筒香嘉智
筒香 嘉智 (つつごう よしとも、1991年 11月26日 - )は、和歌山県 橋本市 出身のプロ野球選手 (外野手 、内野手 )。右投左打。横浜DeNAベイスターズ 所属[ 3] 。
兄は少年スポーツ指導者 の筒香裕史 。
経歴
プロ入り前
橋本市赤塚 出身で[ 4] [ 5] 、市立恋野小学校 ・市立隅田中学校 卒業[ 5] [ 6] [ 7] 。実家は橋本市内でガソリンスタンド を営んでいた[ 8] 。5歳のころから兄と野球で遊ぶようになり[ 9] 、小学2年の時[ 注釈 1] に那賀郡 岩出町(現:岩出市 )の硬式野球 チーム「和歌山ニューメッツ」で野球を始め[ 5] 、4番打者 ・投手 として活躍した[ 4] 。当時は毎週土曜日、日曜日に自宅から片道1時間かけて父親や祖父(2024年11月時点では既に故人)に練習へ送迎してもらっていたという[ 9] 。また本人は、6歳だった1998年10月時点では近鉄バファローズ のファンで、タフィ・ローズ に憧れており、大阪ドーム で試合観戦することもよくあったと語っている[ 9] 。
中学時代は大阪府 河内長野市 の「堺ビッグボーイズ」に所属[ 5] 、4番打者として30本塁打 を記録。中学3年で全国大会ベスト8。ボーイズ関西選抜の4番として世界大会に出場。中学時代は野球漬けで学校が終わって友達と遊んだことは1度もなかったといい、授業が終わると自宅裏に父が設営した「手づくりドーム」に直行したという。地元住民(2020年時点で赤塚の区長 )は中学時代の筒香について、毎日夜遅くまで野球の練習に打ち込んでいたという[ 10] 。ピッチングマシン の球詰めは兄:裕史 が買って出て、兄は大学を中退してまで自分の練習に付き合ってくれたという[ 8] 。
関西の強豪校からの誘いもあったが、小学校1年生の時に初めて観戦した夏の甲子園大会で横浜高等学校 の試合 (1998年8月20日のPL学園対横浜延長17回 )を観て感激し[ 11] 、自ら横浜高校に連絡して入学と野球部入部を志願する。セレクションにて柵越えを連発して合格・進学し、1年春から4番に抜擢 ( ばってき ) される。1年生での4番は紀田彰一 以来[ 11] 。夏は神奈川大会 準決勝:東海大相模 戦で、同校の菅野智之 の「振り逃げ3ラン 」が重くのしかかり敗退。この試合では三塁手 を務めており、横浜高校の捕手 は「振り逃げ3ラン」の時、筒香にボールを渡していた[ 12] 。
2年夏に第90回全国高等学校野球選手権記念大会 に出場。初戦の浦和学院高等学校 戦では先制本塁打。準々決勝の聖光学院高等学校 戦では満塁本塁打 を含む2打席 連続本塁打を放ち、1試合個人最多タイとなる8打点 を挙げる。準決勝で大阪桐蔭高等学校 に敗れた。この大会では打率 .526・3本塁打・14打点の活躍で4強入りに貢献。その後、腰痛 の悪化により椎間板ヘルニア と診断され2か月弱のリハビリをする。一時期スイッチヒッター へ転向するも左打ちに専念。
3年春の花巻東高等学校 との練習試合では、4回の攻撃時に菊池雄星 から特大ソロ(高校通算55本目)を放っている。しかも数日前から体調を崩し、当日の朝であっても39度の高熱が下がらないにもかかわらず、監督 に出場を志願していた[ 13] 。
この夏の神奈川大会 における7月26日の準々決勝では、9回表にチームが同点に追いつき、なおも二・三塁の好機に打順 が巡ってきたものの、一塁ゴロで同点止まり。すると延長10回裏に二死から自身の失策 がきっかけとなり、横浜隼人高等学校 に9-10でサヨナラ 負けを喫した。第8回AAAアジア野球選手権大会 の日本代表 に選ばれた(高校通算69本塁打。うち2本は右打席[ 11] )。
2009年 10月29日に行われたプロ野球ドラフト会議 で、地元球団である横浜ベイスターズ から単独1巡目指名を受け、11月30日に契約金 9000万円、年俸 800万円(いずれも推定金額)で契約した[ 14] 。背番号 は「55 」で、横浜から1位指名を受けて入団した横浜高校出身者は当時、紀田彰一(1994年のドラフト 1位指名)以来だった[ 15] 。当初は右投両打で登録されていたが、後に左打ちに変更された。
横浜・第一次DeNA時代
湘南シーレックス時代 (2010年8月15日、横須賀スタジアム にて)
2010年 は春季キャンプ 途中で一軍に合流した。初の実戦形式の紅白戦では「4番・三塁手」で先発出場 したが3打数 無安打 に終わった。高卒新人ながら二軍 (イースタン・リーグ )では4番で起用された。8月22日に高卒新人としては大田泰示 の本塁打記録を塗り替え、9月12日には新人として竹原直隆 の記録を5年ぶりに更新する24号本塁打を放った。最終的に26本塁打、88打点を記録し2冠を達成した。この活躍が認められ、首脳陣から9月20日以降に翌年以降の新人王 の資格を残した範囲での一軍出場を示唆され、10月5日の対読売ジャイアンツ 戦で「5番 ・一塁手 」で一軍デビューを果たしたが結果は3打席無安打に終わった。10月7日の対阪神タイガース 戦で3打席目に久保田智之 から一軍初安打となるソロ本塁打を放った。
2011年10月15日、横浜スタジアム にて
2011年 から背番号を「8 」に変更。5月に右手首の靱帯 を痛め、この影響から3か月近く実戦から遠ざかったが、最終的に2年連続で二軍(イ・リーグ)の本塁打王に輝いた。8月に一軍昇格すると、主にクリーンナップ としてコンスタントに試合に出場するようになった。長打 力を発揮する一方で三振 も多く、10月18日の対中日ドラゴンズ 戦[ 注釈 2] (横浜スタジアム )ではプロ野球タイ記録である1試合5三振を喫した。同記録は、セ・リーグ 8人目、史上14人目の記録である[ 16] 。それでもシーズンを通じて40試合出場ながら、背番号と同じ8本塁打を記録した。オフの12月9日、背番号を村田修一 (同年オフ、FA権 を行使して巨人に移籍)が着用していた「25 」へ変更した[ 17] 。
2012年5月3日、横浜スタジアムにて
球団名が「横浜DeNAベイスターズ」となった2012年 は、春季キャンプ中にチームメイトの佐藤祥万 から死球 を受けたことで左足首に骨挫傷 を負い、開幕 は二軍スタートとなった。5月に一軍昇格すると、その日の東京ヤクルトスワローズ 戦(横浜スタジアム)で「3番 ・三塁手」で即先発出場した。5月6日の中日戦(横浜スタジアム)では先発の山本昌 から自身初となる、2打席連続本塁打をライトスタンドへ放ち、プロ野球史上最大年齢差本塁打を26歳差で記録した。また、ランディ・ルイーズ 入団後はチーム事情で一時期外野手にも挑戦した。最終的に自身初の2桁本塁打を記録したものの、打率は .218で規定打席 到達者では最下位と伸び悩み、課題の残るシーズンとなった。オフには侍ジャパンマッチ2012「日本代表 VS キューバ代表」 の日本代表に選出された[ 18] [ 19] 。
2013年7月30日、マツダスタジアム にて
2013年 はオープン戦 で走塁中に左足首をひねり負傷し、一時は開幕戦絶望と思われていたが間に合わせ「6番 ・三塁手」で自身初の開幕スタメンに選ばれた。しかし開幕三連戦で9打数無安打を喫し、中村紀洋 に三塁のポジションを奪われ、4月1日に登録 抹消された。6月25日の明治神宮野球場 でのヤクルト戦から一軍復帰し、「5番・三塁手」で先発出場し、3安打猛打賞 を記録した。しかし一塁手にトニ・ブランコ 、三塁手に中村が定着していたため出場機会が限られ、守備固めとしての起用や代打 起用、また不慣れな左翼手 での先発起用が多かった。8月に二軍に降格すると、その後はシーズン終了まで昇格することはなく、打率.216、本塁打は1本のみ、打点はわずか3という成績に終わった。
2014年3月9日、横浜スタジアムにて
2014年3月11日、阪神甲子園球場 にて
2014年 は前年オフにオリックス・バファローズ を自由契約 になった三塁手のアーロム・バルディリス を獲得したことから、中畑清 監督 の意向により左翼にコンバート された。オープン戦では打率.360と好調をアピールし、「5番・左翼手」で2年連続の開幕スタメンを勝ち取った。開幕直後は8試合で打率.161、0本塁打と苦しんだが、結果的に3、4月の月間打率が3割ちょうどを記録するほどの盛り返しを見せた。6月17日には右太もも 裏を痛めて一時的に二軍降格するが最短日数の10日で一軍へ復帰。その後は、ブランコや中村紀洋の戦線離脱による穴を埋めるように4番打者として起用された。ブランコが故障から復帰すると再び5番に回った。7月12日のヤクルト戦では自己最多となる11号本塁打を放った。しかし、8月13日の中日戦(ナゴヤドーム )の1回裏、中日の大島洋平 の左中間に放った打球を追って中堅手 の梶谷隆幸 と交錯、グラブ が顔面に当たった上、地面に頭から落下。筒香は自力で起き上がれず、グラウンド内に入った救急車 に救急搬送された(ナゴヤドームでは初)[ 20] 。9月6日の広島東洋カープ 戦で復帰。復帰後はブランコを5番に押しやり、4番を任されることが多くなり、その後ブランコが再び故障離脱するとシーズン終盤まで4番を務め続けた。最終的に故障離脱がありながらも規定打席に到達、自身初となる打率3割を記録し、22本塁打、77打点と好成績を残した。また左投手からも打率.304、得点圏 打率 は両リーグトップの.416と勝負強さを見せた。オフの11月9日に、日米野球2014 に怪我のため出場辞退した中村晃 に代わり招集された[ 21] 。
2015年9月22日、横浜スタジアムにて
2015年 は石川雄洋 の後を受け、チームの新キャプテンに就任。シーズン開幕前の2月16日に、GLOBAL BASEBALL MATCH 2015 侍ジャパン 対 欧州代表の日本代表に選出された[ 22] 。3月10日の第1戦、3月11日の第2戦に「5番・指名打者」で先発出場した[ 23] [ 24] 。シーズンではチームの4番として定着。打率.317でリーグ3位、24本塁打で同リーグ4位、93打点でリーグ3位、157安打でリーグ3位、と自己最高の成績を残し、出塁率、長打率、OPS、塁打数では山田哲人 に次いでリーグ2位を記録した。得点圏打率でも.344でリーグ3位と前年に続いて勝負強さを見せた。第1回WBSCプレミア12 終了後のオフには志願してドミニカ共和国 のウィンターリーグ であるリーガ・デ・ベイスボル・プロフェシオナル・デ・ラ・レプブリカ・ドミニカーナ に参加し、レオネス・デル・エスコヒード でプレーした[ 25] 。
2016年 、2月15日に「侍ジャパン強化試合 日本 vs チャイニーズタイペイ」の日本代表26名に選出された[ 26] 。レギュラーシーズンでは7月19日のヤクルト戦(明治神宮野球場 )から同月22日の対巨人戦(横浜スタジアム)までに、日本プロ野球初となる3試合連続マルチ本塁打を達成する[ 27] 。7月29日の対広島東洋カープ 戦で、野村祐輔 からマツダスタジアム のセンター方向に本塁打を放つ。これが日本プロ野球初記録の月間6度目のマルチ本塁打となった。また、この本塁打は7月度月間で15本目となり、2013年3月・4月にトニ・ブランコ が記録した月間14本塁打の球団記録を塗り替えた[ 28] 。8月11日の巨人戦(東京ドーム )では、今村信貴 から左中間方向に本塁打を放ち、藤井勇 が持っていた球団左打者歴代最多の34本塁打記録を66年ぶりに更新した[ 29] 。9月13日の東京ヤクルトスワローズ 戦(明治神宮野球場 )では村中恭兵 から第40号本塁打を放ち、球団では2013年にトニ・ブランコ が記録した41本塁打以来となる自身初の40号本塁打の大台に載せた。日本人に限ると2011年に中村剛也 が記録した48本塁打以来5年ぶり、平成生まれでは史上初の快挙となった。最終的には44本塁打まで本数を伸ばし、自身初の打撃タイトルとなる本塁打王 を獲得。競っていた打点でも争いを制し、110打点での打点王 と合わせて打撃二冠に輝いた。また、リーグ3位の打率.322を残し、得点圏打率はリーグトップとなる.393を記録した。10月8日のクライマックスシリーズ 初戦ではマイルズ・マイコラス からクライマックス1号となる逆転本塁打を放ちチームの勝利に貢献した。
シーズンオフの12月1日、不動の4番及び主将として球団初のクライマックスシリーズの進出へ貢献したへの評価から、2億円アップの年俸3億円で契約を更改した[ 30] 。この年は、シーズン中にアレックス・ラミレス 監督から「間違いなく、日本一の4番。監督1年目に彼を4番で起用できることに喜びを感じている。あと15年、プレーしてもらうために、近い将来、一塁手へのコンバートを考えている」という趣旨の発言がなされている[ 31] 。
2017年 開幕後、当初は4番を打っていたが、6月30日からはラミレス監督の方針もあり3番に配置転換された[ 32] [ 33] 。
2018年 、6月のセ・パ交流戦中に背中の張りが出たため一時的にスタメンを外れたが6月22日に復帰(その間は代打で出場)[ 34] 。7月4日の対巨人戦では2打席連続で本塁打のリプレー検証が行われるという珍事が発生したが、3回の打席の打球はレフトポール際へのファウル、5回の打席の打球はフェンス上部のネットに跳ね返っての二塁打と判定された[ 35] 。シーズンでは打率.295、38本塁打を記録したが、得点圏打率が.237にとどまった。ベストナイン投票では5位となり、4年ぶりに選出されなかった。
2019年4月3日、明治神宮野球場 にて
2019年 、1月8日に橋本市のスポーツ推進アドバイザーに、2019年1月20日から2021年3月末までの任期で委嘱されることが発表された[ 36] 。シーズンでは、オールスター後ラミレス監督の方針で一時プロ初となる2番打者を務め、8月には骨折した宮﨑敏郎 の代役として5年ぶりに三塁を守った。シーズンでは打率.272、29本塁打、79打点だった。阪神とのクライマックスシリーズ 終了後、ポスティングシステム を利用してのMLB移籍が明らかになった。
レイズ時代
2019年12月16日にタンパベイ・レイズ と2年総額1200万ドルで契約を結んだことが発表された[ 37] 。ポスティング費用としてDeNAにはレイズから240万ドル支払われる。背番号はベイスターズ時代と同じ「25 」[ 38] 。登録名は「Yoshi Tsutsugo 」となった[ 39] 。
2020年 の開幕戦となった7月24日のトロント・ブルージェイズ 戦に「3番・三塁手」で先発出場。5回裏に柳賢振 からメジャー初安打となる左越2点本塁打を放った[ 40] 。このシーズンは試合数の減少もあった中で全60試合中51試合に出場するも打率.197、8本塁打、24打点、出塁率.314に留まった。守備面では三塁手として14試合に出場してUZR -0.4、DRS -2を記録し[ 41] 、左翼手としては16試合に出場してUZR+2.0、DRS+1を記録した[ 42] 。
2021年 は開幕から不振で、5月11日にDFA となった[ 43] 。レイズでは26試合に出場して打率.167、5打点、出塁率.244を記録した。守備面では一塁手にコンバートされ、15試合の出場でUZR+0.2、DRS±0を記録した[ 44] 。
ドジャース時代
2021年5月15日に後日発表選手 または金銭とのトレードで、ロサンゼルス・ドジャース へ移籍した[ 45] 。給与の内、レイズ側が549万ドルを負担し、ドジャース側がメジャー最低年俸である43万ドルを支払うことで合意した[ 46] [ 47] 。背番号は「28 」。ドジャース監督のデーブ・ロバーツ は「私は筒香の加入にとても興奮しているよ。彼は日本で素晴らしい成績を残しており、ドジャースの一員として戦うことが楽しみだよ」とコメントした[ 48] 。移籍当初はドジャースに故障者が続出していたこともあり積極的に起用されたが、打率1割台と苦しんだ。その後6月9日に右ふくらはぎを痛めて負傷者リスト に入った[ 49] 。17日に傘下のAAA級オクラホマシティ・ドジャース で実戦復帰した[ 50] が、3本塁打を放ったものの打率.138と不振で、7月7日に40人枠を外れマイナー契約となった[ 51] 。その後、8月14日にFA となった[ 52] 。
パイレーツ時代
2021年8月16日にピッツバーグ・パイレーツ とメジャー契約を結んだ[ 53] 。背番号は「32 」[ 54] 。同日のドジャース戦の9回に代打で移籍後初出場し、ケンリー・ジャンセン から二塁打を放った[ 55] 。また、同年の8月26日には日本人初となる代打でのシーズン3本目の本塁打を放った[ 56] 。パイレーツ移籍以降は43試合に出場し、打率.268、8本塁打、25打点を記録した[ 57] 。オフの11月3日にFAとなった[ 58] [ 59] 。11月29日にパイレーツと1年400万ドルで再契約した[ 60] [ 61] 。12月4日に背番号を再び「25 」に戻すことを発表した[ 62] 。
2022年 5月26日に10日間の負傷者リストに入った。負傷者リストに入るまで、4月から5月までの間にかけて35試合に出場し、打率.177(113打数20安打)、2本塁打、15打点を記録した[ 63] [ 注釈 3] 。その後も低迷は続き、現地メディアからは酷評された[ 64] [ 65] [ 66] [ 67] 。8月3日にDFAとなり[ 68] 、5日に自由契約となった[ 69] 。
ブルージェイズ傘下時代及びレンジャーズ傘下時代
2022年8月17日にトロント・ブルージェイズ とマイナー契約を結び、傘下のAAA級バッファロー・バイソンズ へ送られた[ 70] 。オフの11月10日にFAとなった。
2023年 1月15日にテキサス・レンジャーズ とマイナー契約を結び、スプリングトレーニングに招待選手として参加することになった[ 71] 。傘下のAAA級ラウンドロック・エクスプレス でプレーを続け、打率.249、6本塁打、33打点、OP.812を記録。6月には3試合連続本塁打を記録するなど状態を上げ、レンジャーズよりメジャー昇格の高まる球団への移籍を目指し[ 72] 、23日、自らオプトアウト権を行使して契約を解除し自由契約となった[ 73] 。
米独立リーグ時代
レンジャーズ傘下を退団後はアメリカ国内に残り、自主練習を続けていたが、メジャー傘下のマイナー球団からのオファーが届かず、この年はプレーする環境を優先する方針に転換。8月1日に独立リーグ のアトランティックリーグ の球団であるスタテンアイランド・フェリーホークス と契約した[ 72] 。左翼手もしくは指名打者として12試合に出場し、打率.359(39打数14安打)、7本塁打、13打点、OPS1.428の成績を残していた[ 74] 。
ジャイアンツ傘下時代
2023年8月21日にサンフランシスコ・ジャイアンツ とマイナー契約を結んだ[ 75] 。傘下のAA級リッチモンド・フライングスクウォーレルズ で13試合に出場して打率.311、4本塁打、出塁率.436、OPS1.014の成績を残すと、9月17日、AAA級サクラメント・リバーキャッツ に昇格した[ 76] が、9月23日の試合で左手親指に死球を受けて骨折。そのままシーズンを終えて一時帰国した[ 77] 。12月8日にマイナー契約で再契約した[ 78] 。
2024年 は内野手枠で2月のキャンプ招待選手のリストに入った[ 79] 。しかし、29日から腰の張りのために別メニュー調整となり、その後チームに復帰するも[ 80] オープン戦5試合の出場で打率.125(8打数1安打)、2打点の成績にとどまり、3月13日にマイナーキャンプ合流が発表され[ 81] 、3月21日付で自由契約となった[ 82] 。
第二次DeNA時代
DeNA復帰直後の筒香 (2024年4月20日、横須賀スタジアムにて)
2024年4月16日[ 注釈 4] 、古巣である横浜DeNAベイスターズに復帰することが球団から発表された[ 3] 。背番号は第一次横浜・DeNA時代と同じ「25 」[ 83] 。3年契約となり、2年目までは推定年俸3億円で、3年目は変動制となる[ 2] 。なお、ジャイアンツからの自由契約後にはDeNA以外にも巨人やパ・リーグ 球団などが筒香に関心を示していることが報じられていた[ 84] 。18日に横浜スタジアムで公開入団記者会見が行われた[ 85] 。19日に支配下選手登録公示がなされ[ 86] 、翌日の二軍・巨人 戦で久々に日本での実戦に出場した[ 87] 。5月6日に一軍登録され、同日のヤクルト戦で「6番・左翼手」で先発起用され、2019年10月7日のクライマックスシリーズ・ファーストステージの阪神戦(横浜)以来、1673日ぶりとなるNPB復帰戦となった。試合は3-5で迎えた8回裏二死一・二塁の場面で、ホセ・エスパーダ から逆転3点本塁打を放ち、6-5の逆転勝利に導いた[ 88] 。タイラー・オースティン が故障から復帰した17日には守備位置の兼ね合いで、2012年8月14日の阪神戦以来となる右翼 守備に就き[ 89] 、この試合以降もたびたび右翼で起用される。19日の中日戦では、前日の試合で負傷した牧秀悟 に代わり、2019年9月19日の広島戦以来1704日ぶりとなる4番で先発起用された[ 90] 。印象的な活躍から、5月度のBS-TBS月間グッドプレイヤー賞 を受賞した[ 91] 。6月9日の福岡ソフトバンクホークス 戦(横浜)で、藤井皓哉 からの3点本塁打によってNPB通算1000安打を達成した[ 92] 。しかし、6月に入ってからは打撃が低調で[ 93] 、22打席連続で無安打に陥っていた[ 94] 。7試合連続で先発から外れていた中、7月4日の練習中に左脇腹に違和感を覚え、チームドクターの所見で診断を受けると左第6肋骨の疲労骨折 が判明し、翌5日に登録抹消となった[ 95] 。2日には、シーズン途中加入ながらオールスターゲーム のファン投票の外野手部門での選出が発表されていた[ 96] が、18日に出場辞退が発表された[ 97] 。二軍でのリハビリを経て8月9日に実戦復帰すると、17日には一軍復帰した[ 98] 。復帰後は代打での起用が続いた。9月11日の阪神戦で「6番・右翼手」として6月25日以来の先発起用されるも[ 99] 、4打席とも三振に倒れた[ 100] 。同月20日の阪神戦でも「6番・右翼手」として先発起用されると、約3か月ぶりの本塁打を打つなど活躍を見せた[ 101] 。しかし、この試合後に体調不良を訴え、自宅療養で数日間ベンチから外れた[ 102] [ 103] 。57試合の出場で先発出場はわずか36試合と代打に徹することも多かったが、後輩のサポートに動くなどチームを支え、クライマックスシリーズ を勝ち抜き7年ぶりに日本シリーズ に進出[ 104] 。ソフトバンクとの日本シリーズでは第2戦から左翼手として先発出場し、第6戦では有原航平 から2回に先制ソロ本塁打を放つと、二死満塁で迎えた5回には走者一掃の適時二塁打を放つなどソフトバンクを突き放し、球団26年ぶりの日本一に貢献[ 105] 。優秀選手賞を受賞した[ 106] 。
代表経歴
2015年10月9日には第1回WBSCプレミア12 の日本代表最終ロースター28名に選出された[ 107] 。同大会では8試合35打席に出場し、26打数で10安打、打率.385、5打点の成績を残した。
2016年オフの10月18日に「侍ジャパン 野球オランダ代表 野球メキシコ代表 強化試合」の日本代表に選出された[ 108] 。
2017年1月24日に第4回WBC日本代表選手27人が発表され代表入りを果たし[ 109] 、代表の4番を務めることになる。1次ラウンドでは、3試合で打率.364、2本塁打、5打点を記録し1次リーグB組MVPを獲得した[ 110] 。
選手としての特徴
筒香のスイング (2013年7月31日、マツダスタジアムにて)
2012年から2015年までの4年間、監督として筒香を指導していた中畑清 は「1年目に練習を見たが凄い選手が入ってきた」「俺は巨人のコーチ時代松井秀喜 を指導していたが似たものを持っている」と期待を寄せており、2014年以降は4番打者として起用し続けた[ 111] 。
里崎智也 は「しっかりと自分のポイントまでボールを引きつけて打っているので、変化球が来ても崩されることも少なく、崩されたとしても、まだ打てるポイントに体が残っていますね」と高く評価している[ 112] 。また同年は、逆方向(左方向)への本塁打が11本(44本塁打中)と、前年(2015年)の0本から大きく向上させた[ 113] 。
人物
2014年3月11日、阪神甲子園球場にて
2014年9月6日、横浜スタジアムにて
愛称 は「ゴウ [ 114] 」「ヨシ [ 115] 」。MLB時代の英語表記は「Yoshi Tsutsugo (ヨシ・ツツゴー)」。
双子 の姉がいる[ 116] 。横浜高等学校野球部の恩師である渡辺元智 が語るところによれば「筒香は姉と同じ高等学校へ進学してもおかしくなかったが、PL学園対横浜高校の延長17回の試合 を見て、ウチへの入学を希望してきた」という[ 117] 。また、一般財団法人筒香青少年スポーツ財団理事長である、年の離れた兄:裕史 がいる。兄は高校時代は尽誠学園高等学校 の野球部に所属しており、幼少期から兄に野球を教わっていた[ 118] 。
松井秀喜 に対しては「僕にとって目標というより、憧れの存在なんです。凄いなあってずっと思っていました」と話している[ 119] 。高校時代より、超高校級内野手として「ハマのゴジラ 」として注目を集めた[ 120] 。横浜高校の小倉部長からも「私が見て来た20年間でトップ」と評される[ 121] 。ハマのゴジラとして球団から背番号55を与えられるも、2010年のオフに背番号8へと変更した[ 122] 。
プロ入り後、入寮の際には野球道具以外は尊敬するイチロー の本を持参した程度で、野球漬けの生活を宣言[ 123] 。2009年の第2回WBC決勝をテレビ観戦した際には、イチローの決勝打に「国を背負って戦うことは特別。僕もそういう存在になりたい」と思ったという[ 124] 。そのイチローとは食事をともにしたことがある[ 125] 。
入団当初球団のキャンプにたびたび訪問した張本勲 に目をかけられ打撃指導を受けたことがあった[ 126] 。
高校3年時の第8回AAAアジア野球選手権大会でのインタビューで筒香は「将来的に日の丸を背負うことは、夢というより目標です」とコメントした[ 127] 。
ドラフト指名数日前に受けた取材でメディアに「将来的には松坂さん のようにメジャー で活躍する選手というのが自分の最大の目標なので、やっぱり向こうで勝負したいという気持ちはあります」と述べたことがある[ 128] 。
プロ入り以降、日本の少年野球 に対しての提言を繰り返し行っている。特に、少年野球における子どもたちの酷使について「甲子園に本当に行きたいのは誰なのかというと、結局、監督や部長ではないか(中略)いちばん勝ちたいと思うのは、選手ではなく監督やコーチだから」[ 129] 「将来がある子ども達を守るには、一発勝負のトーナメント制をやめてリーグ制を導入したり、ルールで球数制限や練習時間を決めたりする必要があると思います」[ 130] と語ったほか、日本外国人特派員協会 で記者会見を行った[ 131] 。
横浜・DeNA時代の応援歌 は前奏部分にかつて田代富雄 に使用された曲(ビゼー 作曲の組曲『アルルの女 』から引用されたもの)をそのまま流用しており[ 132] 、筒香自身も気に入っていた。また、他の応援歌では横浜時代の村田修一 の曲が好きであったと語っている[ 133] 。なお、筒香の応援歌はMLB 関係者からも好評であり、特に筒香の獲得を目指したブルージェイズGM のロス・アトキンス は「彼の応援歌が大好き」と語るほどであった[ 132] 。さらに、レイズ移籍直後はMLBでは異例となるスピーカー音源で横浜・DeNA時代の応援歌が流れた[ 134] 。しかし、筒香自身が「本当にありがたかったです。でも、今はレイズの選手でベイスターズではない。レイズのために力を出し切ることに集中したい」との理由で使用停止を希望。ほどなくして取り止めとなった[ 135] 。
恋野小学校の6年生だった2003年7月25日には第38回「交通安全子供自転車県大会」(主催:和歌山県交通安全協会・和歌山県自転車安全教育推進委員会)に同小学校のチームリーダーとして出場し[ 136] 、個人の部で1位を獲得、恋野小の12連覇と全国大会出場に貢献した[ 137] 。地元である橋本市恋野地区にある「本田池」の横には地元住民が製作した筒香の入団記念碑がある[ 138] 。
詳細情報
年度別打撃成績
年 度
球 団
試 合
打 席
打 数
得 点
安 打
二 塁 打
三 塁 打
本 塁 打
塁 打
打 点
盗 塁
盗 塁 死
犠 打
犠 飛
四 球
敬 遠
死 球
三 振
併 殺 打
打 率
出 塁 率
長 打 率
O P S
2010
横浜 DeNA
3
10
7
1
1
0
0
1
4
1
0
0
0
0
2
0
1
1
0
.143
.400
.571
.971
2011
40
160
145
16
35
10
0
8
69
22
1
0
0
1
13
0
1
51
4
.241
.306
.476
.782
2012
108
446
386
31
84
16
3
10
136
45
1
2
2
5
51
1
2
102
4
.218
.309
.352
.661
2013
23
56
51
5
11
1
0
1
15
3
0
0
0
0
3
0
2
13
2
.216
.286
.294
.580
2014
114
461
410
58
123
24
2
22
217
77
2
1
0
2
47
6
2
100
7
.300
.373
.529
.902
2015
138
568
496
79
157
28
1
24
259
93
0
0
0
2
68
0
2
98
5
.317
.400
.522
.922
2016
133
561
469
89
151
28
4
44
319
110
0
1
0
2
87
1
3
105
6
.322
.430
.680
1.110
2017
139
601
503
85
143
31
0
28
258
94
1
0
0
3
93
3
2
115
7
.284
.396
.513
.909
2018
139
580
495
77
146
33
1
38
295
89
0
0
0
3
80
7
2
107
10
.295
.393
.596
.989
2019
131
557
464
74
126
24
0
29
237
79
0
0
0
3
88
5
2
141
5
.272
.388
.511
.899
2020
TB
51
185
157
27
31
5
1
8
62
24
0
0
0
1
26
1
1
50
5
.197
.314
.395
.708
2021
26
87
78
5
13
4
0
0
17
5
0
0
1
0
8
0
0
27
1
.167
.244
.218
.462
LAD
12
31
25
2
3
0
0
0
3
2
0
0
0
0
6
0
0
12
0
.120
.290
.120
.410
PIT
43
144
127
20
34
8
1
8
68
25
0
1
0
1
15
0
1
33
2
.268
.347
.535
.883
'21計
81
262
230
27
50
12
1
8
88
32
0
1
1
1
29
0
1
72
3
.217
.307
.383
.689
2022
50
193
170
11
29
4
0
2
39
19
0
0
0
4
19
0
0
50
3
.171
.249
.229
.478
2024
DeNA
57
168
149
12
28
6
3
7
61
23
0
0
0
1
16
1
2
51
5
.188
.274
.409
.683
NPB :11年
1025
4168
3575
527
1005
201
14
212
1870
636
5
4
2
22
548
24
21
884
55
.281
.378
.523
.901
MLB :3年
182
640
557
65
110
21
2
18
189
75
0
1
1
6
74
1
2
172
11
.197
.291
.339
.630
2024年度シーズン終了時
各年度の太字 はリーグ最高
横浜(横浜ベイスターズ)は、2012年にDeNA(横浜DeNAベイスターズ)に球団名を変更
WBSCプレミア12での打撃成績
年 度
代 表
試 合
打 席
打 数
得 点
安 打
二 塁 打
三 塁 打
本 塁 打
塁 打
打 点
盗 塁
盗 塁 死
犠 打
犠 飛
四 球
敬 遠
死 球
三 振
併 殺 打
打 率
出 塁 率
長 打 率
2015
日本
8
35
26
6
10
1
0
0
11
5
0
0
0
0
9
2
0
2
0
.385
.543
.423
WBCでの打撃成績
年 度
代 表
試 合
打 席
打 数
得 点
安 打
二 塁 打
三 塁 打
本 塁 打
塁 打
打 点
盗 塁
盗 塁 死
犠 打
犠 飛
四 球
敬 遠
死 球
三 振
併 殺 打
打 率
出 塁 率
長 打 率
2017
日本
7
30
25
5
8
0
0
3
17
8
0
0
0
0
5
1
0
6
0
.320
.433
.680
MLBポストシーズン打撃成績
年 度
球 団
シ リ | ズ
試 合
打 席
打 数
得 点
安 打
二 塁 打
三 塁 打
本 塁 打
塁 打
打 点
盗 塁
盗 塁 死
犠 打
犠 飛
四 球
敬 遠
死 球
三 振
併 殺 打
打 率
出 塁 率
長 打 率
O P S
2020
TB
ALWC
1
2
2
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
1
0
.000
.000
.000
.000
ALDS
2
6
6
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
1
0
.000
.000
.000
.000
ALCS
2
5
5
0
2
0
0
0
2
0
0
0
0
0
0
0
0
0
1
.400
.400
.400
.800
WS
3
3
3
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
0
1
0
.000
.000
.000
.000
出場:1回
8
16
16
0
2
0
0
0
2
0
0
0
0
0
0
0
0
3
1
.125
.125
.125
.250
年度別守備成績
内野守備
年 度
球 団
一塁
三塁
試 合
刺 殺
補 殺
失 策
併 殺
守 備 率
試 合
刺 殺
補 殺
失 策
併 殺
守 備 率
2010
横浜 DeNA
3
21
4
0
3
1.000
-
2011
40
336
12
4
28
.989
-
2012
19
94
7
0
9
1.000
92
45
148
6
8
.970
2013
4
6
0
1
1
.857
9
4
11
0
2
1.000
2014
11
80
4
1
8
.988
7
1
7
0
0
1.000
2019
-
27
14
37
1
2
.981
2020
TB
-
14
6
16
4
3
.846
2021
15
80
4
0
9
1.000
-
LAD
1
2
0
0
0
1.000
-
PIT
15
79
7
0
8
1.000
-
'21計
31
161
11
0
17
1.000
-
2022
35
260
15
2
29
.993
-
NPB
77
537
27
6
49
.989
135
64
203
7
12
.974
MLB
66
421
26
2
46
.996
14
6
16
4
3
.846
外野守備
年 度
球 団
外野
左翼(LF)
右翼(RF)
試 合
刺 殺
補 殺
失 策
併 殺
守 備 率
試 合
刺 殺
補 殺
失 策
併 殺
守 備 率
試 合
刺 殺
補 殺
失 策
併 殺
守 備 率
2012
横浜 DeNA
12
15
0
1
0
.938
-
-
2013
7
7
0
0
0
1.000
-
-
2014
101
162
3
6
0
.965
-
-
2015
128
185
10
0
2
1.000
-
-
2016
128
198
3
2
0
.990
-
-
2017
136
199
6
1
2
.995
-
-
2018
132
187
5
3
0
.985
-
-
2019
101
145
4
1
0
.993
-
-
2020
TB
-
16
15
0
0
0
1.000
-
2021
LAD
-
8
15
0
0
0
1.000
-
PIT
-
2
5
0
0
0
1.000
20
26
1
1
0
.964
'21計
-
10
20
0
0
0
1.000
20
26
1
1
0
.964
2024
DeNA
35
52
0
0
0
1.000
-
-
NPB
779
1150
31
14
4
.988
-
-
MLB
-
26
35
0
0
0
1.000
20
26
1
1
0
.964
2024年度シーズン終了時
各年度の太字 はリーグ最高
タイトル
NPB
表彰
NPB
日本代表
その他
記録
NPB
初記録
節目の記録
100本塁打:2016年8月5日、対中日ドラゴンズ 18回戦(横浜スタジアム)、9回裏に田島慎二 から左越ソロ ※史上278人目、DeNA球団史上最年少となる24歳8か月での記録達成
200本塁打:2019年8月17日、対広島東洋カープ 20回戦(横浜スタジアム)、2回裏にエマイリン・モンティージャ から右越ソロ ※史上105人目、DeNA球団史上最年少となる27歳8か月での記録達成
1000安打:2024年6月9日、対福岡ソフトバンクホークス 3回戦(横浜スタジアム)、7回裏に藤井皓哉 から右越3ラン ※史上318人目[ 92]
1000試合出場:2024年6月21日、対阪神タイガース9回戦(阪神甲子園球場 )、「6番・左翼手」で先発出場 ※史上531人目
その他の記録
MLB
初記録
NPB/MLB通算
節目の記録
背番号
55 (2010年)
8 (2011年)
25 (2012年 - 2021年5月14日、2022年、2024年4月19日 - )
28 (2021年5月18日 - 同年6月6日)
32 (2021年8月16日 - 同年終了)
登場曲
代表歴
TSUTSUGO SPORTS ACADEMY
和歌山県 橋本市 隅田町にある野球施設であり、橋本市出身の筒香が自費で総工費2億円を出資して建設された。筒香が設立した小学生の硬式野球チームがメイングラウンドに使用している。
少年野球 の環境改善が評価され、HEROs AWARD 2024を受賞している[ 143] 。
2021年1月17日:筒香の自費負担により故郷である和歌山県橋本市に大型野球施設「TSUTSUGO SPORTS ACADEMY(筒香スポーツアカデミー)」を建設中であることが報じられた[ 145] 。
2023年12月2日:完成[ 146] 。
施設概要
本球場(両翼100m、内外野天然芝。芝はエンゼル・スタジアム・オブ・アナハイム およびドジャー・スタジアム と同様の品種を使用[ 146] 。)
サブグラウンド(両翼45m、内野のみ)
室内練習場
脚注
注釈
^ 7歳だった1999年の9月[ 9] 。
^ この試合は、同時に中日の2011年セ・リーグ 優勝が決定した試合でもあり、筒香は最後の打者 であった。
^ 本ページ下部の外部リンク に挙げられている「選手の通算成績と情報 MLB」においても、負傷者リスト入りした事実と4月から5月にかけての成績を参照可能である。
^ 筒香(つつごう→ツー・ツー・ご→225)にちなんで、発表時刻は午後2時25分[ 83] 。
出典
関連項目
外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、
筒香嘉智 に関連するカテゴリがあります。
監督・コーチ
監督 一軍コーチ 二軍監督・コーチ
83 桑原義行 (監督兼投手コーディネーター)
89 中井大介 (オフェンスチーフ)
73 藤田一也 (ディフェンスチーフ兼内野守備兼ベース)
84 上田佳範 (外野守備兼ベース兼野手)
88 入来祐作 (投手兼アシスタント投手コーディネーター)
86 八木快 (投手)
その他コーチ
業績 1950年代 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
1950年代 1960年代 1970年代 1980年代 1990年代 2000年代 2010年代 2020年代
1950年代
1950 青田昇 , 岩本義行 , 小鶴誠
1951 青田昇 , 岩本義行 , 金田正泰
1952 杉山悟 , 南村不可止 , 与那嶺要
1953 金田正泰 , 南村不可止 , 与那嶺要
1954 杉山悟 , 与那嶺要 , 渡辺博之
1955 町田行彦 , 与那嶺要 , 渡辺博之
1956 青田昇 , 田宮謙次郎 , 与那嶺要
1957 青田昇 , 田宮謙次郎 , 与那嶺要
1958 田宮謙次郎 , 森徹 , 与那嶺要
1959 大和田明 , 坂崎一彦 , 森徹
1960年代
1960 中利夫 , 並木輝男 , 森徹
1961 江藤慎一 , 近藤和彦 , 森永勝治
1962 近藤和彦 , 並木輝男 , 森永勝治
1963 江藤慎一 , 近藤和彦 , 藤井栄治
1964 江藤慎一 , 近藤和彦 , 重松省三
1965 江藤慎一 , 近藤和彦 , 中暁生
1966 江藤慎一 , 中暁生 , 山本一義
1967 近藤和彦 , 柴田勲 , 中暁生
1968 江藤慎一 , D.ロバーツ , 山内一弘
1969 高田繁 , D.ロバーツ , 山本一義
1970年代
1970 江尻亮 , 高田繁 , 中暁生
1971 柴田勲 , 高田繁 , 水谷実雄
1972 柴田勲 , 高田繁 , 若松勉
1973 江尻亮 , 柴田勲 , 若松勉
1974 G.マーチン , 末次利光 , 若松勉
1975 井上弘昭 , 山本浩二 , ロジャー
1976 張本勲 , 谷沢健一 , 若松勉
1977 張本勲 , 山本浩二 , 若松勉
1978 C.マニエル , 山本浩二 , 若松勉
1979 M.ラインバック , 山本浩二 , 若松勉
1980年代
1980 杉浦亨 , 山本浩二 , 若松勉
1981 J.ライトル , 田尾安志 , 山本浩二
1982 田尾安志 , 長崎啓二 , 山本浩二
1983 田尾安志 , 松本匡史 , 山本浩二
1984 山崎隆造 , 山本浩二 , 若松勉
1985 杉浦享 , 真弓明信 , 山崎隆造
1986 W.クロマティ , 山本浩二 , 吉村禎章
1987 W.クロマティ , C.ポンセ , 吉村禎章
1988 C.ポンセ , J.パチョレック , 広沢克己
1989 W.クロマティ , 彦野利勝 , 山崎賢一
1990年代
1990 J.パチョレック , 原辰徳 , 広沢克己
1991 R.J.レイノルズ , 原辰徳 , 広沢克己
1992 飯田哲也 , 前田智徳 , L.シーツ
1993 A.パウエル , 新庄剛志 , 前田智徳
1994 A.パウエル , G.ブラッグス , 前田智徳
1995 A.パウエル , 金本知憲 , 松井秀喜
1996 A.パウエル , 松井秀喜 , 山崎武司
1997 鈴木尚典 , D.ホージー , 松井秀喜
1998 鈴木尚典 , 前田智徳 , 松井秀喜
1999 関川浩一 , 高橋由伸 , 松井秀喜
2000年代
2000 金本知憲 , 新庄剛志 , 松井秀喜
2001 稲葉篤紀 , 金本知憲 , 松井秀喜
2002 清水隆行 , 福留孝介 , 松井秀喜
2003 赤星憲広 , A.ラミレス , 福留孝介
2004 金本知憲 , 嶋重宣 , T.ローズ
2005 青木宣親 , 赤星憲広 , 金本知憲
2006 青木宣親 , 金本知憲 , 福留孝介
2007 青木宣親 , A.ラミレス , 高橋由伸
2008 A.ラミレス , 青木宣親 , 金本知憲
2009 A.ラミレス , 青木宣親 , 内川聖一
2010年代
2010 M.マートン , 青木宣親 , 和田一浩
2011 長野久義 , M.マートン , 青木宣親
2012 長野久義 , 大島洋平 , W.バレンティン
2013 W.バレンティン , M.マートン , 長野久義
2014 M.マートン , 丸佳浩 , 雄平
2015 筒香嘉智 , 福留孝介 , 平田良介
2016 鈴木誠也 , 筒香嘉智 , 丸佳浩
2017 丸佳浩 , 鈴木誠也 , 筒香嘉智
2018 丸佳浩 , 鈴木誠也 , N.ソト
2019 丸佳浩 , 鈴木誠也 , N.ソト
2020年代
2020 佐野恵太 , 丸佳浩 , 鈴木誠也
2021 鈴木誠也 , 近本光司 , 塩見泰隆
2022 近本光司 , 佐野恵太 , 岡林勇希
2023 近本光司 , 西川龍馬 , 岡林勇希
2024 近本光司 , D.サンタナ , 細川成也
1950年代
1951 川上哲治 , 野口明 , 林義一
1952 飯島滋弥
1953 飯田徳治 , 平井三郎 , 堀井数男
1954 中西太 , 山内和弘
1955 山内和弘 , 西沢道夫
1956 森下正夫 , 吉田義男
1957 大下弘 , 宮本敏雄
1958 宮本敏雄 , 中西太
1959 山内和弘 , 中利夫
1960年代
1960 森下整鎮 , 金田正一 , 張本勲
1961 広瀬叔功 , 田宮謙次郎
1962 ブルーム , 張本勲
1963 近藤和彦 , 王貞治 , 古葉毅
1964 金田正一 , J.マーシャル , J.スタンカ
1965 D.スペンサー , 高倉照幸 , 江藤慎一
1966 広瀬叔功 , 榎本喜八 , 古葉竹識
1967 土井正博 , 長池徳二 , 大杉勝男
1968 江藤慎一 , 柴田勲 , 小池兼司
1969 土井正博 , 船田和英
1970年代
1970 長池徳二 , 江夏豊 , 遠井吾郎
1971 江夏豊 , 長池徳二 , 加藤秀司
1972 野村克也 , 阪本敏三 , 池田祥浩
1973 若松勉 , 福本豊 , 山崎裕之
1974 高井保弘 , 福本豊 , 張本勲
1975 山本浩二 , 松原誠 , 土井正博
1976 有藤道世 , 門田博光 , 吉田孝司
1977 若松勉 , 野村克也 , 王貞治
1978 A.ギャレット , 簑田浩二 , 掛布雅之
1979 王貞治 , B.マルカーノ , 山本浩二
1980年代
1980 岡田彰布 , 平野光泰 , 江夏豊
1981 藤原満 , 掛布雅之 , 山倉和博
1982 福本豊 , 柏原純一 , 掛布雅之
1983 門田博光 , 梨田昌崇 , 落合博満
1984 簑田浩二 , ブーマー , 江川卓
1985 高木豊 , W.クロマティ , 松永浩美
1986 山本和範 , 清原和博 , 吉村禎章
1987 高沢秀昭 , 石毛宏典 , 清原和博
1988 ブーマー , 岡田彰布 , 正田耕三
1989 村田兆治 , 彦野利勝
1990年代
1990 R.ブライアント , 清原和博
1991 古田敦也 , 広沢克己
1992 石井浩郎 , 古田敦也 , 駒田徳広
1993 清原和博 , T.オマリー
1994 秋山幸二 , G.ブラッグス
1995 落合博満 , 松井秀喜
1996 山本和範 , 清原和博 , 金本知憲
1997 松井稼頭央 , 清原和博
1998 川上憲伸 , 松井秀喜
1999 松井秀喜 , R.ローズ , 新庄剛志
2000年代
2000 R.ペタジーニ , 山﨑武司 , 清原和博
2001 松井稼頭央 , R.ペタジーニ , 中村紀洋
2002 G.アリアス , 的山哲也
2003 高橋由伸 , 金本知憲
2004 松坂大輔 , SHINJO
2005 金城龍彦 , 前田智徳
2006 青木宣親 , 藤本敦士
2007 A.ラミレス , 阿部慎之助
2008 山﨑武司 , 荒木雅博
2009 青木宣親 , 松中信彦
2010年代
2010 阿部慎之助 , 片岡易之
2011 畠山和洋 , 中村剛也 , 稲葉篤紀
2012 中村紀洋 , 前田健太 , 陽岱鋼
2013 澤村拓一 , 新井貴浩 , 内川聖一
2014 B.エルドレッド , 柳田悠岐
2015 藤浪晋太郎 , 會澤翼
2016 筒香嘉智 , 大谷翔平
2017 内川聖一 , A.デスパイネ
2018 森友哉 , 源田壮亮
2019 森友哉 , 近本光司
2020年代