申州(しんしゅう)は、中国にかつて存在した州。南北朝時代から宋初にかけて、現在の河南省信陽市一帯に設置された。
概要
南朝斉が義陽に僑置した司州を前身とする。504年(正始元年)、北魏の中山王元英が南朝梁の義陽を攻め落とする[1]と、郢州が置かれた。528年(大通2年)、北魏の郢州刺史の元願達が義陽をもって南朝梁に降ると、南朝梁により義陽に北司州が置かれた[2]。後に再び司州の称にもどされた。548年(武定6年)、東魏の高岳がこの地を攻め落とす[3]と、再び南司州が置かれた。北周のとき、南司州は申州と改称された。
606年(大業2年)、隋により申州は義州と改称された。607年(大業3年)に州が廃止されて郡が置かれると、義州は義陽郡と改称された。義陽郡は義陽・鍾山・羅山・礼山・淮源の5県を管轄した[4]。
621年(武徳4年)、唐により義陽郡は申州と改められた。742年(天宝元年)、申州は義陽郡と改称された。758年(乾元元年)、義陽郡は申州の称にもどされた。申州は淮南道に属し、義陽・鍾山・羅山の3県を管轄した[5]。
976年(太平興国元年)、北宋により申州は信陽軍と改められたが、義陽県は信陽県と改称された。信陽軍は京西北路に属し、信陽・羅山の2県を管轄した[6]。
1278年(至元15年)、元により信陽軍は信陽州と改められた。信陽州は汝寧府に属し、信陽・羅山の2県を管轄した[7]。
1377年(洪武10年)、明により信陽州は廃止され、信陽県と改められた。1475年(成化11年)、信陽県は信陽州に昇格した。信陽州は汝寧府に属し、羅山県1県を管轄した[8]。
清のとき、信陽州は汝寧府に属し、属県を持たない散州となった[9]。
1912年、中華民国により信陽州は廃止され、信陽県と改められた。
脚注
- ^ 『魏書』世宗紀
- ^ 『梁書』武帝紀下
- ^ 『北斉書』清河王岳伝
- ^ 『隋書』地理志下
- ^ 『旧唐書』地理志三
- ^ 『宋史』地理志一
- ^ 『元史』地理志二
- ^ 『明史』地理志三
- ^ 『清史稿』地理志九