]。
明治12年(1879年)2月、太政官六等属となって調査局に勤務し、翌明治13年(1880年)3月の官制改革で調査局が廃止されると、同局の業務を引き継ぎ新設された会計部に移った[7][11]。同年6月、文部省五等属に転じて官立学務局勤務となり[7]、以後長らく同省に在職。明治17年(1884年)7月に准奏任御用掛、翌明治18年(1885年)8月に文部権少書記官に進み、文部書記官、文部省参事官、文部書記官兼文部省参事官を経て明治28年(1895年)10月に退官した[12]。省内では明治18年12月に大臣官房第一課長心得となったのち、明治19年(1886年)3月から退官までのほとんどの間文書課長を務めたほか[13]、明治19年1月から翌月まで音楽取調掛主幹を、明治22年(1889年)3月中に東京教育博物館主幹を、明治23年(1890年)7月から明治25年(1892年)11月まで大学・専門学校事務を管掌する専門学務局第一課長を、明治26年(1893年)1月頃および明治27年(1894年)2月から翌年4月まで図書課長を兼務している[14]。
明治41年(1908年)3月27日、急性肺炎により東京牛込区天神町の自邸で死去。享年58[15]。
親族
著作
- 訳書
脚注
参考文献
関連文献
|
---|
博物館長 | |
---|
東京博物館長 | |
---|
教育博物館長 | |
---|
東京教育博物館長 ※1889-1902高等師範学校附属 1902-1914東京高等師範学校附属 |
- 手島精一 1881-1885
- 箕作秋坪 1885-1886
- 主幹 手島精一 1886-1889
- 主幹 青木保 1889
- 主幹 色川圀士 1889
- 主任/主事 千本福隆 1889-1890/1890-1894
- 主事 谷本富 1894-1898
- 主事 中川謙二郎 1898-1900
- 主事 朝夷六郎 1900-1901
- 主事 本荘太一郎 1901-1902
- 主事/館長事務嘱託/館長 棚橋源太郎 1906-1914/1914-1917/1917-1921
|
---|
東京博物館長 | |
---|
東京科学博物館長 | |
---|
国立科学博物館長 | |
---|
|