米比戦争 (べいひせんそう、英語 : Philippine–American War )は、1899年 2月から1902年 7月にかけて、アメリカ合衆国 とフィリピン の間で発生した戦争 である。
背景
米西戦争
1896年 8月以来カティプナン のフィリピン人たちは、スペインからの独立(フィリピン独立革命 )のために戦ってきた。1898年 5月1日 に米西戦争 の戦闘の1つであるマニラ湾海戦 でスペイン軍が敗北した。アメリカはフィリピン独立運動の指導者エミリオ・アギナルド に、勝利の暁に独立させると約束して背後からスペイン軍を襲わせた。しかし、スペインの降伏後にアメリカは、フィリピン独立の約束を反故にして植民地にし、アギナルド率いる独立軍1万8千人の掃討を始めた。上院 に報告された数字では、アメリカ軍は1902年までの4年間で20万人を殺害した。
マロロス議会
初代フィリピン大統領エミリオ・アギナルド
1898年6月12日にカティプナン のフィリピン人たちは、エミリオ・アギナルド の下で独立を宣言した。6月23日から9月10日にかけて、フィリピン全土で選挙が実施され、軍民入り交じる不安定な地域それぞれの代表者を選出した。アギナルドは9月15日にマロロス のバラソアイン教会 でマロロス議会 (英語版 ) を開催し、11月13日に閉会した。
パリ条約
アメリカ合衆国はアギナルド将軍に協力したら独立させると約束し、マニラの戦い (1898年) (英語版 ) (7月25日 - 8月13日 )でフィリピンの独立を援助する名目でスペイン を破ったにもかかわらず、12月10日のパリ条約 において、アメリカ合衆国は2,000万ドルでフィリピンを購入した。
戦争への反対
米比戦争の風刺画
マーク・トウェイン やアンドリュー・カーネギー 、さらにはグロバー・クリーブランド 元大統領に代表されるアメリカ反帝国主義連盟 は、マッキンリー 政権によるフィリピンの併合に強く反対した。戦争に対する反対意見の主な理由は、単にスペインからアメリカ合衆国にフィリピンの支配国が移り変わっただけであり、米西戦争 の目的に反しているというものであった。
また、反帝国主義をとるアメリカ人の中でもベンジャミン・ティルマン上院議員は、フィリピン併合はフィリピン人移民の国内流入を招くことを恐れていた。アメリカ政府内で非白人の発言権が増大する懸念を指摘する者もいた[ 6] 。
フィリピン第一共和国の建国
アメリカ合衆国は、フィリピン側にとって同盟者ではなく支配者になったと見られたため、フィリピン兵とアメリカ兵の関係は極度に緊迫したものであった。
1899年 1月1日 にアギナルドが初代大統領に就任した。1899年 1月21日 、フィリピン第一共和国 が建国される。
植民地化を開始したアメリカ軍では、1898年 から1902年 の間にフィリピンで戦闘を指揮した将軍30人のうち26人は、インディアン戦争 においてジェノサイドに手を染めた者であった。反乱を鎮圧するために行われた虐殺や虐待が報じられるようになると、戦争への賛成意見は減少した。
戦争の経過
戦争の始まり
ニューヨークジャーナル の風刺画。フィリピン人を銃殺しようとするアメリカ兵の背後には「10歳以上の者は皆殺し」と書かれている。
1899年 2月4日 、サン・フアン・デル・モンテ (英語版 ) の橋でアメリカ支配側に立ち入ったとされるフィリピン兵が射殺された。近年フィリピンが行った調査では、事件の現場は、現在のマニラ 市内のソシエゴ通りであったとしている。当時のアメリカ合衆国大統領、ウィリアム・マッキンリー は、この事件はフィリピン側によるマニラ市内への攻撃であったと新聞に語り、責任をフィリピン側に求めた。
マッキンリー政権は、アギナルド率いる政府を犯罪者集団と呼んだため、議会を通じた正式な開戦通告は行われなかった。主な理由として2つ挙げられる。
1つ目は、フィリピン側を国と認知しないことで、国家間の戦争ではなく、政府に対する反乱であるとするためであった。しかし、この時点でアメリカ側が支配していたのはマニラのみであった。
もう1つは、米西戦争により逼迫していた財政を念頭に、アメリカ兵の戦争手当てを最小限にするため、戦争ではなく警察活動であると宣言したのであった。
1899年 2月末までにアメリカ軍はなんとかマニラを手中に収め、フィリピン軍は北部へ退去せざるを得なかった。4月にアメリカ軍はクィングァの戦い (英語版 ) (現ブラカン州 プラリデル (英語版 ) )を制圧し、6月のフィリピン政府内の敵対派によるアントニオ・ルナ 将軍の暗殺によって、フィリピンの通常軍は弱体化した。アメリカ軍の勝利はその後もザポテ橋の戦い (英語版 ) (1899年6月13日)で続いた。
アメリカ軍の増派
アメリカ合衆国からは8月14日に1万1000人の地上部隊がフィリピンを占領するために送られた。この時、フィリピン駐留アメリカ軍司令官となり、実質的なフィリピンの植民地総督となったのが、アーサー・マッカーサー・ジュニア である。(彼の三男がダグラス・マッカーサー である)
アメリカ軍はリンガエン湾 でサン・ハシントの戦い (英語版 ) (1899年11月11日)に勝利し、マッカーサーの本隊と合流した。
黒人兵のなかに「なぜ白人のためにニガーがニガーを殺すのか」という疑問が広まり、1899年 11月にはデビッド・ファーゲン (英語版 ) ら9人が脱走し、アギナルド 軍に加わった。ファーゲンは現地兵をよく統率してアメリカ軍に痛撃を与え、その功で現地軍の大尉に昇進してフィリピン人の妻も得た。
1899年12月2日のティラード峠の戦い (英語版 ) で、グレゴリオ・デル・ピラール (英語版 ) 准将 はアギナルドを逃がすために戦闘を遅らせたが、ピラール本人は最後の攻撃で殺害された。
ゲリラ戦
アントニオ・ルナ将軍とグレゴリオ・デル・ピラール准将という優秀な将軍2人を失ったため、フィリピン軍は通常戦を戦う能力を急激に失っていった。フィリピン軍が山に逃げ込むとマッカーサーは彼らを非正規軍と宣言し、彼らとその協力者を逮捕拷問、殺害した。ミゲル・マルバール (英語版 ) の指揮の下、戦況はゲリラ戦の様相を見せたが、アメリカ軍の勝利はその後も、
プラン・ルパの戦い (英語版 ) (1900年9月13日)、
マビタックの戦い (英語版 ) (1900年9月17日)
と続いた。
ボホール島
1901年 3月5日 にボホール島 でロノイの戦い (英語版 ) が発生した。
サマール島・レイテ島・バタンガスの戦い
1900年 4月15日 にサマール島 北部のカトゥビグ (英語版 ) でアメリカ軍部隊をフィリピン人ゲリラが急襲、町を4日間に渡り占拠し(カトゥビグの戦い (英語版 ) )、これに対しアメリカ軍部隊も増援が来るまで粘った。
1901年 9月6日 、マッキンリー大統領暗殺事件 が発生。
1901年 9月28日 、サマール島 でバランギガの虐殺 (英語版 ) が発生。小さな村でパトロール中の米軍二個小隊が待ち伏せされ、半数の38人が殺された。アーサー・マッカーサー は報復にサマール島とレイテ島 の島民の皆殺しを命じた。少なくとも10万人は殺されたと推定されている。またマッカーサーはアギナルド軍兵士の出身者が多いマニラ 南部のバタンガス の掃討を命じ、家も畑も家畜も焼き払い、餓死する者多数と報告された。
公式の戦争終結
1902年 7月1日 、フィリピン組織法 (英語版 ) が承認された。
1902年 7月2日 、陸軍長官が電報を打電。同年7月4日 、セオドア・ルーズベルト が公式声明を発表。アメリカはフィリピン人による傀儡政権をつくり、日本の脅威に対処するためにクラークフィールド に極東最大の空軍基地を置き、フィリピン人12万人に軍事訓練を施した。
公式の戦争終結後の戦闘
さらに次の10年では、アメリカ軍 はフィリピン軍 に対抗するため、126,000人にも及ぶ大規模な軍事力を必要とした。アメリカ軍はさらに、パンパンガ州 マカベベのフィリピン人を雇い入れることも行った。
モロの反乱
1899年 2月から1913年 6月にかけて、モロ州 (スールー王国 、マギンダナオ王国 、ラナオ王国 、サンボアンガ共和国 (英語版 ) )のモロ族 への残党狩りが長期間に渡って行われた。
犠牲者数
フィリピン側の民間人の犠牲者数は20万人から150万人といわれる[ 3] [ 4] [ 5] 。
結果とその後
1946年 7月にマニラ条約 が締結され、当初アメリカにより保証されていたフィリピンの独立も漸く果たされることとなる。フィリピン人は一般的にアメリカに友好的であるが、こうした経緯からアメリカに否定的な感情もまたある。
フィリピン側が奇襲の合図に用いていた鐘(バランギガの鐘)は米比戦争の後、アメリカが戦利品として本国に持ち帰っていたが、2018年12月にフィリピン中部・サマール島にあるバランギガの教会に返還され、式典が開催された[ 7] 。
脚註
^ a b “Historian Paul Kramer revisits the Philippine-American War” , The JHU Gazette (Johns Hopkins University) 35 (29), (April 10, 2006), http://www.jhu.edu/~gazette/2006/10apr06/10paul.html 2008年3月18日 閲覧。
^ Chambers & Anderson 1999
^ a b c Guillermo, Emil (February 8, 2004). “A first taste of empire” . Milwaukee Journal Sentinel : 03J. https://web.archive.org/web/20150926152046/https://news.google.com/newspapers?nid=1683&dat=20040208&id=gbIaAAAAIBAJ&sjid=GEUEAAAAIBAJ&pg=5222,6070988 . (author unknown) (November 1, 2003). “Kipling, the 'White Man's Burden,' and U.S. Imperialism”. Monthly Review 55 : 1.
^ a b Smallman-Raynor 1998
^ a b Burdeos 2008 , p. 14
^ “Milestones: 1899–1913 - Office of the Historian ”. history.state.gov . 2021年6月6日 閲覧。
^ 米戦利品117年ぶり故郷に戻る 共同通信、2016年12月15日
参照文献
Burdeos, Ray L. (2008), Filipinos in the U.S. Navy & Coast Guard During the Vietnam War , AuthorHouse, ISBN 978-1-4343-6141-7 , https://books.google.co.jp/books?id=tN__4jLTnd8C&redir_esc=y&hl=ja .
Chambers, John W.; Anderson, Fred (1999), The Oxford Companion to American Military History , Oxford University Press
Smallman-Raynor, Matthew; Cliff, Andrew D. (January 1998), “The Philippines Insurrection and the 1902–4 cholera epidemic: Part I – Epidemiological diffusion processes in war”, Journal of Historical Geography 24 (1): 69–89, doi :10.1006/jhge.1997.0077
外部リンク
関連項目
国内戦争 国際戦争 戦争計画 軍事演習 関連項目
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