三河鉄道株式会社(みかわてつどう)は、愛知県にかつて存在した鉄道事業者である。1941年に名古屋鉄道に合併された。
本項では、1927年に三河鉄道に合併された岡崎電気軌道株式会社(おかざきでんききどう)についても合わせて記述する。
歴史
| この節の 加筆が望まれています。 主に: 愛電との交渉決裂から名鉄合併までの会社史 (2016年7月) |
1910年11月に刈谷出身の代議士三浦逸平や刈谷の有力者大野介蔵、太田平右衛門、高野松次郎らと大阪の才賀電機商会の才賀藤吉ら計31人が発起人となって、大浜町から高浜町を経て、刈谷駅で東海道線に接続し碧海郡役所のある知立町を結ぶ碧海軽便鉄道[5](軌間762mm 動力蒸気)を申請し、1911年7月に免許が下付された。
また、1911年3月には、才賀、井上徳三郎、三浦逸平らによる知挙軽便鉄道(軌間762mm 動力蒸気)が資本金36万円で申請[6]し、 同年8月に知立 - 挙母(豊田市)の敷設免許が下付された[7]。
鉄道建設の合理性から合併が妥当と判断され、1912年5月に創立総会が開催され、社名を三河鉄道とすること、軌間を762mmから1067mmに変更すること、武山勘七を社長とすること、資本金を50万円とすることが可決された[4]。
1913年1月刈谷から大浜港までの工事に着手したが、不況により株式の払込が不調であり、また株主から経営者に対する不満から武山勘七は社長を辞任。久保扶桑にかわった。1914年2月に刈谷新駅 - 大浜港駅間が、1915年10月刈谷新駅 - 知立駅(現在の三河知立駅)間が開業して旧碧海軽便鉄道区間が全通した。ただその間社内では1914年9月に久保が死去、さらに事業不振の責任をとって役員全員が辞任するという事態が生じていた。困った株主達は発足当初から株主として参加していた神谷傳兵衛[8]に社長の就任を要請し1916年4月になり神谷は社長となった[9][8]。
1916年11月に臨時株主総会が開催され、越戸まで路線を延長するため資本金を125万円にすることが可決された[4][8]。そして神谷自ら沿線町村をまわり株の引受を依頼し応募は順調にすすんだ。路線は1920年7月から順次開通して同年中に挙母駅に達し、1922年1月に越戸駅まで開通した。開通してまもなく財政を立て直した神谷は4月に死去した[10]。しばらくの間社長は空席状態が続き、専務に東京渡辺銀行の渡辺勝三郎がついた[注釈 1]。1924年2月には増資して資本金を525万円とすることにして北は足助町、南は蒲郡町への延長と既設線の電化を決定した[12]。1926年11月になり2代目神谷傳兵衛が社長に、専務には電気鉄道経営の専門家として伊那電気鉄道社長の伊原五郎兵衛がついた[13]。1926年9月に神谷傳兵衛の出身地である松木島まで延長され、その功績をたたえて駅名を神谷とした。その後1928年には三河吉田駅(現在の吉良吉田駅)、1929年には三河鳥羽駅、1936年には蒲郡駅まで開通した。
一方、1927年7月に岡崎電気軌道を合併して岡崎進出を果たし[14]、資本金は625万円となっていたが、この時期の三河鉄道は路線延長や電化による設備投資により多額の債務を抱えており、くわえて不況に見舞われることになり経営は苦境に立っていた[注釈 2]。
このため三河鉄道は愛知電気鉄道(愛電)との合併を画策し、東邦電力に斡旋を依頼した。1930年4月に合併契約書の調印にこぎつけたが[4]、愛電の経理担当者が三河鉄道が粉飾決算をして利益を計上していることを発見したため大問題となり、愛電は合併契約破棄を宣言した。窮地に立った神谷らは私財提供による粉飾決算の是正を申出たが愛電の藍川清成はこれを拒否。1931年6月の株主総会で合併取消を決議してしまった[16][注釈 3]。
この粉飾決算のなかには三河鉄道が出資している新三河鉄道への融資金の流用があった。1929年に新三河鉄道は日本興業銀行より40万円の融資を受けたがうち20万円を三河鉄道が流用していた。その後10万円は返済したが10万円は返済不能となってしまい、このため1931年に興銀から派遣された半田貢[注釈 4]、鈴木均平が取締役[19] となり三河鉄道は銀行管理となってしまう[20]。1934年7月には1/4減資を断行資本金468万7500円[21] となる。
年表
三河鉄道
岡崎電気軌道
保有路線
碧海西部より南北に延びる三河本線と、挙母と岡崎とを結ぶ岡崎線の2線区を有した[66][67]。前者の開業当初は単に三河鉄道線[68]、三河線[69]などと呼ばれていたが、岡崎電軌を合併し同社線を岡崎線とした頃[70]より「三河本線[71][72]」「本線[73][74]」などの路線名が付されるようになった。
岡崎線は岡崎井田駅を境に南部が軌道線(軌道法)、北部が鉄道線(地方鉄道法)である。広義にはその両方を指す[74]が、鉄道線区間のみ[75]、あるいは運用上の境界駅である大樹寺駅以北[76]を狭義の岡崎線とすることもあり、路面電車区間は「軌道線[77]」「市内線[78]」「岡崎市内線[79]」などの名でも呼ばれた。
保有路線
廃止路線
- 門立支線:三河岩脇駅 - 門立駅 1.5 km … 1938年(昭和13年)5月1日休止、1939年(昭和14年)10月3日廃止
車両
1500V線区
三河本線の三河鳥羽 - 西中金間、岡崎線の上挙母 - 大樹寺間で使用された車両は以下の通り。
600V線区
岡崎線の岡崎駅前 - 大樹寺間で使用された車両は以下の通り。
非電化線区
三河本線の蒲郡 - 三河鳥羽間で使用された車両は以下の通り。
名鉄合併前に廃形式
1926年から1936年までの間は非電化線区が存在しなかったため、三河本線大浜港 - 猿投間で電化前に使用されていた蒸気機関車・客車・蒸気動車は一旦全廃されている。
車両基地
脚注
注釈
- ^ 取締役の神谷傳兵衛は2代目[11]。
- ^ 1930年時点の借入金は402万円、支払手形43万円、未払金44万円であった。[15]
- ^ 競争相手の吸収、輸送需要の誘発など、三河鉄道の合併は愛知電鉄側にも十分にメリットがあった。にもかかわらず合併が実現しなかったのは、愛知電鉄側も実情として豊橋線の高規格設備投資に起因する経営危機が背景にあり、三河鉄道と合併する余裕が無かったからともされている[17]
- ^ 小田原電気鉄道技師から専務取締役になり退社後は湘南電気鉄道、京浜電気鉄道、海岸電気軌道の役員を歴任[18]
- ^ この契約書では、主務官庁の認可が下りることを条件に、合併予定日を4月16日としている。後述の通り認可が下りたのは6月1日であるが、1961年発行の『名古屋鉄道社史』751頁の年表では合併期日を4月16日としており、同年以降複数の書籍がこれを採用している。
- ^ 文面は2月15日付けとなっている。またこの公告では合併予定日に関する言及はない。
- ^ この官報では三河鉄道の合併を4月16日としているが、後述の通り岡崎電気軌道の解散は7月19日としている。
- ^ 官報では岩津村門立となっているが、1928年に町制が施行され岩津町となっている。
- ^ 官報では中区広路町となっているが、同年10月1日に昭和区が新設されている。
- ^ 『帝国鉄道要鑑. 第3版』では1898年12月27日開業としている。
出典
参考資料
WEB
書籍
- 名古屋鉄道(編)『名古屋鉄道社史』名古屋鉄道、1961年。
- 名古屋鉄道(編)『名古屋鉄道百年史』名古屋鉄道、1994年。
- 宮脇俊三『鉄道廃線跡を歩く 2』日本交通公社出版事業局、1996年。
- 日本路面電車同好会名古屋支部『路面電車と街並み : 岐阜・岡崎・豊橋』トンボ出版、1999年。
- 徳田耕一『名鉄の廃線を歩く : 愛執の30路線徹底踏査』JTB、2001年。
- 藤井建『名鉄岡崎市内線 : 岡崎市電ものがたり』ネコ・パブリッシング、2003年。
- 鉄道ピクトリアル別冊. 鉄道ピクトリアルアーカイブスセレクション ; 30『名古屋鉄道 : 1960-70』電気車研究会鉄道図書刊行会、2015年。
- 清水武・田中義人『名古屋鉄道車両史 上巻』アルファベータブックス、2019年。