懐州(かいしゅう)は、中国にかつて存在した州。南北朝時代からモンゴル帝国時代にかけて、現在の河南省焦作市一帯に設置された。
魏晋南北朝時代
467年(天安2年)、北魏により懐州が設置された。494年(太和18年)に廃止されたが、東魏の天平初年に再び設置された。東魏の懐州は河内郡・武徳郡の2郡8県を管轄した[1]。
隋代
隋初には、懐州は2郡4県を管轄した。596年(開皇16年)に獲嘉・修武・武陟の3県を分割して殷州が設置されたが、605年(大業元年)に廃止となり、再び懐州に統合されている。607年(大業3年)、郡制施行に伴い、懐州は河内郡と改称され、下部に10県を管轄した[2]。隋代の行政区分に関しては下表を参照。
唐代
619年(武徳2年)、唐により河内郡済源県西南の柏崖城に懐州が置かれた。621年(武徳4年)、野王城に州治が移された。742年(天宝元年)、懐州は河内郡と改称された。758年(乾元元年)、河内郡は懐州と改称された。懐州は河北道に属し、河内・武徳・武陟・修武・獲嘉の5県を管轄した[3]。
宋代以降
北宋のとき、懐州は河北西路に属し、河内・修武・武陟の3県を管轄した[4]。
1126年(天会4年)、宗望率いる金軍が懐州を攻め落とした[5]。懐州は河東南路に属し、河内・修武・山陽・武陟の4県と武徳・柏郷・万善・清化・承恩・宋郭の6鎮を管轄した[6]。
1257年、モンゴル帝国により懐州は懐孟路と改められた[7]。
脚注
- ^ 『魏書』地形志二上
- ^ 『隋書』地理志中
- ^ 『旧唐書』地理志二
- ^ 『宋史』地理志二
- ^ 『金史』太宗紀
- ^ 『金史』地理志下
- ^ 『元史』地理志一