大黒座 (刈谷市)
大黒座(だいこくざ)は、かつて愛知県刈谷市司町にあった芝居小屋・映画館。1918年(大正7年)に芝居小屋として開館し、1950年(昭和25年)に映画専門館となった。1982年(昭和57年)以降は2スクリーンを有したが、2012年(平成24年)に閉館した。 沿革
歴史大生座![]() 江戸時代の刈谷は刈谷城を中心として発展した城下町である。明治時代の碧海郡刈谷町緒川町(現・刈谷市司町)には大生座という芝居小屋があった[4]。1909年(明治42年)には知立出身の五代目 坂東蓑助が知立の東雲座(後の知立劇場)で興行し、その翌月には当地に訪れて興行したが、五代目 坂東蓑助は興行中の10月10日に急死した[5][注 2]。1912年(明治45年)には大生座で碧海軽便鉄道(社名は三河鉄道、今日の名鉄三河線)の建設工事起工式が行われた[6]。 芝居小屋時代![]() 刈谷町と知多郡東浦村緒川を結ぶ街道の平坦化を図るため、大正時代にはこの場所の地盤を削り、1918年(大正7年)には伊藤鋭太郎が跡地の広場に芝居小屋として大黒座を創立した[4]。建物内部の仕上げは名古屋・伏見の御園座を模しており、格子状の天井、回り舞台、大小2つの花道、桟敷席を有する豪華な劇場だった[4]。 六代目 尾上菊五郎や七代目 松本幸四郎などが来館して歌舞伎の興行を行い、また大規模なホールを活かして政談演説会なども行われた[7]。この時代には少なくとも1950年代後半まで[注 3]、庭園を有する料理屋の大喜館(後の電装会館、今日のふれあいプラザゆうきそうの場所)があった[7]。 映画館時代![]() ![]() 大黒座は戦後の1950年(昭和25年)に映画専門館に転換[8]。1953年(昭和28年)の愛知県には195館の映画館があり、刈谷市には大黒座と刈谷映画劇場の2館があった[1]。木造2階建てであり、座席数は500席、洋画も邦画も上映していた[1]。全国の映画館数がピークを迎えたのは1960年(昭和35年)である。この年の愛知県には321館の映画館があり、刈谷市には大黒座と刈谷映画劇場と日本劇場(現・刈谷日劇)の3館があった[2]。座席数は925席に増加[2]。映画最盛期の刈谷市内では、大黒座が東映・日活作品、刈谷映画劇場が東宝・松竹作品、日本劇場が洋画を上映してすみ分けを図っていた[9]。 1978年(昭和53年)に改築を行い、同年12月23日、『トラック野郎・一番星北へ帰る』(菅原文太主演)を封切ってリニューアルオープン。『映画館名簿 1980年』によると、1980年(昭和55年)にも東映と日活の作品を上映していた[3]。1982年(昭和57年)頃には東側に建物を増設し、大黒座1・2の2スクリーン体制となった。晩年は成人映画館となり、ビデオテープのレンタルと販売も行っていた。2012年(平成24年)3月に閉館。同年中には大黒座の建物が解体され、2013年(平成25年)には跡地が住宅地となった。2013年には大黒座が所有していたビデオテープ約1,200本をNPO法人に無償で譲渡し、大黒座が駐車場を貸していたデイサービスセンター「だいふく」に小規模な映画上映設備が整備された[8]。 脚注注釈
出典
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